2016年1月15日 (金)

忘却と想起

 先の辺見 庸氏(以下、敬称は略させて頂く)の 『1★9★3★7』(辺見 庸著 2015年10月27日 株式会社金曜日)で紹介されていた堀田善衛の『時間』(2015年11月15日・岩波現代文庫)と『汝の母を!』(昭和46年9月20日・武田泰淳全集第5巻・筑摩書房)を読み終えた。岩波版には辺見が解説を書き堀田作品の新たな解読を読者に促している。それは現在の若い読者に歴史を省みることも促す。

 またアカショウビンは本日の国会中継を散見し、此の国の現在を自らの生を省みながら再考、再々考する。それにしても辺見と同じく暗澹たる思いに浸らざるをえない。それは、辺見の同書と堀田、武田の作品を読み感ずる気持である。戦争とは時にのんびりとした日常でもあり時に異常な凄惨さも生じ、人間の本質が問われる場でもある。その模様が武田の小説にも堀田の小説にも描出される。

 虐殺、放火、略奪、強姦する日本軍(皇軍)の、その場に自分がいたとしたら、と辺見は思索する。それは父親の過去を通して。堀田の作品が戦後の〝自由〟な言論の中で誹謗、中傷されたのでないかと現在の政治状況も加味し危惧するが、戦後十数年、高度成長の活気のなかで、幸か不幸か、それほどの話題にもならなかったことに辺見は複雑な思いにもなったことだろう。それは苛烈で酷薄な歴史事実に対し当時と現在の状況の変貌によってその歴史事実が新たな相貌で現在に問いかけている事を辺見は指摘する。その問いにアカショウビンも同意する。同作が最後に仄明るい希望を託しているところに幽かな希望の如き光が射す思いに駆られた。そこには堀田の哲学的な洞察も込められている。それは改めて熟考しなければならない領域である。しかし現在を見れば忘却と隠蔽は明らかだ。新たな想起が必要だ。

 この著書だけでなく辺見の洞察、危惧は一連の著作に明らかである。辺見の視角からすれば、現在の政治状況は、此の国で既に戦争は始まっている、のだ。それはアカショウビンの視角では、悪とは何か?という問いになる。抽象的だが歴史事実を省みれば人間の本質にかかわる問いが発されるのではないか。それは文学・思想・哲学を超えて人間という生き物が思索・考察しなければならぬ問いである。それは洋の東西南北を超えて此の惑星で生きる生き物が人間という制約を超えて思考すべき領域である。

 堀田は此の作品になぜ『時間』という表題を付けたのか。それは出版社や周辺の人たちの意向もはたらいただろう。しかし内容は中国の南京で起きた歴史事実である。それを堀田は日本人ではなく自らを中国人に置き換えて書いた。出版された1955年当時の評価を辺見は加味しながら、その当時と現在の状況の変化を憂える。その感想と解説にアカショウビンも共感する。我々が生きている現実は辺見の言うように呆気にとられるほど変貌・変質している。多くの国民はそれに疎いのではないか?辺見の憤りと怒りはこの著作に横溢している。しかし、日本国民はあまりにもノホホンとしている。その現実に、あなたやわたしは気付かないだろうか?そうであれ、そうでないにしろ、過去と現在は現実に変貌する、あるいは変貌している。

 辺見が紹介している武田の作品は開高 健が解説を書いている。開高が若い頃から武田の読者だったことは初めて知った。その幾らか晦渋な解説の文章のなかには開高の先輩作家への畏敬を込めた真摯な気持ちが読み取られる。それを辺見は読み、開高の文章に違和感をもつのだろう。それは現在の読者が、それぞれ沈思、熟考、黙考すべきことだ。

 それにしても、過去と現在の日本人の歴史事実に対する、あまりにも能天気ぶりには我が身を含めて再考、再々考しなければならないことを痛感する。その暗澹たる思いに浸るのは辺見ばかりではなく、幾らかのニッポンジンもいることを期待するのだが。

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2015年12月15日 (火)

