2020年7月 6日 (月)

建国の精神

 先週金曜日7月3日の東京新聞〈本音のコラム〉のタイトルは「マスクをしない自由」。北丸雄二氏は、「彼らはマスクをしない自由を唱えます」と述べアメリカの建国の精神を説明する。清教徒たちが英国国教会という権威から逃れて建てた国というのは教科書で学んだ。しかし「自治から始まったので、連邦政府すら要らない、税金さえ払わないという考えが今でもあります」とは知らなかった。憲法修正第二条には「政府が変なことをしたら人民が銃を持って立ち向かう権利も保証されます」という条項も未だに銃規制が困難な理由というのも目からウロコだ。この日が7月4日、アメリカ独立記念日の前日に掲載されたのも北丸氏の意志の含みが察せられる。アカショウビンは、『アメリカの黒人演説集』で1852年のフレデリック・ダグラス氏の演説論考「奴隷にとって七月四日とは何か?」を読んだばかりなのも奇遇だ。

 同じコラムの6月27日の記事。タイトルは「これも差別」、師岡カリーマさんがパレスチナ自治区のエリコで行われたデモを伝えている。トランプ政権とイスラエル両国の国際法違反の暴挙を告発する。パレスチナ差別の歴史は長い。ドイツでユダヤ人殲滅の被害を被ったユダヤ人がイスラエルでパレスチナ人達の土地を奪い殺戮行為を繰り返す。それはベトナムでも繰り返された構造と同じだ。人間は歴史から学ばない。進歩とは共同幻想でしかない。

 デモには英国、日本の外交官も参加したらしい。「占領軍による一般市民殺傷のニュースも日常茶飯事。これが天下の超大国のお墨付きで横行し、抗議の声は世界に届かない」と師岡さんは嘆く。

 しかし、奴隷制度の残滓を未だに残す〈超大国〉の罪は〈世界法廷〉で裁かれねばならぬ。

| | コメント (0)

世界法廷を機能させよ

 きょうは先日友人のI くんに差し入れてもらった文庫を読み喝を入れる。マルコムXの演説だ。『アメリカの黒人演説集』(荒このみ編訳 岩波文庫 2008年11月14日)所収。暗殺される一年たらず前、1964年4月3日、オハイオ州クリーヴランドのコリー・メソディスト教会で行われた。「The Ballot or the Bullet」(投票権か弾丸か)というタイトルだ。かつてスパイク・リー監督の『マルコムX』を観てから参考文献を幾つか読んだ。その中にこの文庫はなかった。よい機会だ。アメリカ全土で黒人差別反対運動が継続している。暢気な日本人でいるわけにもいかない。この体調でデモに行くわけにもいかないが、共闘の思考だけは表明したい。

 映画の中で主演のデンゼル・ワシントンが演説する。「デモクラシー(民主主義)なんて姿を変えたヒポクラシー(偽善)だ」。それはこの文庫でも確認した。マルコムXの演説は痛烈だ。それは人種差別なかんずく黒人差別の国、アンクル・サム(アメリカ政府)の国の歴史を抉り告発、弾劾する。それがタイトルに集約されている。

 「そうだ。私はアメリカ人ではない。アメリカ二ズムの犠牲者、二千二百万人の黒人の一人だ。民主主義なんて姿を変えた偽善だ。私は今、アメリカ人としてあなたがたの前に立ってはいない。愛国主義者、国旗敬礼者でも旗振り扇動家でもない。とんでもない。私はアメリカン・システムの犠牲者として話している。犠牲者の目でアメリカを見ている。アメリカの夢など見ていない。アメリカの悪夢を見ている」(同書p291)。

 マルコムXは、このアメリカの罪を人権無視の罪として世界法廷に提訴しようとした。世界法廷とは国連である。国連の無力は歴史が証明している。しかし、カントや賢人たちが追求したモデルとしての世界法廷は実現なかばとしても諦めることは許されない。共闘の声、怒りの声を挙げようではないか。真の世界法廷の実現を目指し。

| | コメント (0)

2020年6月23日 (火)

鎌田氏の含意

 東京新聞〈本音のコラム〉火曜日は、ルポライター鎌田慧氏。タイトルは「沖縄の命は大切」。本文は、安倍、橋下のネット番組に対するコメント、秋田と山口の〈陸上イージス〉への揶揄。最後の文章が表題。

 ここには、アメリカでのフロイドさん圧殺死に対する全米規模のデモのプラカードにあったという〈黒人の命も大切〉という文言に対する鎌田氏なりの批判がありはしないか。

 アカショウビンは強烈な違和感と憤りを感じた。「も」とは何か。黒人の命も?ふざけては困る。それでは白人の命が優先で黒人の命はその次という事になる。そんな馬鹿な事がまかり通るのがアメリカ白人社会という赤恥を晒している。それに鈍感という事は人権意識がない、という事である。多くの日本人もそうではないのか。 

