2020年5月26日 (火)

洞察と卓越

 『和辻哲郎ー文人哲学者の軌跡』(2009年 岩波新書 熊野純彦著)を読み啓発されたので『風土ー人間学的考察』(1979年 岩波文庫)を読んだ。実に面白く読み終えた。和辻哲郎という哲学者の力量は『沙門 道元』で納得していた。しかし、ベストセラーと思われる『古寺巡礼』も主著『倫理学』も読まずにきた。『風土』は未読のまま本棚にあったので読み出したしだい。和辻の〈序言〉には、書き始めたきっかけが、ドイツに留学したおり、ハイデッガーの『有と時間』を読んだことが機縁になったことが明かされている。一般に『存在と時間』と訳されているハイデッガーの主著は、最新全集では『有と時』である。Seinというドイツ語を和辻は漢語の有と理解したわけだ。そして、その著作が時間の分析が精緻なのに対し空間の分析に不備であることに不満で『風土』を書き出した、と書いている。アカショウビンは、その動機に刺激された。あの未完の大著に対抗する著作が、まったく異なる姿となって世に出たことに興味が湧き、一気に読み終えた。その感想が表題である。少し場違いかもしれないが、和辻の考察、思索を辿れば、そのように評してよいと思う。批判より先ず著者の観察眼の鋭さと構想の意外性に感嘆するのが先だ。

 それはともかく、この著作は文庫になってからアカショウビンの手持ちの版だけでも1993年までに28刷を重ねている。実に多くの読者に読み継がれている好著なのである。誰でも楽々読める内容ではない。ある種の口説さ、執拗さがある。しかし、最後まで読めば、和辻哲郎という哲学者の視界、視野が古くは古代ギリシャからカント、ヘーゲル、マルクスにまで及んでいる事に改めて納得する。それくらいの射程、地平の元に書き上げられた労作である。解説で井上光貞氏が慎重に述べているように、この作品が世に出た昭和初年頃から幾つかの批判に晒されたこともよくわかる。しかし、それには、当時の左翼陣営から、ためにする批判であることも憶測される。和辻も昭和18年に書いているように、「当時の左傾思想」に駁論を交えたからだ。しかし、それを脱色してもこの著作に和辻哲郎が込めた気概と気迫は行間に横溢している。改めて、その詳細を述べてみたいと思う。

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2020年4月17日 (金)

無化あるいは撲滅

 ハイデッガーは先の『アンキバシエー 科学者と学者と賢者による野の道での鼎談』を1945年4月7日に記し終えている。出版するつもりはなかったのかもしれない。それは手稿といってよいもので日頃の思索を〝文学的に〟戯曲のシナリオの様なものに仕立てた。しかし、そこにハイデッガーの思想哲学の真髄が現れていると確信する。時はドイツ敗戦のときである。辞任せざるをえなかったにしろ、自ら大学学長として若者たちの未来を教導した責任も覆い被さってきたにちがいない。しかし戦後もナチスの運動を信奉した哲学者は現実政治とは別に思索者として人間の歴史と存在について冷静な思考を持続していたことがわかる。それは論文、論考という形式をとってないだけかえってその肉声と思考の跡が生々しく読みとられるのである。先のブログで引用した箇所を再掲する。

 賢者 おそらく人間が自然を対象化しようとすると、まさに自然が自らを示そうとするものの中に技術の攻撃に対する秘かな反抗が生じるのだと思います。この反抗の覆いがはがされることによって自然の力が解き放たれ、それが無化(撲滅)という地球全体を取り巻いている出来事として爆発するのです。

 これは先の世界大戦を解釈したものといえるだろうが、昨今のコロナ禍にも当て嵌まるように思えないだろうか。それから一ヶ月後に記した『ロシアの捕虜収容所で年下の男と年上の男の間で行われた夕べの会話』は、戦死した息子たちの会話に託した父親の追悼ともいえる手稿である。その最後にハイデッガーは次のように記している。 

