2018年5月18日 (金)

浜田知明の作品群③

 「男と女」(1976)も面白い。「月夜」は男女の愛と欲望を浜田流に時間と空間のなかで表出している。「風化する街」(A)(B)は、浜田の視た都市の本質と人間たちの姿である。「取引」(1979)は、トランプとプーチンのカリカチュアとしても見られる。「ボス」(1980)は、安倍だろう。

 何と浜田は遠藤周作の『沈黙』を作品にしている。これは浜田の版画による感想として面白い。「カタコンベ」(1982)もシュールレアリストとして浜田を評すなら独特の視角だ。「怯える人々」(1985)然り。「H氏像」(1989)は正にシュールな作品だ。浜田をシュールリアリストとするのは陳腐すぎて正しくないだろうが。

 戦前までは、銅版画といえばエッチングが主だったが、アクアチント、メゾチント、エングレーヴィングなど、関野準一郎が多様な技法に挑んだ。それに浜田も強く影響された。「ニコライ堂」(1950)は、エングレーヴィングによる。「郊外の風景」(1948~1950)は、メゾチント。1951年から1957年まで、〝デモクラート美術家協会〟という団体があり、そこに浜田は参加し作品を出品していたらしい。

 展覧会を視た日には映画上映もされていて観た。『戦ふ兵隊』(1939年・亀井文夫監督)、その前の週には『真空地帯』(山本薩夫監督)も上映されたらしい。その解説を角尾宣信(つのおよしのぶ)氏が上映後に語った。氏はその作品を反戦映画と説いた。しかし、どう見ても国策映画である。ところが映像の裏に監督の反戦思想を読み取るのが氏の主張である。『真空地帯』であろう、陰歌(替歌)で兵隊の真情が伝えられると氏は説く。原曲は森繁久弥の録音がある。「お国のためとは言いながら、人の嫌がる兵隊に召されていく哀れさよ、可愛いスーちゃんと泣き別れ」。これはアカショウビンも聴いたことがある。森繁節が何とも面白い。

 角尾氏は、亀井作品の最初の五分間に作品の構造が示されていると言う。そこには〝見る主体としての中国人〟が撮られているからだ、と。なるほど、確かにそうだ。カメラで撮るのは英語でシュート、銃を撃つのもシュート。監督はそれを逆転している、と。そこで監督はエイゼンシュテインの影響がある、と氏は読み解く。それを利用して監督は加害者の「顔」を隠し検閲を逃れたというのが氏の読みだ。しかし結果として、作品は陸軍により〝反戦映画〟と見做され1939年に上映は禁じられた。氏は1908年生まれの亀井は戦前の〝左翼〟、〝マルクス・ボーイ〟と言い、1917年生まれの浜田は、大正デモクラシーも知らない絵描き。亀井がそうなのは、作品にキリスト教のモチーフがロシア正教のシーンに現れていると解釈する。『真空地帯」』を介し、内務班の相同性、とも説明する。亀井作品は1938年、9月から10月の武漢作戦の映像。それはカモフラージュの反戦思想、とも。そして浜田作品の運動性を論じた。被害性と運動性が浜田作品の真骨頂だ、と。亀井の加害性の主張は日本軍の殺しのシーンを描かないことにより隠蔽された事実を逆説として作品に織り込んだ、というのだろう。

 しかし、浜田の戦争版画には他者としての呵責がない、と言うのが角尾氏の『初年兵哀歌』はじめ戦後の戦争版画に見られる浜田作品の批評、批判であるが、2008年から浜田作品に他者としての眼差しが表出されてくると説く。浜田作品は決して〝反戦〟ではない、「人間の〝崇高性〟を否定するスタンスが浜田作品」という最後の総括も頷ける。〝風刺の美学〟と氏はその後の浜田作品を評する。不気味で滑稽、それが浜田作品、というのも確かにそうだ。

 日清戦争のころは遺体が従軍画家の作品のなかには描かれるが、日中戦争、太平洋戦争では、それがなくなってくる、という指摘も興味深い。それはまた藤田嗣治の作品も挙げて論じなければならない論点だろう。

