2017年5月28日 (日)

この時が繰り返す?

 九鬼周蔵は仏教の輪廻思想やギリシアのピュタゴラス派、ニーチェの永劫回帰思想をヨーロッパを遊学し帰国後の思索の中で問い続けたという。
 アカショウビンが朝早くから引っ越しの準備で本やCDを段ボールに詰め、朝刊を買いに駅前まで出かけ、喫茶店のモーニングサービスで憩い、四人の老人達が大相撲の話や将棋の若い天才少年の連勝記録の話題で時を過ごすこの時が、まったく同じに何度も繰り返されるというのだ。そのような事が有りうるのか?それを九鬼は論理的に考究したというのが先に紹介した『時間論』で解説者が説く九鬼の思想の核心にあるという解説だ。
 それは奇妙だが不可思議で死に至る過程を生きるアカショウビンでなくとも人間という生き物が此の世の過去や現在、未来を思考するうえで興味を掻き立てる考えでなかろうか?

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2017年5月 4日 (木)

言語は人間固有の音楽なれば

表題は子規が明治22年(1889年)『詩歌の起源及び変遷』で書いている文言であるらしい。以下のように続く。「言語の調子よき事は音楽の調子が如く聞く人に面白く感ぜしめ、其上最も記憶に便なるが故に終に面白きこと感動せしことを故(ことさ)らに調子よく作り、之を歌ふに至りて始めて真正の詩歌とはなりたるなり」。

  上は九鬼周造の『時間論』(岩波文庫2016年2月16日)の解説で編者が引用している。編者はそのあとで九鬼の「詩は言語によって哲学し音楽する芸術である」と述べているらしい。実に刺激的で啓発される卓見ではないか。同書には他に二編の九鬼の論考が収められている。『時間の問題』で九鬼は欧州滞在時に出会ったベルクソンとハイデガーの時間論にも言及し考察している。これも難解であるが精読、熟読を促す論考である。

言語が人間固有の音楽であるならば人間の心身も音楽ではないだろうかというのがアカショウビンの愚考である。日々のアルバイト作業でリズムは不可欠。そこには生の律動とでもいう行為が生成し時を活性化する。連休期間もその作業が生活を律する。今月いっぱいで仮住まいも移転しなければならない。

九鬼には『偶然性の問題』という論考がある。昨年の入院中から読んでいる田辺 元の著作と思索にも偶然性の問題はマラルメの詩を介して重要な位置を占めている。これらについても考察していきたい。

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2016年12月 7日 (水)

世界像の時代

 5日の東京新聞朝刊6面(11版)は、ミャンマーで暮らすイスラム教徒の少数民族ロヒンギャへの迫害が深刻化していることを伝えている。2012年にミャンマー西部ラカイン州で仏教徒が彼らを襲い多数死亡者がでた。以降、昨年から今年にかけての経緯が概略されている。事の発端の説明はない。しかし宗教的軋轢が原因であることは推測される。仏教国ミャンマーにしてこの現実は何ということか。宗教対立は融和不可能ということか。我々はこのような時代と世界をどのように超克できるのか。それは先の大戦の発端の理由の一つとも絡んでくるだろう。当時の知識人たちは「近代の超克」という表題で座談会を行ない考えを述べあったのだから。それはともかく、世界とは何か。われわれが考える世界とは何か。

 「存在するものの本質への反省と、真理の本質についてのなんらかの決定がおこなわれるのは、形而上学においてです。それが存在するものになる或る一定の解釈を加えたり、真理を一定の形で捉えたりすることをつうじて、ひとつの時代の本質形態の根拠を与えながら、形而上学はその時代を基礎づけてゆくのです。そのような根拠は、その時代を特長づけているすべての現象を貫いて、支配しています。また逆に、これらの現象を充分に反省するために、これらの現象のなかに、形而上学的根拠が認識されなければなりません。反省はすなわち勇気であって、これは[根拠づけという形而上学の]独自の諸前提の真理と独自の目標の[在り]場所とを、問うに値する最上のものにするのです。」

 ハイデッガーが1938年6月9日に『形而上学による近代的世界像の基礎づけ』という題目で述べた講演の出だしの一声である。他講演者たちに課せられた共通する主題は『近代の世界像の基礎づけ』。これにハイデッガーは先の表題で考えを述べたわけである。我が邦の「近代の超克」という主題と共時的にドイツでは注目の哲学者の講演として熟読すべき論説だろう。このなかで〝反省〟という用語には補遺が用意され講演では述べられなかった。それも引いておこう。

