2019年3月12日 (火)

ライブは楽し

 先日のハワイアンは何といってもプロの生(なま)の音楽が演奏される場で彼らと共に音楽に共振するという事を体験させて頂いたことの幸いだ。その共振の度合いは各人で異なるだろう。しかし、優れた演奏は魂を震わす。誰でもそういう体験があるのではなかろうか。アカショウビンには録音ではあるがフルトヴェングラーや今朝も聴いたニーナ・シモンの声はそういう音楽だ。アカショウビンにとって一生繰り返し聴き、魂を鼓舞する音楽だ。
 先日のライブはK君の奥さんや教え子の女性、小学校低学年の女の子のフラダンスが場を盛り上げた。間近にその衣装や踊りを見られるのがライブの楽しさである。
 しかし、残念ながら観客の殆どは女性。それが日本という国の歪さと言ってもよいだろう。それは別な論点で論じる機会があるかもしれない。
 ともあれ、K君のバンドと奥様の見事なフラを見られたのは冥土の土産だ。
 ライブの後は近くに住んでいる友人のM君と久しぶりに会った。脳梗塞で半身不随のリハビリに難儀しているが一杯やりながら話せたのは幸い。共に病を抱える人生だが娑婆でやり残す事は最小にして生きたいものと切に思う。 
 K君には心からエールを送る。女性ばかりでなく男どもの観客を増やすのが君の音楽の素晴らしさのバロメーターと思うからだ。ハワイアンは決して癒やしの音楽ではないだろう。それは生きていることの喜怒哀楽を表現する音楽と踊りと思うからだ。それは音楽と踊りのジャンルを明らかに越えてアカショウビンに届いたことは伝えておきたい。益々のご精進を心から祈る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月13日 (水)

メナヘムへ

 メナヘム・プレスラーというピアニストを聴いたのは数年前のテレビ映像だった。それが何を演奏していたか記憶にない。しかし稀有のピアニストであることは直感した。今や老齢のピアニストの〝音楽〟は燻し銀のごとき深みと艶を醸しだしていた。それは何かの生起としてアカショウビンに伝わった。先日、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲〝街の歌〟と称される作品38の変ホ長調の6楽章構成の楽聖の作品をラジオで久しぶりに聴いた。ケンプ、フルニエ、シェリングらの名人達の録音である。それに刺激され中古のCDでボザール・トリオのものを購入した。それが見事というか何とも味わい深いアンサンブルなのである。このトリオではハイドン作品をアカショウビンは愛聴している。音楽を聴く愉楽とはこういう経験・体験なのである。名人達のスター演奏家たちの奏でる強烈な個性のものではなく、気心の知れた仲間で音楽を奏する悦びに溢れると言ってよかろう。それは生きている悦びを楽器を介し音に現わす。新たな録音も残される今や豊饒な晩年を生きている音楽家と同時代を生きていることはアカショウビンの悦びでもある。メナヘムの長寿を心から言祝ぐ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月10日 (日)

児童合唱の作品

 昨夜明け方の〝ラジオ深夜便〟をたまたま聴いていたら実に興味深いインタビューだった。昨年11月に亡くなられた蓬莱泰三さんの亡くなる半年前のインタビューだ。NHKの〝中学生日記〟などの番組作成に関わった脚本家ということである。アカショウビンも以前にテレビで視たことがある番組だ。二十数年も続いたというのは初めて知った。反響も大きく毀誉褒貶あったことを蓬莱氏が語っている。南 安雄氏の曲に作詩もしていて「チコタン」という作品をインタビューの間に聴けた。それが実に鮮烈だった。児童合唱組曲だが、それを超えて痛烈な内容を突き付けられた。ご存じの方も多いだろう。アカショウビンは久しぶりに児童合唱曲を聴いて挑発された。これはCDが出ていれば熟聴したい。

 先日は大中恩さんが亡くなられ、手持ちのレコードを探したが氏の作品はなかった。他の児童合唱作品はあったが、近いうちにそれも中古ショップで探し聴きたい。

 土曜日は高校の友人のN君からサントリーホールのコンサートチケットを頂き雪のなかN君と会場に足を運んだ。都響のマチネで小泉和裕氏指揮で川久保賜紀さんをソリストに迎え、シベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いた。久しぶりのライブコンサートを楽しんだ。その感想も書いておきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月14日 (月)