 講演のあとでアカショウビンは『詩人』(1999)のブロンズ像も熟視した。塔の上で詩人が何かを叫び語っている像である。そこには古代ギリシアの詩人の姿も想起される。ホメロスやヘロドトスかもしれない。昨年から今年にかけて読み続けているハンナ・アーレントの作品にも啓発される。その感想も近く書いていきたい。

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2018年4月 8日 (日)

浜田知明の作品群②

 浜田は帰国後、1948年から9年間、川崎市の登戸に住み、1957年、郷里の熊本に戻った。1960年の<女>は、浜田の芸術的独創がピカソを超えていると思える。<噂>(1961年)もイロニーと諧謔に溢れ、浜田の面目躍如。<狂った男>(1962年)は、現代人の我々の姿を浜田の透徹した視線が暴いた作品だ。

 ヨーロッパ旅行をした時に浜田は一枚も写生せず、ルーブル美術館に通い詰めたという。帰国してからの『わたくしのヨーロッパ印象記』の一連の作品は、その経験が反映している。<ロンドン塔>(1969年)などは、浜田作品に新たな境地が開かれたことがわかる。<ドーバー海峡>(1970年)は、ファンタジーさえ醸しだす、浜田の視角、視線を表出している。<ウィーン>(1970年)も浜田ならではの視線だ。音楽の都の異なる姿が活写されている。<晩年>(1972年)は、時間と空間を視角化し、哲学的でさえある。1973年の<長田 弘詩集飾画Ⅱ>は、これまた哲学的で、詩人の作品に啓発された浜田の詩想の産物の思いがする。

 1970年代に浜田はノイローゼになったらしい。それを逆手にとり浜田は作品にする。<アレレ・・・>(1974年)は、子供も興味を持つだろう作品だ。アカショウビンの世代には子供の頃に馴染んだ赤塚不二男のレレレのおじさんを連想する。<せかせか>(1975年)は、水木しげるの世界とも通底するようだ。<いらいら(B)>(1975年)も。遡って<飛翔>(1958年)は、既に浜田が未来の人間共の世界を先取りしている感がする作品である。浜田は若いころ、ゴヤの晩年の版画に強い影響を受け版画の道を探った。

 『曇後晴』 顔(1976年)はノイローゼ患者の自覚症状を視角化した面白さ。お先真っ暗な病の深さを現象化しているようだ。同じ<心情不安定>も病による平衡感覚の不安定さを絶妙に表出しているではないか。(この稿続く)

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2018年4月 3日 (火)

浜田知明の作品群①

 先日観た感想を介し再考しよう。

 浜田さんの作品を知ったのは今から10年前くらい前だ。NHKか民放で特集をしていたのだろう。それは痛烈な印象を受けた。代表作<初年兵哀歌>だけではない。先の大戦で一兵士として中国戦線に召集され戦争の惨禍を体験した記憶を戦後に版画として表現した執念に裏打ちされた作品群は何としても実物に正面したいという衝動に駆られた。昨年百歳を迎えられたことは戦争の現実を知らない私たち多くの日本人にとって幸いというしかない。現在の世相を介すれば、その作品は痛烈な批判精神として駆動する。都内や神奈川に住まわれている方々には是非ご覧頂きたい。8日の日曜日まで開催されている。

 浜田(以下、敬称は略させて頂く)の代表作の一つ、1954年に創作された<初年兵哀歌(歩哨)>は先の大戦を経験された方々や戦争を経験していない私たち後の世代でも歴史事実を辿った者なら誰でも或る直感で理解するだろうが、そうでない人たちや外国人には説明を要する作品である。アカショウビンは映画作品などで、その光景が映像化されただろう作品を観てさらに想像を重ねる。俳優の田中邦衛がそれを演じた。

 <初年兵哀歌>(銃架のかげ)、は野間 宏が評価し浜田の作品が次第に注目されるようになった。(便所の伝説)は首を吊った兵士の姿。(ぐにゃぐにゃした太陽がのぼる)、の太陽はまるで宇宙船のようだ。浜田の視角に風景はこのように変形し表現される一つの典型のような作品だ。