 反省とい問い方は、それが予め存在へと問うのであって、根拠のないものや問題をもたないものにと決して陥らないのです。存在は反省にとって、依然として最も問うに値するものです。反省することは、存在にギリギリの抵抗を見出し、その抵抗は、存在の光へと押しだされた存在するものを、真剣に取扱うことを固く主張するのです。思考と決断とを、この近代という時代特有の本質的なもろもろの力の活動範囲へと、置くことです」。(桑木 務訳  理想社 昭和37年1月25日)  

 『存在と時間』で展開された論説をハイデッガーは説明し〝世界〟を像として、あるいは像ではない〝世界〟を述べる。

 「世界像とは、本質的に解すれば、それゆえ、世界についてのひとつの像を意味するのではなくて、世界が像として捉えられていることをいうのです。(中略) 存在するものが世界像となる場合に、存在するものについて全体として、本質的な決定がおこなわれるのです。存在するものの存在は、存在するものが表象されてあることにおいて、探求され且つ見いだされるのです。(同書p29)

 この講演は像に満ち溢れ、像で思考し思考しない時代を生きているともいえる今こそ熟考すべきものと解する。

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2016年12月 4日 (日)

無意識と歴史の関連

 「空想的リアリストは憲法九条があるために自国を護ることができないのですが、われわれは憲法九条によってこそ戦争から護られるのです」。この主張には左右中道各派から異論が呈されるだろう。もちろん若い人からも。その議論の核には精神分析の〝無意識〟と〝歴史〟と哲学者の〝論考〟が熟考されなければならない、というのが主張者の論説の内容だ。フロイト、アインシュタイン、中江兆民、北村透谷、内村鑑三、幸徳秋水、ホッブス、カントなど歴史上の人物が次々と援用、引用される。

 上は柄谷行人氏の近著「憲法の無意識」(2016年4月20日 岩波新書)による柄谷氏(以下、敬称は略させて頂く)の締め括りの一文である。アカショウビンはとても興味深く読んだ。実は先ごろ朝日新聞の柄谷のインタビューを友人が知らせてくれて読んだこともある。そのインタビューは現行憲法の内容を徳川時代までさかのぼり後期フロイトを援用、引用するものだった。またにカントの『永遠平和のために』(1795年)のことも話していたかもしれない。そのコピーがないのが残念。アカショウビンは柄谷の読者ではない。しかし本書で柄谷が説く論説と論拠には刺激された。それは昨今のマスコミ紙上で読む憲法論にはない面白さがある。インタビューでは第1章の「憲法の意識から無意識へ」、第2章「憲法の先行形態」が中心に説明されていたと記憶する。しかしアカショウビンは第3章の「カントの平和論」から読み始めた。それは柄谷の論拠がカントにあるような予想があったからだ。だが、思想家、柄谷行人はそれほど単純でもない。ヘーゲルのカント批判、マルクスまで引用し柄谷は徳川時代から明治時代までの歴史を辿り自説を展開する。それは現今の憲法論議に一石も二石も投じる内容をもつ。日々の仕事に消耗するアカショウビンだが、刺激される書を読めば活力も湧いてくる。

 米国の大統領選や我が国の現政権の動向に憲法論議は不可欠。今朝の東京新聞の朝刊にはドナルド・キーン氏が〝玉砕の悲劇 風化恐れる〟の見出しで東京下町日記を書いておられる。アカショウビンは駅売りで買っているのだが買い忘れることもある。この稀有の日本文学者の文章を読むことは多くの刺激を受ける。三島由紀夫の命日を過ぎ今月は先の大戦の開戦の月である。暮れの喧騒のなかで何か書かねばならない衝動にも駆られる。ハイデッガーは『世界像の時代』の演題で1938年6月9日に講演している。先日たまたま読み直したがドイツの戦争体制のなかで興味深い論考である。この感想も述べてみたい。

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2016年10月 9日 (日)

