2018年11月13日 (火)

リヒテルのベートーヴェン

 先日、中古店で買ってきたCDを聴き面白かった。リヒテルがキエフで演奏したライブを集めたなかの11集と12集である。1964年と1965年のシューベルトとベートーヴェンのライブが収録されている。今朝はベートーヴェンを聴き仰天した。シューベルトとベートーヴェンの晩年の31番のソナタが聴きたかったのだがベートーヴェンは18番とされる作品31の第3番と28番の作品101も収録されている。18番は他の演奏では聴いたことのない箇所もある。版の違いかもしれない。いずれバックハウスやケンプの録音と比較してみよう。しかし、それにしてもシューベルトもベートーヴェンもリヒテル流という演奏だ。そこにはリヒテルがスコアを読みこんだシューベルトとベートーヴェンが躍如している。特にベートーヴェンの31番の演奏はやはり傑出した、リヒテルのベートーヴェンと聴ける。それはライブの即興性もあるだろう。晩年のベートーヴェンの境地に演奏者が踏み込んで新たな視界を開いた衝撃とでもいうのだろうか、そのような思いで聴いた。それは一期一会という演奏だろう。ベートーヴェンの作品の世界というものがある。それは音楽という領域で体験し遭遇する鮮烈な経験である。或る深淵を覗く時とでもいえるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月 6日 (火)

歌姫考②

 ニーナ・シモンの録音が今朝の音楽である。三枚組の三枚目。『FORBIDDEN FRUIT』と『NINA AT NEWPORT』が入っている。前者は訳せば『禁断の果実』。多分、スタジオ録音だ。後者はライブ。これは、ここのところ聴いている『ライブ・トリロジー』にも収録されている。それにしてもライブがいい。それはともかく、『禁断の果実』はタイトルから推測する深刻さはない。むしろ終曲のタイトルロール曲はユーモラスでさえある。ニーナの野太い声は深刻さから愉快な曲まで実に幅広い。これが歌姫というより豊饒な歌心というのか歌壺から溢れ出る傑出した声の力である。それを見事に表現しているのが『ニューポート』の「LIL LIZAJANE」だ。極めつけは「YOUD BE SO NICE TO COME HOME」。ヘレン・メリルの名唱とは異なる、凄みあるニーナ版だ。何とも繰り返し聴いて厭きないニーナの声が素晴らしい。このような録音が聴ける悦びは過去からの呼び声が現在のアカショウビンを正しく鼓舞する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月28日 (日)

朝のモーツァルト

 今朝の〝音楽の泉〟の第一曲はモーツァルトのディベルティメント k136である。モーツァルト16歳。皆川達夫さんの解説では、二度目のイタリア旅行から故郷ザルツブルクに帰ってからのものという。先日、友人から送って頂いたDVDの録画で小澤征爾が2002年、ボストンを去りウィーンに移るころのNHKの特集番組を観た。その頃に小澤は帰国し東北の田舎で若い演奏家たちとキャラバンという演奏旅行をしていた。その時も同行したチェロの巨匠ロストロポーヴィチの提案という。小澤の指導で奏でる若い演奏家たちのモーツァルトが実に瑞々しく透明感に溢れた演奏だった。

 今朝の演奏はボスコフスキー指揮のウィーン・モーツァルト合奏団の録音。それはプロの奏する異なる味わいだがアカショウビンは小澤と若い演奏家たちの演奏のほうが面白かった。それは16歳のモーツァルトと同世代の若者もいるだろう姿が若きモーツァルトの童顔を想像させて興味深かったのだ。小澤は彼らしい熱情で若い音楽家たちにモーツァルトの音楽を伝授する。それは師の齋藤秀雄が繰り返した「もっと歌え」という教えだろう。モーツァルトの音楽の歌を小澤は求めているのだ。若い演奏家たちは繰り返される練習、というより稽古の中から小澤が求める歌と音を醸しだした。それをクラシックを初めて聴く土地の老若男女に伝える。それは音楽を介した人と人との間に通じるささやかな狭路の如きものだが人間存在に生じる奇跡の如きものともいえる。旅に同行したロストロポーヴィチはハイドンの協奏曲を演奏する。その稽古の過程での若い演奏家たちとの交流も音楽という手段で巨匠と若い演奏家たちの技術を超えた魂の伝達が行われていると思えた。モーツァルトの一生の一場面を聴く面白さはアカショウビンには残り少ない娑婆での悦びである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月25日 (木)

