2008年12月28日 (日)

今年読んだ本ベスト10

 ミクシイで10冊を挙げたがコメントは長くなるので敢えて入れなかった。順位はミクシイ用に少し作為したが内容をそれほど吟味して順位をつけたわけでもない。まぁ、とにかくコメントしながら作品を想い起こしてみよう。

 ①「日本侠客伝 マキノ雅弘の世界」(山田宏一)

 池袋の新文芸座で11月23日から12月6日まで「マキノ雅弘生誕百年記念上映会」が行われ14日間で29本が公開された。マキノが生涯に撮った作品は260本余というから約一割に過ぎない。そのうち8日間通い17本を観た。お目当ては「次郎長三国史」全9作。昭和27年の第一作から評判を呼びシリーズ化されたのだろう。3年間に9本というから人気のほどが偲ばれる。“早撮りマキノ”の面目躍如である。

 山田氏の著作は、その時に新文芸座の売店で購入した。マキノ監督や森繁久彌(以下敬称は略させていただく)へのインタビューが実に面白かった。藤 純子(現在は富司純子さんだが)を時代のヒロインに育て上げていくエピソードや高倉 健他の当時の姿が彷彿としてたまらない。

 ②「非神秘主義-禅とエックハルト」(上田閑照)

 このブログで既に書いたけれども上田氏の禅やドイツ哲学、ドイツ神秘主義者たちへの造詣の深さと踏み込みかたがわかる渾身の作である。碩学が生涯の仕事を後人のために編集している。鈴木大拙のエピソードなど初めて知る事実も多く実に興味深く読んだ。

 ③「在日一世の記憶」(小熊英二・姜 尚中 編)

 今や死に絶えようとしている在日一世の人々へのインタビューと自ら綴った文章が胸を打つ。正史には現れない個人の歴史、人生の叫び、歎き、歓び、慟哭、告発が行間に溢れている。心して読まねばならぬ声の集成である。

 ④「ブレーメン講演とフライブルグ講演」(ハイデガー)

 戦後にハイデガーが公に姿を現した時の言説が読み取れる。繰り返し精読し考察すべき講演だ。平凡社から出版されている「形而上学入門」(川原栄峰訳)も繰り返し読み新たな発見がある。今年は「芸術作品の根源」(関口 浩訳)も出版された。これも面白く読んだ。翻訳の微妙な相違は創文社全集と比較すると著者の意図はほぼ掴める。ゴッホの「靴」に対するハイデガーの迫り方は小林秀雄のゴッホ論と対照させても面白い。「ブレーメン講演~」は戦後ドイツや世界の現状をハイデガー流にギリシア以来の「技術」に対する本質論を展開したもの。現在の世界の現状を見渡しても少しも色褪せぬどころか鮮やかな視角が切り拓かれている。今を生きる私とは何者なのか?という思索と反響させて考察していくべき講演だ。次々と公刊されている創文社の新全集と共に読み解きながらハイデガーの全貌を明らかにしていきたい。

 ⑤ 「三島由紀夫の死と私」(西尾幹二)

 著者はアカショウビンが現在の保守論客の中では未だに関心を持って著作に幾らか眼を通す評論家というより学者である。ニーチェなどドイツ哲学に集中すればよいのにチンピラのような連中と同調しテレビでは道化の如き姿が情けない。しかし新著は面白く読んだ。氏は三島が割腹したときドイツ帰りの新進批評家として登場している。三島への批評は当時面白く読んだ。時を経て当時は封印したという論考も収載している。その批評は今読んでも良質の批評として読んだ。

 ⑥「愛と痛み 死刑をめぐって」(辺見 庸)

 今年九段会館で行った講演の補筆版である。感想は講演後に書いたので繰り返さない。アカショウビンは講演を然と聴講したので興味深く読んだ。闘病生活の中での渾身の著作である。これほどの怒り、憤り、気概を持つジャーナリストは、この国にいかほどいらっしゃるのか寡聞にして知らない。テレビを見る限りアカショウビンは氏が「糞蝿」と唾棄する御仁が殆どなのではないかと邪推するのだが。

 ⑦「思想の危険について」(田川健三)

 有数の聖書学者がまとめた吉本隆明への痛烈な批判書である。オマージュが含意されているのが氏のスタンス。今や晩年を過ごされている吉本氏への氏の感慨も邪推されて面白く読んだ。

