2006年6月27日 (火)

運命の垂直的超越

 フーコーの先の書物の中で彼がビンスワンガーの「現象学的なスタイルの分析」を論評して次のように述べるところは興味深い。

 「悲劇的表現の軸が位置づけられるのは、実存の垂直軸の上にである。悲劇的運動は、常に垂直と落下に関するものであり、その運動の特権的な印を帯びた点とは、上昇の動きが転落の寸前で停止し、微かに揺れうごく均衡が達成される点である。(中略)悲劇の役割とは、運命の垂直的超越を顕現するものだからである」(「フーコー・コレクションⅠ狂気・理性」2006年5月10日 ちくま学芸文庫 「ビンスワンガーの『夢と実存』への序論」p83)。

 続けて次のように言う。

 悲劇的表現、叙事詩的表現、叙情詩的表現のそれぞれに固有な構造には、したがって、人間学的な基礎が存在するのである。(同書p84)

 さらにこう言う。

 われわれが考慮すべき唯一の問いに立ち戻ることにしよう。それは、実存の全歴史の人間学的構造といったものを形づくる、それらの実存の本質的方向性はどのように構成されるのかという問いである。(同書p84)

 おそらく、フーコーの後期の思想の展開の契機とも出発点ともなった一つの問いが、ここに提示されていると思う。それはハイデガーの存在論とも、保田與重郎が人麻呂の挽歌を通して説く思想とも呼応している。

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2006年6月23日 (金)

頭蓋骨に打ち込まれる鉄道線路

 ミシェル・フーコーがビンスワンガーの「夢と実存」という著作を分析したなかでタイトルの症例が紹介されている。ビンスワンガーが報告している患者は次のような話をしたという。(「精神病理学における空間問題」1933年2月24日 『神経学精神医学年報」所収)

 「ベッドに横たわると、部屋の窓のむこうに見える鉄道線路の一部分が、地平線からはずれて部屋の中に闖入し、部屋を横切って自分の頭蓋骨に穴をあけ、杭のように脳に打ち込まれるという思いにとらわれる」。(「フーコー・コレクションⅠ狂気・理性」2006年5月10日 ちくま学芸文庫 「ビンスワンガーの『夢と実存』への序論」p77)。

 この症例は、先日観た「茶の味」(2003年 石井克人監督)という映画作品で逆の姿で現れる。こちらでは、主人公の少年の額から電車が出てくるという映像で。脚本も書いた石井監督は、おそらくビンスワンガーのこの報告を、直接にか、あるいはフーコーの著作を通してか読んでいると思われる。それは唐突なアイデアと思われたが、なるほど根拠のある設定なのだな、と納得した。

 フーコーの論考は1954年に出版されたものである。その頃の一連の論文を読むと、明らかにハイデガーの存在論を視野に入れて思索する人物がそこにいる。フーコーはドイツ語に堪能で、ハイデガーの影響と思われるが若い頃からヘルダーリンの詩にもかなり親しんでいる。そのフーコーが、代表作の「言葉と物」、「狂気の歴史」、「性の歴史」を発表したあと最後はエイズで死ぬという事実はとても象徴的なことのように思う。

   第二次世界大戦のあとの世界はナチズムや広島・長崎への原爆投下という人類に突きつけられた新たな問いに回答を迫られるなかで、実に様々な答えが洋の東西で提出された。その中でフーコーの著作はハイデガーやヤスパース、レヴィナスの著作と並び高峰のように屹立している。「言葉と物」は難解だが、それに至る初期の論考は彼の全貌を知るうえで興味深い足跡が読みとれる。

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