 沖縄戦で殺された県民は約九万四千人。国籍、軍民を問わない犠牲者は、24万1593人と新聞は伝えている。心から哀悼し追悼する。

| | コメント (0)

2020年6月22日 (月)

プラネタリー・ヘルス

 アフリカなど、途上国の感染症対策にとりくんでいる医師・国井 修さんが主張する概念である。現在の地球に喫緊な対策ということだ。耳傾けるべし。全身全霊で受けとめ理解すべし。

 これ以上、地球を傷つけ、痛めつけ、汚すな、という主張とアカショウビンは解する。それは環境論や地球に優しいなどと、歯の浮いた議論などではない。人間という不気味だが、時に霊妙ともなる不可思議な生き物の、地球での害毒について和辻哲郎の説く風土、水土と共に本質的、根源的思索を全開にし駆動させ考え抜くという事だ。

 本日の東京新聞〈こちらの特報部〉の記事は熟読した。さらに考えるべし。

| | コメント (0)

大義名分

 先週土曜日の東京新聞〈本音のコラム〉師岡カリーマさんの記事について。

 自ら命を絶った、サラ・ヘガーズィーさん三十歳を追い込んださまざまな要因のうち、エジプトの愛国や信仰を掲げる人々が実名で〈断罪〉する理由が、「社会を堕落から守るという大義名分」であるらしい。

 同性愛者が社会を堕落させる、という根拠はあるまい。それはカリーマさんも書いているように宗教的禁忌だ。それが理由で社会が堕落した例があるとでもいうのか。それは物語の世界だ。中東社会だけでなくキリスト教社会も社会が向ける目は厳しい筈だ。というより、彼ら彼女たちからすれば残酷なのだ。

 〈大義名分〉で人間どもは争い、殺し合い、挙げ句の果てが戦争だ。歴史は、優れた知性がその打開、活路、理念を提示してきた。しかし、人間というエゴイスト、身勝手で、矮小な生き物はたかが知れている知とずる賢さでこの惑星に蔓延ってきた。そのツケが回ってきているのだ。その危機感に鈍感である事は正しく死活問題である。

| | コメント (0)

ふりかけ

 今朝の食事は数日ぶりに全部食べられた。おかゆ、ハム野菜ソテー、白菜煮浸し、味噌汁、それにふりかけ。これまでも、ふりかけは何度かでた筈だがパスしていた。しかし、今朝は興味本位でトライ。何とメーカーは熊本市の企業。原材料は、入り胡麻(国内製造)鯖、鰯、鰹の削り節ほか。魚は、天草、水俣産というわけでもなかろう。天草、水俣の海も穏やかなことだろう。しかし、水俣病の患者、遺族の皆さんの差別と闘いは継続されている筈だ。歴史の隠蔽、改竄は許されない。いずれ、世界の何処かでミナマタ病が発生する事がある。その時のために資料と闘いの歴史が参考になる筈だ。

 ふりかけから、思わぬ記憶にワープした。石牟礼道子さんの作品にもご無沙汰して久しい。渡辺京二さんは、お元気か。

| | コメント (0)

2020年6月20日 (土)

あからさまな挑発

 19日は南北戦争に勝った北軍が南部テキサス州で最後の奴隷を解放した記念日。トランプは、この日に南部オクラホマ州タルサで大統領選に向けた支持者集会を再開する予定だったという。何とタルサは1921年、白人による黒人虐殺事件が起きた現場という。今回の全米規模の抗議デモは、このようなあからさまな挑発に激怒する黒人だけでなく、ジェネレーションZと称される若い白人たちも多く参加しているという。

 すでに『私はあなたのニグロではない』という作品で、ラウル・ペック監督は、米国での黒人差別を痛烈に弾劾、告発した。既に何度も映画化、映像化されているテーマだろうが、監督の視点、歴史の再構成は新鮮で強烈だった。監督の視野、視界は今回の抗議デモを予測する歴史的視野と未来を予測する知性を有する。

 アカショウビンは、先日、スパイク・リー監督の『マルコムX』を久しぶりに観た。マルコムが、師に反旗を翻し教団を脱退する。師が子孫を残すため、教団の女性を孕ませたことに激昂したのだ。その後、マルコムはメッカに巡礼する。その砂漠の地の美しさは、デビット・リーン監督が描いた『アラビアのロレンス』のワンシーンを思い出した。ロレンスという英国人は、この砂漠の美しさに魅入られた一人の西洋人だった。マルコムの見た砂漠は、どのように脳裏に刻まれただろうか。このメッカ巡礼を機にマルコムに転機が訪れる。しかし、歴史はこの宗教的・政治的闘士のさらなる成熟と長寿をゆるさない。これを観ても米国という国家が担う負の遺産の重さに暗澹となる。

| | コメント (0)