歌姫考

 以前、歌姫という形容でアカショウビンの好きな歌手たちの列伝の如きものを書いていこうと画策したことがあった。それはジャンルを問わずオペラ歌手からジャズ歌手、中島みゆきをはじめ声を聴いて震撼させられた歌い手というのが条件となるものだった。その最上のものは誰か。少し前の新聞にアレサ・フランクリンの死去の報にからめて「アレサ・アムロ」というタイトルで追悼文を読んだ。二人に共通するのはソウル(魂)の歌い手という賛辞である。アムロはともかくアレサ・フランクリンを集中して聴いたことがなかったので中古屋でレコードとCDを買って聴いた。震撼させられない。アカショウビンの鈍感な感性ゆえだろう。そのソウル(魂)という賛辞で評する二人と比較できる歌い手はアカショウビンにはニーナ・シモンしかいない。かつて聴いたレコードやCDは引っ越しで段ボールのなか。中古屋を物色し未聴のアルバムを買ってきた。「ムード インディゴ」はニーナの60年代の録音を集めたシリーズの第2巻である。かつて聴いたものと初めて聴くものが混在している。しかしこれが震撼させられる歌い手とピアノの声と音なのだ。

 先日は依頼があり奄美のウタシャ(奄美では優れた歌い手を敬意をこめてこう称する)の里 國隆のかつて書いたブログを書き換えネット用に書き送った。里の声は黒い。奄美の言葉ではクルグイといったのではなかったか。それはいわゆる〝島歌〟とは異なる奄美という風土で歌い継がれ聴き継がれてきた歌というより唄、謡なのだ。アルバムの一つには「奄美の哭き歌」というのがある。それは慟哭という漢語の哭だ。それは嘆きではなく叫びというより〝おらび〟というものだろう。万葉集いらいの和語が当たらずとも遠からずの表記と思われる。

 それはともかく、ニーナを聴いて連想するのは里の声だ。飛躍だろうがそれはアカショウビンのなかで根拠というのか確信というのがある。それは前回のブログで書いたアドルノの突破という概念とも通底する。マーラーの作品とニーナ・シモンの声とピアノ、里の声、かきならす鳴らす竪琴は突破という概念でアカショウビンには括られる。

 ニーナのアルバムで更に震撼したのは『ライヴ・トリロジー』という三枚組のアルバムだ。ヴィレッジゲイト、タウンホール、ニューポートでのライヴを集めたものだ。これがまた凄い。ライヴでのニーナの声とピアノ、観衆、聴衆の讃嘆が聴き取られる。これを聴けば歌姫列伝のトップはニーナ・シモンで決まる。これが魂(ソウル)なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月10日 (水)

美しく鋼の如き声

 スペインのソプラノ歌手、モンセラ・カバリエの訃報を知り手持ちのCDでベルリーニの『ノルマ』を久しぶりに聴いた。1972年のロンドン・フィルとの録音。85歳で亡くなった稀代の歌い手の最盛期の声が堪能できる。何とも美しく鋼の如き声が鮮明に録音されている。英国の優秀なオーケストラだがイタリア・オペラの味わいに、すっきりし過ぎて物足りなさは残る。しかしソリストが豪華。アカショウビンの愛聴するフィオレンツァ・コッソトを聴くために買ったCDだがルジェロ・ライモンディ、プラシド・ドミンゴと当時のトップ・スターを揃えている。