マーラー考

 ブルーノ・ワルターが記した『マーラー 人と芸術』を読むと、作品を聴く新たな視点が開かれる。作品の精緻な分析とマーラーと親しく交わった人でなければ見抜くことの出来ない観察と解釈が書には見事に残されている。その幸いを感謝しよう。

 それは一人の天才と苦悩に苛まれながらも偉大な作品を残した人物像を確認できるからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月 3日 (木)

遺作のシューベルト

 去年はシューベルトの遺作ピアノ・ソナタのD559の二楽章・アンダンティーノを何人かのピアニストの録音で聴いてきた。ブレンデル、内田光子、ルドルフ・ゼルキン、アンドラーシュ・シフ、それぞれ聴き応えのある演奏と録音だ。本日は暮れに購入したエリザベス・レオンスカヤで聴いた。何とも繊細で優美、実にシューベルトを熟知したピアニストと言える。それはリヒテルとも、上記の演奏者とも異なる一人のシューベルト演奏家のシューベルトだ。アカショウビンには、まるで死期を悟った人が黄泉の国に旅立ち、歩き続ける孤独と絶望、というよりその旋律を携え彼岸に至る一人の人間を一人の女性が労り、賛美し励ますように聴こえる。そこでアニマやアニムスという概念や解釈も超越し、それは正しく、一人の早世した天才への哀悼であり、弔音だ。修辞が過ぎたかもしれぬ。しかし、レオンスカヤの演奏はそれほど哀節を極め痛々しくも美しい。それも、シューベルトの晩年に寄り添う女性ならではの哀節だろう。

 天才の作品は、かように後進たちが演奏する幸いを言祝ごう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月 1日 (火)

第九の真髄

 暮れから新年にかけてベートーヴェンの第九交響曲をあれこれ聴き観た。一昨年、公開された『ダンシング・ベートーヴェン』(2017年 アランチャ・アギーレ監督)がレンタルされていたので改めて観た。  冒頭は、スイス・ローザンヌの雪景色から始まる。その地名が一人の放浪の修道士から名付けられたとは知らなかった。アンリ・ド・ローザンヌ、彼はキリスト教異端派のカタリ派の修道士で、その説教が多くの信奉者を得たらしい。語りと連動して画面はゴヤの晩年の版画が挿入される。そこにこの作品の意図らしきものが読み取られる。それに加えて、薄汚れたベートーヴェン像も顔のアップ映像も。  この作品は、モーリス・ベジャールの作品を介し様々なコメントが述べられている。東京公演までの紆余曲折が丁寧に構成され実に興味深い。「第九は演劇的」というのもダンサーたちの動きと表現でベジャールが何を表現したかったのか、ベジャールの家族や仲間達が説明する。その故人の意図が若者たちによって表現される。それは観る者を啓発し挑発する。第九は人間賛歌であり人類の理想をベートーヴェンという音楽家が人生の最期に書きあげた唯一無二の作品というのは一般的な解釈だ。ベジャールもその理想を踊りで表現した。ただ、生前にベジャールが作家のジャン・ジュネと話したときに人間がわかりあえるって?と問い返したというエピソードも伝えられている。それにベジャールは傷ついたらしい。それは、そうだろう。ジュネという作家でなければ言えない揶揄ともからかいともつかぬ問い返しだからだ。しかし、それに反発し、その揶揄とからかいを乗り越えてベジャールが音楽を踊りで視覚化した。その偉業は感嘆するしかない。その作品をスイスのローザンヌと東京で若者たちが全身で表現する。それは観る者に様々な感慨を齎す。

