2020年9月25日 (金)

音楽三昧備忘録

 今朝は、フェレンツ・フリッチャイが1951年3月に録音したモーツァルトの『レクイエム』を聴いたら、ベートーヴェンのエロイカも聴きたくなり、続けて聴いた。1958年10月、ベルリン・フィルとの録音だ。モーツァルトは、フリッチャイの繊細さがよくわかる演奏だ。ワルター他の名演、名盤と異なるフリッチャイのモーツァルト解釈がある。アカショウビンは若い頃に『ドン・ジョヴァンニ』で、それを痛感、理解した。以後フリッチャイは10枚組や中古店で見つけたCDで聴き続けている。それにはバルトークもある。今朝は、続けて『青ひげ公の城』を聴いた。オーケストラはベルリン放送響。1958年の録音である。青ひげ公のフィッシャーディスカウ、ユディットのヘルタ・テッパーが絶品だ。その名唱を引き出したのもフリッチャイの指揮と力量だろう。名演、名盤を聴く悦びである。それはまた、バルトークという、戦争のため米国に逃れ客死した非業の音楽家の作品を聴く暫しの時でしかないかも知れない。フリッチャイにとってバルトークやコダーイは特別な思いがあるのだろう。それは東欧の音楽家たちにも共通する何かだ。チェリストのヤーノシュ・シュタルケルの演奏、録音にも、それを痛感する。シュタルケルのコダーイ演奏は痛烈だ。それは彼らに流れている血かもしれないし、彼らが育った土地と食べ物かも知れない。歴史と集約してもいい。しかし、そこには個人がある事を忘れてはならぬ。

 それはともかく、名演奏、名盤を聴く悦びはかくの如し。それはマイルスやニーナ・シモンの録音を聴くのとは異なる、伝統的な西洋音楽を聴く面白さである。しかし、マイルスやニーナにはアメリカという白人たちが支配する国で黒人として生きる理不尽と過酷の中から生み出された怒りと叫びがある。それはまたアカショウビンを激しく挑発する。マイルスの後半生はジャズというジャンルを超え新たな世界を切り開いている。ニーナの声は黒人の叫びと歴史に踏み込まなければという衝動を促す。自伝は通読したが再読、再々読しなければならないだろう。

 スピーカーから響く音楽に浸りながら穏やかな一日が過ごせる幸いは格別だ。

 

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2020年9月16日 (水)

ベートーヴェンの発見 

 表題は、エリー・ナイの12枚組のセットに付いているナイの文章のタイトルからとった。ナイのタイトルは「私は、如何にベートーヴェンを発見したか」というものである。それは、ベートーヴェンという作曲家の作品との出会いが如何に運命的なものであったか、という事を明かしている。それは、この晩年に録音された演奏を聴けばわかる。それは他のどの巨匠たちとも異なるエリー・ナイというピアニストにしか演奏できない独自の世界と言ってもよい。それほど、かつて聴いた、どのベートーヴェン演奏とも異なっている。

 きょうは、12枚組の8枚目のソナタ18番・作品31の3から聴いた。それは、荒ぶるベートーヴェンという強烈な印象を与える。ベートーヴェン31歳の溌剌とした作品である。中期に至る途上の過程が確認できる。他にハンマークラヴィーア・ソナタのアダージョもある。全曲がないのが惜しまれる。しかし、ベートーヴェンの真髄は聴ける。

 アカショウビンも新たなベートーヴェンの発見に努めよう。久しぶりに、ベートーヴェンのビアノ作品に集中できたことを悦びたい。

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2020年9月14日 (月)

繊細なバッハ

 先日、たまたまバッハの無伴奏チェロ組曲が聴きたくなり手持ちのCDを聴きだしたらいやになり途中で止めた。世評は高い筈だ。しかし、あまりに悠揚なテンポが気分に合わない。数日後に久しく聴いていないCDを衝動的に聴いて驚いた。これだ、と得心した。ヨーヨー・マが1983年にCBSに録音した演奏である。それはバッハに、茶の湯の作法のように対した演奏とでもいうのか、実に繊細なのである。こういうバッハは新鮮だった。カザルスはじめ西洋でバッハは厳格で一部の隙なく演奏しなければならないという不文律があるのではないだろうか。それは無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータを演奏するヨーゼフ・シゲティの録音にも感じる。かつてアカショウビンは、そこに感銘したのだ。以来、バッハ演奏はかくあるべし、という基準がアカショウビンの中には出来上がっていたと言ってもよい。しかし、ヨーヨー・マのバッハは、それを壊す新鮮さに満ちている。それは私たち東洋人のバッハと言ってもよい。茶の湯の繊細さと気品がそこにはあると言ってもよい。先日、再読した天心の『茶の本』の精神とも共振してアカショウビンに響くのは幻聴かもしれないが。