 1945年5月8日、ドナウの谷のハウゼン城にて  世界が勝利を祝っているが、自らがすでに数世紀以来、自らの蜂起の敗者であることにまだ気づいていない日に

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2020年4月15日 (水)

反抗の覆いが解き放たれる

 先に少し書いた〝アンキバシエー〟についてもう少し。この〝秘教的〟とも〝神秘主義的〟とも真面目な研究者たちからは批判、黙殺されかねない、アカショウビンには〝解説書〟の体裁をとった〝文学作品〟といってもよい手稿はハイデッガー哲学の急所をわかりやすく説いた〝文学作品〟と心得る。翻訳の微妙さが原文のニュアンスを十分に伝えているか定かではないが、難解な哲学論説ではない体裁は、内容はともかく、繰り返し読み、新たな思索に誘い込まれる深さと奥行きをもち、わかりやすさが返ってその裏にある深さと奥行きに通路を開き、新たな難解さに至る思いになる。その一節を改めて引用しよう。

 賢者 おそらく人間が自然を対象化しようとすると、まさに自然が自らを示そうとするものの中に技術の攻撃に対する秘かな反抗が生じるのだと思います。この反抗の覆いがはがされることによって自然の力が解き放たれ、それが無化(撲滅)という地球全体を取り巻いている出来事として爆発するのです。(p22)

 これは俗説になるのを恐れず言えば、昨今の新型コロナウィルスの世界蔓延という現状に対する一つの哲学的説明ともなりうるだろう。

 その前に、「技術」という、ハイデッガーが徹底してこだわる語へのギリシャ語の説明を賢者が話すところを引用しよう。

 賢者 テクネーという語の語幹はtekですが、これは外へ出す(hervorbringen)という意味です。ギリシャ語の中に含まれている思索においては、<外へ出す>とは何かを現前化する、現象させるといったことを意味します。但し、テクネーは個々の事柄を外に出すことではなく、ある事柄を見えるように対置し、用意することを意味しており、その見え方に応じて、その事柄がそのつどさまざまな形で見えるものとして現前化されるわけです。ですから、テクネーとはある事柄がその本質において、何であるかを見させ、視野の中にもたらすことであり、その限りで、近代的な意味での<技術>はテクネーの一種なのです。つまり近代の技術とは、今言った見させること、用意することであり、そこにおいて自然が数学的な対象として現象へともたらされるわけです。この技術は自然を計算可能な前置の対象に変えることであり、しかもその場合の計算とは、量的な計量のことです。

 長い引用で恐縮だが、この説明に学者と科学者が反論し自らの不可解と更なる説明を乞う。それに賢者は答える。

 賢者 アリストテレス(『ニコマス倫理学』第4巻)によれば、、テクネーはアレーテウエインの一つのありようであるとされ、この語の意味は現成し、現前するものとして現れるものを非隠蔽化することです。これを私たちのことばで言えば、露わにする、ということになるでしょう。アリストテレスは非隠蔽化のさまざまなありようを区別しており、つまりテクネー以外にエピステーメーやテオーリアがあるとするわけですが、これらはある意味では私たちが<学>と名づけているいるものに対応するありようです。テクネーとエピステーメーの違いをアリストテレスがどのような形で確定していようと、ここで何よりも決定的なことは、テクネーが露わにすることの一つであると考えられていることです。非隠蔽化としてのアレーテウエインの中にも、ギリシャ人の前概念的なテクネー理解が含まれているのですが、しばしばテクネーは通常の言語使用においても、それがエピステーメーと同様に非隠蔽化であるがゆえに、これと同一視されていたのです。(p18)

  頁数は『野の道での会話』 (ハイデッガー全集 第77巻 創文社 2001年11月25日発行 麻生 建訳)所収『アンキバシエー 科学者と学者と賢者による野の道での鼎談』

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2020年3月27日 (金)