 評論家の三浦雅士が、ベジャールは日本文化を理解しようと禅に深い関心をもったとインタビュに応じ興味深い話をしているのも、この映像作品が日本を理解しようという意思がはたらいていることを明かす。三浦氏は禅はインドから中国に渡り日本で完成された宗教思想だと述べる。ベジャールという振付師が禅に深い関心をもった、ということは洋の東西を問わず宗教者、思想家、哲学者が〝人間〟とは何か?という問いに様々な回答をし思索したことの一つの証でもある。それはベジャール作品の根底に確かに存在する。それを作品を表現し、作品化する過程に観る者は共有する。

 アカショウビンは、サイモン・ラトルがウィーン・フィルと録音したベーレンライター版の2010年盤や小澤征爾が2002年九月に松本文化会館でサイトウ・キネン・オーケストラと録音したライブ演奏を聴いて暮れから新年を過ごした。映像の若者たちは、その後どうしているだろう。ベートーヴェンの作品は血肉となり彼らの生を鼓舞しているだろうか。アカショウビンの余生は、それらの録音を聴きながら鼓舞され生きる力を得る。彼らもまたそうであるという希望は幽かにあると思うのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月27日 (木)

今年の「第九」

 日曜日の〝音楽の泉〟はバッハの「クリスマス・オラトリオ」だった。リヒターとミュンヘン・バッハ合唱団、ミュンヘン・バッハ管弦楽団の1965年の録音。この季節になると毎年聴いていたものだ。定番といえば定番の演奏だが繰り返し聴いて厭きない名盤だ。二月、三月、六月の演奏を編集している。ソリストもその頃の選りすぐり。天使をソプラノのグンドラ・ヤノヴィッツ、アルトはクリスタ・ルートヴィヒ、エヴァンゲリストをフリッツ・ヴンダーリッヒ、ヘロデをフランツ・クラスが受け持っている。他の盤も聴いたが、やはりリヒター盤がアカショウビンには好もしい演奏だ。放送は皆川さんが抜粋で解説される。それが改めてこの作品の見事さを明かしてくれる。

 そのような作品に触発されてバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、パルティータも聴き、ベートーヴェンの第九に辿りつく。きょうは、サイモン・ラトルとウィーン・フィルの2010年盤に集中した。バーバラ・ボニー、アンジェラ・デノークのソプラノ、ビルギット・リマートのコントラルト、クルト・ストライトのテノール、トーマス・ハンプソンのバリトンという布陣だ。合唱はバーミンガム市交響楽団合唱団とアーノルト・シェーンベルク合唱団。実に面白く、挑発的な演奏である。モノラルでは聴き取れないピッコロやヴァイオリンの音が新鮮でラトルの解釈が味わい深い。

 続けてフルトヴェングラーの録音を聴いた。1953年5月30日のウィーン・フィルとのライブだ。半世紀以上の時を経てウィーン・フィルのメンバーも大きく入れ替わっている。しかし、ベートーヴェンの第九を演奏し歌う機会は格別の緊張をもたらすのだろう。その演奏と声がこちらを刺激する。フルトヴェングラー盤は亡くなる一年前。耳も遠くなり指示も遅くなるがウィーン・フィルには楽匠の意図は阿吽の呼吸で伝わるのだろう。見事な正に正調ベートーヴェンの演奏が留められている。この勢いで他の盤も聴いてみよう。

 季節がらあちらこちらで第九の演奏会が行われているだろう。友人のN君は明日、サントリー・ホールで秋山和慶指揮のライブを聴きに行くという。さぞや盛り上がることだろう。CDでは小澤征爾さんの新しい録音が発売されている。この時期は夏のバイロイトのワーグナー作品も放送される。アカショウビンも手持ちのCDでワーグナー作品を聴く。2018年もかように過ぎて行く。明日は来年早々、ソウルに赴任する高校時代の同級生K君の壮行会兼忘年会を渋谷でする。それも楽しみだ。他の同窓生との再会もあるので話は尽きない筈だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月25日 (火)