 ⑧「小高へ 父 島尾敏雄への旅」(島尾伸三)

 この作品も感想はブログに書いたけれども、昨年亡くなられた、著者の母親のミホさんにも言及しているので興味深く読んだ。それにしても行間に読み取られる親子の愛憎が痛ましくも切ない。

 ⑨「日本の文學史」(保田與重郎)

 保田ならではの日本文学史である。「右翼」と称される人々だけでなく日本という国土に生まれた「国民」の中核とも見做せる思考と思索が展開されている。上記の辺見氏らとは対極に立つ批評家だが、この言説を読み解かなければ国史も天皇も三島も理解はされないだろう。

 ⑩「故郷七十年」(柳田国男)

 小林秀雄が講演で引用している箇所を確認するため読んだ。柳田の神秘体験ともいえる少年時代のエピソードが興味深い。小林は柳田を引用し大嫌いな花袋らの自然主義作家を切って捨てている。小林の気迫溢れる語勢が凄い。 

昭和498月5日に小林秀雄は㈳国民文化研究会主催の夏季学生合宿教室で柳田国男の「故郷七十年」を引用して話している。

柳田は明治20年秋、13歳の時に茨木県の布川というところに開業した新婚の兄をたよって住んでいた。そのころの話である。(以下、抜粋)

布川にいた二ヶ年間の話は、馬鹿々々しいということさえかまわなければいくらでもある。何かにちょっと書いたが、こんな出来事もあった。小川家のいちばん奥の方に少し綺麗な土蔵が建てられており、その前に二十坪ばかりの平地があって、二、三本の木があり、その下に小さな石の祠(ほこら)の新しいのがあった。聞いてみると、小川という家はそのころ三代目で、初代のお爺さんは茨城の水戸の方から移住してきた偉いお医者さんであった。その人のお母さんになる老媼を祀ったのがこの石の祠だという話で、つまりお祖母さんを屋敷の神様として祀ってあった。

この祠の中がどうなっているのか、いたずらだった十四歳の私は、一度石の扉をあけてみたいと思っていた。たしか春の日だったと思う。人に見つかれば叱られるので、誰もいない時、恐る恐るそれをあけてみた。そしたら一握りくらいの大きさの、じつに綺麗な蠟石の珠が一つおさまっていた。その珠をことんとはめ込むように石が彫ってあった。後で聞いて判ったのだが、そのおばあさんが、どういうわけか、中風で寝てからその珠をしょっちゅう撫でまわしておったそうだ。それで後に、このおばあさんを記念するのには、この珠がいちばんいいといって、孫に当る人がその祠の中に収めたのだとか。そのころとしてはずいぶん新しい考え方であった。

 その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持になって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこにたしかに数十の星を見たのである。昼間見えないはずだがと思って、子供心にいろいろ考えてみた。そのころ少しばかり天文のことを知っていたので、今ごろ見えるとしたら自分らの知っている星じゃないんだから、別にさがしまわる必要はないという心持を取り戻した。

 今考えても、あれはたしかに、異常心理だったと思う。だれもいない所で御幣か鏡が入っているんだろうと思ってあけたところ、そんなきれいな珠があったので、非常に強く感動したものらしい。そんなぼんやりした気分になっているその時に、突然高い空で□がピーッと鳴いて通った。そうしたらその拍子に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あの時に□が鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたんじゃないかと思うのである。(昭和34年のじぎく文庫p3536

アカショウビンが巣鴨の三百人劇場で聴いた小林秀雄の講演で、氏は、その文章を張りのある声で音読した。昭和49年の講演テープは同じ気迫で、やはり柳田の文章を引用している。

奥さんを亡くし14歳になる子供と他からもらった女の子がいる炭焼きの話である。彼は生活のために山で炭焼きの生業としている。作った炭を麓の村で売りに行くが生活は楽ではない。炭は売れない。売れても米一合にしかならない。ある日も手ぶらで帰ってきた。そうすると子供たちの顔を見るのが恐ろしいので、こそこそと部屋に入り昼寝した。ふっと眼が覚めると音がする。そうすると子供が炭焼きの鉈を研いでいる。それを女の子が見ている。そのとき夕日が一面にあたっていた。そして子どもたちは近くにあった丸太を枕に横になり「おとう、俺たちを殺してくれ」といった。そのときクラクラと眩暈がしてわからなくなり鉈で子どもたちの首を切ってしまった。そして自分も死のうとしたがうまくいかないで里でうろうろしていたところを警察(巡査)に捕まった。この話を柳田は序文に代えた。

