2017年8月30日 (水)

二つの楽章

  先日たまたま未だ整理のつかないCDからモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調をボスコフスキーがシューリヒト指揮のウィーン・フィルと演奏していたのを聴いていたら三楽章のト短調に転調するアンダンテの箇所のところが改めて聴いて面白かった。そこを音楽批評家はどう解説しているのかと思い、アルフレート・アインシュタインの『モーツァルト』(白水社 1961年 浅井真男訳)を久しぶりに読んだらその解説はなかったけれども2楽章の解説に啓発された。曰く、「第二曲((ニ長調 K.211)と第三 曲(ト長調 K.216 九月十二日)の成立の間に横たわる三カ月間に何が起こったのであろうかわれわれはそれを知らない。だが、突然いっさいが深くなり豊かになるのである。第三曲の緩徐楽章は、アンダンテの代りに、あたかも天から降ってきたようなアダージョで、オーボエの代りにフルートを使い、全く新しい音響の性格をもつニ長調で書かれている。(中略)  突然オーケストラ全体が語りはじめ、独奏楽器と新しい親密な関係を持つにいたる」。

  この作品をアカショウビンは、堀米ゆず子とシャーンドル・ヴェーグがカメラータ・ザルツブルグ室内管弦楽団を指揮した1988年に東京の津田ホールで録音したCDで聴き直した。ボスコフスキー、シューリヒトの1960年、ザルツブルク音楽祭のライブ録音よりはるかに音が良い。演奏も実に好もしい。ヴェーグの深いモーツァルト理解と堀越の女性らしい繊細でしなやかな演奏が見事に記録されている。ヴェーグが同オーケストラと来日していたことも初めて知った。ヴェーグはモーツァルトのディヴェルティメントの録音でその実力を知った。ヴァイオリニストのヴェーグが人生の後半では指揮者として活躍したことは幸いだった。アカショウビンが近年愛聴しているアンドラーシュ・シフとはモーツァルトのピアノ・コンチェルトも録音している。これも時に聴いている。

  もう一つの楽章とは、マーラーの6番の交響曲の三楽章アンダンテである。先日、ミクシーでエリアフ・インバルの大阪公演を聴いた方がクラウス・テンシュテットの録音を聴き書いておられたのに啓発され、そのCDを聴き直した。改めて聴いてその演奏と録音の良さに聴き入った。

  吉田秀和は、『マーラー』(2011年 河出文庫)の中で次のように書いている。「《第六交響曲》は、マーラーの第二の時期での最高の充実度をもつ作品に数えるべきものである」(p29)。そしてシェーンベルクのプラーハ講演を引用し楽曲を分析する。シェーンベルクはマーラーの旋律の作り方に注目する。これを吉田は忠実な訳ではないが、と断っているがマーラーの音楽を分析して実に刺激的だ。シェーンベルクはマーラーの旋律が長くなり過ぎることに着目し、「それでいて少しもそれどころか、かえって、主題が長くなるにつれて、終わりに、より大きな活力が生まれてくる。(中略)  もし、これが能力でないとしたら、少なくとも、潜在力と呼ばなくてはならないでしょう」(p30)。これを、吉田は「マーラーの音楽の核心をついている」と評する。それはテンシュテットの演奏を聴いて改めて納得する。

  一昨年の入院中にはバーンスタインがニューヨーク・フィルと録音した全集を持ち込みマーラーの交響曲を未聴の録音で聴いた。この6番を聴くとテンシュテットの演奏の鮮烈さに驚く。そしてマーラーの音楽の面白さと「偉大さ」(シェーンベルク)に。これを契機に改めてマーラーの声楽作品やモーツァルトの弦楽四重奏を熟聴する楽しみができた。

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2017年8月 4日 (金)

