2018年11月 4日 (日)

恩師の個展

 きのう、高校の同級生の車で八王子市で行われているという美術教師だった恩師の個展を訪れた。大阪の同級生からの知らせで。会場に着くと恩師は女性をモデルに創作にあたられていた。50年ぶりの恩師の姿は高校時代の精悍な面影を残しておられる。

 しばらく近作の展示を閲覧した。すると何と、アカショウビンの故郷の港の油絵があるではないか。他に田中一村の同じアングルの作品も。創作が一段落したあと友人と共に自己紹介。作品について訊ねると何と今年訪れたものという。それに驚き、一村のことなど暫し歓談した。プロの美術家として絵画、彫刻の制作を続けておられたことを知った。その作品の多くが何とも明るい図柄が多い。恩師が若い頃からのパワーを持続、継続されておられることを実感した。

 週に一度の授業で恩師は熱く美術について語られた。エル・グレコなどへの強い関心を熱く語っていたことを想い出す。その熱意を持続されていることに敬服した。この半世紀にヨーロッパからヒマラヤまで世界を回られ、土地の景観や人物を作品に仕上げられた。国内もあちらこちら周遊され、ことしは九州、奄美、沖縄を訪れられたのだ。まことに、その精力や凄し。美術に賭ける作家の情熱と熱意に感嘆する。会場では友人とカメラにおさまり半世紀の経過と現在を画像に留めた。その幸いやありがたし。他の同級生たちとの再会も約した。

 名残り惜しく会場をあとに近くの美術館で開催されているロシア美術展も訪れた。そこにもロシア絵画の名作が数多くあり、何とトルストイ晩年の肖像画の大作も。アカショウビンを含め多くの日本人がロシアの小説には若い頃に馴染んだ。その歴史の経過の一端が会場に伝えられている。閉館までの短い時間に作品をじっくり味わうことはできなかった。強い印象を受けた作品に集中し会場を後にした。少し心残りだったが何とも充実した一日を過ごせた。団地に戻り他の友人たちにも電話した。何とも半世紀の時が一日に集約した如くだった。その幸いを言祝ぐ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月22日 (月)

田中一村伝

 昨日の東京新聞の書評欄に『評伝 田中一村』(生活の友社 大矢鞆音(ともね)著)が紹介されている。大矢氏は1938年生まれの安野光雅美術館長。評者の小林 忠氏は南海日日新聞からの依頼で連載を8年間続けたと書かれている。それをまとめたのが同著である。「見える世界の奥に見えない世界の存在を感じさせる」と説く大矢氏の弁に「一村画には宗教的な観念が通奏低音として鳴り響いている」と感じる小林氏の感想は重要である。その根拠は探ってみなければならない。なぜなら、「見えない世界の存在」とは正に哲学の存在論の主題であるからだ。それが宗教とどう関連するか、それは哲学的アポリアである。通奏低音とは音楽用語だがその響きを聴き取ることが「見えない世界」を見えるようにするということは聴き取ることにほかならない。アカショウビンが一村に惹かれたのは奄美の蝶や鳥、植物など人物がいない世界を一村はなぜ描きつづけたのだろうという疑問からである。果たして同書でその疑問は解決されているのだろうか。それはアカショウビンにとっても継続される問いである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年7月18日 (水)

浜田知明、逝く

 浜田知明さんの訃報を朝刊で知った。先般、諸作品に接し刮目して脳裏に焼き付けるべく凝視した。当座の感想は書いた。しかし書き足りてはいない。それは今こそ私たち後から生まれた者たちが刮目して視なければならない人間の残酷と奇妙さ、その作者の視覚、視角の奥に在る怒りと、描かれた対象の叫びと沈黙である。諧謔と共に痛烈なイロニー(反語)である。作品を想起し更に思考し論じたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月18日 (金)

浜田知明の作品群③

 「男と女」(1976)も面白い。「月夜」は男女の愛と欲望を浜田流に時間と空間のなかで表出している。「風化する街」(A)(B)は、浜田の視た都市の本質と人間たちの姿である。「取引」(1979)は、トランプとプーチンのカリカチュアとしても見られる。「ボス」(1980)は、安倍だろう。

 何と浜田は遠藤周作の『沈黙』を作品にしている。これは浜田の版画による感想として面白い。「カタコンベ」(1982)もシュールレアリストとして浜田を評すなら独特の視角だ。「怯える人々」(1985)然り。「H氏像」(1989)は正にシュールな作品だ。浜田をシュールリアリストとするのは陳腐すぎて正しくないだろうが。