この逸話に小林は鋭く反応した。講演で聴いた小林の語勢は気迫に満ちていたことをアカショウビンは今でも鮮やかに想い起こす。それは氏が当時の時代状況の中で並々ならぬ意識で、その文章を読んだ事が直感されたからだ。

49年の講演テープの中で小林は次のように語っている。

そのころ文壇はつまらん心理的な小説を書いて自然主義文学が威張っていた頃に柳田さんは苦々しく思い「何をしてるんだ諸君」と柳田さんは言いたかったのだ、と僕はそう思う。人生とは囚人の人生にあるようないくつもの悲惨なことを抱えているものだ。つまらない恋愛小説を書いて、それが人生の真相だと言っているものに真実などはない。その子供は、こんな健全なものはない。

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2006年6月 9日 (金)

この国の品格

 6日に日帰り仕事で山形の高畠へ行って来た。東北新幹線「つばさ」は福島で切り離され、米沢から山形へ向かう。同じ経路を冬に辿る時の景観の変化とは何という違いか!南島生まれのアカショウビンには、この美しさは異郷のものである。冬に福島から米沢に入る景色の変化は日本という国に棲む楽しさを思い知らせる。

 その間に携帯した本は藤原正彦氏の「国家の品格」と保田與重郎の「萬葉集の精神」。この二冊を山形の田園風景を楽しみながらパラパラ読む。そこがアカショウビンらしいところである。何のこっちゃ、と言うなかれ。雪景色から緑なす山並みと米沢から山形への景色の変化には瞠目しながら、この国の姿と観念を比較分析、綜合しようと悪戦する。これがアカショウビンの、この世に棲む楽しみなのである。

 で、「国家の品格」は?「萬葉集の精神」は?まぁ、まぁ、急ぐなかれ。貴兄弟も貴姉妹も、ゆるりと、この世の不可思議と愚劣と快楽を併せ楽しむに如かず。

 日本有数の穀倉地帯を移動しながら、アカショウビンは現今の小学校教育に関して藤原氏が「小学生が新聞の経済欄なんかに目を通す必要はありません。ましてや株価欄に目を通す必要などまったくない。もっとはっきり言うと、社会に目を開く必要すらない。そんな暇があったら漢字を、国語をきちんと学び、足し算、引き算、掛け算、割り算、分数、小数をきちんと学ぶことです。」という主張に激しく同意するのである。

 氏はインド人が19×19の暗算が出来るように教育されていることを指摘しインドでの昨今のコンピューター産業の進歩・発展の理由はそこにもある(取意)と述べている。その事実は初めて知って驚く。なるほど!九九では太刀打ちできないわけだ(笑)。だからといって、日本もインドに対抗するのか?コンピューター産業でインドや韓国に負けないためにそれを強要すれば良いのか?

 それは現実の、この国が遭遇しているアホらしくも真面目でもありかねない教育の現状ではないのか? 

 まさか、ではあろう。しかし世の父親や母親が教師たちにインド人を越えるためには、あるいはコンピューターに習熟するために、19×19の暗算を我が息子や娘に叩きこんでください、と教師たちに懇願したとしよう。そうなれば、この国は果たして衰亡するや繁栄するや否や?そこから、この国の行く末を思索するのも面白くなくはないだろうか?

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2006年3月26日 (日)

辺見氏のこと(続き)

  「自分自身への審問」という辺見氏の近刊(2006年2月25日 毎日新聞)でハイデガーとボリス・ヴィアンが引用されているのが興味深い。

 ハイデガーは第二次世界大戦の終結後、1945年12月、リルケ没後20周年の講演で「神性の輝きが世界史から消えてしまった」と語り「世界にとっては基礎付けるものとしての根底が見出されなくなっている」 「もはや神の欠如を欠如として認めることができないほどになっている(「乏しき時代の詩人」、『ハイデッガー選集』Ⅴ、手塚富雄・高橋英夫共訳)という箇所(同書 p80)である。

 辺見氏は、この慨嘆はただごとではない、として次のように続ける。

 「基礎付けるものとしての根底」なき世界という言葉は、ハイデガーの意図するところとは別に、ぼくにとって衝撃的でした。二十一世紀こそがもっともそうではないかと思うからです。