極上の録音と演奏

 しばらく聴いていなかったCDを早朝に取り出し音を出すと少し鬱気味の心に沁みて馥郁とした気持ちに満たされた。音楽を聴く悦びはかくの如し。偶然が齎す奇跡の如きものである。曲はモーツァルトの弦楽四重奏曲第14番 ト長調K387。来日したウィーン・フィルのメンバーが1971年埼玉県の川口市民会館で録音したものである。引っ越しで先ず第一にセットした極上とはいいかねるオーディオから奏でられるモーツァルトの音楽は装置の不十分を補って余りある。このレコードは1973年にウィーンのモーツァルト協会がウィーン笛時計賞に選定した。録音の経緯は当時のトリオ(現在のケンウッド)の役員であった中野 雄氏が書いておられる。それは何とも読む者が日本人として誇らしい気持ちになる経緯である。K387のあとはK465の「不協和音」。これを契機にモーツァルトの室内楽を聴き日頃の憂さを晴らそうではないか。

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2017年7月16日 (日)

素晴らしい7番

 レンタルDVDを中断して、たまたまテレビに切り替えたらベートーヴェンの第七交響曲を知らないオーケストラが演奏している。指揮者も知らない。しかし何と生き生きした演奏だ。正に血の通った演奏とはこのことだ。団員は女性も多い。日本人と思しきヴァイオリン奏者もいる。ベートーヴェンという古典が現代に甦り呼吸しているという演奏だ。こういう偶然は正に冥土の土産だ。

 引っ越してオーディオもセットし直し、一年間段ボールに眠っていたCDやレコードも息を吹き返し少しずつ聴いている。音楽を聴く悦びはアカショウビンの娑婆の道楽なのである。病を抱えている今こそ優れたCDや演奏は滋養となり心身に沁みてくる。演奏が終わり指揮者の名が出た。エサ・ペッカ・サロネン。名前は知っていた。それにしても見事で素晴らしい指揮者だ。アンコールはシベリウスの「ペレアスとメリザンド」から「メリザンドの死」。これまた選曲にセンスの良さを知らしめる。タクトをもつのと両手だけで使い分ける指揮ぶりも好い。オーケストラの統率力、団員たちの一人一人に指揮者の見識が伝わっているのを映像からも伺い知られる。これは一度生演奏に接したいものだ。久しぶりのベートーヴェンに日々のマンネリに力が注がれた思いだ。オーケストラはフィルハーモニーだ。かつてのメンバーとは様変わりしているが古参の団員もいる。何とその前にはベートーヴェンの第3協奏曲をチョ・ソンジンが演奏したらしい。これを聴き逃したのは惜しかった。ショパン弾きのベートーヴェンは聴きたかった。しかしショパンはおまけで聴けた。以前に書いたけれどもサントリーホールでの来日コンサートは驚愕した。ショパンの「前奏曲」の面白さを改めて知らしめてくれた名演だった。

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2016年6月22日 (水)

宇野功芳氏追悼

 先日亡くなられた音楽批評家、宇野功芳氏の西洋クラシック音楽の水先案内ともいえる恩義には礼を尽くさねばならない。昨日、新宿に出た機会にレコード・CDショップに立ち寄り幸い氏が編集長を務めた本と指揮したCDを購入した。本は未読、CDは以前聴いた。本は氏の遠山一行氏へのインタビューが興味深かった。

 CDは新星日本交響楽団を指揮したベートーヴェンの第7交響曲イ長調 作品92。1997年、サントリー・ホールでのライヴ。これは何とも宇野節全開の名演。人によっては拒絶もされる演奏だろうがアカショウビンは敢えて名演と判じる。それは通常の聴き慣れた演奏とは隔絶する箇所があちらこちらに聴けるからだ。1楽章のポコ・ソステヌート-ヴィヴァーチェと指定された楽章の途中で音楽は今にも止りそうになる。通常はオーケストラが生き生きと闊達にテンポを速める箇所で指揮者は逸る馬や犬を制御するようにオーケストラを抑制する。そこが宇野節である。私はベートーヴェンのスコアをこのように解釈するという断固たる意志が貫かれている。これを拒絶する者は音楽を聴く資格を持たぬと言ってもよい。それほど氏の解釈は独特だ。しかし、それが音楽でも文学でも敢えて言えば思想、宗教でも〝解釈〟の解釈たる所以だろう。それを実感する演奏である。それは氏が敬愛するフルトヴェングラーやワルター、クナッパーツブッシュから学んだ事である。それをアカショウビンは讃嘆する。