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2020年9月 3日 (木)

ポーギーとベス

 先日、マイルスの『ポーギーとベス』(1958年)を中古店で手に入れた。以前、聴いただろうが、ここのところマイルスを集中的に聴いているので改めて熟聴する。

 そこで連想したのがガーシュインの原曲だ。かつてから気にはしていた。そこで、ちゃんと聴かねばと思い立ち、きのう病院に行った帰り馴染みの中古店に立ち寄った。幸い、サイモン・ラトルが1989年にロンドン・フィルと録音したCDを安く手に入れられた。ところが、それはジャズ店でなくクラシック店にある、というのだ。常識的にガーシュインはジャズのジャンルと思うのだが、どうだろう。まぁ、オベラだからというのかも知れない。

 それはともかく、昨夜から今朝まで流して聴いた。そして改めてマイルスを聞く。ギル・エヴァンスのオーケストラも好い。きょうは、これでスタートだ。先日、図書館で借りてきた『ニーナ・シモン自伝』も読み進めなければならない。

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2020年9月 2日 (水)

突破と超出

 マイルス・デイヴィスの中期から後期のライブやスタジオ録音を聴く体験は、テオドール・W・アドルノがグスタフ・マーラーの作品、音楽を分析する時に提示した〈突破〉という術語が同様に通用するという事だ、と前に述べた。今朝もマイルスを聴きながら、それを実感し、さらに〈超出〉という術語を想起した。マイルスは常に新たに新しい世界を切り開こうと試みて、それをバンドの仲間と表現する。それが聴く者を挑発、励起するのだ。〈透体〉という仏教用語がある。身体を透過する体験という事なのだろうが〈悟り〉と同じく俗人には計り知れない境地だ。マイルスは、その境地に跳ね上がり、飛び込み到達しているのではないかと推測する。それはマイルス自身を解き放つ、自由へと跳躍する、という事でもあろう。

 もちろん、アカショウビンの思い込み、妄想かもしれぬ。しかし、アルコール、麻薬によるものではない体験は現実と理性、悟性、感性が作用している。マイルスは、6年近い沈黙の間、それと放埒なセックスに溺れた。しかし、そこから再び蘇りステージに立った。その演奏、一吹きのトランペットが聴く者を挑発、鼓舞するのだ。アカショウビンにとっては稀有な禅僧の如き存在である。晩年のアルバムには『キング オブ プリースツ』というタイトルのものもある。僧たちの王とはカリスマという存在を好く表していると思える。

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2020年8月16日 (日)

通俗と脱俗

 朝のNHKラジオ「音楽の泉」はドボルザークの交響曲第8番だ。イヴァン・フィッシャー指揮ブダペスト祝祭管弦楽団の演奏録音である。久しぶりに傾聴する。

 ドボルザーク作品は、クラシック業界ではかつて通俗的と卑下されていたのではなかったか。アカショウビンも、そのような見方に流されてモーツアルトやベートーヴェン、バッハの作品に集中した。その後もドボルザーク作品は、アカショウビンにとって、それほど重要な位置を占めていない。しかし、こうして未知の新たな指揮者、オーケストラで聴くと新たな息吹が作品に吹き込まれていることを実感する。このオーケストラはかつて何かの録音を聴いて驚愕したことがある。

 通俗にも新たな生命が吹き込まれることがある。そこで脱俗まで達するかは聴く側との相関である。これを契機にドボルザーク作品を新たに聴いていきたい。新たな発見があるかも知れない。きょうの演奏で、その一端は確認できる。

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2020年8月14日 (金)

突進し突破する

 マイルス・デイヴィスとそのバンドを聴くという事は、新たな境地に向かい、それぞれの面子がマイルスに触発されながら、一丸となって突進し突破する過程を共有する、という体験なのである。それはアカショウビンの萎えた体力と精神に禅の通棒の如く作用する。

 〈突破〉とは、テオドール・W・アドルノが、マーラーの作品・音楽を分析するなかで用いた基本概念である。それはマイルス・デイヴィスにも通用できる概念と推察する。マーラーが古い伝統と対決し、新たな音楽の創造に苦闘したように、マイルスもアコースティックからエレクトリックに新たな創造の場を移し求めた。マーラーが当時の保守的な批評家や聴衆から批判されたように、マイルスも賛否両論の喧しさの渦中でステージで演奏に集中した。