 これはアカショウビンが辺見氏に共感する論説のうちで意外性をもって読んだ箇所の一つでもある。辺見氏はハイデガーをナチス思想へ加担した責任はともかく、前世紀で無視できない哲学者という視点からその言説を引用している。その「衝撃」とは左翼的な言説が主導する戦後日本の言説の中でハイデガーを読んだ辺見氏の率直な感想として読める。ボードリヤールやドゥルーズ、あるいは9・11直後のチョムスキーの言説に触発された辺見氏の思索をそれは裏付けている。西洋の重要な言説を読み連ねるなかでハイデガーの戦後直後の発言として引用する辺見氏の論説は熟慮するに値する。それはハイデガーの言う「視界(ペルスペクティーヴェ=パースペクティブ)」の幅、あるいは「射程」の確かさを読み込んだうえでの発言として考察する必要があると思うからだ。

 ハイデガーの「存在と時間」が当時の哲学界、思想界にとって衝撃的な著作となったことは、その後のハイデガー評価を辿れば見やすい事実である。しかし、それがナチズムへの加担(それは一時的なものではないというのがヴィクトル・ファリアスの告発だが)を通したものである、と戦後に読み解かれるハイデガー哲学は西洋哲学への広大な視線、視界のもとで論じられる。ハイデガーが言う「西洋の運命」として論じる言説はキリスト教を含めた「西洋哲学」の根底を問う問いでもあったからである。

 ハイデガーは「ヒューマニズムについて」(1997年 ちくま学芸文庫 渡邊二郎 訳)で次のように述べる。

 「エッセンティア(本質とエクシステンティア(現実存在)との区別は、その本質の由来においては隠されているが、この区別は、西洋の歴史の運命およびヨーロッパ的に規定された歴史全体の運命とを、隅々に至るまで支配している。(p52)

 更に次のように続ける。(途中省略)

 「『存在と時間』のうちでは、エッセンティア(本質)とエクシステンティア(現実存在)との関係に関しては、なんらの命題もまだまったく言明されうる状態にはなっていないということ、これである。というのも、そこでは、ある先-駆的な事柄を準備することが、肝要だからである。この準備作業は、そこで言い述べられた事柄にしたがって見れば、甚だ不器用な仕方でしか果たされていない。いまもなお初めて言われるべきその事柄は、多分、人間の本質を次の地点に至るように大切に見守りながら導くための推進力になりうるであろう。思索することを通じて、人間の本質を隅々になるまで支配しているところの、存在の真理という次元へと、注意を向けるようになるという地点が、それである。けれども、このことといえどもやはり、そのつどただ、存在の尊厳を顕すためにのみ行われ、また、人間が、存在へと身を開きそこへと出で立つありかたにおいて耐え抜くところの現-存在のためにのみ行われるのであって、反対に、人間のことを思い煩い、人間の創造活動によって文明や文化が効力を発揮するようにと目論んで行われるのではけっしてないのである」。(同p53)

 この箇所は戦後のハイデガーがパリのジャン・ボーフレに宛てた書簡ののなかで開陳されているハイデガーのサルトル批判である。(18サルトル批判-形而上学と存在忘却)

 戦後フランスあるいは日本の思想界を牽引していたサルトルの哲学思想にハイデガーが「存在と時間」以後の「西洋の運命」を思索するなかでの発言として、これはとても興味深いではないか。辺見氏は若い頃、サルトルやチョムスキーら欧米の言説に刺激されたあと通信社の仕事で中国や海外での仕事を続けながら9・11以降は米国やアフガニスタンも訪れ思索を続行しているのは明らかだ。その「現在」での辺見氏の思索がアカショウビンにも実に興味深いのである。

 また引用されているボリス・ヴィアンはアカショウビンも熱心な読者ではなかったが学生の頃に読んだ著作である。実に久しぶりに「ボリス・ヴィアン」という文字に接し触発された。辺見氏は次のように引用している。(同書p77)

 ボリス・ヴィアンだって言っているじゃないか。この世には二つのものだけがあればいいって。恋とデューク・エリントンだけ。「ほかのものは消え失せたっていい、醜いんだから」(『日々の泡』の「まえがき」)。