待つことあるいは到来すること

 入院の無聊と退屈は読書と音楽で紛らす。映画が観られないのがアカショウビンには辛いところだが。もちろんノートパソコンは持参した。YouTubeで観ようと思えば観られはする。しかし偏屈なアカショウビンはそれが嫌いなのである。スクリーンは劇場か自宅のディスプレイで音響はそれなりでなければいけない。面倒な奴だな、というのが友人、知人の本音だろう。しかし、それはこだわりというものである。

 表題は読んでいる『ロシアの捕虜収容所で年下の男と年上の男の間で行われた夕べの会話』の中からキーワードと思えるハイデッガーの奇妙な文章から。編者によれば、この手稿は1945年5月8日の日付という。つまりドイツ敗戦の年月である。戦後もナチだったと暴露された哲学者は敗戦をどのように甘受しようとしていたのか。この手稿を読む限り、ひとりの<思索者>としてハイデッガーは祖国の敗戦に耐えていたと思われる。実に穏やかに会話という新たな形式で彼は思索を継続している。それは難解だが、その穏やかさが秘めた決意の如きものを看取させる。しかも、この二人の男は戦死した二人の息子を追想しているとも解されている。

 待つことによってはじめて

 我々は我々になり、すべての事物に根拠への帰還を許す。

 一度も聞かれることなく消え去った古えの名バイオリンの優しい響きのように 

 人目につかぬキャビネットの中の楽器のように

 上は年下の男に意図せず語りかけられたと話す言葉である。それは誰かの詩とも思われる。ハイデッガーが傾倒したヘルダーリンかも知れない。

年下の男は、また次のように年上の男に語る。

 私たちは楽器のようなものです。その響きの中で世界最古の演奏がこだましている非常に古い弦楽器のようなものです。(中略)われわれが待っている純粋な到来も、流れ去ってしまうような漠としたものではありません。それは、われわれ人間が、あるものをそれを基礎づけているものに委ねておくことがほとんどできないために、当然のことながら、ゆっくりとしか対応できない単純で卓越したものなのです。

 次の箇所は洋の東西を越えて敗戦国日本にも通じる。

 年下の男 おそらく民族における詩作し、思索する者というのは、最も高貴な形で待つ者に他ならず、彼らが到来を待つこと(Gegenwart)を通じて語(Wort)が人間の本質の応答(Antwort)に達し、またそのようにして言葉へともたらされるのです。

 年上の男 そうすると、詩人や思索者を持つ民族は卓越した意味での待つ民族であるということになりますね。

 年下の男 そうした民族はまず、そしておそらくまだ長い間、その本質の到着を待たねばならず、そのことによってその民族は、荒廃が過ぎ去ったものとして無視されることになる到来を待つ者になれるのです。

 上記の箇所はハイデッガーにとって詩人はヘルダーリンであろうし、それは我が国にすれば斎藤茂吉が心酔した柿本人麻呂とも解される。それはまた新たに熟考されなければならない別の論点であるけれども。

 『野の道での会話』所収の三つの会話は難解を極めるハイデッガー哲学をやさしく語り明かしたような風情をもつ。それは悟りの境地のようにも思える。ハイデッガーは戦前の思索で何かに到達、会得し、戦火の中でそれを静かに反芻している、そんな趣がある。さらに熟読していきたい。

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2020年3月26日 (木)

アンキバシエー

 放下と訳されたドイツ語はGelassenheitである。別訳では先のブログで引用させて頂いた委ねられている状態、あるいは「平然さ」である。放下と訳された辻村公一氏は仏教哲学的な意味を含ませたかったのかもしれない。ハイデッガーに仏教哲学の知識は日本人留学生たちを介し幾らか伝わっていただろう。何せ親鸞の宗教思想には強い関心を示したそうだから。その急所は他力という親鸞の思想的確信と思われる。加えて悪人正機説はシェリングの悪の論理とも呼応しハイデッガーの関心を惹いたのかもしれぬ。シェリングの『人間的自由の本質』を論じた講義は『シェリング講義』としてまとめられている。ハイデッガーや教え子のハンナ・アーレントが追及した<意志>についての論考は、仏教哲学で解すれば自力ということになろう。しかし宗教の多くはキリスト教でも他力である。ちっぽけな人間の力の及ばない大いなる力に頼り、任せる。それが人間にとって宗教なるものの発明というか発見とも創造となった、とは言えるだろう。