歴史を書物と映画で辿る

  『1★9★3★7』(辺見 庸 著 2015年10月27日 株式会社金曜日)は序章、終章を含めて全9章から成る。それぞれの見出しが辺見氏(以下、敬称は略させて頂く)のこれまでの著作の主題を彷彿させる。前書きのタイトルは、いま記憶の「墓をあばく」ことについて。以下、次の通り。序章 よみがえる亡霊 ①屍体のスペクタクル②非道徳的道徳国家の所業③かき消えた「なぜ?」④静謐(せいひつ)と癇症(かんしょう)⑤ファシストと「脂瞼(しけん)」⑥過去のなかの未来⑦コノオドロクベキジタイハナニヲ?終章 未来に過去がやってくる

 辺見の読者でなければ、興味のある、そのいずれかでも読みだせば著者の歴史事実・歴史意識・歴史認識、へのスタンスがわかる。主題は1937年の南京大虐殺である。この年来の歴史事実に対して戦後の東京裁判いらい1970年代には特に、あの大戦の日本の動向が改めて世界の注目を集めた。国内では左右の論壇を含めて社会的な話題になった。高校から大学の頃は同窓生の間でも。映画ファンには名匠、小津安二郎監督批判が第4章「静謐と癇症」で述べられている。もちろん、それは辺見の先の大戦への変わらぬスタンスの一環としてである。それを前提として読者は辺見の視角に対して自論を述べねばならない。各章も然りである。その基本姿勢にアカショウビンは同意し小津擁護、小津批判のコメントも加えるつもりである。

 先日は『この子を残して』という木下恵介監督の1983年の作品をレンタルDVDで見た。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が来日しヒロシマでスピーチしたシーンが冒頭に出てくる。あの日の広島は雪が降りしきっていたのだ。そこで教皇は「過去を振り返ることは将来に対する責任をになうことです」というメッセージを会場を通して世界に伝えた。

 原作は永井 隆医師の生涯と作品を元にしている。当時の長崎に棲み原爆を生き残り、戦後昭和26年まで生き抜いた。その体験を出版しようとしたがGHQの検閲で多くの著作は死後になった。二人の残された長男、長女への深い愛情が切ない。医師としての責任感は原爆の科学的データとして後世に残した。作品は長崎市民を地獄のどん底に突き落とした悲惨を当時を再現するセットで日本人の執念のように描いた。主演は加藤 剛、十朱幸代、淡島千景ほか。木下監督の意気込みが伝わる作品である。若い大竹しのぶも出演している。主演はじめ出演者も監督の気迫に応えている様子が伝わる。ここにも先日少し書いた新作『母と暮せば』を完成させた山田洋次監督の先達、黒沢 明監督、新藤兼人監督、今村昌平監督、黒木和雄監督たちの、歴史事実にこだわる意志がある。辺見の著作と共に歴史を現在に反照させる作品だ。これも若い人たちはじめ内外の多くの人々に見て頂きたい。

 辺見の著書についてはアカショウビンも更に逐次コメントしていく。

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2015年5月 3日 (日)

新聞記事から

 毎日新聞の1日夕刊で下重暁子さんに取材している。アカショウビンには懐かしい人だ。子供の頃にNHKテレビで美しいお姿を見ることが楽しみだった。あだ名を「マダム・ソレイユ」ということは初めて知った。79歳の現在も白の大島紬を着られた姿が美しい。現在のNHK会長をめぐる騒動とは遥か昔の女性アナウンサーの元祖である。いまでは思いも及ばない当時の職業女性の新たな生き方が「私たちの時代は大学を出ても女性の就職先なんかほとんどない。新聞社もとってくれないし、出版社もそう。NHKもアナウンサーとしてだけとってくれたんです」という言葉が当時の就職差別を想像させる。NHKは9年で退社。物書きへの夢をあきらめられず、母校では江戸文学の泰斗、暉峻康(てるおかやすたか)氏の講義を最前列で聴いた。氏は下重さんが社会人になってからも句会に誘った。師から俳句を送られ「動物はけがをすれば自分の舌でなめて治す。人生、甘えちゃいけないんだ。ハッとしましたね」と言う。「先生からは、おまえの句は頭でつくるから色気がない」と言われ苦笑い。30代、40代、50代気の合う作家らと新宿あたりを飲み歩く酒好きだ。近松らしい「恋といふもの男も身をかばうてなるものか」という言葉に、「ときめく人はそれなりにいます」と話し若い人でも20~30歳下の人たちの付き合いを楽しんでいるご様子。キューバから帰ってきたばかりという元気さ。軍事だった父親との確執を小説にする構想もすすめているらしい。中高年も若い世代に負けてはいられない。われわれが来ている時代の歴史は彼らにつたえていく義務がある。