菩薩道

 田辺元は『死の哲学』のなかでキリスト教も死の弁証法に立脚することを徹底することがないとして〝菩薩道〟について次のように記している。

 絶対無即愛を徹底的に実現せんとする立場であり、あくまで自己否定を媒介とし自制謙抑を通じてのみ、衆生済度の愛に生きんとするものであることは明白である。その特徴は今触れた如く、人間の至上存在としての仏となる可能性を具備しいわゆる仏性を保有しながら、しかもそれをそのままに実現せんとする自己満足を抑制して作仏を差控え、他の衆生を先に作仏せしめるためには自己の作仏を犠牲にし、遂にその極、直接には自己作仏の障礙となる如き、ふつうに悪といわれる行為をも、不可避とあらば、善悪を超える無心清浄の立場で方便として敢行し、死復活の絶対無即愛を、どこまでも自己否定自己制限の条件の下において媒介的に行うことにある。(同書 p387~p388)

 これは道元の自未得度先度他を引いたものであろう。正に大乗仏教哲学の真骨頂といってもよい。その具体性はともかく、田辺はハイデッガーの〝自覚存在論〟が観念論の域を脱しなかったと批判し仏教哲学を援用する。

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2016年10月 7日 (金)

ハイデッガーノート ⑥ 存在とは何か

 生の存在学か死の弁証法か、という表題で田辺元は戦後のハイデッガーの思索、思考を「生の存在学」と見なし自らの哲学を「死の弁証法」としてハイデッガーに対抗する。ハイデッガーの70歳記念で求められた論文で田辺は1922年から1年間の留学時には先輩とも師とも仰いだハイデッガーを同じ哲学徒として批判し乗り越えるべく異例の論文を寄稿した。特に『同一性と差異性』(理想社 昭和35年 大江精志郎訳)に収められたつの講演でハイデッガーが展開している最新の、ということはハイデッガーが到達した境地の内容について田辺は苛烈な批判の矢を放つ。両者とも先の大戦の敗戦国側の思想的支持者という負い目を背負いながらの戦後の人生、思索の成果である。それとは別に私たちは、その説くところを思想、哲学として精読しなければならない。田辺は戦後すぐに『懺悔道としての哲学』で自らの哲学を一貫させるべく著書を公刊している。『死の哲学』の基調低音はハイデッガーはじめ西洋哲学に対する禅の仏教哲学の、戦後の科学技術が主導する世界への修正の可能性への追求というべきものである。それは後に新たに熟考する機会もあるだろう。とりあえず批判されたハイデッガーの説くところを引用しておこう。

 さて存在とは何か?我々は存在をそれの始源的意味に従って現前存在(Anwesen)と考えよう。存在は人間にとって随伴的にも例外的にも現前に存在する(west・・・an)のではない。存在はそれの語りかけによって人間に関わる(an-geht)ゆえにのみ、現成し(west)且つ持続するのである。何故ならば人間こそ、存在に向かって明濶に、存在を現前存在として到来せしめるからである。そのような現前-存在(An-wesen)は、或る明るさの明濶さ(das Offene)を使用し、かくこの使用によって、人間本質に委ねられているのである。このことは決して存在が、初めてただ人間によって定立されることを意味しない。むしろそれに反して次のことが明らかになる。

 即ち人間と存在とは相互に委ね合っていること。それらは相互に合しあう。一層詳しくは考慮されていないところの相互に合しあうことにもとづいて、人間と存在とは、初めてかの諸本質規定―その諸規定において人間と存在とが哲学によって形而上学的に把握される―を受けとったのである。

 我々がすべてのことがらを、弁証法を用いるにしても用いないにしても、秩序や媒介によってのみ表象する限り、この主要な意義を有する人間と存在との結合(合には強調の読点)を、頑迷に誤認するのである。そうすると、存在からか或いは人間からか何れかによって結びつけられ、そして人間と存在との結合を編み合わせて表わすところの連結を、我々は相もかわらず見出すのである。  我々はなおいまだ結合(読点)の内へ帰入しない(kehren・・・ein)。しかし如何にしてかかる帰入が達成されるか?それは我々が表象する思考の態度から自らを離脱させることによってである。この自己離脱(Sichabsetzen)は、飛躍の意味におけるSatz[跳ぶこと]である。これは飛び去るのである、(springt  ab)云いかえれば知性的生物ーこれが近代には自らの諸客体に対する主体となったのであるーとしての人間についての普通の表象から飛びはなれる。しかも存在は西洋的思考の初期以来、各々の存在するものそのものが基づいている根拠として解釈されているのである。  若し飛び去ることが根拠から飛び去るとすれば、それは何処へ飛躍するのであるか?それは或る深淵へ飛躍するのであるか?その通りだ、我々が飛躍をただ表象する、つまり形而上学的思考の視野において表象する限りでは。しかし我々が飛躍しそして我々を解き放す限りでは、そうでない、では何処へ飛躍するのか?それは我々が既にはいり込こんだ所へ、即ち存在へ合することの内へである。しかし存在自らが我々に合するのである。というのはただ我々においてのみ、存在は存在として現成しうる、即ち現前-存在たりうるのである。(同書p17~p19)

 

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2016年9月18日 (日)

ハイデッガーノート ⑤ 真理とは何か?