 戦前までは、銅版画といえばエッチングが主だったが、アクアチント、メゾチント、エングレーヴィングなど、関野準一郎が多様な技法に挑んだ。それに浜田も強く影響された。「ニコライ堂」(1950)は、エングレーヴィングによる。「郊外の風景」(1948~1950)は、メゾチント。1951年から1957年まで、〝デモクラート美術家協会〟という団体があり、そこに浜田は参加し作品を出品していたらしい。

 展覧会を視た日には映画上映もされていて観た。『戦ふ兵隊』(1939年・亀井文夫監督)、その前の週には『真空地帯』(山本薩夫監督)も上映されたらしい。その解説を角尾宣信(つのおよしのぶ)氏が上映後に語った。氏はその作品を反戦映画と説いた。しかし、どう見ても国策映画である。ところが映像の裏に監督の反戦思想を読み取るのが氏の主張である。『真空地帯』であろう、陰歌(替歌)で兵隊の真情が伝えられると氏は説く。原曲は森繁久弥の録音がある。「お国のためとは言いながら、人の嫌がる兵隊に召されていく哀れさよ、可愛いスーちゃんと泣き別れ」。これはアカショウビンも聴いたことがある。森繁節が何とも面白い。

 角尾氏は、亀井作品の最初の五分間に作品の構造が示されていると言う。そこには〝見る主体としての中国人〟が撮られているからだ、と。なるほど、確かにそうだ。カメラで撮るのは英語でシュート、銃を撃つのもシュート。監督はそれを逆転している、と。そこで監督はエイゼンシュテインの影響がある、と氏は読み解く。それを利用して監督は加害者の「顔」を隠し検閲を逃れたというのが氏の読みだ。しかし結果として、作品は陸軍により〝反戦映画〟と見做され1939年に上映は禁じられた。氏は1908年生まれの亀井は戦前の〝左翼〟、〝マルクス・ボーイ〟と言い、1917年生まれの浜田は、大正デモクラシーも知らない絵描き。亀井がそうなのは、作品にキリスト教のモチーフがロシア正教のシーンに現れていると解釈する。『真空地帯」』を介し、内務班の相同性、とも説明する。亀井作品は1938年、9月から10月の武漢作戦の映像。それはカモフラージュの反戦思想、とも。そして浜田作品の運動性を論じた。被害性と運動性が浜田作品の真骨頂だ、と。亀井の加害性の主張は日本軍の殺しのシーンを描かないことにより隠蔽された事実を逆説として作品に織り込んだ、というのだろう。

 しかし、浜田の戦争版画には他者としての呵責がない、と言うのが角尾氏の『初年兵哀歌』はじめ戦後の戦争版画に見られる浜田作品の批評、批判であるが、2008年から浜田作品に他者としての眼差しが表出されてくると説く。浜田作品は決して〝反戦〟ではない、「人間の〝崇高性〟を否定するスタンスが浜田作品」という最後の総括も頷ける。〝風刺の美学〟と氏はその後の浜田作品を評する。不気味で滑稽、それが浜田作品、というのも確かにそうだ。

 日清戦争のころは遺体が従軍画家の作品のなかには描かれるが、日中戦争、太平洋戦争では、それがなくなってくる、という指摘も興味深い。それはまた藤田嗣治の作品も挙げて論じなければならない論点だろう。

 講演のあとでアカショウビンは『詩人』(1999)のブロンズ像も熟視した。塔の上で詩人が何かを叫び語っている像である。そこには古代ギリシアの詩人の姿も想起される。ホメロスやヘロドトスかもしれない。昨年から今年にかけて読み続けているハンナ・アーレントの作品にも啓発される。その感想も近く書いていきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月 8日 (日)

浜田知明の作品群②

 浜田は帰国後、1948年から9年間、川崎市の登戸に住み、1957年、郷里の熊本に戻った。1960年の<女>は、浜田の芸術的独創がピカソを超えていると思える。<噂>(1961年)もイロニーと諧謔に溢れ、浜田の面目躍如。<狂った男>(1962年)は、現代人の我々の姿を浜田の透徹した視線が暴いた作品だ。

 ヨーロッパ旅行をした時に浜田は一枚も写生せず、ルーブル美術館に通い詰めたという。帰国してからの『わたくしのヨーロッパ印象記』の一連の作品は、その経験が反映している。<ロンドン塔>(1969年)などは、浜田作品に新たな境地が開かれたことがわかる。<ドーバー海峡>(1970年)は、ファンタジーさえ醸しだす、浜田の視角、視線を表出している。<ウィーン>(1970年)も浜田ならではの視線だ。音楽の都の異なる姿が活写されている。<晩年>(1972年)は、時間と空間を視角化し、哲学的でさえある。1973年の<長田 弘詩集飾画Ⅱ>は、これまた哲学的で、詩人の作品に啓発された浜田の詩想の産物の思いがする。