 別面には水俣病の記事がある。水俣病公式確認から59年。2008年に69歳で亡くなった杉本栄子さんを母にもつ肇氏を取材した記事だ。今なお認定結果を待つ患者は熊本県で1007人、鹿児島に548人いるという。あの公害闘争は石牟礼道子さんの作品などを通じてアカショウビンも現在まで継続している。石牟礼さんも、お元気のご様子。水俣地方の方言で水俣病は「天からの授かりもの」と呼ばれていることを初めて知った。ここに人間という生き物がハイデガーが晩年に説いた〝四方界〟という独特の概念が共振する。人間は、この惑星の中で異なる地域の人々と呼応する存在だ。

 水俣の悲劇は、ジャーナリスト達のレポートによれば地球の裏側で繰り返されている。ネットなどで情報は以前と比べられなないほど速くなっている。そこでは千差万別の情報が知られる。しかし肝心なのは現実の私たち、ハイデガーの説く〝現存在〟という用語と共振してわれわれの行為と関連させなければならない。国家と国民の関係性はミナマタから原発への賛否まで人間とこの惑星での動きに熟考を迫る。

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2014年5月20日 (火)

広島の原爆ドームと平和記念館を訪れる

 原爆ドームから記念館まで歩いていたら、途中に草野心平が1978年8月に訪れた時に記した石碑がある。

  天心の三日月の上に

  幻でない母と子の像

 これこそ永遠の平和の象徴

 童子よ母の愛につつまれて

 金のトランペット吹き鳴らせ

 天にも地にも透明な

 平和の調べ吹きおくれ

 どんな未来がこようとも

 頬っぺいっぱいふくらまし

 No・more・irosimaの

 金のトランペット吹き

 鳴らせ

 記念館に至る間には巨大な蘇鉄が植わっている。陽が高くなる前の空気は少し肌寒いくらいだ。生き残った被爆者の多くの人々があの記憶を思い出したくないと言う。何と当日の写真は3枚しかない。新聞記者が撮ったものという。映像は一切残っていない。

 最近の「美味(おい)しんぼ」論争でも同様に、そのような苛烈な記憶を脳裏から消し去りたいというのは先の大戦で殺し合いの現場を経験した兵士達にも同じだ。しかし人の業はそれを許さない。それは懊悩とも悶絶ともいった言葉では尽くせないが人が記述する言葉でその文を介して苛酷な体験が書き残せる。なぜなら、人という生き物は、あるいは存在は言葉という家に棲むからだ。そこで全精神を最大限に働かせて究極まで辿りつこうという意志と辛苦が不可欠なのだ。

 次に、峠 三吉の詩を写す。1963年8月6日 三宅一子

 ちちをかえせ ははをかえせ

 としよりをかえせこどもをかえせ

 わたしをかえせ わたしにつながる

 にんげんをかえせ

 にんげんのあるかぎり

 くずれぬへいわを

 へいわをかえせ

 この叫びを心底から聴き取らねばならぬ。そこには聴く者の想像力が試される。

 snokeyさんのご教示で黒字を修正させて頂いた。ありがとうございます。心から感謝し、御礼申しあげます。

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2013年8月16日 (金)

敗戦の日に

 昨日は新宿まで宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観に出かけた。昼の回を観て新聞やネットで感想を書くつもりだったが、アルコールをチビチビ飲んでいるとグズグズして間に合わず。夕方の回に間に合わせるように出かけた。ところが既に満席。午後6時55分の回しか空いてないという。仕方なく、その回の席を予約した。花園神社や周辺を周遊し時間を潰した。

