2019年1月14日 (月)

マーラー考

 ブルーノ・ワルターが記した『マーラー 人と芸術』を読むと、作品を聴く新たな視点が開かれる。作品の精緻な分析とマーラーと親しく交わった人でなければ見抜くことの出来ない観察と解釈が書には見事に残されている。その幸いを感謝しよう。

 それは一人の天才と苦悩に苛まれながらも偉大な作品を残した人物像を確認できるからだ。

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2019年1月 3日 (木)

遺作のシューベルト

 去年はシューベルトの遺作ピアノ・ソナタのD559の二楽章・アンダンティーノを何人かのピアニストの録音で聴いてきた。ブレンデル、内田光子、ルドルフ・ゼルキン、アンドラーシュ・シフ、それぞれ聴き応えのある演奏と録音だ。本日は暮れに購入したエリザベス・レオンスカヤで聴いた。何とも繊細で優美、実にシューベルトを熟知したピアニストと言える。それはリヒテルとも、上記の演奏者とも異なる一人のシューベルト演奏家のシューベルトだ。アカショウビンには、まるで死期を悟った人が黄泉の国に旅立ち、歩き続ける孤独と絶望、というよりその旋律を携え彼岸に至る一人の人間を一人の女性が労り、賛美し励ますように聴こえる。そこでアニマやアニムスという概念や解釈も超越し、それは正しく、一人の早世した天才への哀悼であり、弔音だ。修辞が過ぎたかもしれぬ。しかし、レオンスカヤの演奏はそれほど哀節を極め痛々しくも美しい。それも、シューベルトの晩年に寄り添う女性ならではの哀節だろう。

 天才の作品は、かように後進たちが演奏する幸いを言祝ごう。

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2019年1月 1日 (火)

第九の真髄

 暮れから新年にかけてベートーヴェンの第九交響曲をあれこれ聴き観た。一昨年、公開された『ダンシング・ベートーヴェン』(2017年 アランチャ・アギーレ監督)がレンタルされていたので改めて観た。  冒頭は、スイス・ローザンヌの雪景色から始まる。その地名が一人の放浪の修道士から名付けられたとは知らなかった。アンリ・ド・ローザンヌ、彼はキリスト教異端派のカタリ派の修道士で、その説教が多くの信奉者を得たらしい。語りと連動して画面はゴヤの晩年の版画が挿入される。そこにこの作品の意図らしきものが読み取られる。それに加えて、薄汚れたベートーヴェン像も顔のアップ映像も。  この作品は、モーリス・ベジャールの作品を介し様々なコメントが述べられている。東京公演までの紆余曲折が丁寧に構成され実に興味深い。「第九は演劇的」というのもダンサーたちの動きと表現でベジャールが何を表現したかったのか、ベジャールの家族や仲間達が説明する。その故人の意図が若者たちによって表現される。それは観る者を啓発し挑発する。第九は人間賛歌であり人類の理想をベートーヴェンという音楽家が人生の最期に書きあげた唯一無二の作品というのは一般的な解釈だ。ベジャールもその理想を踊りで表現した。ただ、生前にベジャールが作家のジャン・ジュネと話したときに人間がわかりあえるって?と問い返したというエピソードも伝えられている。それにベジャールは傷ついたらしい。それは、そうだろう。ジュネという作家でなければ言えない揶揄ともからかいともつかぬ問い返しだからだ。しかし、それに反発し、その揶揄とからかいを乗り越えてベジャールが音楽を踊りで視覚化した。その偉業は感嘆するしかない。その作品をスイスのローザンヌと東京で若者たちが全身で表現する。それは観る者に様々な感慨を齎す。

 評論家の三浦雅士が、ベジャールは日本文化を理解しようと禅に深い関心をもったとインタビュに応じ興味深い話をしているのも、この映像作品が日本を理解しようという意思がはたらいていることを明かす。三浦氏は禅はインドから中国に渡り日本で完成された宗教思想だと述べる。ベジャールという振付師が禅に深い関心をもった、ということは洋の東西を問わず宗教者、思想家、哲学者が〝人間〟とは何か?という問いに様々な回答をし思索したことの一つの証でもある。それはベジャール作品の根底に確かに存在する。それを作品を表現し、作品化する過程に観る者は共有する。