 1970年代に浜田はノイローゼになったらしい。それを逆手にとり浜田は作品にする。<アレレ・・・>(1974年)は、子供も興味を持つだろう作品だ。アカショウビンの世代には子供の頃に馴染んだ赤塚不二男のレレレのおじさんを連想する。<せかせか>(1975年)は、水木しげるの世界とも通底するようだ。<いらいら(B)>(1975年)も。遡って<飛翔>(1958年)は、既に浜田が未来の人間共の世界を先取りしている感がする作品である。浜田は若いころ、ゴヤの晩年の版画に強い影響を受け版画の道を探った。

 『曇後晴』 顔(1976年)はノイローゼ患者の自覚症状を視角化した面白さ。お先真っ暗な病の深さを現象化しているようだ。同じ<心情不安定>も病による平衡感覚の不安定さを絶妙に表出しているではないか。(この稿続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年4月 3日 (火)

浜田知明の作品群①

 先日観た感想を介し再考しよう。

 浜田さんの作品を知ったのは今から10年前くらい前だ。NHKか民放で特集をしていたのだろう。それは痛烈な印象を受けた。代表作<初年兵哀歌>だけではない。先の大戦で一兵士として中国戦線に召集され戦争の惨禍を体験した記憶を戦後に版画として表現した執念に裏打ちされた作品群は何としても実物に正面したいという衝動に駆られた。昨年百歳を迎えられたことは戦争の現実を知らない私たち多くの日本人にとって幸いというしかない。現在の世相を介すれば、その作品は痛烈な批判精神として駆動する。都内や神奈川に住まわれている方々には是非ご覧頂きたい。8日の日曜日まで開催されている。

 浜田(以下、敬称は略させて頂く)の代表作の一つ、1954年に創作された<初年兵哀歌(歩哨)>は先の大戦を経験された方々や戦争を経験していない私たち後の世代でも歴史事実を辿った者なら誰でも或る直感で理解するだろうが、そうでない人たちや外国人には説明を要する作品である。アカショウビンは映画作品などで、その光景が映像化されただろう作品を観てさらに想像を重ねる。俳優の田中邦衛がそれを演じた。

 <初年兵哀歌>(銃架のかげ)、は野間 宏が評価し浜田の作品が次第に注目されるようになった。(便所の伝説)は首を吊った兵士の姿。(ぐにゃぐにゃした太陽がのぼる)、の太陽はまるで宇宙船のようだ。浜田の視角に風景はこのように変形し表現される一つの典型のような作品だ。

 兵士の孤独と願望は頭が割れ、金具で留められ片目は破壊された無慚な姿として再現される。兵士は宿舎から巨大な手と腕が救いを求め伸び出している。それも虚しく絶望は彼らを支配するのだ。

 この展示会の象徴ともなっている<風景>(1952年)、は腹の膨れ上がった、恐らく強姦されたあとに殺された妊婦かもしれない、女の黒い屍を冷徹に表現している。それは戦場の日常が象徴された作品として選ばれたのだろう。(山を行く砲兵隊)、の中央部分近くの車輪は天皇の軍隊の象徴である菊の紋章のようにも見える。

 (陣地)、は地中に掘られた空間が面白い。アカショウビンは、ベトナム戦争時のベトコンの地下トンネルを想起する。(絞首台)、は殺された男の素肌の死体である。浜田は次のようにコメントしている。「一億総懺悔などといい加減な言葉さえ生まれました。戦争中の軍部とその同調者の横暴を腹に据えかねていた私は、せめて自分の作品で彼らを絞首台に架けたのです」。そのコメントに一連の作品群の痛烈なテーマの一つが凝縮されているではないか。

 <刑場(A)、((B)>、は浜田の視線の極北と思える。それはアウシュビッツの惨禍にも回路を開き通底している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年10月13日 (月)

「北斎館」を再訪する

 先日、知人の縁で長野県の飯山を一泊旅行でレンタカーを駆って久しぶりに訪れ、稲の収穫を手伝うことになったが連休の渋滞で間に合わず。食事と飲み会だけに終わってしまった。翌日は、知人二人を誘って小布施の「北斎館」を再訪できたのは幸い。連休だけに凄い混みよう。関東に戻って2~3年前に訪れてからの再訪となった。天井絵の龍と怒涛、肉筆画を暫し鑑賞できた。「布晒(調布の玉川)」や「二美人図」「冨嶽三十六景神奈川沖浪裏」の多色刷りの過程が見られたのは収穫だった。関西からの親娘と思われる親が娘に解説している姿も微笑ましかった。一時間足らずの鑑賞だったが同行の一人は感激していて誘った甲斐があった。記念に絶筆の「富士越龍図」のコピーを購入。部屋に貼り天才の芸の集大成ともなった作品を厭かず眺めている。