 その痕跡を録音に聴くのである。アカショウビンの朝はマイルスのCDを鳴らすことで始まる。その一吹き、一吹きがアカショウビンの萎えた精神に活力を促し、喝と気合を入れる。その間にはDVDで映画や音楽映像にも没入する。その感想も伝えたい。

 

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2020年8月13日 (木)

カリスマとディーバ

 朝はマイルスの『キング  オブ  プリースツ』(1986年)を聴きスタートした。繰り返し聴いて喝を入れられる演奏だ。サイドメンもマイルスに刺激され見事なサポート。1975年からの五年間の沈黙後の復活以来、新たな世界に突進し突破しようと精力的な活動を繰り広げるマイルスの一吹き、一吹きに挑発、啓発される。陳腐な喩えだが、正にカリスマ健在である。

 午後はニーナ・シモンを聴く。1961年、ヴィレッジ・ゲイトでのライブだ。これまた凄い。アカショウビンには最高のディーバである。自伝も読まねばならないが録音に集中するにしかず。ノリノリのビアノがすばらしく心地良し。

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2020年8月 8日 (土)

マイルスを聴こう

 先日久しぶりに街中まで出て友人と食事したあと、行きつけの中古ショップに立ち寄った。最近はアマゾンの通販を利用することが多いのだけれども、店であれこれ見ながら格安のCDやDVDを見つけたときの嬉しさは格別。先日も幾つか、しめしめと楽しみなCDを購入した。

 その中から、昨夜から今朝はマイルス・デイヴィス来日公演の『アガルタ』を聴いて一日をスタートする。1975年2月1日、大阪フェスティバルホールでのものだ。この日は2回に分けてステージがあり、最初が『アガルタ』、夜公演が『パンゲア』として発売された。アカショウビンは『パンゲア』しか買ってなかったので今回『アガルタ』を手に入れたわけだ。ファンには周知のことだが、マイルスが6年間の沈黙に入る直前の公演になったことでも広く知られる。

 いわゆるエレクトリック・マイルスバンドの現場に居合わせるような、ぞくぞくする不思議な時空間が貴重だ。常に新しい世界に挑戦し続けた稀有のミュージシャンの一吹き、一吹きを聴くことは、萎えたアカショウビンの肉体と精神を励起し鼓舞する。暑熱のなか、マイルスの創造の現場に、こちらも精神を全開にして参入する。

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2020年7月27日 (月)

モダン ジャズ事始

 ここのところ、あれこれCDを聴いていると思いがけない録音に思わず惹き入られてしまう幸いに、それは正に遭遇する。今朝は、マイルス・デイヴィスの〈中期〉のCDを聴いたあと気分転換に1961年のキャノンボールのリーダーアルバム『ノウ ワット アイ ミーン?』を聴いて楽しい。MJQのリズムセクション、パーシー・ヒースのペース、コニー・ケイのドラムスに、ジョン・ルイスの代わりにビル・エヴァンスがピアノを弾いている。昨年から彼のアルバムを聴いて飽きない。それは多くがトリオ演奏だが、同じ頃にこんな面子に加わったのが、どういう事情があったのか詳らかにしない。しかし、実に見事で楽しいアルバムだ。レコードで発売されたものに別テイクが二曲入っている。アカショウビンが魅了されたのがコニー・ケイのドラムスである。それにのせられたのかビル・エヴァンスもキャノンボールも実にリラックスして快調な演奏を楽しみ没入しているように思える。こういう時に遭遇する事は何とも貴重だ。

 MJQを聴いたのはアカショウビンが秋葉原で電器店のアルバイトで生活していた三十歳前後の頃だ。何とジョン・ルイスは、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』を録音、発売していた。アカショウビンはリヒテルやグールドで馴染んでいたから、ジャズ・ピアニストがバッハを演奏、録音した事に驚いた。

 その頃の仲間や店員にはジャズ好きが何人かいた。店長のOさんは、MJQが好きだった。コニー・ケイの名前もそのとき初めて知った。テレビCMでは、ニーナ・シモンの曲も流れていた。アカショウビンがコルトレーンやマイルスのモダンジャズに馴染んでいった学生時代以来、新たなモダン ジャズ事始という頃の事だ。

 あの頃とは秋葉原もまるで。様変わりした。時の移り変わりは世の常とはいえ時に唖然とする。しかし、現実を改めて自覚し凌いでいかねばならない。そこで懐かしい名盤に遭遇することは何とも幸いと言うしかない。

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