 この箇所で辺見氏は反語的にボリス・ヴィアンを引用しているのだが氏の言説の背景にアカショウビンが共鳴する部分でもある。春の兆しが空気に感じられる日曜日にモーツァルトのコンチェルトやピアノ・ソナタを聴きながらこのような文章を綴ることができるアカショウビンの「今」は何と幸せな時ではないか。あるいはヴィアンの愛する「デューク・エリントン」は戦後フランスの中での「米国」という国家のひとつの意味を象徴させているとも言えるだろう。辺見氏の言説を読み共感、挑発されるのもアカショウビンの「現在」なのである。

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2006年2月 1日 (水)

エミリー・ディキンスン(続き)

 先のブログは通勤の時に満員電車の中で、おばさんやおじさん、お姉さんや若い男の迷惑そうな視線を無視してザウルスにメモったデータをパソコンに移し修正したのだが、文字が大きくて読みづらいこと甚だしい。いずれ修整したいのでお許し願いたい。

 きょうは書店で岩田典子さんの「エミリー・ディキンソン-わたしは可能性に住んでいる」という著作も大枚を払い買ってきた。そのうちN村君から返信もあるだろうから、こちらはちゃんと応戦体制を整えて待ち構えているのである。

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エミリー・ディキンスン

  友人のN村君は高校の英語教師である。生真面目で律儀。昔の書生さん(この実体は知らないが)風とでもえいえば、何となく雰囲気だけは伝わるだろうか(そんな事あるわけないか)。見た目は教え子の女生徒からモテそうな風貌だが、話していると理屈っぽく、吉本隆明にも影響されているようだ。そんな教師と女生徒の関心とは天地ほどにも離れているだろうから、彼が教師として、どんな「生活指導」とやらをしているのかアカショウビンは少し興味がなくもない。

 生まれは東京の下町。かつては、あの荷風翁も足しげく通った遊郭の近くだが、学生時代からまじめで、そちらの話は、あまりした記憶がない。

 生真面目な輩は、えてしてドン臭い。そしてたいがいが含羞というものに鈍感だ。ところがN村君は少しシャイ。学生時代は、風貌のわりには、女子によくモテたようにも見えなかったが、なかなか美しい恋人はいた。微妙なところでシャイ。それが女心を複雑に刺激するのかもしれない。それは果たして母性本能と、どう関係づけられるのか面白い課題だが。巷間、流布している「母性本能」という「本能」も近代の入口辺りで作り上げられた概念だ、と論じていたのは誰だったか?おっと、話がそれてしまった。その美しい恋人とも別れ、晩婚だったが今は一人娘の父親でもある。

 なぜ、こんな前振りをするのかというと、それは彼が高校の英語教師をしている、という一点に以下の話が関わってくるからである。

 アカショウビンのような映画狂ではN村くんはない。しかし我々のような年代が学生の頃は、名画座という、懐かしい、ありがたい、格安な料金で、世の傑作、佳作、凡作、駄作、愚作を上映してくれた映画館が次第に滅びていく最後の頃だった。

 仲間で駄弁る材料は、小説や作家、批評家、それに音楽、女や映画の話だった。しかし社会人になれば、そんな話は自然としなくなる。女房、子供、家のローン、嫁姑の争いが切実な話となってくる。アカショウビンのように、この歳になっても性懲りもなく、映画や音楽、思想、哲学の話を、ブログというような、真面目に仕事に活用するならともかく、金にもならない話をシコシコと書くというのは阿呆のようなものである、と心から情けなくなるのである(笑)。 

 なかなか本題に入らないので申しわけない。ここから入る。 そのN村君と、何年か前に話していて「ソフィーの選択」という映画の話になった。アカショウビンは、良い作品だ、と褒めた。N村君は原作も読んだという。そこでアカショウビンは、何が良かったかといってエミリー・ディキンスンの詩が素晴らしかったと感想を述べた。しかしN村君はキョトンとしている。何それ?という風情なのである。アー、何とドン臭いやつか、と学生時代以来、そのときもまたアカショウビンは呆れたのである。