 兵士の孤独と願望は頭が割れ、金具で留められ片目は破壊された無慚な姿として再現される。兵士は宿舎から巨大な手と腕が救いを求め伸び出している。それも虚しく絶望は彼らを支配するのだ。

 この展示会の象徴ともなっている<風景>(1952年)、は腹の膨れ上がった、恐らく強姦されたあとに殺された妊婦かもしれない、女の黒い屍を冷徹に表現している。それは戦場の日常が象徴された作品として選ばれたのだろう。(山を行く砲兵隊)、の中央部分近くの車輪は天皇の軍隊の象徴である菊の紋章のようにも見える。

 (陣地)、は地中に掘られた空間が面白い。アカショウビンは、ベトナム戦争時のベトコンの地下トンネルを想起する。(絞首台)、は殺された男の素肌の死体である。浜田は次のようにコメントしている。「一億総懺悔などといい加減な言葉さえ生まれました。戦争中の軍部とその同調者の横暴を腹に据えかねていた私は、せめて自分の作品で彼らを絞首台に架けたのです」。そのコメントに一連の作品群の痛烈なテーマの一つが凝縮されているではないか。

 <刑場(A)、((B)>、は浜田の視線の極北と思える。それはアウシュビッツの惨禍にも回路を開き通底している。

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2014年10月13日 (月)

「北斎館」を再訪する

 先日、知人の縁で長野県の飯山を一泊旅行でレンタカーを駆って久しぶりに訪れ、稲の収穫を手伝うことになったが連休の渋滞で間に合わず。食事と飲み会だけに終わってしまった。翌日は、知人二人を誘って小布施の「北斎館」を再訪できたのは幸い。連休だけに凄い混みよう。関東に戻って2~3年前に訪れてからの再訪となった。天井絵の龍と怒涛、肉筆画を暫し鑑賞できた。「布晒(調布の玉川)」や「二美人図」「冨嶽三十六景神奈川沖浪裏」の多色刷りの過程が見られたのは収穫だった。関西からの親娘と思われる親が娘に解説している姿も微笑ましかった。一時間足らずの鑑賞だったが同行の一人は感激していて誘った甲斐があった。記念に絶筆の「富士越龍図」のコピーを購入。部屋に貼り天才の芸の集大成ともなった作品を厭かず眺めている。

 旅は帰りも渋滞に巻き込まれ行きは関越だったが佐久から清里へ抜け中央高速で帰ろうとしたが関越以上の渋滞。大月を過ぎ下道で走ったが高尾山を越える事になり帰りはレンタカー返却の時間を過ぎた。やっと東京駅まで戻り同行のお二人を送り車は自宅近くに駐車。翌日返却した。それにしても連休の車の移動はよほど綿密に移動しないと大変なことになることは学習したが、さて来年はどうなることやら。ただ幸運だったのは北斎館が11月24日までの会期後は増築工事のため来年の3月まで閉館になるとのこと。

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2013年12月24日 (火)

ターナー展を回顧する

 今回の展覧会で3品選ぶとすると「月光、ミルバンクより眺めた習作」(1797年)、「戦争、流刑者とカサ貝」(1842年)、「「平和‐水葬」(1842年)だ。水彩の達者な筆使いは画家の才覚と才能が横溢していて洒脱だが、晩年の2作品の色彩を重ねて独自の境地を表現した作品は画家が到達した境地を示して余りある傑作と確信する。初期の天才が晩年に奇跡のように結実したことを2品を凝視して納得した。「「流刑者~」のナポレオンの姿は画家の想像である。しかし、落剥した天才の姿が血の色とも妄想させる赤を基調とした作品の奥にある凄惨を彷彿させる。対照的に「平和~」は印象的な黒が友人の水葬という悲惨を見事に象徴している。ここに画家の才能は究極していると言ってもよい。展覧会で並べられた2品の対照は鮮烈だった。それは何より初期の「月光~」を凝視すれば起承転結を得た結果としてアカショウビンには納得された。 

 ターナーが17世紀のオランダ絵画に大きな影響を受けたという説明もフェルメールなど光に格別の関心を示した画家たちの作品を想起して考えるとなる何やら腑に落ちるのである。専門家がターナーを美術史に位置付ける時は後の印象派の先駆けというものだろうが史的な位置づけはともかく画家の視線の深さは、そのような表層的なものでないことを作品に正面してアカショウビンは納得した。

