2020年7月 4日 (土)

人剖くよろこび

 寒夜鳥屋の赤きてのひら、割く鴨の胸さぐりつつ人剖くよろこび〈日本人霊歌〉

 今朝は塚本邦雄のこの破調で日常に喝を試みる。マイルスが求め止まず生涯を費やしたという〈新しいサウンド〉は塚本も戦後を生きるために短歌革新、前衛短歌に活路を求めた。当時の知識層に送った『水葬物語』に鋭敏に応答したのが三島由紀夫と中井英夫の二人のみというのも何やら戦後空間の作家の時間の偶然というより必然のように思える。

 

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2020年6月28日 (日)

露伴のこと

 友人I君の差し入れで、幸田露伴の娘、文(あや)の文庫を読んでいる。『父・こんなこと』(新潮文庫  平成14年改版)。文庫になったのは昭和30年12月25日だから平成14年までは旧字体だったのかもしれない。

 所収の「父  ーその死ー」は、露伴の晩年から臨終・葬儀まで、娘から見た父親像と娘も知らぬ露伴像が娘の文章を介して浮き彫りされている労文、名文である。

 露伴の文章に接したのは若いころ以来、業界紙記者をやっていた時に偶然のように訪れた。知人が、渋沢栄一の本を発刊するという。その出版社の社長とも多少のご縁があったので、弊紙でもアカショウビンが書評を書かせていただく、ということになった。そこで下調べに資料を探したら露伴の渋沢栄一翁伝があったのだ。それは実に面白かった。とはいえ読み終えてはいないのだ。読み終えなければ書評は書けない。

 そのうち、締め切りが来て、書評は立ち消えになってしまった。生家の深谷には何度も行ったが記念館も訪れていない。しかし、露伴が筆を執るほどの傑物なのだ。退院したら読み継ぐ楽しみができた。これもI 君と文さんの文章のおかげである。

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2020年6月25日 (木)

病室移動

 明日の手術に備え病室を胃外科から呼吸器外科へ移動。五階から十二階へ。しかも窓側。見晴らし抜群である。これまでは通路側で天候など知る由もなかった。現在のところ、四人部屋でアカショウビンを含めて二人。早速挨拶すると、Nさんは同年輩の穏やかそうな紳士である。何とか落ち着いた術後が過ごせそうで先ずは安心。

 ともあれ、読書に専念しよう。友人のN君差し入れの『ソルジェニーツィン短編集』(岩波文庫  木村 浩訳  1987年6月16日)、I君差し入れの『父・こんなこと』(新潮文庫  幸田  文著  昭和30年12月25日)、『山谷崖っぷち日記』(角川文庫  大山史朗著  平成14年8月25日)。いずれも面白い。

 特に幸田  文のものは露伴の晩年、最期を娘が愛憎半ばする、何とも複雑な心境を全身全霊で、魂の奥底から搾りだす文体で露伴像が書き残されているのが貴重だ。

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2020年6月19日 (金)

悲劇

 ギリシャ悲劇は西洋文化の原点である。当時、上演された円形劇場は、海を遠景にする絶妙の地が選ばれたという。和辻哲郎が『風土』で詳細に記述していた。アカショウビンは映像などで観るだけだが、一度くらいは現地で呼吸してみたいものだ。和辻が言うように、その場に我が身を置かないと、風土、水土は知覚できず哲学的思索も観念論の域を出る事がないからだ。

 それはともかく、きのう王女メディアの悲劇に〈筆洗〉の文章で出会い、パゾリーニの作品など久しぶりに思い出していた。きょうは、たまたま開いた文庫本の一行に偶然のような必然を感じた。

 悲劇つねに父に創まり雨季ちかき砂になすなくゐる蟻地獄

 もう一作。

 卵生みて安らへる蛾の貌さむくすべての〈母〉に似通ひにつつ

 塚本邦雄『装飾楽句 (カデンツァ)』所収

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2020年1月17日 (金)

すべては風の一吹きさ!