 アカショウビンは、サイモン・ラトルがウィーン・フィルと録音したベーレンライター版の2010年盤や小澤征爾が2002年九月に松本文化会館でサイトウ・キネン・オーケストラと録音したライブ演奏を聴いて暮れから新年を過ごした。映像の若者たちは、その後どうしているだろう。ベートーヴェンの作品は血肉となり彼らの生を鼓舞しているだろうか。アカショウビンの余生は、それらの録音を聴きながら鼓舞され生きる力を得る。彼らもまたそうであるという希望は幽かにあると思うのだが。

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2018年12月27日 (木)

今年の「第九」

 日曜日の〝音楽の泉〟はバッハの「クリスマス・オラトリオ」だった。リヒターとミュンヘン・バッハ合唱団、ミュンヘン・バッハ管弦楽団の1965年の録音。この季節になると毎年聴いていたものだ。定番といえば定番の演奏だが繰り返し聴いて厭きない名盤だ。二月、三月、六月の演奏を編集している。ソリストもその頃の選りすぐり。天使をソプラノのグンドラ・ヤノヴィッツ、アルトはクリスタ・ルートヴィヒ、エヴァンゲリストをフリッツ・ヴンダーリッヒ、ヘロデをフランツ・クラスが受け持っている。他の盤も聴いたが、やはりリヒター盤がアカショウビンには好もしい演奏だ。放送は皆川さんが抜粋で解説される。それが改めてこの作品の見事さを明かしてくれる。

 そのような作品に触発されてバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、パルティータも聴き、ベートーヴェンの第九に辿りつく。きょうは、サイモン・ラトルとウィーン・フィルの2010年盤に集中した。バーバラ・ボニー、アンジェラ・デノークのソプラノ、ビルギット・リマートのコントラルト、クルト・ストライトのテノール、トーマス・ハンプソンのバリトンという布陣だ。合唱はバーミンガム市交響楽団合唱団とアーノルト・シェーンベルク合唱団。実に面白く、挑発的な演奏である。モノラルでは聴き取れないピッコロやヴァイオリンの音が新鮮でラトルの解釈が味わい深い。

 続けてフルトヴェングラーの録音を聴いた。1953年5月30日のウィーン・フィルとのライブだ。半世紀以上の時を経てウィーン・フィルのメンバーも大きく入れ替わっている。しかし、ベートーヴェンの第九を演奏し歌う機会は格別の緊張をもたらすのだろう。その演奏と声がこちらを刺激する。フルトヴェングラー盤は亡くなる一年前。耳も遠くなり指示も遅くなるがウィーン・フィルには楽匠の意図は阿吽の呼吸で伝わるのだろう。見事な正に正調ベートーヴェンの演奏が留められている。この勢いで他の盤も聴いてみよう。

 季節がらあちらこちらで第九の演奏会が行われているだろう。友人のN君は明日、サントリー・ホールで秋山和慶指揮のライブを聴きに行くという。さぞや盛り上がることだろう。CDでは小澤征爾さんの新しい録音が発売されている。この時期は夏のバイロイトのワーグナー作品も放送される。アカショウビンも手持ちのCDでワーグナー作品を聴く。2018年もかように過ぎて行く。明日は来年早々、ソウルに赴任する高校時代の同級生K君の壮行会兼忘年会を渋谷でする。それも楽しみだ。他の同窓生との再会もあるので話は尽きない筈だ。

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2018年12月25日 (火)