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2013年11月17日 (日)

大観展を訪れる

 友人のN君から頂いた招待券で横浜美術館の「横山大観展 良き師、良き友」を観に。以前に観たのは百貨店だか上野の美術館だか思い出さない。少なくとも数年以上前だ。先日観た竹内栖鳳も思い出され楽しんだ。ただ、会場に着いたのは午後2時過ぎ。午後6時の閉館まで作品を堪能するにはあまりに少ない。個々の作品の詳細は敢えて説明しない。作品は画集でなく実物に相対するしかないからだ。それはともかく、本日は他の名手たちの作品も観られるので比較の楽しさもある。天心の書軸、紫紅、未醒、芋銭、溪仙などの作品が。

 午後1時32分、快速アクティで東京発。体調はよろしくない。とにかく余生に観ておくべき作品は視ておくのだ。天気には恵まれた。あとは作品に集中するだけだ。会場には2時過ぎに到着。大観をめぐる人物相関図が親切。院展洋画部の小川芋銭、小杉未醒(放庵)、冨田溪仙や鉄斎ら京都画壇との関係が簡略されている。

 明治24年~26年に東京美術学校在学時代に描かれた「海岸図」は水墨の技術を習得し独特の構図が表現され、画家の才覚を如実に伝えている。大正4年の「焚き火」3巾がすばらしい。画集を見ると同じ表題で前年にも描いているが、こちらがよい。焚き火の炎が見事だからだ。それは「夜桜」の炎でも効果をあげている。真ん中の焚き火をを眺める寒山、拾得の表情がよい。世俗から離れた幾らかの狂気を含んでいる。

 大正元年の「瀟湘八景」は4巾展示されているが〝江天暮雪〟の雪山と人物の配置が絶妙。漱石は大観の独創性をユーモラスな感覚に見いだした、というが、それは隣の平沙落雁になされたものかもしれない。それほどに〝江天暮雪〟は絶品だ。

 金屏風の「寒山拾得」は大観の気宇が発揮されて面白い。それと並んで「観音秋冬図」、「雲中富士」が展示されている。それは良くも悪くも大観らしい奇想が発揮されている大柄な作品だ。それに「夜桜」を加えれば見る者を驚かすに十分とも言える。しかし大観の面白さの急所はそこにはない。「雲中富士」は大正4年作。群青色の富士は漱石のいうユーモラス性全開の作品だ。この群青色は画集では看取できない。作品と対面しなければならないのだ。昭和2年作の「雲揺らぐ」は先日観た竹内栖鳳の同じアングルのものとも比較されるが大観作は画家がユーモアだけでなく象徴性にも優れていたことを示して余りある。

 告知にも使われていた大正6年作の「秋色」はアカショウビンの好みではない。屏風絵の「湖上の月」(大正6年)は、それからすると圧倒的な独創性を見せている。画面の真ん中から左を占める空間が実に深淵だ。大正元年の「長江の朝」は小さな作品だが、これも同じ雪の白い空間が実に大観だ。「雪後(せつご)」も同様に空間美が素晴らしい。明治34年の「月下牧童」は画家の天才を発揮して余りある神品の味わいだ。このころ既に大観は一つの頂点に達していたと確信する。画集では色が死んでいる。やはり実物に相対しなければならないのだ。

 明治43年の中国旅行で描いた「長江の巻」は全巻の一部だが全巻を視たい衝動に駆られる。有名な「夜桜」は大観が東洋画の余白の美が欧米人に理解されないかもしれない、として画面全部を桜で埋め尽くした作品だが、やはり大観の作品で挑発されるのは余白を生かしたものだ。

 「観音秋冬図」(大正4年)は雪山と観音、春山を3巾並べている。これも雪山の白の美しさが際立つ。観音の下部の黒と春山の下部の黒が不気味さを醸し出して面白い。

 冨田溪仙の「観世音菩薩」(昭和11年頃)と「大聖不動尊」も才覚と諧謔精神が溢れる佳品だ。小川芋銭は横長の「積雨収(せきうおさまる)」(昭和5年)と縦長の「春夏秋冬」(昭和3年)の2巾が洒脱で画家の才覚が横溢している。