 毎日新聞の夕刊には「家族の絆 確かめ」の首見出しと「新婚の夫戦死 遺族代表追悼」の白抜きで遠矢みち子さん(92)の記事が掲載されている。一人息子とのお写真からそのお歳とは思えない。みち子さんは東京のお生まれ。職場で机を並べたご主人は鹿児島出身。上司にも堂々と意見をする姿に惹かれ44年2月に結婚。夫にはすぐに応集令状が届き、出征。同年の末に陸軍鹿児島連隊へ配属され公務から東京に戻りしばらく滞在。夫が連隊に戻って、新たな命を授かったと手紙を書いたけれども返事は来ず、45年3月、乗っていた徴用船が米国の攻撃を受け撃沈。最愛の夫を失った経緯が記されていた。

 その場所が奄美大島の久慈湾と書かれていた。奄美出身の私には恥ずかしながら未知の地名で先ほどネットの地図で確認した。そこは作家の島尾敏雄が駐屯していた加計呂麻島と10数キロくらいの場所だ。島尾(以下、敬称は略させて頂く)は震洋という特攻艇の隊長だった。それを考慮すると米軍は沖縄・奄美を経て本土へ攻め込む作戦の渦中にあり、その足場を探索していたのであろう。アカショウビンの母も祖父と徳之島から大島の名瀬に向かう船で米軍機の攻撃を受け九死に一生を得ている。そのような事も思い出され遠矢さんのご主人の死に思いを馳せたのである。

 戦死公報が届いたのは44年の11月。一人息子の出生届けを出した日だったという。人の一生というのは何と数奇なものなのだろう。孝行息子は大学を出て国家公務員に。ところが、働き始めて数ヵ月後、酔って帰り「父の写真をたたいて泣いた。『なんでお袋と俺を残して死んだ。一緒に酒を飲みたかった』。眠り込んだ勝美さんの姿を観て、みち子さんも涙を流した」と記事は伝えている。

 アカショウビンと遺族、作家、画家は故郷の土地を介して僅かの接点を持つ。その事に68年という時を超えて何事かが共振する。その事が此の世を生きる縁のようなものである。昨夜から今朝にかけてはNHKテレビで報道番組、「あまちゃん」のダイジェスト版を観て過ぎた。「風立ちぬ」の感想を書かねばならないが、少し床に就き就活にも取り組まねばならない。

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2013年6月 3日 (月)

忘却と無関心

 米軍基地の移転やオスプレイ配備で関心が高まっているにも関わらず多くの日本人が沖縄の過去と現在に無関心である以上に奄美が日本国に〝復帰〟して60年が経過したという歴史の区切りも同様であるだろう。

 先日、故郷の高校の関東在住者の集まりが上野であり、幹事を務めている中学以来の友人であるI君のお取り計らいで飛び入りで参加した。小学校や中学の同窓生に合えるかもしれない期待があった。I君と会うのは昨年10月に品川で行われた同会の二次会、三次会以来。ところが他の面子は都内在住の中学時代のマドンナは不参加。小学校の同窓生のHさんとは、やはり品川以来。この時期に開催するのは復帰60年という節目に合わせてのことだろう。懇親会では卒業生たちが様々な余興で舞台を賑わした。アカショウビンも〝日本復帰の歌〟をI君たちと歌った。

 奄美が日本国の敗戦による信託統治下にあり、それから日本国に復帰したのが昭和28年であった歴史を多くの日本国民は知らないだろう。同会に参加した同郷の若い諸君も恐らく初めて知る人が多いと思われる。しかし敗戦後、8年の間、奄美は米軍の支配下にあった。それが昭和28年12月25日に〝クリスマス・プレゼント〟として日本国に返還されたのだ。その復帰運動に関わった高齢者の何人かが総会に参加されていた。アカショウビンの父親も生きていればその人々と同じ年齢になる。

 復帰までの奄美の状況を父から少し聞いたことがある。信託統治下で内地に渡ることは密航である。満州帰りの20代の父はバイクでパルプ運びやいろいろな仕事で糊口を凌いだ。母と結婚したのは印刷業に従事していた母の祖父との縁であるらしい。伯父と共に印刷業に従事した父はやがて独立する。当時は活版印刷の時代。活字や機械を設備するために内地に渡った話を聞いたことがある。父はその後、伯父とは別に会社を興し家族を作り一家を成し復帰後を生きた。その生き様は日本国の〝歴史〟には記載されない。 