 この世の楽しみは、このような鍛え上げられ、磨き抜かれた声と遭遇することだ。ヴェルディに続くイタリア・オペラの伝統は1831年に一人の若者の作品によって引き継がれた。それはまた、ヴェルディの作品の偉大さを証明するものでもある。異空間から届く声は娑婆を生きる力を与えてくれる。その貴重を言祝ぎたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年8月22日 (水)

中島みゆきライブ

 友人のIさんから送られたDVDで2013年1月の中島みゆきのライブ映像を観た。『縁会』と称された都内ホールでのライブである。アカショウビンには眩しい歌姫のお姿が見られ冥土の土産となった。評者たちの顰に倣えば、中島みゆきはアカショウビンにとって菩薩である。性別は問わない。阿弥陀が娑婆で苦しむ者たちに、この手に掴まれ、と手を差し伸べる存在とするなら、中島みゆきは、我々世代の最高の歌姫であり、阿弥陀であり菩薩であり、観音である。時代が生み出す歌い手がいる。かつては美空ひばりであり、幾多の歌い手たちであろう。アカショウビンにとっては、中島みゆきである。10年前くらいであろうか、友人と飲んでいて、そのころ聴いた中島の最新作が聴こえ嗚咽した。それは、我々世代の男たちへの挽歌であり応援歌と聴こえたからだ。『ヘッドライト テイルライト』という曲だ。それは、かつて観た『初恋の来た道』という中国映画の幾つかのシーンを想起させられた。教え子たちが恩師の死に棺を担ぎ連なるシーンは正しくその曲の歌詞に重なる。人は優れた教師の恩を忘れない。その不在を現在に甦らせる。

 翁長氏の死もまた同じであろう。その遺志を継ぐ者たちは連綿と続くだろう。アカショウビンもその一人である。民族と国家の相克は人類の永遠の難問と言ってもよい。それはまた別の話だ。

 歌姫、菩薩との姿と声は現世に共鳴する。空と君との間に冷たい雨が降ろうと、君が笑ってくれるなら僕はいつでも悪になるのだ。旅人たちは、きょうは倒れてもまた歩きだすのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年7月30日 (月)

森田童子を初めて聴いた頃

 童子の第二アルバム、『マザー・スカイ』がCDの棚にあるのを見つけ、他のCDが耳に入らず童子の声に耳を傾けた。昭和51年の、ガラス細工のような、幽かな童子の声が時空を超えてアカショウビンに届く。童子よ、黄泉の住み心地はどうですか。あなたはアカショウビンの故郷も訪れたことをライナー・ノートで知りました。全国ツアーで奄美の印象はどうでしたか、近いうちに冥界で語り合いたいな。青いCDのジャケットが奄美の海の青さを想い起こさせます。私は、もう少し娑婆にいますが、それほど長くはないでしょう。夏の暑熱のなかで、あなたの夏の詩と声を聴けることは幸いです。あなたのカセット・テープを持ってきてくれた学生時代のA君とは久しく連絡を取っていません。太宰の好きなA君は詩を書き続けているのだろうか。アカショウビンが中野の三畳の下宿に棲んでいたころ、A君はアカショウビンを訊ねて来た。詩や小説の話でもするのかと思ったら、将棋盤と童子のカセット・テープだった。以来、アカショウビンは将棋にのめりこみ大学の授業をさぼり新宿の将棋道場が学校だった。将棋界も変わった。羽生の力にも陰りが見えてきている。時の流れは人々の姿も変えていく。時の氏神は有情であるのか。しかし時は無常である。人間はその無常のなかで生きる、残酷で野蛮、崇高で壊れやすい、この地球に棲む小さくて尊大な生き物なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年7月 1日 (日)