あなたはとてつもなく残酷だった

 自ら命を絶ったエジプト人女性、サラ・ヘガーズィーさんの最後のメッセージだ。今朝の東京新聞〈本音のコラム〉(25面)で、師岡カリーマさんが書いている。性的少数者の活動家で三十歳。宗教的禁忌とみなされる同性愛に、中東社会が向ける目は非常に厳しい、とカリーマさんは書く。その中でサラさんはカミングアウトし、無防備なまでに自らの思考をさらけ出し、理解と歩み寄りを呼びかけた、という。表題の後に続く文章は、「でも私は許す」。それが哀切を極める。「あなた」とは〈世界〉である。その絶望の深さは計り知れない。

 是非、記事の詳細はカリーマさんの文章を、お読み頂きたい。アカショウビンは、彼女のコラムのファンで楽しみにしている。

| | コメント (0)

2020年6月 6日 (土)

憤り

 ジャズマンのエピソードには黒人差別・人種差別の実態がいくらでも出てくる。ナット・ヘントフの先の著書ではデューク・エリントン、ビリー・ホリデイ、チャールズ・ミンガス、マイルス・ディヴィス、オーネット・コールマンなどの体験がヘントフによって記されている。加えてマイルスの自伝にも赤裸々な体験が残されている。ミンガスやマイルスのように戦闘的なミュージシャンはともかく、殴られても無抵抗を貫くジャズマンも多かったのだ。アメリカ合州(衆ではなく、かつて小田  実が主張した指摘にアカショウビンも従う)国という国家の歴史の現在には奴隷制度という経験が遺伝子のように、あるいは現在の白人たちの無意識に残されて時に何かのきっかけで意識と行為・行動に噴出するのだ。この国が背負うものの、仏教でいえば業の如きものの重圧は外国人にはわからないと思われる。しかし、憤りは共有できる。ヘントフが引用しているチャールズ・ミンガスの言葉を改めて肝に命じよう。

「私はジャズを通して、自分が感じるままに曲を書いたり、演奏したりしている。それが新しかろうとなかろうと関係ない。音楽は感情表現の言語なのだ。現実逃避してしまうような人間には、私の音楽を理解してもらおうとは思わない・・・私の音楽は生きていて、生と死、善と悪についてのものなのだ。それは憤りであり、憤りがあるからこそ本物なのだ」(p42)。

| | コメント (0)

2020年6月 2日 (火)

三人の力が生み出すもの

 毎年長野県松本市で開催される小澤征爾氏を中心にしたサイトウ・キネン・オーケストラの演奏会に何年か前、ジャズ・ピアニストの大西順子トリオが参加したことがあった。NHKが特番を制作し、アカショウビンは友人が録画して送ってくださったDVDを何度も観て飽きない。それは楽しくも見事なジョイント・コンサートだった。先日はジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリらフランス・ホット・クラブ五重奏団の録音を終日聴いて飽きなかった。好きな音楽というのは不思議な魅力を持っているのである。昨年からはビル・エヴァンスのトリオやデュオ、ソロ演奏の録音を聴き続けて飽きない。

 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンにもピアノ・トリオがあるけれども、こちらはヴァイオリンとチェロである。ジャズのベース、ドラムスとは楽器が異なる。この違いは決定的に限りない隔たりを有するように思える。クラシックの場合、基本にあるのは協調だが、ジャズの場合、三つの楽器の個性のぶつかり合いに緊張の火花が信じられないような奇跡的とも思われる瞬間を生む。ビル・エヴァンスのトリオ演奏の録音を聴く楽しみは、そこにある。

 鼎談という形式がある。入院中に読み直した、『野の道での会話』所収の「アンキバシエー 科学者と学者と賢人の野の道での鼎談」がそうである。といっても架空の会話なのだが。なぜハイデッガーは、その形式を選んだのか。その理由はともかく、敗戦の屈辱の中で、自らの思索を継続するうえで、その形式がもっともふさわしいと考えたのだろう。そこには難解とはいえ、ある明快さがあった。その形式でなければ明らかにならない何かがあると思われる。

 それはともかく、ビル・エヴァンスのトリオ演奏が発するオーラというかエネルギーの噴出と静謐には、ひたすら恐れ入るしかない。当時の褒め言葉で言えばヒップで絶品だ。現在も世界各地のジャズ・クラブでピアノ・トリオの演奏は行われているだろう。しかし、芸の世界はピンキリである。そして時代の空気というものもある。ハイデッガーが記したのはドイツ敗戦の年であり、ビル・エヴァンスが活躍したのは1950年代後半からの三十余年である。今やジャズというジャンル自体が存続しているのか、また時代とどれほど切り結んでいるのか。しかし、三人の白熱した演奏や議論が生み出す不可思議な力は現在も時を超えて存在している筈だ。いつか、そういう場に居合わせる幸いのあらんことを祈りつつ。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