 「真理の本質について」でハイデッガーはプラトンの〝洞窟の比喩〟を用いて真理の本質について講義した。それから10年後の講義が「パルメニデス」である。それは戦時下でもあり世界大戦という地球規模の災禍の緊張の中でのものであることを考慮し読む必要もある。古代ギリシア人たちの思想に分け入りローマ人達への思想の移植と変容を経てデカルト・カントの西洋近代哲学の変遷に注意深く眼を凝らした思索者の言説・論説は卓抜であると同時に奇異の感も与えたことは衆目の伝えるところである。「パルメニデス」の第8節/第2部ではリルケの詩が引かれる。第8のドゥイノの悲歌にはハイデッガーが説く〝開かれた処〟の一行が記されている。しかしそれは〝公海〟という意味でのもので、それは「有の自由な開けた場所へは到達しない」(p258)とする。生きものは、その場所を見る事がない。しかし「それを観いだすことができるということが、人間の本質を構成し、したがってまた、動物と人間との乗り越えられない境界を構成するのである(同)。

 ドゥイノの悲歌は最初の次の部分が引かれている。

 すべての目で、生きるものたちは

 開けた処[開かれた世界]を見ている。われわれ人間の眼だけが

 いわば反対の方向をさしている。そして罠として、生きものたちを、

 かれらの自由な出口のそとにあるものをわれらは

 動物のおももちから知るばかりだ、

 しかし「人間は、そして人間だけが、語を持つゆえに、開けた処をのぞきこみ、アレーテス[真ナルモノ]という意味での開けた処を見る、そうした有るものなのである。これに反して動物は、開けた処をまったく見ないし、そのすべての眼のうちの一つだけででも、決して見ないのである。(中略)リルケのいう開けた処は、覆蔵されていないものという意味での開けた処ではないからである。リルケは、アレーテイアについて何も知らないし、気づいてもいない。彼がほとんど何も知らず、気づいてもいないのはニーチェも同様である。したがってリルケはまったく、伝承されてきた人間と動物についての形而上学的規定の限界内にとどまりつづける。(p264)

 真理とは何か?という問いを次のように変えてハイデッガーは回答する。

 どのような拘束が詩人の語につきまとっているのか?この問いは、次の本質的な問いに基づいている、どのような真理が、詩そのものに属しているのか?たんに個人的な体験や印象に拠り所を求めること、つまり詩人に対してとにかく現にいだいている愛好心を、詩人の語を妥当だとする最後の支えとして持ち出すようなこと、こうしたことはすべて、あまりにも足りなすぎる、つまりここでは、まったく取るに足りないのである。それも、民族の存亡に決着がつくだけではなく、何よりもまず有と非有そのものの本質と真理が賭けられている、そうした時代にあっては、そうなのである。そうであれば、リルケの詩を途方に暮れた詩人の主観的な「体験」にゆだねる代わりに、キリスト教的意識の伝承のうちへはめ込むことは、いっそう客観的であるだけに、いっそう重要であることに変わりはないであろう。(p268~p269)

 「民族の存亡」という語に戦時下のハイデッガーの危機感が漏れ出ているとも読めよう。しかし主題は「有と時(存在と時間)」以来、有であり時であることは言うまでもない。

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2016年9月17日 (土)

ハイデッガーノート ④ 開けた処 真理の本質

 つねに人間は、しかも人間だけが、自由な開けた場所という意味での開けた処を覗くのであり、こうした自由な開けた場所としての、「有る」は、そのつどあらゆる有るものを自由な開けた場所それ自身へ解放し、こうした解放によって人間を開けた処の番人をつとめるものとして眺めるのである。(「パルメニデス」p256)