 先日の同郷の人々との出会いは、復帰後を生きた高齢者や当時の状況を知らないアカショウビンや若い同郷者たちに改めて過去を振り返る機縁の如きものを看取させた。奄美はともかく、その後に〝復帰〟した沖縄は未だ米軍が支配する基地の島として米国の支配下にある。敗戦という歴史事実は沖縄で苛酷な現実として払拭されていない。それが尖閣問題を契機として大国の政争の具とされる。歴史の彼方と現在は通底している。歴史の彼方は歴史の今であることに愚考を重ねることは現在を生きるうえで幾らかの果実をもたらすかもしれない。それには61年前の歴史事実に想像力を励起することだ。

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2013年4月 3日 (水)

1945年4月7日

 戦艦大和が米軍によって轟沈させられた日である。今朝の毎日新聞朝刊(10面)で記者がコラムを書いている。生き残りの乗員と2006年の秋、新聞社の飛行機で現場を訪れたという。乗員は、最初は取材を拒否したが、記者のたっての願いを受け入れ共に機内から海を臨み乗員は敬礼したと書いている。記者は特攻の生還者23人に取材し話を聞いた。「あんただけ生き残って」となじられた話も聞かされた。その乗員も昨年3月に86歳で亡くなられたという。

 記者は、「そう、遠くない将来、戦争体験者へのまとまった取材はできなくなるだろう。誰かが残さなければ『なかったことに』なってしまう記憶を、歴史に記録し続けたいと思う」と記事を締めくくっている。

 アカショウビンは学生の頃に吉田満氏の「戦艦大和の最期」を読み痛烈な刺激を受けた。艦長付きの若い吉田氏は戦闘状況を逐一記録した。そして沈没の直前、自らの身体を舵に括りつけ艦と沈む覚悟の操舵長に、私もご一緒させてください、と願うと操舵長は、おまえは生き延びろ、そしてこの戦いを報告せよ、と一喝される。奇跡的に吉田氏は生き残った。その記録は苛烈な戦闘報告書である。読む者は襟を正さざるをえない。

 青梅の疎開宅で、小林秀雄の仲介で吉田氏と会った吉川英治は、はらはらと涙を流し小林に出版の労を願ったと書かれた小林の文章はかつて読んだ。米軍の波状攻撃で嬲り殺しにあった大和乗員3332人の戦闘は吉田氏の筆で後世に残された。アカショウビンは戦後の吉田氏の著作も読み、先の大戦の或る戦闘状況に思いを馳せる。毎日の記事を読み、沖縄の現状と共に改めて沖縄戦の過酷も辿りたい。

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2012年8月19日 (日)

ホロコースト・ショアー

 新藤兼人監督の「さくら隊散る」が公開されたのは1988年。それを初めて観たのは数年前にレンタルDVDだった。フィルムセンターの特集で「裸の島」を観て以来、新藤作品は黒沢や小津のような巨匠たちとは異なる興趣を掻き立てられる作品だった。それは監督が広島の出身で、原爆で姉を亡くした経験を持つことも要因の一つだ。それは映画監督として生涯を通じて間歇的に作品化されている。「さくら~」もそのひとつである。しかしそれは物語ではなく広島で被災し全滅した移動演劇集団である桜隊の役者達を知る役者たちへのインタビューと当時の現状を想像し映像化するという構成になっている。亡くなった役者たちと親交のあった役者たちが死者たちの人となりを語る。そこで或る記憶と歴史的現実が浮き彫りにされる。それは哀悼であり悲哀であり告発である。哀悼と悲哀はヒトという生き物に共通する感情だ。しかし告発は監督だけでなく国民として現在に生き残る者たちの憤怒であり責務である。