 旅は帰りも渋滞に巻き込まれ行きは関越だったが佐久から清里へ抜け中央高速で帰ろうとしたが関越以上の渋滞。大月を過ぎ下道で走ったが高尾山を越える事になり帰りはレンタカー返却の時間を過ぎた。やっと東京駅まで戻り同行のお二人を送り車は自宅近くに駐車。翌日返却した。それにしても連休の車の移動はよほど綿密に移動しないと大変なことになることは学習したが、さて来年はどうなることやら。ただ幸運だったのは北斎館が11月24日までの会期後は増築工事のため来年の3月まで閉館になるとのこと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月24日 (火)

ターナー展を回顧する

 今回の展覧会で3品選ぶとすると「月光、ミルバンクより眺めた習作」(1797年)、「戦争、流刑者とカサ貝」(1842年)、「「平和‐水葬」(1842年)だ。水彩の達者な筆使いは画家の才覚と才能が横溢していて洒脱だが、晩年の2作品の色彩を重ねて独自の境地を表現した作品は画家が到達した境地を示して余りある傑作と確信する。初期の天才が晩年に奇跡のように結実したことを2品を凝視して納得した。「「流刑者~」のナポレオンの姿は画家の想像である。しかし、落剥した天才の姿が血の色とも妄想させる赤を基調とした作品の奥にある凄惨を彷彿させる。対照的に「平和~」は印象的な黒が友人の水葬という悲惨を見事に象徴している。ここに画家の才能は究極していると言ってもよい。展覧会で並べられた2品の対照は鮮烈だった。それは何より初期の「月光~」を凝視すれば起承転結を得た結果としてアカショウビンには納得された。 

 ターナーが17世紀のオランダ絵画に大きな影響を受けたという説明もフェルメールなど光に格別の関心を示した画家たちの作品を想起して考えるとなる何やら腑に落ちるのである。専門家がターナーを美術史に位置付ける時は後の印象派の先駆けというものだろうが史的な位置づけはともかく画家の視線の深さは、そのような表層的なものでないことを作品に正面してアカショウビンは納得した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年11月17日 (日)

大観展を訪れる

 友人のN君から頂いた招待券で横浜美術館の「横山大観展 良き師、良き友」を観に。以前に観たのは百貨店だか上野の美術館だか思い出さない。少なくとも数年以上前だ。先日観た竹内栖鳳も思い出され楽しんだ。ただ、会場に着いたのは午後2時過ぎ。午後6時の閉館まで作品を堪能するにはあまりに少ない。個々の作品の詳細は敢えて説明しない。作品は画集でなく実物に相対するしかないからだ。それはともかく、本日は他の名手たちの作品も観られるので比較の楽しさもある。天心の書軸、紫紅、未醒、芋銭、溪仙などの作品が。

 午後1時32分、快速アクティで東京発。体調はよろしくない。とにかく余生に観ておくべき作品は視ておくのだ。天気には恵まれた。あとは作品に集中するだけだ。会場には2時過ぎに到着。大観をめぐる人物相関図が親切。院展洋画部の小川芋銭、小杉未醒(放庵)、冨田溪仙や鉄斎ら京都画壇との関係が簡略されている。

 明治24年~26年に東京美術学校在学時代に描かれた「海岸図」は水墨の技術を習得し独特の構図が表現され、画家の才覚を如実に伝えている。大正4年の「焚き火」3巾がすばらしい。画集を見ると同じ表題で前年にも描いているが、こちらがよい。焚き火の炎が見事だからだ。それは「夜桜」の炎でも効果をあげている。真ん中の焚き火をを眺める寒山、拾得の表情がよい。世俗から離れた幾らかの狂気を含んでいる。

 大正元年の「瀟湘八景」は4巾展示されているが〝江天暮雪〟の雪山と人物の配置が絶妙。漱石は大観の独創性をユーモラスな感覚に見いだした、というが、それは隣の平沙落雁になされたものかもしれない。それほどに〝江天暮雪〟は絶品だ。