シューベルトの遺作

 この若くして逝った天才の作品の或る箇所は現在のアカショウビンに恩寵のように響く。ピアノ・ソナタのD959の二楽章、アンダンティーノは晩年のシューベルトのいかなる心境から楽譜に留められたのか?繰り返し聴いてシューベルトという人の心の闇のような深淵の周りを辿る思いで聴く。この天才の生きた時代はベートーヴェンが作品を公開していた時だ。それにこの天才は鋭く反応した人々の一人だ。その作品がベートーヴェンと拮抗しあるいはそれを凌ぐと言ってもよい作品を残したことは私たち後世の人間の至福と言ってよい。もちろん、ベートーヴェンは楽聖と讃えられる偉大な作品を残した稀有の音楽家である。しかし、それは一人の苦悩多き人生を生きた、当時も現在も巷にいる人間達の一人である。シューベルトしかり、モーツァルトしかり、それは音楽の領域に限らない。先日、作品に挑発されたジョルジュ・ルオーしかりである。その作品が当時も後世の私達をも熱狂させ、鼓舞し、沈思させ、生きる意味を問う契機を促す。それはそれを聴く私たちには今や消え失せた時間のなかで観て聴けば、かつて在った名残りの如きものであるとしても私たちは現在を生きる糧とすることができることは幸いである。

 本日はブレンデルの録音でそれを確かに聴いた。

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2018年12月21日 (金)

モーツァルト考

 先日、中古屋で安く購入したリヒテルのキエフでのライブを録音したCDで驚愕したのがベートーヴェンとモーツァルトのソナタだっった。購入動機はシューベルトも演奏していたからだがモーツァルトが凄い。K280のソナタだ。そこには10代の天才の天衣無縫と奔放、その裏にある深淵が聴き取られる。このロココ調のハイドンに影響された頃の少年に既に心の暗闇があることをリヒテルは表現している。手持ちのCDでラローチャの全集で同曲を聴いたがまるで違う曲のようだ。それほどリヒテルの演奏は傑出している。

  吉田秀和によればリヒテルは「おそろしくむらの多い」ピアニストだ。しかし、その演奏の稀有をこの録音は伝えている。吉田はバックハウスとクラウスの演奏を傾聴し批評を書いている。これも繰り返し読み啓発されるモーツァルト論だ。 宇野功芳によれば、モーツァルトのピアノ・ソナタ17曲で一番優れているのはK281だそうだが、リヒテルの録音を聴けばアカショウビンには、むしろ「良くない」という、この作品に共感する。それもリヒテルの表現と解釈による。

  かつて中村紘子は「ピアニストという蛮族」と面白く書いたが野蛮の反対は崇高といってもよい境地に蛮族は達することをリヒテルの演奏は留めていると確信する。これを聴き、宇野が称賛するリリー・クラウスの録音、モーツァルトでは定評のギーゼキングの録音も聴いている。それにしてもモーツァルトの作品は宇野がいうように「奇跡の音楽」ということに改めて同意する。

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2018年12月12日 (水)

シューベルト

 先日のNHKラジオ〝音楽の泉〟はシューベルト16歳の弦楽四重奏と「死と乙女」の歌曲版をフィッシャー・ディスカウの録音で放送していた。最近、シューベルトのピアノ・ソナタを集中し聴いているため恩恵のように放送に耳を澄ませ聴いた。そして読み続けている北 杜夫の『壮年茂吉』(岩波現代文庫 2001年2月16日 第1刷)のなかに茂吉がドイツで師の葬式のときに聴いたシューベルトの歌曲の話を書いていることも偶然の恩恵のように読んだ。倅によれば父は極度の音痴という。ドイツ語も会話は下手だったという。しかし論文や読解力は抜群で、その茂吉が弔いで歌われたシューベルトに感銘し、「死と乙女」の茂吉のドイツ語訳を北 杜夫が記している。それを以下に抜いて、新たにシューベルトという若くして逝った天才の音楽を我が精神に吹き込み娑婆を生きる縁(よすが)にしたい。

処女、過ぎよ。あはれ過ぎよ。あらき死の者よ、去れ。われは未だうら若し。君よ、ここを去れ。われに触るな。われに触れたまふな。

死。汝(な)が手を取らむ。麗しくか繊(ほそ)き者よ。吾は汝(な)が友。汝(な)は罪せじ。吾はあらあらしき者にあらず。こころ和(なご)みて、しずかに吾にいだかれて眠れかし。

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2018年11月18日 (日)