 あの映画を観たあと、脱兎の如く(たとえが古くてもうしわけない)本屋に走り、息を切らしながら可愛い女店員を姑息にも避け、無表情な女店員を選び、目を血走らせ、どもりながらも「エ、エ、エミリー・ディキンスン詩集はどこにありますか」と勇を鼓して訊ねない男は共に文学、天下、国家、人生を語るに足らない、と心から深いため息をついたのである。しかしN村君は、エミリー・ディキンスンなんて読んだことないんだもーん、と平気な顔をしているのだ。英語教師がディキンスンを読んだことがないということは、フランス語教師がヴァレリー、マラルメを読んだことがないというのと同じく愚かで恥ずかしいことではないのか?アカショウビンは、そのとき、心の底から日本国の英語教師と英語教育に絶望したのであった。あの作品の中でディキンスンの詩は千金の重みを担っていたではないか。おーい、N村君!日本の英語教師はそれでいいのか~~。

 アカショウビンは松蔭寅次郎が、黒船という、その頃の江戸庶民にとってエイリアンの襲来のごとき登場に恐れをなして逃げ出すのを尻目に、翻然とその何たるかを身を挺して視極めんとした行動を思い起こすのである。もちろん、飛躍は承知で言うのである。こうなったら勢いと言うものである(笑)!

 松蔭寅次郎が幕末に西洋文明に己の知を対抗させて、徳川幕府という瀕死の、しかし日本国の歴史を担い続けてきた権威に対峙した気概と歯噛みをアカショウビンは共有する者である。N村君のキョトンとした表情に、それはもしかしたら居直りでもあるのではないか、と邪推しアカショウビンは絶句したのであった。

 先日、思うところあって訳詩集を購入し、映画で語られた詩の箇所の翻訳を読んだ。つまらない訳だった。しかし、それは原文がつまらないのか、翻訳がつまらないのか確かめたわけではない。映画の中の字幕で辿る翻訳は素晴らしかった。そのうち、原文と照らし合わせ、映画も見直したいと思う。

 それにしてもN村君は、未だにディキンスンを読まず、授業で生徒にも教えていないのだろうか?おーーい!中年の英語教師~~!それで日本の英語教育は大丈夫か~~。

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2005年11月23日 (水)

強靭な意志

 先日、外回りの仕事の空き時間の途中、書店に入って積み上げられている文庫をざっと眺めながら行き過ぎようとすると三島由紀夫という文字と二・二六事件という文字が視線の端を掠めた。著者を見ると松本健一氏。仕事の合間、時間潰しにでも、と購入した。書名は「三島由紀夫の二・二六事件」。これが面白く、乱読、併読、遅読のアカショウビンには珍しく二日で読み終えた。この本で松本氏は昨年完結させた五巻本の自著「評伝 北一輝」を介して、氏が1970年に「若き北一輝」の最終章を書いていた頃に三島が自衛隊の市谷駐屯地に乱入、自決事件が起きたことなどを伝えながら、この書を著す導入としている。

 内容の面白さは、氏のその後の北一輝(1883~1937)への打ち込みかたと、日本近現代史への関心と理解の深さからくるものであることは疑いない。

 11月25日の「憂国忌」も近い。著作の発刊日が11月20日なのは氏ご自身の意図はともかく、出版社の意図は明らかと思われる。それはともかく、三島由紀夫という存在は、この国の文学史には特筆され、さらには政治史、文化史にも欠かすことの出来ない現象であろう。

 アカショウビンは既に三島の45年の生涯以上の馬齢を重ねている。自らを振り返るに、多感な高校の頃に起きたこの事件は、アカショウビンの精神形成過程に深く関わっていると思わざるをえない。三島の思想性はともかく、作家としての抜群の資質は果たしてこれを超える才能が、その後現れているのか寡聞に知らない。その論理の明晰さと文章の美しさは日本文学史において類をみない存在といってよいだろう。そしてその才能、才覚は小林秀雄が対談で表明した言葉を読めば直覚できる。

 この著作で初めて知った事は「豊饒の海」第2巻「奔馬」の主人公・飯沼 勲が、最初の構想では北 一輝をモデルにしたという事実である。それは主人公の年齢を加味して、その後改変し北の長男(養子)大輝をイメージしたことも指摘し三島の二・二六事件への並々ならぬ関心の傍証としている。高校の頃の授業で日本史の教師が津田左右吉の歴史観を紹介しながら、「英霊の聲」の「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」、を引いて多感な高校生の関心を探っていた光景なども思い出された。

 それにしても三島という作家の凄さと不思議さは、作品の明晰と、自らの思想の論理的整合性と逆説を行動で示した強靭な意志の力である。その当否はともかく、それは稀有のものというしかないだろう。昨今の作家に、その芥子粒ほどさえ有していると言える御仁はありやなしや?