 2発の原爆はホロコーストでありショアーである。それはナチ政権下のドイツがユダヤ人を冷徹に殺戮した行為と共通する。その残忍さは戦争という政治交渉の結果である。しかし、そこには人間の<悪>が不気味な姿として現象している。ところが、それは人間達の意図した結果であるにも関わらず隠蔽される。その愚劣とキリスト教徒たちが「罪」と呼ぶ概念は彼らが負わなければならない。しかし果たしてどれほどの米国人がそれを自覚しているのか?多くの米国人たちが政治的言説で処理している。そこで新藤兼人の作品は、どれほど彼らの感情に届いているだろうか?多くは戦争の大義の偽名のもとに黙殺され隠蔽されているだろう。しかし時に深い共感が伝わることがある。原爆投下の2年後に生まれた女性が被爆した人々の衣服を写真で取った「作品」が彼の地の人々やスペイン、韓国人たちにも強い印象を与えていることをテレビ番組で知った。それは少数の人々であるだろう。しかし悲惨は衣服を介して間接的に想像的に伝わる。番組は、その事実を伝えていた。米国人たちは彼らが信奉するキリスト教徒たちが法を盾に残虐な行為を容認する。その法の根拠の真偽を問うことは恐らくない。それは真実を見ようとしない破廉恥である。

 かつて或る仏教教団のトップが原爆を落とした責任者は死刑にせよ、と喝破した。それは不殺生である筈の仏教徒としてあるまじき発言である。しかし、ヒロシマ、ナガサキの事実を知れば、それは当然の発言である。惨状はそれを伝えて余りある。余りとは何か?ヒトという生き物の不気味さである。仏教では<業>と称す。

 それは「時代の悪臭」と形容することもできよう。中東やシリアの現状は正にそれである。我が国では幕末から維新の時代に既に経験している。人間という生き物は崇高と裏腹にそういう存在である。「さくら隊散る」を再見して倦み疲れる日常に喝を入れられた。更に愚考を継続しなければならない。

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2012年2月25日 (土)

歴史事実とは何か

 「南京大虐殺」と呼称される、日本と中国の間の戦争の渦中に生じた「事件」は戦後の極東軍事裁判の中で指摘され、1970年代には朝日新聞の本多勝一記者が詳細を取材し朝日新聞の記事と本多氏の著作の中で公刊され物議を醸した。それは図式的に見れば左右両翼の論戦となった。それがまたぶり返したようだ。名古屋の市長が、こともあろうに南京市の関係者たちに公然と話したらしい。アカショウビンはこの男がどういう根拠で「南京大虐殺」という「事実」は無かったのでないか、と発言したか詳らかにしない。しかし、その軽率さは直感する。なぜなら、それは本多氏の取材と記事を読み、否定論者の論説も読んできた者として聞き捨てにできない。というより、都知事の軽薄と通底する、チンピラ的言辞の底の浅さを直感するからである。

 この40年近く、左右両翼の政治的立場と歴史事実への直視という狭間で、「南京大虐殺」という歴史事実は激論が交わされてきた。それはアカショウビンが確かめた論説、文献の中でも際立って特異な様相を帯びている。それは歴史事実の認識という争点を有する。「南京大虐殺」という事実は無かった、という主張は未だ存命か知らぬが鈴木 明氏の論説に「幻」として主張された。それは本多氏の記事と反論者の論説に眼を通してきた者にとって黒を白と見做す視点である。それは政治的意図を帯びた論説とも見做せる。名古屋市長の言説にも、その作為を看取する。その現場で、どのような論議があったかは詳らかにしない。しかし、それは意図したかどうか知らぬが、国家の「歴史認識」に関わる経緯に抵触する事であることを、名古屋市長が自覚していないようにも思われる。しかし、もしそうであったとしたら、事は二つの国家の歴史事実への認識という一人の市長の発言だけでは済まない領域に踏み込むことである。

 「南京事件」は恐らく歴史事実である。本多氏の記事・論説と否定論者の論説を比較するに事実は明らかである。しかし論争は、殺された人々の数で異なる。しかし、それは虐殺が有ったか無かったか、という問いをすり替えた論議である。少なくとも、本多氏の取材した事実を考慮すれば、それは厳然とした「事実」である。それを政治的意図で否定することは事実を直視しない無知と悪意に立脚する安直なチンピラ的妄言でしかない。