 後期ハイデッガーを読み解き、理解するうえで、創文社全集の第77巻に収められた『野の道での会話』の三編はハイデッガー理解に特異な位置を占めていると思われる。そこには神秘思想、秘教的退行とも解されかねない会話が交わされているものの、生涯を通してハイデッガーが会得した哲学的境地を、論文ではなく、死すべき者たちの人間の言葉で苦心、工夫して伝えようとする意図が伝わるのはアカショウビンの錯覚でもないように思うのだが如何であろうか。

 『野の道での会話』の第一編は、「科学者、学者、賢者の三人による野の道での鼎談」である。ギリシャ語のアンキバシエーとはヘラクレイトスの言葉。ドイツ語では〈近づいてゆくこと〉と訳される。翻訳は麻生 建氏。この戯曲の如き論考が1944年から45年に書かれたというのも興味深い。敗戦の断末魔のなかで思索を続けるハイデッガーが自らの思索をこのような形式で文字にしたということが興味深いのだ。そこには『存在と時間』以来の思索が繰り返し継続されているのを実感する。

 他の二篇は次の通り。『塔の登り口の戸口での教師と塔の番人の出会い』『ロシアの捕虜収容所で年下の男と年上の男の間で行われた夕べの会話』。『ロシアの捕虜収容所~』は、戦争で失った二人の息子への追想が込められているとも解説されている。

 

 

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2020年3月24日 (火)

放下あるいは委ねられている事

 本日これから手術仕様の検査である。審査腹腔鏡、これが正式名称。ガンが胃の外側にないか調べ他も見るという検査だ。臍と腹の二、三箇所に穴を開け内視鏡、カメラを入れて覗く。医療技術の進歩のなせる技である。五年ぶりに同じ病院で処置してもらう。医師スタッフは様変わりしている。上手い下手もあるだろう。しかし任せるしかない。俎板の上の鯉である。

 外は風が強い。五階の病室から見える病院敷地内の巨樹の葉が大きく揺れている。

 表題はハイデッガーの生前は未刊の論考から。入院で持ち込み久しぶりに読み直した。感想は後で。これから手術室に向かう。

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2020年2月17日 (月)

虫の知らせ

 こういうのを虫の知らせというのだろう。年来読み続けてきた創文社刊の『ハイデッガー全集』で気になることがあり直接電話で問い合わせてみようとネットで同社のホームページを探したら、何と今年三月で書籍販売を止めるという知らせである。事実上の倒産だろう。ハイデッガー全集は継続中で終わってないはずだ。そんな状況なら今月は忙しいだろう。あとはどうなるのか、果たして連絡は取れるのか。

 連絡は取れたが問い合わせた件は判明しなかった。聞けば創刊は昭和26年、70年の歴史が閉じられる。残念である。しかしハイデッガー全集は東京大学出版会に引き継がれるそうだ。〈存在〉を〈有〉と統一して訳すなど研究者や専門家からは批判も多かった全集だが、是非とも完結して頂きたいものと切に思う。

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2019年11月28日 (木)

若きカール・マルクス

 先に少し書いた『私はあなたの二グロではない』のラウル・ペックの最新作品と思われる昨年都内の岩波ホールで公開された作品である。原題は『LE JEUNE KARL MARX』。邦題は『マルクス・エンゲルス』。内容は、「共産党宣言』を出版し19世紀中期にドイツ、フランス、イギリスを行き来し精力的に政治活動、出版活動を展開したマルクスと盟友フリードリヒ・エンゲルスの若き姿を描いた秀作だ。当時、マルクス26歳、エンゲルス24歳。このほどレンタルショップに登場し、アカショウビンも二度目で熟視した。監督の意図は前作のドキュメンタリータッチとは異なる監督の創作である。監督は作品のなかでマルクスとエンゲルスが生きた時代と人々を再生した。監督はアカショウビンと同年代だ。中南米出身の監督と育った土地、風土は違っても同時代を生きた精神風土は共通するものがあるのだろう。実に面白く啓発される。二人の哲学者・思想家・行動者に対する評価はまちまちだろう。しかし、『私はあなたの二グロではない』を撮った監督が奴隷解放運動の頃のアメリカと所を変えて撮った作品は同じ監督のものとは思えない作品になっている。実に入念に仕上げられた物語だ。過去の或る時代の人と歴史背景を映像化するという行為は文芸において文字にするという行為と映画でも脚本、当時の建物、風俗を再生する楽しみと責任が伴う。それらが実にバランスよく監督は映像化したと思う。