マーラーの作品

 先日、中古店でワルターが晩年に録音したマーラーの交響曲第9番のリハーサル風景をレコードで見つけ欣喜雀躍して購入した。ここのところマーラーの作品を集中して聴いていて彼の作品をもっとも理解していたと思われるワルターの演奏は貴重である。もはや伝説的ともなっている、ワルターがナチスの追手を逃れてウィーンを去る時のウィーン・フィルとのライブ録音は何度も聴いてきた。しかしライブ演奏のモノラル録音の音は最良のものではない。しかし、1961年、ワルター84歳の録音はステレオで鮮明に聴き取られる。オーケストラは米国の名手たちを揃えたコロンビア交響楽団で、ウィーン・フィルとは異なる感性の演奏者たちだが、このマーラー解釈では傑出している指揮者の細かい指示に忠実に従う演奏家たちの誠実さは録音から幽かに聴き取られる。その全曲録音の前のリハーサルは何とも興味深いのである。この録音はハリウッドで四日間にわたっている。マーラーの最高傑作とも言える、この作品にウィーンでのライブ以来かけるワルターの意気込みは全曲盤で繰り返し聴ける幸いを言祝ぎたいのである。

 このレコードは高校生の頃に買い求め聴いた記憶があるジャケットだった。その頃はマーラーの作品は殆ど聴いておらず、むしろモーツァルト演奏の最高峰ともいえるワルターの音楽づくりに興味をそそられ聴いたように思う。だから、それ以降、断続的にマーラーの作品に馴染んでいった後に改めて聴いて実に興味深いのである。それは録音でしか聴けないものとしてもワルターの声は時間が逆行したように聞こえる。時間が逆行するのか、という問いは哲学的だが、それはさておく。

 マーラーは私には難しすぎる、というのは吉田秀和の溜息の如きつぶやきだが、もちろん、この稀代の批評家が言う「難しさ」というのは凡百のわれわれ音楽好きが言う「難しさ」とはことなるのは言うまでもない。しかし、その「難しさ」の中身を吉田秀和の文章で読めばそれを少しは理解できる。

 それにしても、残り少ないアカショウビンの娑婆での時間にマーラーの作品は何とも繰り返し聴いて、音楽とは何か、死とは何か、という問いとなって反響する。それはまた別のテーマだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月24日 (日)

朝のブラームス

 今朝のNHKラジオ「音楽の泉」はブラームスの弦楽六重奏第一番である。久しぶりに聴く。引っ越しで段ボールのなかのアマデウス・カルテットと名手たちの名盤を熟聴する。青春のブラームスの抒情と感性が横溢する作品は何度聴いても心を震わせ精神を励起させられる。後年の大作につながる27歳の若きブラームスの心象風景が想起される。この数年、体調不良も重なりブラームスやマーラーを繰り返し聴いている。此の世の悦びは音楽で気力を奮い起すのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月20日 (水)

哀悼、森田童子

 十年前に、どういうきっかけからか思い出さないが、久しぶりに童子のレコードをじっくり聴いた。感想は2008年9月のブログに二回書いた。童子の初期アルバムのいくつかは繰り返し聴いた。最初に聴いたとき、アカショウビンには実に暗黒星雲から幽かに届くような、か細く壊れやすいガラス細工のような、少女から女になる時季の魂の震えとして聴きとられた。

 学生時代に太宰好きの友人が持ってきたカセットテープで聴きレコードを買ったのだった。黒いジャケットのサングラスをかけた童子の写真は宇宙の闇から何かを語りかけているようだ。歌詞のなかの友人か恋人は自ら命を絶っている。その脆さと哀切が胸を抉る。度重なる転居でレコードは段ボールのなかだ。近いうちに探し出し聴いてみる。それにしても65歳とは早すぎる死だ。何の病なのか情報は新聞記事ではわからない。いずれ詳細は明かされるだろう。最近聴いているマーラーではあまりに重く、童子の死にはそぐわない気がするのでハイドンの交響曲第44番、45番、48番の三曲を聴いた。それぞれ〝哀悼〟〝告別〟〝受難〟のタイトルが付けられている短調の作品だ。童子の死を弔うには少し時間をかけたい。他のアルバムも聴いてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