 松本氏は著書の最後でハーバート・ビックス氏の「昭和天皇」への批判として昭和天皇と歴史への誤解・短見を指摘するが、異論も百出するだろう。

 とりあえず松本氏のビックス氏批判の説得力ある箇所を抜き書きしておく。

 「ビックスは天皇が日本近代史において果たした国家支配の原理ととともに、その革命原理でもあった二重構造、つまり、支配と革命との双方にわたる原理の根底にある民族の共同幻想としての天皇像にまったく理解が届いていないのである。」(p173)

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2005年8月12日 (金)

戦艦大和ノ最期・初出テクスト(続き)

 先の臼淵大尉の持ち場は初出テクストでは哨戒長となっている。そして、大尉は薄暮の洋上に眼鏡を向けたまま低く囁くごとく言った、と記されている。

 「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ、負ケルコトガ最上ノ道ダ、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ、今目覚メズシテイツ救ワレルカ、、俺達ハソノ先導ダ」。

 吉田さんは、この初稿を書いた後、1952年に創元社から出版されるまでに、何度も記憶を手繰り寄せ推敲を重ねられたと思われる。創元社版では次のように記されている。ただし、カタカナ交じりの歴史的仮名遣いの原文を、現代仮名遣いで育ったアカショウビンや若い人たちにも読みやすいように、句読点を付け現代仮名遣いに変えさせていただくことをお許しいただきたい。

 「進歩のないものは決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺達はその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。正に本望じゃないか」。

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2005年7月29日 (金)

消極的な腐敗物

竹中 労の「琉球共和国 汝、花を武器とせよ」は、その破れかぶれとも見える生き様と独特の文体が「竹中節」というものだが、彼が生きた時代の空気が伝わってくるのも確かだ。「ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時に運動に投げこまれることはあっても、その全生活状態から見れば反動の策謀に利用される危険が多い」という共産党宣言の文言に彼がこだわるのは私も共感する。 

それにしても、その文章を読みながら朝のテレビの女性アナウンサーの姿形を見ていると、何と小奇麗で日本人離れした格好か、と改めて思うのだ。竹中のペンで活写される人や風景と、そういったテレビの一場面から直感する現在の私達の存在する「今」の隔たりは大きい。

 もちろん、それを否定する立場もある。隔たっているのは時間だけで中身は殆ど同じようなものだ、というように。

香港の水上生活者達の生活は今も竹中が訪れた頃とさほど変わってはいないだろう。山谷も然りと思われる。しかしテレビに映る映像は、あの頃とは確実に変わっているだろう。しかし、それを進化というのか、進歩というのか、はたまた洗練、というのか。

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2005年7月 9日 (土)

「戦艦大和の最期」・初出テクスト

 

人の死とは何か。また、この世で生きるという事とは何か。それはどう意味づけられるのか。かつてかかわりがあった人の死や生き物の死に遭遇するたびに、それは間欠泉のように吹き上がる思いである。私達は生きている間に幾つもの死や死体を眼前にする。それは人であり、動物であり、鳥類であり、魚類であり、昆虫であり、ゴキブリであり、蚊であり、諸々である。「戦艦大和の最期」の著者である吉田満氏にとっては大和で死んでいった人々の死であり、先輩や戦友の死であり、また親族をはじめ氏が出会った様々な死であろう。

 昨日、書店を覗き保阪正康氏編の -「戦艦大和」と戦後 吉田 満-(ちくま学芸文庫)という書物を発見し購入した。なぜまた昨今、大和がブームなのか私は知らない。まさか右傾化によるものとも思いたくはない。しかし、この国、とあえて私は突き放して書く。この国の戦後史の中で1952年にやっと出版された創元社の初出本「戦艦大和ノ最期」から、この著作が戦争にかかわった軍人と文学好きと幾人かの国民に共感とまた反発を招いた象徴的な作品である事は確かだ。あえて作品と書くが、それは戦闘記であり報告書として最初は書かれた。しかし戦後の米軍の統制下で検閲され原文は出版事情によって何度か改変された。その経緯と後の若い人々によって、この著作がどのように読まれたかは、著者とは十数歳下の学生として左翼運動にも関わったという編者の保阪氏の文章を読めば了解できる。