 大観が所有していたという天心の書軸が面白い。「遠慮めさるな 浮世の影を 花とゆめみし ひともある」という内容だ。「仰天有始観物無吾」は、天心の「天を仰げば、天上に世界の始まりを思い、物を心眼で見るならついに自我は消える、という天心の理想を大観に思い起こさせた書であろうか」という解説が記されていた。 

 迂闊だったのは、今回の展示が会期中の10月と11月で入れ替えられていたことだ。楽しみにしていた「屈原」は、10月5日から16日までの展示。それはともかく、今回の出品作で強く印象に残ったのは「焚き火」を先ず挙げたい。それに「瀟湘八景」、「雪後」。それに「湖上の月」と「長江の朝」だ。「月下牧童」は、それらを越えてより神韻縹渺という趣だ。やはり大観の面白さは余白にあるというのが改めて観ての総括としてもよい。このブログを始めた頃に書いた「隠棲」が出展されていないのが残念だった。

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2013年10月20日 (日)

栖鳳の雪舟模写への注釈

 先の栖鳳展には雪舟の模写が1品展示されていた。それを見て、2002年5月に訪れた雪舟展での感想を記しておきたい。 

会場には雪舟が学んだ宋代の画家、夏珪(シャ・フゥイ)の作品も展示されていた。彼の水墨画には了庵桂悟の賛が記されている。正確ではないだろうが、画中には次の文字が見える。

火煙(異字)村帰渡

漁笛清幽

煙堤晩泊

展示されていた2巾は絶品だ。雪舟の「秋冬山水図」の渋みに「明るさ」が加わった趣とでもいえばよいだろうか。特に目録の95番は際立って見事だ。夏珪の一品は、渋み、滋味が底の深さを湛えている。正に神韻渺。その地の色は紙質によるものか、渋さと深みは画家の意図通りの狙いなのか?

雪舟は明で画かれたとされる作品より帰ってから画かれたとされるもののほうが良い。夏珪の画風に倣い、あるいはそれを超えているとさえ私には思われる。その中では、冬が私の好みだ。岡本太郎が雪舟は「芸術家ではない」と主張していた。しかし絵描きが眼で視、知と五感で画布に、その像を定着させる芸を持つ者だとすると、雪舟はやはり芸術家だと言うべきだろう。岡本が嫌うのは、おそらく、その構図における「安定感」といったものなのだろう。或る場合、美は破調にあると言う人もあるのだから。しかし、それでも雪舟の水墨画には魅入らざるをえない。

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2013年10月15日 (火)

竹内栖鳳展を訪れる

  先日、14日まで東京近代国立美術館で開催された竹内栖鳳展の感想を少し書き留めておく。 

2回に分けて訪れた会場各所に展示されている写生帖は画家の視線と眼力を伝えている。屏風絵で栖鳳は花鳥風月に加えて獅子や象、狐狸を描いたのが面白い。屏風に描かれるオランダやヴェニスの風景もこれまた一興。栖鳳の色彩のセンスは水墨に入れた色合いで抜群だ。その典型が舞妓の青であり鮮やかな朱色だ。熊や烏の荒々しい黒も栖鳳の面目躍如だ。水墨の安定した技法、伝統を超克してやるという気迫が漲っている。

還暦に描かれた「酔興」、「馬に乗る狐」も画家の諧謔が溢れて楽しい。新年を祝う酒宴の座興かもしれない楽しさが生き生きと伝わってくる。赤い桶の上の鯉をなぜ「国端」と名付けたのだろう?2頭の虎を「雄風」と名付けたのも不明。しかし水墨の竜虎とは異なる趣を醸し出している。明治時代としか記されていない「瀑布図」の白の空間は大観の「隠棲」の空間を想い起こさせる。水墨の簡素が色を超克した作品と感嘆する。昭和14年の「瀑布」は彩色されているが、これも画家の玄妙な色彩感の面目躍如だ。