歌姫考②

 DVDでエディット・ピアフの一生を作品化したものを10年ぶりに観てアカショウビンの歌姫列伝にピアフは欠かせないのを実感した。この映画はなにより主演のマリオン・コティヤールの熱演が強烈で痛烈。それもピアフの生涯を忠実に描こうとするスタッフの思い入れが映像に溢れているのが伝わるからだ。一人の傑出した歌い手の声と姿は聴く者を挑発し圧倒する。それはフランスでも日本でも同じだ。それは異言語を超えて声の力で共感し共振させる。映像や音楽が異文化を超えるように。

 ピアフを聴いたのはいつごろだろうか。高校の頃だろうか。ジャンルを問わず雑食の如く音楽を聴いていた頃にピアフの歌は痛烈だった。越路吹雪が人気だったころフランスでピアフを聴いて「私は負けた」というコメントがピアフという歌い手の凄さの一端を証している。日本でも越路吹雪や幾多のシャンソン歌手達が歌う有名曲はあるが、若い頃の4枚組のCDを改めて聴き直した。1936年から1945年までの録音だ。輸入盤なので対訳はない。和訳で歌詞を辿ればよいのだが、フランス語の巻き舌のピアフはニーナ・シモンの声と同様に声の力で聴けばこちらを挑発してくる。それは洋の東西南北を問わない人間の声のもつ深淵を表出するものと思える。

 映画はマリオンが迫真の演技と歌でピアフを生きている。それはフランスの観客と日本の観客では受けとり方が異なるだろう。しかし、その声に潜むピアフという歌い手の魂と生き方の数奇と苛烈は聴き取とられると思いたい。それが錯覚としてもその錯覚を受容するのがピアフという傑出した歌い手を聴く悦びでもあるのだ。

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2018年11月13日 (火)

リヒテルのベートーヴェン

 先日、中古店で買ってきたCDを聴き面白かった。リヒテルがキエフで演奏したライブを集めたなかの11集と12集である。1964年と1965年のシューベルトとベートーヴェンのライブが収録されている。今朝はベートーヴェンを聴き仰天した。シューベルトとベートーヴェンの晩年の31番のソナタが聴きたかったのだがベートーヴェンは18番とされる作品31の第3番と28番の作品101も収録されている。18番は他の演奏では聴いたことのない箇所もある。版の違いかもしれない。いずれバックハウスやケンプの録音と比較してみよう。しかし、それにしてもシューベルトもベートーヴェンもリヒテル流という演奏だ。そこにはリヒテルがスコアを読みこんだシューベルトとベートーヴェンが躍如している。特にベートーヴェンの31番の演奏はやはり傑出した、リヒテルのベートーヴェンと聴ける。それはライブの即興性もあるだろう。晩年のベートーヴェンの境地に演奏者が踏み込んで新たな視界を開いた衝撃とでもいうのだろうか、そのような思いで聴いた。それは一期一会という演奏だろう。ベートーヴェンの作品の世界というものがある。それは音楽という領域で体験し遭遇する鮮烈な経験である。或る深淵を覗く時とでもいえるだろうか。

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2018年11月 6日 (火)

歌姫考②

 ニーナ・シモンの録音が今朝の音楽である。三枚組の三枚目。『FORBIDDEN FRUIT』と『NINA AT NEWPORT』が入っている。前者は訳せば『禁断の果実』。多分、スタジオ録音だ。後者はライブ。これは、ここのところ聴いている『ライブ・トリロジー』にも収録されている。それにしてもライブがいい。それはともかく、『禁断の果実』はタイトルから推測する深刻さはない。むしろ終曲のタイトルロール曲はユーモラスでさえある。ニーナの野太い声は深刻さから愉快な曲まで実に幅広い。これが歌姫というより豊饒な歌心というのか歌壺から溢れ出る傑出した声の力である。それを見事に表現しているのが『ニューポート』の「LIL LIZAJANE」だ。極めつけは「YOUD BE SO NICE TO COME HOME」。ヘレン・メリルの名唱とは異なる、凄みあるニーナ版だ。何とも繰り返し聴いて厭きないニーナの声が素晴らしい。このような録音が聴ける悦びは過去からの呼び声が現在のアカショウビンを正しく鼓舞する。

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