 この箇所に至るまでにハイデッガーは「開けた処」を次のように強調(翻訳では読点が付されている)し説明している。

 この開けた処は、有それ自身である。

 その前には次のように。

 なぜならば、到る所でいつも、ごく目だたない有るもののごく近くですでに、有るものの「有る」を自由な開けた場所として特に思考することを可能にする、そうした開けた処が現成しており、この自由な開けた場所の開けのうちへ、覆蔵されていない有るものが現れるからである。あらゆる有るものが、おのれの自由な開けた場所へ解放されるように、そこへ解放される開けた処、この開けた処は、有それ自身である。

  この「人間を開けた処の番人をつとめるもの」という箇所には、ハイデッガーが「存在は言葉という家に棲む」という有名な比喩で示す有(存在)を講義や講演、著作のいたるところで言葉を尽くして説明しようとする別な言いまわしがある。そこでは田辺元がこの講義に読み取ったハイデッガーの弁証法的境地を示すと田辺が説くなかでのキーワードともなる「絶対無」の無へのハイデッガーの次のような説明もある。

 もし人間が有を観照していないとしたならば、人間はけっして無を思考しえないであろうし、まして有るものを経験しえないであろう。(同書 p248)

もう少しハイデッガーの説くところに耳と精神を集中させてみよう。

 元初的に真理の本質が「非覆蔵性」(ア‐レーテイア)であるからこそ、また覆蔵されているもののうちでアレーテイアがすでに、開けた処、開けてくる処であるからこそ開けとそれの透過一般が、明るさやそれの透き通りの明け開けという形態において現れることができるのである。有の本質がアレーテイアであるからこそ、それだけで明るみの明け開けが優位になることができるのである。それゆえ、開けた処へ出現することは、輝き、現れるという性格をもつようになる。それゆえ、出現して覆蔵されていないものを聞き取ることは、明るく輝くものを聞き取ること、つまり見ること、観ることなのである。(p249)

 真理の本質については、アレーテイアというギリシア語を介してハイデッガーは1931年1932年の冬学期に詳細に論じている。それは通読したので新たに感想を書く機会もあるだろう。

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2016年9月12日 (月)

ハイデッガーノート ③ 慎み、恵み、調えるもの

 ギリシア人たちの神々の根本本質は、他のすべての神々と違って―キリスト教の神とも違って―、ギリシアの神々が、「現成すること」と「現成する」有に由来するという点にある。(中略)ギリシア人たちの神々は、人間たちと同様、何ひとつ運命に先立って、また運命に逆らっては、なしえないのである。モイラ〔運命〕は神々と人間たちの上に現成する。(p188~p189)。

 「根本本質」というのは、何か特別なことを言おうとしているのだろうか。それにしてもギリシアの神々はキリスト教やユダヤ教の神と何と異なることだろう。それは我々の仏や仏たちとも。それはともかく、さらにハイデッガーが説くところを追ってみよう。

 「神々」が、ダイモネス〔ダイモーンたち〕―テアオンテス〔観ル者タチ〕であり、なれ親しんだものと見なれたものとの現れにおいて、ともに現れるという、まさにこのことのために、それらの見なれ‐ないものは、極めて純粋に節度と穏やかさのうちにあり、そのため神々の現れにおいてアイドース〔慎ミ〕とカリス〔恵ミ〕が―有の慎みと恵みが―到る所であらかじめ差し込んでおり、輝きながら指示しており、指し示しながら調えているのである。たとえ私たちがギリシアの神々を、調える者たちと呼ぶ場合に、その本質を前もって、より元初的に思考するにしても、私たちは、この神々を、調えるものたちと呼んでよい。というのは、慎みと恵みと穏やかさの輝きとは、有に属しているのであり、それらは、アイドース〔慎ミ〕とカリス〔恵ミ〕のうちで詩作しつつ、タウマストン〔驚嘆スベキモノ〕とダイモニア〔霊妙不可思議ナモノ〕において思考しつつ、経験されるからである。

 

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ハイデッガーノート ② 見る、観る、観照する

 観(blicken)という動詞について、ギリシア語のテアオマイには、「ギリシア的に思考すれば、おのれに観照をもたらすこと、観照を、つまり何かが呈示され、現れてくる眺めという意味でのテアー〔観照〕をもたらすことを言う」(p176)とハイデッガーは述べる。それは私たちが言う見ることでも、見物することでもなく、「観るものが、おのれの本質の眺めのうちへ現れてくる(ダイオー〔火ヲトモス〕)、つまり覆蔵されていないもののうちへ、この覆蔵されていないものとして出現する、そうした根本様式なのである」。

