2019年2月25日 (月)

加計呂麻島行③

 呑之浦は実に静かな入江だった。静寂を現実に戻すのは砂浜に寄せる水音だけ。途中まで舗装された道を越えて歩くと岩場に出る。奇岩の固まりがそこだけ異様でもある。そこからは遥かに奄美本島の古仁屋の街並みが見える。その間は大島海峡の外洋である。震洋艇もそこから敵艦への特攻を敢行する計画だったのだろう。今からすれば無謀というより唖然とする作戦というのもの愚かな命令だ。しかし、それが戦争である事に震洋隊183名は黙々と従った。その部下を率いたのが島尾隊長なのである。
 特攻艇震洋を格納する洞窟は今も残っている。映画撮影に作られたと思しき震洋のパプリカが残っていた。その奥は昼間でも暗く足元は土の固まりのデコボコである。外に出ると穏やかな入江の静謐が支配している。歴史と現実が共存している異空間とも言えるだろうか。
 舗装された道を戻る途中、左側にモニュメントのような物がある。それが島尾敏雄文学記念碑だった。坂を登り、森を刳り貫き建てた顕彰碑のなかには小川国夫氏の島尾評が刻されていた。島尾作品の抜書もある。それだけが、この入江であった歴史の何たるかを伝えている。
 冬に此の地を訪れ人も少ないのだろう。石碑の文字は薄汚れていた。周囲に生き物の気配はなかった。暫し土地の風光を浴びてEさんの待つ休憩所に戻った。

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2019年2月24日 (日)

加計呂麻島行②

 古仁屋に来たときの記憶は殆どない。母の郷里の徳之島から名瀬に戻るとき寄港したことがあったかもしれない。しかし、徳之島発の汽船が古仁屋に寄港するのは当時も今も殆どないだろう。名瀬に住む人も古仁屋に行くのは珍しい、とEさんも話していた。

 船を待つ中年の女性がいてEさんが話しかけた。女性は若いころ東京に出て結婚し離婚し大阪に移り住んだと言う。それから故郷の加計呂麻島に戻り今は年金暮らしと穏やかに話した。

 漁船は定刻の午後一時に古仁屋を出発した。アカショウビンは船尾に座り、去りゆく古仁屋の街並みを眺め、大島海峡を渡る海の香を嗅ぎながら短い船旅を過ごした。大島海峡は外洋である。或る時季は鯨も通過し、それを目当ての観光客も訪れるらしい。約20分の船旅で漁船は生間(いくんま)に到着した。瀬相のほうが吞之浦には近くかつて海軍基地もあったらしい少し大きな町のようだったが、帰りのフェリーの時間が遅く生間にした。ここも天然の良港なのだろう、港にはクルーズ船のような小型船が停泊していた。Eさんを待合所で待たせアカショウビンは少し離れたレンタカー店で車を借りに。ガソリン・スタンドもある小屋のような事務所に入ると中年男が応対してくれた。古仁屋で電話予約した時は女性の声だった。どうも唖らしい。用意された文書があり書き込み身ぶり手ぶりで手続きを済ませた。目的の吞之浦までは約15分らしい。

 古仁屋まではEさんの自家用車で来たのでこちらではアカショウビンが運転した。聞けばEさんは去年、仲間たちと加計呂麻島を訪れたらしい。島尾敏雄記念碑も立ち寄ったと言う。加計呂麻島のもう一つの漁港、瀬相に通じる道は曲がりくねった道路だった。ハンドルを右、左に辿ったが対向車はほとんどない。夏とちがって冬の奄美に観光客は来ないのだろう。うっかり通り過ぎようとした道をEさんの指示で脇道を右折した。そこから吞之浦に入るのだ。島尾敏雄文学記念碑と表示もされている。休憩所があり、Eさんは、そこで待っているというのでアカショウビンは一人で歩き震洋の基地跡へ向かった。

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2019年2月22日 (金)

加計呂麻島行①

 加計呂麻島に行くには奄美大島本島の西南に位置する古仁屋まで行く。かつての名瀬市、現在は奄美市から車で一時間余り。アカショウビンが子供の頃とは見違えるように舗装された道路とトンネルの多さに驚いた。Eさんは、かつての山道はアップダウンが急で車の転落事故も多かったと話す。夜にはハブが道路を横切ることもあった。それはアカショウビンも父の車でか通ったときに見た記憶がある。車で轢かれても簡単には死なないらしい。そのような記憶も甦り、午前中にホテルに迎えに来てくださったEさんの車に乗せてもらい奄美市を発った。ところが、日曜日でフェリーの時間が帰りは夕方六時半になるという。それでは遅すぎる。そこで観光案内所に相談すると午後一時に加計呂麻島に渡る漁船があるという。料金は350円。これ幸いと港でそれを待った。