明治17年から18年の写生縮図には画家の才覚、才能が横溢している。

「驟雨一過」の樹木の色彩と烏の黒は鳴き声が聞こえてくるようではないか。明治末年、40代後半の作品と記されている「喜雀図」は絶品。「斑猫」の眼と同じく何とも神品の趣を発している。水彩の趣の「風薫双塔図」も新たな画境を伺わせる。中国の旅では欧州訪問より多くのスケッチを残している。水墨で学んだ中国を自らの眼で熟視した成果となって結実したことがわかる。

また渡欧体験から西洋の写実に対抗し写意という概念を生み出したというのも面白い。対象の〝本質〟とは何か。ハイデガーの思索とも絡んでくる。現在3時37分。2品の富士も北斎でも大観でもない栖鳳の富士だ。大小2匹の鯛は「海幸」の画題が付けられているがこれを英訳ではマリン・プロダクツと訳しているのは解せない。海の幸は決してプロダクツではない。

  初期の水墨と屏風絵はやはり才覚を余すところなく作品化して実に見事。高名な獅子図はさすがに風格がある。蝶の写生は田中一村の作品を想い起こした。明治41年、44歳頃の「狐狸」の狸が素晴らしい。獅子や象の肉感よりも。小動物に栖鳳の持ち味は出ていると思う。「寿山福海図」は絶品。海の色合い、峨々たる岩山は水墨のお馴染みの風景だが神品の風格がある。大英博物館に所蔵されているベニスの風景も船を黒々と水墨のタッチで描き霧に霞む異国の風景が野趣を醸しだしてる。ターナーの風景画にも匹敵するのではないか。「雪中蒼鷹図」の樹木の幹の陰影が天賦の才を彷彿させる。「秋興」の鴨の色合い。「アレ夕立に」の舞妓の襟首の首筋と黒髪の濃淡が絶品。「絵になる最初」の舞妓の恥じらいは手首と視線の一瞬を絶妙に留めている。「潮沙永日」の色も栖鳳流だ。「薫風稚雀・寒汀白鷺」の昭和3年(64歳)の雀も絶品。昭和14年(74歳)の「瀑布」は達観の境地も看取するが、これは、といった驚きの作品は「猫」と舞妓と水墨だ。雪舟の模写もあったが雪舟を越えたとは思えない。

昭和2年「小春」の猫は秀逸。「斑猫」はさすがに代表作というだけある。「蹴合」(昭和4年)の軍鶏の戦いは、2~3年前に千葉の美術館で開かれた田中一村展で観た軍鶏も好かった。当然、一村はもちろん栖鳳の作品は知っていただろう。それを意識していたかもしれない。一村が描いた軍鶏は千葉だったと思うが、その後一村が移り棲ん奄美でもアカショウビンが子供の頃は闘鶏が街中で行われていたように記憶する。栖鳳は戦いの激しい動きの一瞬を見事に画布に留めた。23歳の時に描いた「雲龍」は才覚、才能が良く伝わった。33歳の「松虎」で水墨に大型獣を書き込んだ作品は画家が新たな境地に踏み込んだ転機を感じる。屏風の鷺と獅子が、栖鳳が切り開いた新境地ともで言いたい画境だ。鷺の鮮やかな白はともかく、獅子の屏風の背景に沈みそうな色合いを画家は恐れずに描いている。そこに気迫を感じ取る。

午後4時18分。2階から4階まで所蔵ギャラリーへ。ジョルジュ・ブラックの「女のトルソ」とジョアン・ミロの「おおっ、あの人やっちゃったのね」が洒脱でナカナカ。キュビスムや画家の遊び心も栖鳳の写実、写意の作品を見た後では新鮮な味わいがある。

岡本太郎が第五福竜丸の被爆の報に刺激された「燃える人」も太郎ワールドだ。藤田嗣治の4作品もそれぞれ画風が異なり面白い。「リオの人々」、「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」の左から射す陽光が戦場の地獄を照らす天上の意志のようだ。「動物宴」は奇矯。「少女」などサイズと画風の違いが一興だ。

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2013年9月11日 (水)