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2016年2月23日 (火)

30余年ぶりの「イル・トロヴァトーレ」

 先日の日曜日、久しぶりに上野の東京文化会館で公演されたヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」を観てきた。それはアカショウビンにとって30余年ぶりの体験だった。以来、このヴェルディ中期の傑作オペラはレコード、CDでさまざな録音を聴いてきたが生の公演は36年ぶり。4日間行われた他の日では外国人ソリストも起用したようだが日曜日の最終日は日本人のみ。しかも予定していたレオノーラ役が体調不良で降板。しかし代役が健闘した。最後のブラボー、ブラビーの声が公演のほぼ成功を示していた。

 無職で就活もしなければならないのに高い金を払って公演に行くかどうか迷っていた。その間にアカショウビンの愛聴盤であるトゥリオ・セラフィン指揮のミラノ・スカラ座管による1962年盤を久しぶりに聴いた。この作品トップと言ってもよい名盤である。アカショウビンは特にこの作品の狂言回し役のアズチェ-ナを歌うフィオレンツァ・コソットをこよなく愛聴している。その声の張りと強さは中国の青磁陶器の如き美しさを呈する。このような女声の声の美しさを聴く悦びは娑婆の日常を生きる苦しみのなかで福音の如き恩寵である。

 36年前の1980年、アカショウビンは大学を卒業し音楽事務所の事務局に職を得て社会人となった。わずか半年であった。しかしプロたちと接するなかで良くも悪くも貴重な時を過ごさせて頂いた。最後は「イル・トロヴァトーレ」の公演に関わった。演出はイタリア帰りの粟国安彦氏。指揮者のアルベルト・エレーデ氏とイタリア語で丁々発止の遣り取りの光景が想い起こされる。スコアを通してこのオペラの面白さを理解した。その時のアズチェーナ役の歌手も幕間のロビーにいらした。

 レコードやCDの録音とは次元を異にする生公演はいいものである。セラフィンの完璧ともいえる録音の完成度はない。しかし若いソリストたちのミスを超える生の面白さと緊張感がライブの良さである。それをアカショウビンは楽しんだ。それは記憶の彼方の経験を想い起こすことでもある。あの頃は現実と未来に将来の希望があった。それは現在の苦しい日常とは異なる。しかし、ゆるゆると終わりに向かう生活には活路を見出さねばならない。その中での公演鑑賞であったことは糧としなければならない。冥土の土産がひとつできた。もう少し娑婆を生きる力を得た思いである。

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ピレシュのライブ

 きのうの朝のNHKの「クラシック倶楽部」でピレシュの2013年来日ライブ演奏を放映していた。これは以前の再放送で以前に見た。改めて見聴きしてピレシュの音楽的成熟と人間的成熟を確認し悦ばしい。曲目はベートーヴェンのチェロソナタ第3番イ長調作品69。チェリストはアントニオ・メネゼス。番組冒頭にはバッハの無伴奏チェロ組曲の一つを弾いた。ピレシュとの共演も演奏と共に両者の人間的交流を現わして興味深かった。それはオーギュスタン・デュメイとのベートーヴェンのヴァイオリンソナタ全集でも同じ。ピレシュの基本姿勢である。そこにピレシュの演奏を聴く味わい深さがあると言ってよい。

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2016年2月16日 (火)

ピアニストとは何者か

 先日、あまりクラシック音楽を聴かないという若い友人から何かCDをくださいと依頼があった。幾つか選び形見にしてちょうだい、と進呈した。そのなかでもっともリアクションがあったのがマリア・ジョアン・ピレシュ(以前はピリスという表記だったが、こちらのほうが発音に近いのだろう)の若い頃のCDだった。それは嬉しいと今朝はピレシュが若い頃に日本で録音したモーツァルトのピアノソナタ全曲のうち一枚を聴く。若いピレシュの瑞々しい溌溂とした録音が素晴らしい。その勢いで他のピアニストのショパンの作品も幾つか聴いた。アカショウビンが好きなのはマズルカ。とりあえず全曲を録音しているショパン弾きサンソン・フランソワを。う~む、これでは納得できない。ミケランジェリには程遠い。ではルービンユタインは、と探すとCDはポロネーズしかない。それではとレコードを探す。しかし面倒なのでポロネーズを聴く。作品26の一番の出だしの音に腰を抜かしそうになった。まるで政治家が憤り机を叩いて演説しているようではないか。やれやれと思いながら聴き続けるとピアニシモ、ピアノシッシモにはショパンの優美さが聴きとれる。それを聴きながら心安らいだ。