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2019年1月22日 (火)

茂吉56歳

 昭和12年、斎藤茂吉56歳。帝国日本は南京陥落で意気あがる。マスコミ報道に国民は熱狂していただろう。茂吉も新聞記事で読み思索、創作の機縁を得たかも知れぬ。『寒雲』に、その日常が留められている。それを熟考しアカショウビンはきょうを凌ぐ。茂吉より10歳も年を経た。肉体労働で疲弊、消耗する。しかし、食い、飲み、聴き、書かなければならぬ。娑婆で生を全うするためには。働かざる者、食うべからずという。食わずに死を迎えることもできよう。しかし娑婆でし残した事は幾つかある。悟り得ず、娑婆の負債を帳尻合わすためには働かざるを得ず。

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2018年12月15日 (土)

あくがれいづる魂

 今朝の東京新聞“筆洗"は和泉式部の歌から書き出している。アカショウビンも先日観たルオー展で式部の歌が想い起こされた。理由は互いに異なる。しかし、この王朝歌人の歌は現在にも調べが何かを共有し挑発する力を持っているという事である。茂吉の歌も同じだ。歌とは詩魂であり何物かの魂なのである。それは言葉であり言霊である。
 アカショウビンが想い起こした式部の歌は、ものおもへば澤のほたるも我が身よりあくがれいづる玉かとぞみゆ。玉とは魂である。"筆洗“は、くらきよりくらき道にぞいりぬべき遥かに照らせ山の端の月。
 ルオーの作品を言葉にすれば、式部のあくがれかもしれない。恋する男とイエス、キリストへの対象の違いはあれど。

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2018年10月31日 (水)

茂吉考②

 茂吉の歌を読むときに塚本邦雄の解釈、論考は不可欠である。『赤光』の表題由来が浄土三部経であることは『茂吉秀歌』(1993年 講談社学術文庫)にある。仏説阿弥陀経の極楽の描写である。それで茂吉は第一句を詠んだ。北 杜夫こと次男、宗吉が父親のときに揶揄されると回顧する茂吉作品に多く現れる「しんしん」という表現がある歌である。

 ひた走るわが道暗ししんしんと堪えかねたるわが道くらし

 暗しとくらしの相違に作者の思いが込められているように思われる。それは青年茂吉が師の左千夫の死の報を知り込めた思いであろうからである。

 師弟の間に明滅する情愛、敬愛とは相克も経てかくの如きものであろう。それは他者には測り知られない深淵ともいえる。

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2018年10月 6日 (土)

茂吉考

 斎藤茂吉という歌人に興味を持ち始めたのがいつか定かでない。アカショウビンが中学生のころ面白く読んだのが茂吉の次男宗吉、北 杜夫の『船乗りクプクプの冒険』だったことから、教科書で茂吉の短歌を読んだのかもしれない。
 十年近く前、長く勤めた会社を辞め気儘な日々を過ごしていた。五十年余り生きられてひと区切り、鷗外のいう中仕切りの時だと思い、学生時代に棲んだ中野など縁あった場所を歩いた。そのとき仮店舗で古本の茂吉全集の何冊かが格安であった。悦び買い求めた。小さな業界紙を辞めたのは直腸ガンを宣告されたからだ。残された娑婆での時を楽しみ終えたいのは人間という生き物の情というものである。読み残した本のいくつかが茂吉の著作、茂吉論、言説だった。
 あれから十年余、幸い生き延びた。倅が書き記す茂吉の姿は興趣が尽きない。戦後、山形の大石田に一人生活していた頃の様子を北は地元で老いた茂吉を世話した人の著作を介して晩年の姿を再現する。取材に来た若い新聞記者を怒鳴りつけ追い返し、改めて迎え入れる様子は実に面白い。上山で昭和天皇に歌を進講した時の茂吉の語る天皇の姿も。
 山形は長年勤めた業界紙の仕事でしばしば訪れた。北の文章で土地の風景と縁あった人達との交流が思い起こされるのである。茂吉が立ち寄ったという余目や上山はアカショウビンも何度も行った。冬に福島から米沢に向かう車窓から眺める風景は一変する。南島育ちのアカショウビンには実に鮮烈で心和む体験だった。
 全集の柿本人麻呂の歌の註釈は未だ読み終えいてない。しかし、力を奮い起こし読まねばならぬ。北 杜夫の茂吉回想で読む茂吉の歌は、その助力となる。

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2018年8月26日 (日)

石牟礼道子の作品

 友人のN君が夏休みに熊本の水俣を訪れるというので、浜田知明の作品も是非観てくるように伝えた。先日電話してその話を聞いた。美術館に浜田のコーナーがあり訪れたようでいろいろ話が聞けてよかった。目的は石牟礼さん関連だったようなのでその話も興味深かった。それによると地元で石牟礼道子は殆ど関心が希薄だったようだ。それが意外だった。水俣を訪れる人々の関心が石牟礼さんなのに、地元の図書館でも石牟礼作品はそれほど関心をもたれていなかったと言う。