 天野正子が引いている吉野せいの作品中の一文が好い。

 すべては風の一吹きさ!どこからかひょいと生まれて、あばれて、吠えて、叩いて、踏んで、蹴り返して、踊って、わめいて、泣いて、愚痴をこぼして、苦しい呻きを残して、どこかへひょいと飛び去ってしもうすっ飛びあらし‼(『老いて』1973年)

 どこかへひょいと飛び去ってしもう、とは殆ど達観の境地だ。いや、いや、この人には達観などという言葉は似合わない。天野が章立てしているのは、老いた作家の文体論であるわけだが、作家という職業は、文章にその生き様も反映する。そこに天野は注目し老いた作家の生を考察しているのだ。

 きょうは放射線治療8回目。M医師の診察説明ではガンが「溶け始めて」いて治療効果が出始めている、とのこと。内視鏡カメラで撮った画像で示してくれた。先ずは喜ぶべき事と納得する。全身麻酔での手術でもそうだが、最先端治療というのは患者の痛みや身体感覚とは異質の科学的処方が行われる。そこで治療する側とされる側の距離が遠くなる。その遠さを近くするのは互いの会話による。しかし、専門家と素人の違いの差を埋めるのは簡単にはいかない。そこに現代医療がどれほど留意しているかアカショウビンは詳らかにしない。しかし、そこには残された時間を含め、他人にはもちろん本人でさえ不明な精神的葛藤が生じる。

 吉野せいの文章には、そのような葛藤を吹き飛ばす闊達さがある。無文字社会ならぬ、文字社会の恵みとも言える。文字に染まり半ば溺れているアカショウビンや現代人には、古代人の境地に至るのは、それなりの工夫と努力が不可欠なのである。

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2019年11月26日 (火)

輪廻転生

 三島由紀夫が最後の小説の思想的背景に援用したのは仏教の輪廻転生である。生まれ変わりとはチベット仏教に継承されている。しかし釈迦は果たしてそれを説いたのだろうか。三島がそれを信じて最後の作品としたとも思えない。それはあくまで物語の回り舞台を貫徹する興味深い仏教思想ではないのか。

 三島由紀夫という小説家が晩年に奇矯とも見られた活動で果てた事件から既に半世紀近くが過ぎたきのう、少し三島という小説家の事を暫し思い耽った。当時は文壇、論壇、マスコミ各社、各氏で様々な論議が行われた。半世紀近くが過ぎて三島由紀夫の作品はどのように読まれているのか。

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2019年2月25日 (月)

加計呂麻島行③

 呑之浦は実に静かな入江だった。静寂を現実に戻すのは砂浜に寄せる水音だけ。途中まで舗装された道を越えて歩くと岩場に出る。奇岩の固まりがそこだけ異様でもある。そこからは遥かに奄美本島の古仁屋の街並みが見える。その間は大島海峡の外洋である。震洋艇もそこから敵艦への特攻を敢行する計画だったのだろう。今からすれば無謀というより唖然とする作戦というのもの愚かな命令だ。しかし、それが戦争である事に震洋隊183名は黙々と従った。その部下を率いたのが島尾隊長なのである。
 特攻艇震洋を格納する洞窟は今も残っている。映画撮影に作られたと思しき震洋のパプリカが残っていた。その奥は昼間でも暗く足元は土の固まりのデコボコである。外に出ると穏やかな入江の静謐が支配している。歴史と現実が共存している異空間とも言えるだろうか。
 舗装された道を戻る途中、左側にモニュメントのような物がある。それが島尾敏雄文学記念碑だった。坂を登り、森を刳り貫き建てた顕彰碑のなかには小川国夫氏の島尾評が刻されていた。島尾作品の抜書もある。それだけが、この入江であった歴史の何たるかを伝えている。

 冬に此の地を訪れる人も少ないのだろう。石碑の文字は薄汚れていた。周囲に生き物の気配はなかった。暫し土地の風光を浴びてEさんの待つ休憩所に戻った。

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2019年2月24日 (日)