 かように、ピアニストは、さまざま。聴く方には自ずと好みがある。一応は大ピアニストから聴けば好き嫌いが生じてくる。音楽はできるだけ好みで聴く方がいいのだ。しかし時に不快な音を出すピアニストもいるのは仕方がない。入院していた時にボランティアコンサートがあった。こちらは点滴を持ち歩きながら会場に辿りついた。ふくよかな若い女性ピアニストで期待して聴いた。しかし最初のモーツァルトがなっていない。モーツァルトの難しさが身についていない。ショパンはまあまあ。最後はジャズで締め括ったがジャズになっていない。英国の音楽院を卒業した優秀なピアニストなのだが、このような演奏もある。無料のコンサートだから文句をつけるわけにもいかず目礼だけして病室に戻った。

 日本人のソリストはピアノに限らず女性が多い。ヴァイオリンは先のブログで讃嘆した五嶋みどりさんや多くのソリストがいる。そのなかで今や成熟の盛りにあるピレシュの録音を聴く楽しみは冥土の土産以外の何物でもない。

 ピアニストは蛮族というのは中村紘子さんの名言(迷言?)だが、ルービンシュタインのポロネーズを聴くと、なるほどと納得できる。あの激しさがショパンの本質を抉るためには必要なのだ。蛮族とはともかく、ピアニストとは何者か、という問いも生じる。とりあえず幾つかのピアニストの録音を聴くに如かず。ピレシュの瑞々しくも清々しいモーツァルトは娑婆の掛けがえのない妙音であることは実感する。

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2016年2月14日 (日)

幻のピアノ・リサイタル

 昨年、入院しているときテレビを見ながら退院したら是非とも聴きたいピアニストのリサイタル情報を知り予約を入れた。11月28日に都内のホールで開催される予定だった。ところが中止の知らせが。理由は病気によるものだった。91歳のご高齢でもあり日本から中国までのツアーだったらしい。それでは仕方がない。幻のリサイタルとなってしまった。もう一度聴く機会があればいいが。

 メナヘム・プレスラーというピアニストは日本にも度々訪れてファンも多い。アカショウビンはハイドンのピアノ・トリオの録音で聴いていた。一度は生で聴きたいピアニストなのだった。その機会は残念ながら今回は叶わなかった。ご長寿を心から祈り再演を心待ちにしたい。

 その幻の演目を記し次回の楽しみにしよう。①モーツァルト ロンド イ短調 K.511 ②シューベルト ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 「幻想」 作品78、D.894 ③シューマン 主題と変奏 変ホ長調 (最後の楽想による幻覚の変奏曲) ④ショパン 3つのマズルカ 第5番 変ロ長調 作品7‐1 第7番 ヘ短調 作品7‐3 第13番 イ短調 作品17‐4 ⑤バラード第3番 変イ長調 作品47

 ピアノ・リサイタルは久しく聴いていない。かつて若い頃にモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲を日本で録音し鮮烈な印象を与えたマリア・ジョアン・ピレシュのリサイタルも今生の思い出に冥土の土産として聴いておきたい一人である。昨年秋に来日したようだが次はいつになるのか。とりあえずはCDで聴くに如かず。若き頃のモーツァルトや最近のショパンを聴きながらリサイタルを楽しみにしたい。

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2016年2月 9日 (火)