シューベルトの遺作

 この若くして逝った天才の作品の或る箇所は現在のアカショウビンに恩寵のように響く。ピアノ・ソナタのD959の二楽章、アンダンティーノは晩年のシューベルトのいかなる心境から楽譜に留められたのか?繰り返し聴いてシューベルトという人の心の闇のような深淵の周りを辿る思いで聴く。この天才の生きた時代はベートーヴェンが作品を公開していた時だ。それにこの天才は鋭く反応した人々の一人だ。その作品がベートーヴェンと拮抗しあるいはそれを凌ぐと言ってもよい作品を残したことは私たち後世の人間の至福と言ってよい。もちろん、ベートーヴェンは楽聖と讃えられる偉大な作品を残した稀有の音楽家である。しかし、それは一人の苦悩多き人生を生きた、当時も現在も巷にいる人間達の一人である。シューベルトしかり、モーツァルトしかり、それは音楽の領域に限らない。先日、作品に挑発されたジョルジュ・ルオーしかりである。その作品が当時も後世の私達をも熱狂させ、鼓舞し、沈思させ、生きる意味を問う契機を促す。それはそれを聴く私たちには今や消え失せた時間のなかで観て聴けば、かつて在った名残りの如きものであるとしても私たちは現在を生きる糧とすることができることは幸いである。

 本日はブレンデルの録音でそれを確かに聴いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月21日 (金)

モーツァルト考

 先日、中古屋で安く購入したリヒテルのキエフでのライブを録音したCDで驚愕したのがベートーヴェンとモーツァルトのソナタだっった。購入動機はシューベルトも演奏していたからだがモーツァルトが凄い。K280のソナタだ。そこには10代の天才の天衣無縫と奔放、その裏にある深淵が聴き取られる。このロココ調のハイドンに影響された頃の少年に既に心の暗闇があることをリヒテルは表現している。手持ちのCDでラローチャの全集で同曲を聴いたがまるで違う曲のようだ。それほどリヒテルの演奏は傑出している。

  吉田秀和によればリヒテルは「おそろしくむらの多い」ピアニストだ。しかし、その演奏の稀有をこの録音は伝えている。吉田はバックハウスとクラウスの演奏を傾聴し批評を書いている。これも繰り返し読み啓発されるモーツァルト論だ。 宇野功芳によれば、モーツァルトのピアノ・ソナタ17曲で一番優れているのはK281だそうだが、リヒテルの録音を聴けばアカショウビンには、むしろ「良くない」という、この作品に共感する。それもリヒテルの表現と解釈による。

  かつて中村紘子は「ピアニストという蛮族」と面白く書いたが野蛮の反対は崇高といってもよい境地に蛮族は達することをリヒテルの演奏は留めていると確信する。これを聴き、宇野が称賛するリリー・クラウスの録音、モーツァルトでは定評のギーゼキングの録音も聴いている。それにしてもモーツァルトの作品は宇野がいうように「奇跡の音楽」ということに改めて同意する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月12日 (水)

シューベルト

 先日のNHKラジオ〝音楽の泉〟はシューベルト16歳の弦楽四重奏と「死と乙女」の歌曲版をフィッシャー・ディスカウの録音で放送していた。最近、シューベルトのピアノ・ソナタを集中し聴いているため恩恵のように放送に耳を澄ませ聴いた。そして読み続けている北 杜夫の『壮年茂吉』(岩波現代文庫 2001年2月16日 第1刷)のなかに茂吉がドイツで師の葬式のときに聴いたシューベルトの歌曲の話を書いていることも偶然の恩恵のように読んだ。倅によれば父は極度の音痴という。ドイツ語も会話は下手だったという。しかし論文や読解力は抜群で、その茂吉が弔いで歌われたシューベルトに感銘し、「死と乙女」の茂吉のドイツ語訳を北 杜夫が記している。それを以下に抜いて、新たにシューベルトという若くして逝った天才の音楽を我が精神に吹き込み娑婆を生きる縁(よすが)にしたい。

処女、過ぎよ。あはれ過ぎよ。あらき死の者よ、去れ。われは未だうら若し。君よ、ここを去れ。われに触るな。われに触れたまふな。

死。汝(な)が手を取らむ。麗しくか繊(ほそ)き者よ。吾は汝(な)が友。汝(な)は罪せじ。吾はあらあらしき者にあらず。こころ和(なご)みて、しずかに吾にいだかれて眠れかし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