加計呂麻島行②

 古仁屋に来たときの記憶は殆どない。母の郷里の徳之島から名瀬に戻るとき寄港したことがあったかもしれない。しかし、徳之島発の汽船が古仁屋に寄港するのは当時も今も殆どないだろう。名瀬に住む人も古仁屋に行くのは珍しい、とEさんも話していた。

 船を待つ中年の女性がいてEさんが話しかけた。女性は若いころ東京に出て結婚し離婚し大阪に移り住んだと言う。それから故郷の加計呂麻島に戻り今は年金暮らしと穏やかに話した。

 漁船は定刻の午後一時に古仁屋を出発した。アカショウビンは船尾に座り、去りゆく古仁屋の街並みを眺め、大島海峡を渡る海の香を嗅ぎながら短い船旅を過ごした。大島海峡は外洋である。或る時季は鯨も通過し、それを目当ての観光客も訪れるらしい。約20分の船旅で漁船は生間(いくんま)に到着した。瀬相のほうが吞之浦には近くかつて海軍基地もあったらしい少し大きな町のようだったが、帰りのフェリーの時間が遅く生間にした。ここも天然の良港なのだろう、港にはクルーズ船のような小型船が停泊していた。Eさんを待合所で待たせアカショウビンは少し離れたレンタカー店で車を借りに。ガソリン・スタンドもある小屋のような事務所に入ると中年男が応対してくれた。古仁屋で電話予約した時は女性の声だった。どうも唖らしい。用意された文書があり書き込み身ぶり手ぶりで手続きを済ませた。目的の吞之浦までは約15分らしい。

 古仁屋まではEさんの自家用車で来たのでこちらではアカショウビンが運転した。聞けばEさんは去年、仲間たちと加計呂麻島を訪れたらしい。島尾敏雄記念碑も立ち寄ったと言う。加計呂麻島のもう一つの漁港、瀬相に通じる道は曲がりくねった道路だった。ハンドルを右、左に辿ったが対向車はほとんどない。夏とちがって冬の奄美に観光客は来ないのだろう。うっかり通り過ぎようとした道をEさんの指示で脇道を右折した。そこから吞之浦に入るのだ。島尾敏雄文学記念碑と表示もされている。休憩所があり、Eさんは、そこで待っているというのでアカショウビンは一人で歩き震洋の基地跡へ向かった。

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2019年2月22日 (金)

加計呂麻島行①

 加計呂麻島に行くには奄美大島本島の西南に位置する古仁屋まで行く。かつての名瀬市、現在は奄美市から車で一時間余り。アカショウビンが子供の頃とは見違えるように舗装された道路とトンネルの多さに驚いた。Eさんは、かつての山道はアップダウンが急で車の転落事故も多かったと話す。夜にはハブが道路を横切ることもあった。それはアカショウビンも父の車でか通ったときに見た記憶がある。車で轢かれても簡単には死なないらしい。そのような記憶も甦り、午前中にホテルに迎えに来てくださったEさんの車に乗せてもらい奄美市を発った。ところが、日曜日でフェリーの時間が帰りは夕方六時半になるという。それでは遅すぎる。そこで観光案内所に相談すると午後一時に加計呂麻島に渡る漁船があるという。料金は350円。これ幸いと港でそれを待った。

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2019年1月22日 (火)

茂吉56歳

 昭和12年、斎藤茂吉56歳。帝国日本は南京陥落で意気あがる。マスコミ報道に国民は熱狂していただろう。茂吉も新聞記事で読み思索、創作の機縁を得たかも知れぬ。『寒雲』に、その日常が留められている。それを熟考しアカショウビンはきょうを凌ぐ。茂吉より10歳も年を経た。肉体労働で疲弊、消耗する。しかし、食い、飲み、聴き、書かなければならぬ。娑婆で生を全うするためには。働かざる者、食うべからずという。食わずに死を迎えることもできよう。しかし娑婆でし残した事は幾つかある。悟り得ず、娑婆の負債を帳尻合わすためには働かざるを得ず。

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