音を奏で、出す

 早朝の音楽はミカラ・ペトリのリコーダー・リサイタルを衛星放送で楽しむ。これは以前に観たものの再放送。独奏と夫とのリュート、ギターのデュオは何とも心安らぐ。大小幾つかの楽器を使い分けての演奏は悦楽、楡楽の如し。デンマーク民謡を元に自ら作曲した作品では小さなリコーダーがバグパイプのような音も出したのには驚いた。変幻自在とはこういうことだろう。リコーダーは口を通して喉の震えも音にできる。それは尺八もジャズ・トランペットも同じだ。マイルス・デイビスの音も然り。それは吹奏楽器の得意とするところである。

 それとは異なる楽器が打楽器。和太鼓やジャズのドラムス、クラシックのティンパニーは叩くことで様々な音を出す。そこには何かを伝えるメッセージも含まれている。先日、『尼僧物語』(1957~1959年 フレッド・ジンネマン監督)をレンタルDVDで観た。好きな監督なのである。『真昼の決闘』(1951年)、『地上より永遠に』(1953年)、『ジュリア』(1976年)の名作は何度観ても新たな発見がある。『尼僧物語』は実際の尼僧の体験を映画化したもの。オードリー・ヘップバーンが見事に主役を演じている。その匂うような気品は自らの演技への精進と監督の演出の手柄である。149分の長尺。多少の冗長さはある。特に前半部の修道院の場面はエンターテイメントを期待する観客には退屈にもなるだろう。しかし一人の尼僧の生涯を描くときに、そのシーンは不可欠なのだ。それは厳格な仕来たりで生活する過酷さを伝えなければならないからだ。そこを凝視しなければ原作と作品の意図するところは掴めない。アカショウビンは劇場公開とは異なるDVDのおかげで何度か繰り返し観てその理由を納得した。その感想は後に記すこともあるだろう。

 それはさておき、ここではその後半部のアフリカ・コンゴ(後のザイール)のシーンに刺激された。土地の人々が太鼓の音で来客(オードリー)の訪問を音で伝えるというシーンだ。それはオードリーたちの文明国のヨーロッパ人からすれば奇矯と感ずるものかもしれない。しかしアフリカを発祥の地とするジャズの音の起源はそこにある。ジャズのドラムスの面白さの淵源はそこだ。それはアカショウビンが敬愛するデューク・エリントンのピアノにも聴きとれる。デュークのピアノは叩きつけるような奏法である。それは叩くというより弾く。そこにはオーケストラでは伝えられない一人のピアニストの意志を聴きとる。そのような経験は楽器それぞれが持つ人間精神の響きを伝えるものといってもよいだろう。

 アカショウビンが小学校のときに最初に音を出し愉しんだのはカスタネットとトライアングル、木魚だった(笑)。小学校とはいえ小さなオーケストラがあった。音楽に熱心な先生がいて、〝さざなみバンド〟という名称だったがヴァイオリン、チェロ、木琴、鉄琴も揃えていたから小さなオーケストラと言ってもよいだろう。アカショウビンはそこでチェロを弾いたのが自慢だった。しかし日常的に音を出して楽しんだのはリコーダー。それでついた渾名が〝笛吹き童子〟。それはともかくリコーダーという楽器にはそれで愛着があるのだ。

 ミカラはバッハも奏した。そこにはヨーロッパで連綿と続く伝統の音楽が聴き取られる。アカショウビンも不眠の夜はハンス・ブリュッヘンがリコーダーで奏でるバッハの無伴奏チェロ組曲のリコーダー演奏を寝入りの音楽とすることがある。昨夜は1時間くらい眠っただけで眼が覚めた。あれこれ黙想していると眠られなくなり衛星放送を見るまで雑事にかまけた。そしてミカラのリサイタルの再放送に遭遇したのだ。

 リサイタルのあとブルックナーのアベ・マリアを放送した。敬虔なカトリック教徒だったブルックナーは9つの交響曲が有名だがこのような合唱曲にも交響曲に聴ける響きがある。ブルックナーがオルガンの響きに魅了された場所は、以前は聖フローリアン教会と記されていたのではなかったか。正確には修道院である。そこでかつて朝比奈隆は大阪フィルとブルックナーの第7交響曲を指揮した。アカショウビンはレコードでそれを繰り返し聴いた。テレビで修道院の中が見られたのは幸いだった。それは『尼僧物語』でオードリーが演じた尼僧たちが修行する修道院という空間である。それは禅寺の空間とも共通している。それはヨーロッパの修道僧が鈴木大拙に伝えたメッセージである。『尼僧物語』の映像はそのような連想を惹起した。