 人は目つきと話し振りを見れば、その人間の発言の底にある何事かはわかる。名古屋市の市長にしろ都知事にしろ、その姿と発言を検証すれば底の浅さと無知、不見識は明らかだ。当時の両陣営の論戦の激しさの根拠となっている死者の数は改めて南京市と日本側が検証すれば或る程度は明らかになる筈だ。それを有ったとか無いとかいうレベルで喋々すること自体が聞き読むに耐えないチンピラ的言辞である。

 それは極東軍事裁判やニュルンベルク裁判を介して戦争裁判の可否に関わってくる。しかし、権力を持った政治屋などがこぼす軽率とも軽薄と言うには、あまりにも発言する人物の品格と思想的背景が赤裸々にされる。それは、マスコミの政治的立場とか思想的立場を超えた事実への了解の位相の異なりである。しかしそれは哲学的な論議ではなく、事実の認識である。それに近似する議論はナチのユダヤ人虐殺の象徴であるアウシュヴィッツなどの強制収容所での大虐殺が有ったとか無かったとする論議と同様である。規模は違えど戦争という場は敵となった国の兵隊や国民を殺せと命じ、自国の異分子、反逆者を拘束し時に虐殺する。そこで、国家という体裁をとった集団の本質が剥き出しになる。日常では予想も出来ない行為に国家と称される権力は諾を下す。それを、見て見ぬふりをする発言は無知というより自らの幼稚さを公けに晒すことである。それは人間として仏教用語の「外道」という最大の侮辱語が事の顛末には相応しい。

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2011年6月25日 (土)

昭和20年の沖縄

 戦闘は終わっても地獄はそこここで現出していた。それは沖縄の現在に生きる人々が伝えている。新聞は23日を過ぎて歴史を忘れ新たな対象に飛びついている。震災、原発、放射能、政争と話題には事欠かない。しかし、現在の日本の繁栄と病弊、「天罰」が沖縄を犠牲にした上に築かれた、と回顧する論説に責任を持つなら、あるいは、そのような論説など知らぬところで我が世の夏を謳歌することに狂奔するなら国家と国民の存続などというものは虚像と虚構と幻想である。沖縄戦の戦闘の地獄は次のようなものである。無断引用で恐縮だが転載させて頂く。

 >夜、喜瀬武原の林道で、(照明弾で)突然明るくなって、明るくなると銃弾が撃ち込まれよったが、右足に貫通銃創を負った。(ふくらはぎの)肉を撃ち抜かれて、骨には当たらなかったから、身体障害者にならなくてすんだ。今も傷が残っている。
 足に触ったらヌルヌルする。臭いをかいだら血の臭いがした。弾が当たったと分かったら急に痛み出して、余りに痛くて立てなくなり、倒れた。他に子どもと女の人が撃たれた。子どもは尻から弾が入り腹の中で止まって、胃が破裂していた。
 (一緒にいた人たちが)三人を林道から民家に運んでくれた。翌朝、連れに来ると言っていたが、来ないのは分かっていた。子どもは翌朝死んだ。
 3日ぐらいして米軍がやってきた。最初は5、6名だったが、やがて30名ぐらいやって来た。様子を見て戻っていった。(残った)米兵が木を切ってきて、布団で担架を作って運んでくれた。
 最初は殺されると思っていた。ガムをくれよったが、もう丸飲み。米兵は親切だったが、中には睨みつける兵隊もいた。女の人も一緒だったから殺さなかったのかもしれない。一人だけだったら、あの睨みつけていた兵隊に撃たれていたかもしれない。捕虜になったのは6月の3日か4日だった。

 それは我が母が娘時代に祖父と共に徳之島から奄美大島の名瀬に渡る船が米軍機の攻撃を受けた時の船上の地獄でもある。「屠殺場のようだった」と振り返った記憶とそれは共振し記されている。

 国家の儀礼とは別に地元ではそれぞれの慰霊が行われているのをネットでは拝見できる。沖縄の地獄を踏み台にして二カ月の時を経て昭和20年、大日本帝国は二発の原爆で、この惑星に生じた新たな「科学技術」で新たな殺戮を経験し敗北したのだ。

 震災も原発事故も天災と人災の事実と負い目として国民が背負う歴史事実である。

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