 この覆蔵という語は馴染みのない日本語だがハイデッガーでは重要な用語である。いっぽう真理という語は日常的にはともかくまだ理解できる。アレーテイアというギリシア語は真理と訳されるが、それは正確には不覆蔵で真実が覆い隠されていないこと、であるとハイデッガーは説く。それはこの講義録の前段で詳細に説明されるがいまはおく。引用に続けて次のようにハイデッガーは述べる。

 観ることは、人間の観ることでさえ、根源的に経験するならば、何かを把握することではなく、おのれを示すことであり、このおのれを示すことを顧慮してはじめて、何らかの把握する観ることが可能となるのである。人間は、すでにもっぱらおのれ自身から、観ることを経験しており、観ることをまったく、自我や主体である「おのれから」理解しているのだが、そうした場合には、観ることは、対象に向けられた一つの「主観的な」はたらきである。しかし、人間が、おのれ固有の観ることを、つまりこの場合人間の観照を、おのれへの「反省」においておのれを観ながら表象する、そうした観照として経験するのではなく、むしろ人間が反省を伴わない出会いをさせることにおいて、観照を、向こうからくる人間の、彼を‐眺めることとして経験するならば、その場合には、出会う人間の観照は、そのうちで人間自身が他のものに向かって待ち、つまり現れ、そして有る、そうした観照として示されるということが露呈されるのである。このむかえ待つという仕方の観ることが、またこのように経験された観照が、出会う人間自身をその本質の根拠において露現するのである。

 この露現という用語もハイデッガー独特だが、有が現れるというこれまたハイデッガー用語で取り合えず説明しておかせていただく。そしてハイデッガーはさらに続ける。

 私たち近代の人間は、もしくは更に言えばギリシア‐以降の人間形態はとうに歪曲されており、そのため彼らは、観ることをばもっぱら、有るものへと人間が表象しながら向かうこととして理解している。こうして、観ることはまったく見いだされず、たんに、自分で遂行した「はたらき」として、つまり前に‐立てる〔表象する〕作用として考えられるのである。前に‐立てる〔表象する〕とは、この場合、おのれの前に‐立てること、諸物をおのれの‐前に‐もたらすこと、制御すること、諸物を圧倒することである。(p177)

 これもハイデッガー哲学の根幹のようなもので難解だがプラトン思想が後にスコラ哲学、近代のドイツ哲学に至る間に変質、変容していった一端を説いているのである。さらにハイデッガーの説くところに耳傾けよう。

 ギリシア人たちは、観るということを最初にしかも本来的に、人間が他の有るものそれ自身とともに、しかも人間としておのれの本質において出現し、現前する、そうした仕方として経験している。(おのれから現前するまでは強調の読点が付されている:アカショウビン注)。近代的に思考して言うと、それゆえまた不十分であるのだが、むろん私たちにより分かりやすくするために、私たちは、手短にこう言うことができる。つまり観照、テアーは、「主体」のはたらきや作用としての観ることではなく、「客体」の出現や向こうからくることとしての眺めである、と。観ることとは、おのれを示すことであり、しかも、出会う人間の本質がそこに集まってきた、あのおのれを示すことなのであり、このおのれを示すことにおいて、出会う人間は、次の重複した二つの意味において「出現する」のである。つまりおのれの本質が、観照において、おのれの実存の総体と同じく集まっているという意味と、しかもおのれの本質のこうした集まりと単一な全体が、観照において開示されるという意味と、そうした重複した意味において「出現する」のである。それも、観照において開示されるといっても、もちろん、このように覆蔵されていないものにおいて、同時にまた、おのれの本質の覆蔵と深淵とを現前させることになるのである。

 この講義は1942年から43年の冬学期にフライブルク大学で行われた。戦時中である。それを今私たちが読むことは、その戦時下の緊張も想像すべきだろう。私たちは戦後のハイデッガーの論説、言説、講演にも目を通すことができる。その後のハイデッガーの軌跡、一生を通観しながら、それこそそれは読むことと同時に観ることでもある。それは正しく文字の向こうからハイデッガーが立ちあがるように、自らの精神を励起させて読み取らねばならない言説である。

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