 ところで先日、若い友人のお誘いで都内の劇場で大衆演劇を観て来た。映画と異なり生の舞台はアドリブが楽しい。しかしその音響の悪さには辟易した。音響技術の進歩はアカショウビンは自ら体験している。デジタル音響がアナログを超えていないことは科学的に証明されている。それが現在の日本人も外国でもデジタル音響の欺瞞に騙されているのではないか。それはまた別の話だが。

 それともうひとつ。『尼僧物語』で描写されている宣教師たちは撮影終了後に起きた革命で地元民たちによって殺された。それは『フレッド・ジンネマン自伝』(北島明弘訳・1993年・キネマ旬報社 p264~265)に説明されている。それは異なる文化の融合がいかに至難なことかという現実の突き付ける事実である。それは戦争を介した日本と諸外国との歴史の事実でもある。オードリーの後半生の巡礼者のような生き方はこの作品が一つの契機となっていることを推察させる。アフリカでの文明の衝突は現在も中東でも続いている。それを乗り越えるのは何か。そのような沈思にも赴かされたことは付け加えておこう。

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2016年1月26日 (火)

現代音楽の不安

 西洋クラシック音楽という領域で20世紀から21世紀にかけての、いわゆる〝現代音楽〟がとっつきにくいものだ、という実感は若い頃から感じてきた。しかしアカショウビンはベートーヴェン、モーツァルト、ワーグナー、ヴェルディの作品を聴き続けてきて先般亡くなったピエール・ブーレーズを追悼する気持ちで彼や他の音楽家が指揮や演奏するシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの作品を聴きながら以前とは異なる感想も生じたのでそれを少し辿ってみよう。

 それは存在論的にいえば人間の感ずる〝不安〟とは何か、という問いになる。先日、ヴァイオリニストの五嶋みどりさん(以下、敬称は略させて頂く)のN響との来日公演で演奏したショスタコーヴィチの協奏曲を聴いて感じたことである。その音楽の中にも〝不安〟は気分として音になっていた。今、改めてイ短調・作品99の協奏曲の別録音を聴いて改めて実感する。それは先の各音楽家たちの作品にも共通するもののように聴く。

 不安とは何か、それは人間が生きていることに困難を感じる時に生じる現象である。国家が戦争状態になれば多くの国民に生じる心理でもある。音楽家も時代を反映して作品を紡ぐ。それが先の音楽家たちの作品に聴きとれるのである。そういう意味では西洋音楽の伝統はグレゴリオ聖歌、バッハ、ハイドン、ベートーヴェン、モーツァルト、マーラーから先の音楽家たちに連綿として引き継がれている。しかし、それを受け継いだ浪漫派の音楽家たちから20世紀のシェーンベルクほかの〝現代音楽〟には或る断絶のようなものがある。それはソナタ形式に代表される古典的な音楽様式が現代音楽の音楽家たちのよって〝解体〟されたことによる。音楽家をはじめ芸術家と称される人びとは個と時代を反映する存在と言ってもよろしかろう。それをアカショウビンは彼らの作品を改めて聴いていて感じるのだ。ブーレーズの死ということは現代音楽の演奏と指揮、あるいは前世期初頭を生きたマーラー作品の指揮を聴き直し感じることである。

 もうひとつ踏み込んで言えば西洋の現代音楽は数学的な発想に基づいている。楽譜の音ひとつに数学的な基礎を置くのは既にバッハの音楽の中に萌芽が聴きとれる。それを集約していえば近代という時代区分の中で西洋社会に生じた現象ともいえる。それの是非はハイデッガーが生涯かけて論じている。

 それはともかく、現代音楽を聴きながら好きな映画を観、関心ある書物を読みながら生きるのがアカショウビンの日常である。

 

 

 

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