 マルクスの思想の可能性は今また見直されている。「近代ブルジョワ社会は、呼び出した悪魔を制御できぬ魔法使いと同じだ。封建制を打倒したブルジョワの武器が今や彼ら自身に向けられている」。『共産党宣言』の一節だ。イギリスに亡命したマルクスが病と貧困のなか書き続けた『資本論」も新たな読者を得て読み継がれているようだ。その成果が人間の未来を開く契機となることを。現在の若きマルクス、エンゲルスたちに期待する。

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2019年1月26日 (土)

擬態的

 先日読んだ『ナチ神話』で啓発された箇所を引用し思考を継続しよう。ナンシーとラクー・ラバルトは次のように記している。 
 プラトンが都市国家の芸術を追放し示したのは、神話の問題はつねに芸術の問題と分かちがたいということもあり、それはなぜかといえば神話が一個の集団的創造物ないし芸術的であるというよりも、神話が、それを利用する芸術作品と同様に、一個の同一化の装置であるからなのである。神話とは、すぐれて擬態的(mimetique)な道具ですらあるのだ。(p45)
 これは啓発と言うより熟考しなければならない指摘といえる。ナンシーはともかくアカショウビンにはハイデガーを介したラクー・ラバルトの思索に挑発されるからだ。
 擬態とは昆虫や植物の生き残る知恵と本能であろう。さて人間は知恵と本能でこの惑星から太陽系の外まで歴史を継続できるのであろうか?

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2018年10月22日 (月)

突破する

 1973年、ツェーリンゲンでのゼミナールでハイデッガーは『存在と時間』(創文社版では「有と時」)の「物」はもはやその場所を意識の内にもつのではなくて、世界‐の‐内に持つ(この世界はそれ自身また、意識に内在するものではない)と述べている。(「四つのゼミナール」p111)。そしてフッサールの立場を「新カント派学派への関係においては一歩前進」と評価する。

 それは、対象を意識の内在の内へ組み入れることによってである、として「それゆえ意識の領域はフッサールにおいては全く問に付されず、まして突破されるということはない」と述べたようだ。

 突破(Durchbruch)とは、テオドール・W・アドルノがマーラーの作品を解くキーワードである。『マーラー 音楽観想学』(法政大学出版 龍村あや子訳)で、龍村氏は次のように説明している。

  突破(Durchbruch)は、「世の成り行き Weltlauf」「一時止揚  Suspension」とともに、アドルノがマーラーの形式を分析する上での基本概念として提示するものである。―マーラー論において<突破>は<世の成り行き>と対置され、この両者の対比は時間性の非連続として現れる。すなわち、<世の成り行き>とはこの場合単なる「世間」の意味ではなく、平穏でつつがなく流れて行く世間的な、あるいは表面上論理的な、伝来の芸術語法で了解可能な時間の動きを意味する。これに対し、その時間を突発的に多種多様に打ち壊し、目覚めさせようとする瞬間がすなわち<突破>として捉えられるのである。さらに、「突破」によってそれまでの内在論理が一時的に停止され、一定の時間、別世界が繰り広げられることが、いわゆる<一時止揚>にほかならない。

  このハイデッガーの痛烈な批判者の音楽哲学はハイデッガーの講義録を読むスリリングと面白さを共有して読める。

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