近代美術

 毎年ではないが、年に2回くらいは美術館へ出向く。大阪に棲んでいたころは京都の河合寛次郎記念館や宝塚の鉄斎美術館も訪れた。今年は長野県小布施の北斎館も短時間だったが訪れられた。

 数年前にハイデッガーの「芸術作品の根源」(関口浩訳 平凡社 2008年7月10日)を読み独特の作品論が面白かった。ゴッホの「靴」(1886年)を論じたものだがハイデッガーらしい視角が新鮮だった。初出は1935年。翌年、大学の学生会や神学校などで講演したものを後日ハイデッガーが1956年に手を入れて出版された。日本は昭和10年、日中戦争に突入する前々年だ。1929年の大恐慌でドイツではナチスに大きく国民が加担していく。1932年にナチスが政権を掌握して3年後。政治は急変している。そのような中でハイデッガーは芸術論に手を染めている。

 日本で小林秀雄が「ゴッホの手紙」を刊行したのが昭和27年だ。「近代絵画」は昭和30年から藝術新潮に連載を開始し33年に出版した。保田與重郎は「日本美術史」を同じ藝術新潮に23回連載。昭和43年に出版している。これは素人眼にも瞠目する美術史だ。保田の面目躍如。再読、再々読して厭きない。保田はハイデッガーのゴッホ論は戦前に読んでいると思われる。小林はどうだろうか。保田の連載は読んでいた筈だ。恐らく驚愕し強く刺激されたものと思われる。保田独特の執拗というか眼底から精神に日本美術が視られ抜いていくのは圧巻だからだ。この著作への小林も含めて当時から現在までの評価は知らない。しかし、この著作には保田與重郎という文人の小林とは異なる眼力の深さが書き残されている。

 西洋美術に対比させるまでもなく日本美術の高みは白鳳・天平期に世界的な境位に達していたことを繰り返し述べる。その洞察と深淵には畏敬を超えて狂おしいものさえ感じる。

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2013年8月21日 (水)

戦争の記憶

 この夏の収穫は、浜田知明という銅版画家の作品と姿に映像ではあるが出会えた事だった。NHKの「日曜美術館」で紹介された作品には驚愕し震撼した。ネットの遣り取りでこの作家に関心がある方から関連の書籍を紹介して頂いた。「兵士であること」(鹿野政直著 2005年1月25日 朝日新聞社)だ。今年92歳になる銅版画家の作品を著者は丁寧に解説している。作品の写真も掲載されて改めて視て震撼する。昨今の日本国や対韓国、対北朝鮮、対中国、対米の北東アジアの現在と、シリア、エジプトの国際情勢の報道を省み感慨新ただ。先の大戦で日本軍が中国で、どういう戦争を戦ってきたか、浜田の作品は一人の兵士の視線、精神を銅版作品に刻んでいる。それは例えば、北斎の作品とは隔絶するものだが、日本人の美術家として関係がなくもない。水彩や油絵では表現できない対象というものがある。たとえば北斎の版画とはそういうものとして浜田にとっても同様な契機をもつと思われる。それほど、画家にとって対象と、それを描く手法というものは緊密な関係をもつものなのだろう。

 浜田の作品を見たあと、たまたま北斎の「冨岳三十六景」を主とした番組を見た。これまた驚嘆する北斎である。先日は長野の「北斎館」を初めて訪れ、短い時間だったが念願の天井絵も観て晩年の肉筆画にも対面した。それをしても、同時代を生きる作家の作品と作家の言説を聴けた貴重はアカショウビンの中で敢えて同等と言ってもよい。むしろ北斎の天才は浜田という美術家に奇跡的に引き継がれているとも飛躍できよう。浜田の作品に継承されているのは明らかに西洋美術である。代表作とされる「初年兵哀歌」で刻まれた版画は北斎の手法を継承したものだというのは専門家からすれば笑止な指摘だろう。しかし、浜田が選んだ手法は描く対象と深く関わっている。それは作品と対峙しなければわからないものとも言える。作品にした動機は、たとえ複製にしろテレビ映像にしろ伝わると思える。それは解説者によって文字で説明されるものとは別な衝撃である。この衝撃は娑婆を生き延びる力となりえるかもしれない。それはあくまで、こちらの衝迫の持続によるものだが。

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