 この著作は私も学生の頃に読み、その後何度か読み返し、そのたびに触発される文章である。それは戦闘記として興味深く、また私達の親の世代の戦争が、国家が伝える歴史としてでなく偶然のような機会を経て読める歴史の稀有の一幕を伝える記述として貴重というしかない。その戦闘の実態の生々しさと文章の痛烈さは読む者を震撼させる。時代こそ違え同年代の若者の文章とは思えない完成度をもつ文章として私は読んだ。

何年か前に江藤淳氏が、米国でその原文を発見したことを月刊誌で読み確認した。それは出版されたものとは異なる迫力と痛切な美しさを持つ文章だった。結語の「至烈ノ闘魂、至高ノ錬度、天下ニ恥ヂザル最期ナリ」という初出の文を読み得た時、私は吉田さんの思いを根底で聴き得た思いがした。あえて吉田さんと書かせていただく。戦後生まれの私にとって吉田さんは僭越ながら、そのように呼ばせていただきたい存在なのである。私は、この時期になると吉田さんの戦後の文章が読みたくなる。戦後六十年とは、この東アジアの民衆、大衆、市民、人々にとって干支が五周期する節目の年である。この年に出版する出版社の意図はともかく、この初出の文章が文庫になり読める事は評価する。この夏に首相が靖国に参ることにマスコミはピンからキリまで馬鹿騒ぎをするだろう。しかし私にはそれと若干の関係を持ちながら今年の夏も鎮魂の思いで「歴史」と正面する時である。それ以外は黙殺すべき騒音でしかない。私にとっては静かに、人の死、生き物の死、この世に存在することの不思議と関心と興味を持続しながら、いずれ来る死を迎える予行演習とでも言うしかない時である。


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2005年5月29日 (日)

保田與重郎

 保田與重郎は忘れられた「文人」だろうが、あえて今読む面白さがあると思う。私は時勢に便乗しているわけでなく、日本という国の文学史を考えるうえで保田與重郎は重要と考えるからだ。戦前から戦中、戦後の歴史過程で、この「文人」の作品は右翼的言辞として左翼から徹底的に論難された。同様に同じ扱いを受けた小林秀雄の戦後の評価を見れば実に不遇な評価しかされていないのが保田與重郎という「文人」なのである。しかし戦後の日本の進んだ方向への違和感を根本のところで明確に主張しているスタンスは小林秀雄より刺激的だというのが私の印象なのである。私には思想的な保田與重郎より文人としての日本文学史への造詣が面白く、そこから読み直さなければ保田與重郎の思想は十分に把握できないと考える。小林秀雄の最後の作品となった「本居宣長」の裏にある日本思想の根幹は保田與重郎に光をあてなければ総体的に捉えることは出来ないと私には思われる。

 現在、憲法論議が盛んになっているが、新憲法が制定された時期に保田がさっそく新憲法への疑義を呈して「新憲法の趣旨は、歴史的にいうならば、近代史の進行過程に於いて、その現実性をもたない抽象的観念論の産物というべきであった」。(「述史新論」新学社)と主張している理由は再考すべきだろう。

 その根拠ともいうべき彼の考えの基本は「近代」という概念を全否定するところにある。その態度を闡明して西洋と対立する東洋(アジア)を主張するところは通常の右翼的思考とはいささか異なるところが私には興味深いのである。

 我が国の政治的、思想的現在を考えるうえで世界史的視野で思考しなければならないとすれば、閉鎖的な島国思考では道を誤るわけで「近代」を主導してきた西洋がどのような歴史過程を経てきたかを明確にしておくことは重要だ。とりあえず現在突出しているイスラーム世界はさておく。アフリカ他西洋以外も。西洋と米国、この二地域の歴史と未来を展望することが、我が国の将来を考えるうえで、将来の世界史を展望するためには有効と考えるのだ。戦後ドイツの運命を根底的に思考した例としてヤスパースの姿勢は参考になる。「戦争の罪を問う」(平凡社ライブラリー)は盟友ともいえるハイデッガーとの戦前、戦中、戦後の確執を考慮すると興味深い著書といえる。哲学的思考ではハイデッガーのほうに魅力を感じるけれどもヤスパースの誠実さは、それはそれで好ましいものであり、この二人の哲学者の思考は私にとって実に刺激的であることも付記しておこう。

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