 それは水俣病が地元でも忌み嫌われていた、という事実と関連すると思われた。N君は、それは地元で漁師たちが差別構造のなかで位置づけされていた事と関連するのではないかと言う。それはわかる。それは土着の農民たちが差別構造のなかに位置づけられていた事と関連するだろう。水俣病が漁師から買った漁獲品によるものではないかと類推され、その原因が魚とチッソ工場の垂れ流しの有機水銀が関連づけられ石牟礼さんたちのチッソ弾劾闘争となったからだ。

 近代以降の産業社会のなかで武士に代わる市民がその位置を受け継ぐ。その産業がもたらす害毒を行政は隠蔽する。その過程に市民が同調する。それが科学技術の弊害であることに市民たちは眼を閉じて無視、黙殺する。その構造は近代の典型的な特徴だ。それは先の大戦以降、それまでの人類史を一変する。その事態は現在まで続いていることに無知ではいられない。しかし人々はその恩恵のみの生活を営み弊害に眼をつぶる。それが人類史の現在である射程に盲目であってはならない。

 それはまた浜田知明が戦争の惨禍を作品で告発した事と無縁ではない。N君とは近いうちに会ってそれらの事を語り合いたい。石牟礼文学もその中で際立つ筈だからである。

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2018年2月10日 (土)

石牟礼道子追悼

  石牟礼道子さんが亡くなられた。水俣から発信される告発の事実に驚愕したのは学生時代だ。九段会館で開催された会場に行き映像と写真集で事の顛末を知った。貧乏学生として幾らかの寄付もした。それからアカショウビンの生き方はある方向性を見出し活路となった。その後、新版の『苦海浄土』も改めて読み新聞記事でパーキンソン病を患いながらもお元気な様子に刮目した。同志の渡辺京二さんとの共闘も悦ばしく長寿を言祝いだ。九十年の苦闘に心からお疲れ様でしたと哀悼する。今や世界文学と認識され読者を広げる著作は多くの言語に翻訳されることだろう。それほどミナマタの患者さんたちと支援者たちの闘いの歴史事実は世界的な意味を持つ。アカショウビンの余生の間にどれほど著作を読めるかしらないが一行でも読む機会を作らねばならぬ。

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2018年2月 3日 (土)

無声慟哭

 先日の芥川賞受賞作の表題は賢治の詩集『春と修羅』の「無声慟哭」中の〝永訣の朝〟から取ったものである。そこには岩手方言の微妙なニュアンスが込められている。アカショウビンはそれを直感したから受賞作を悦んだ。しかも還暦を越えた遅咲きの作家である。作品は読んでないが、かつて繰り返し読んだ賢治の詩とその情景は忽然と蘇える。全集(昭和48年・筑摩書房)から、その箇所を引く。

 

みなれたちやわんのこの藍のもやうにも

もうけふおまへはわかれてしまふ

 (Ora Orade Shitori egumo)

ほんとうにけふおまへはわかれてしまふ

あぁあのとざされた病室の

くらいびやうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく燃えてゐる

わたくしのけなげないもうとよ

この雪はどこをえらばうにも

あんまりどこもまつしろなのだ

あんなおそろしいみだれたそらから

このうつくしい雪がきたのだ

 (うまれでくるたて

  こんどはこたにわりやのごとばかりで

  くるしまなあよにうまれてくる)

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになつて

おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはいをかけてねがふ

 この最後の一行に至る、詩人で兄の心の痛みと妹トシの書かれた言葉は兄弟の生きた声のようにアカショウビンには届く。それが幻想と幻聴であっても、人という生き物の慟哭として伝わる不思議は死すべき者と不死の神々たちと交感しようと足掻く人間たちの魂の不可思議さのようにアカショウビンには思える。受賞作の表題は〝ひとり〟となっているが、詩ではローマ字の〝しとり〟である。この声と表記の違いは地元の人たちでなければ正確に聴き分けられないだろう。

 先日、かつての会社の早世した後輩の命日にちなみ、ここのところバッハのマタイ受難曲を繰り返し聴いている。彼女の家族はクリスチャンだった。マタイを歌うソリストたちの声と合唱の声は死者たちと呼び交わす哀しみとなって伝わる。それは彼女を偲ぶにふさわしい音楽である。それは宗教的垣根を越えて人々に伝わるとは言えまいか。少なくともアカショウビンは哀悼の音楽としてマーラーの作品と同じく、西洋の音楽でもっとも心に響くのである。それは有声慟哭として現象する。

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