 金屏風の「寒山拾得」は大観の気宇が発揮されて面白い。それと並んで「観音秋冬図」、「雲中富士」が展示されている。それは良くも悪くも大観らしい奇想が発揮されている大柄な作品だ。それに「夜桜」を加えれば見る者を驚かすに十分とも言える。しかし大観の面白さの急所はそこにはない。「雲中富士」は大正4年作。群青色の富士は漱石のいうユーモラス性全開の作品だ。この群青色は画集では看取できない。作品と対面しなければならないのだ。昭和2年作の「雲揺らぐ」は先日観た竹内栖鳳の同じアングルのものとも比較されるが大観作は画家がユーモアだけでなく象徴性にも優れていたことを示して余りある。

 告知にも使われていた大正6年作の「秋色」はアカショウビンの好みではない。屏風絵の「湖上の月」(大正6年)は、それからすると圧倒的な独創性を見せている。画面の真ん中から左を占める空間が実に深淵だ。大正元年の「長江の朝」は小さな作品だが、これも同じ雪の白い空間が実に大観だ。「雪後(せつご)」も同様に空間美が素晴らしい。明治34年の「月下牧童」は画家の天才を発揮して余りある神品の味わいだ。このころ既に大観は一つの頂点に達していたと確信する。画集では色が死んでいる。やはり実物に相対しなければならないのだ。

 明治43年の中国旅行で描いた「長江の巻」は全巻の一部だが全巻を視たい衝動に駆られる。有名な「夜桜」は大観が東洋画の余白の美が欧米人に理解されないかもしれない、として画面全部を桜で埋め尽くした作品だが、やはり大観の作品で挑発されるのは余白を生かしたものだ。

 「観音秋冬図」(大正4年)は雪山と観音、春山を3巾並べている。これも雪山の白の美しさが際立つ。観音の下部の黒と春山の下部の黒が不気味さを醸し出して面白い。

 冨田溪仙の「観世音菩薩」(昭和11年頃)と「大聖不動尊」も才覚と諧謔精神が溢れる佳品だ。小川芋銭は横長の「積雨収(せきうおさまる)」(昭和5年)と縦長の「春夏秋冬」(昭和3年)の2巾が洒脱で画家の才覚が横溢している。

 大観が所有していたという天心の書軸が面白い。「遠慮めさるな 浮世の影を 花とゆめみし ひともある」という内容だ。「仰天有始観物無吾」は、天心の「天を仰げば、天上に世界の始まりを思い、物を心眼で見るならついに自我は消える、という天心の理想を大観に思い起こさせた書であろうか」という解説が記されていた。 

 迂闊だったのは、今回の展示が会期中の10月と11月で入れ替えられていたことだ。楽しみにしていた「屈原」は、10月5日から16日までの展示。それはともかく、今回の出品作で強く印象に残ったのは「焚き火」を先ず挙げたい。それに「瀟湘八景」、「雪後」。それに「湖上の月」と「長江の朝」だ。「月下牧童」は、それらを越えてより神韻縹渺という趣だ。やはり大観の面白さは余白にあるというのが改めて観ての総括としてもよい。このブログを始めた頃に書いた「隠棲」が出展されていないのが残念だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月20日 (日)

栖鳳の雪舟模写への注釈

 先の栖鳳展には雪舟の模写が1品展示されていた。それを見て、2002年5月に訪れた雪舟展での感想を記しておきたい。 

会場には雪舟が学んだ宋代の画家、夏珪(シャ・フゥイ)の作品も展示されていた。彼の水墨画には了庵桂悟の賛が記されている。正確ではないだろうが、画中には次の文字が見える。

火煙(異字)村帰渡

漁笛清幽

煙堤晩泊

展示されていた2巾は絶品だ。雪舟の「秋冬山水図」の渋みに「明るさ」が加わった趣とでもいえばよいだろうか。特に目録の95番は際立って見事だ。夏珪の一品は、渋み、滋味が底の深さを湛えている。正に神韻渺。その地の色は紙質によるものか、渋さと深みは画家の意図通りの狙いなのか?

雪舟は明で画かれたとされる作品より帰ってから画かれたとされるもののほうが良い。夏珪の画風に倣い、あるいはそれを超えているとさえ私には思われる。その中では、冬が私の好みだ。岡本太郎が雪舟は「芸術家ではない」と主張していた。しかし絵描きが眼で視、知と五感で画布に、その像を定着させる芸を持つ者だとすると、雪舟はやはり芸術家だと言うべきだろう。岡本が嫌うのは、おそらく、その構図における「安定感」といったものなのだろう。或る場合、美は破調にあると言う人もあるのだから。しかし、それでも雪舟の水墨画には魅入らざるをえない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)