2018年5月 3日 (木)

ミロス・フォアマン追悼

ミロス・フォアマンが亡くなった報を知りレンタルDVDで二つ作品を借りて観た。『カッコーの巣の上で』と『アマデウス』。前者は何年ぶりかで久しぶり。『アマデウス』はそれより後に何度か観ている。レンタルではディレクターズ・カット版があるというので楽しみにして観た。以前何度か観たのは劇場公開のものだったから。その部分を観比べたわけではない。しかし改めて二作品を続けて観て、『アマデウス』が何とも面白かった。このところマーラーばかり聴いていてモーツァルトを聴くと、この二人の天才の異なる資質と音楽家としての違いに何か問いを突き付けられるような気がするのだ。モーツァルトが生きた30数年よりマーラーは長く生きた。しかし晩年の不幸は歌劇場指揮者から作曲者に転じ西洋音楽史に名を残す傑作を書いた恵みとなって結実した。私たちは、この数十年でその恩恵に浴している。しかし、その遠因はモーツァルトやバッハ、ベートーヴェンの作品の伝統によるものであることはマーラー自身が誰よりも理解していたことであろう。

『アマデウス』が撮られたのは偶然みたいなものであることをメイキングで監督が語るエピソードで知った。ミロス・フォアマンはロシア映画でさんざん観た音楽家を描いたつまらない作品など撮る気はしなかったそうである。しかし、ピーター・シェーファー脚本の舞台作品を観て考えを改めたと言う。それは映画として撮る意欲を掻き立てた。二人は喧嘩腰の議論を重ね作品を完成させた。それがアカデミー賞各賞を受賞する傑作となったわけである。それはともかく改めて作品を観ると確かに見事な仕上がりであることを実感する。二人が合意したのは、モーツァルトの音楽こそが作品の主役ということだ。それに納得する。事実はともかく、当時からあったというモーツァルト毒殺説をピーター・シェーファーは物語にし彼の想像で舞台ドラマに仕立てた。ミロス。フォアマンは出演者に有名俳優ではなく殆ど無名の役者を起用した。それが実に説得力ある演出と演技で俳優たちは脚本家、監督に応えた。それは初めて作品を観た時に意表を突かれる気がしたものだ。それも改めて観て納得した。それは傑作に仕上げた監督と脚本家の手柄である。当時の時代風景と人々の暮らしと精神病院の奇矯な患者たちを監督はモーツァルトの作品が上演されたプラハの劇場での作品を再現することで詳細な時代考証で作品化した。ミロス・フォアマンがプラハの出身であることも監督の語りと共に知った。当時の政権に異を示しミロス・フォアマンは故国を捨て米国に亡命した経緯もメイキングのなかで語っている。米国のアカデミー賞の受賞もそのような背景が作用しているのかもしれない。それはアカデミー賞というものが政治的影響を意識したものであることも今年の受賞経緯など知り過去の作品を振り返るとよくわかる。女優達が監督や制作者たちのセクハラ被害を公にしたことは社会現象となってマスコミを賑わしている。レディ・ファーストの国は実は建前で、実際はあべこべなのだというわけである。それが、フランスのカトリーヌ・ドヌーブらによって反論されているのも興味深い。

それはともかく、改めてディレクターズ・カット版を観てモーツァルト作品の素晴らしさに接したのは幸いであった。サリエりという歴史上の人物が嫉妬による毒殺者であるというピーター・シェーファーの創作による考察はミロス・フォアマンという優れた監督によって映像化された幸いを私たちは楽しむ。それがモーツァルトという天才の音楽に多くの人が接するということは音楽ファンにとっても悦ばしい。それほどモーツァルトの作品は豊饒なのである。    

  ミロス・フォアマンとピーター・シェーファーの功績は作品を通してモーツァルトが生きた時代背景を映像化したことである。それを改めて実感した幸いを言祝ぐ。

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2018年4月24日 (火)

作品と解釈

 『切腹』を撮った小林正樹監督は敗戦を沖縄本島の近くの島で迎えた筈だ。激戦の地での生き残りである。昨夜、久しぶりに観てリメイクの『一命』(三池崇史監督)との原作解釈の違いも確認した。それは主人公の語りの内容の違いに端的に露われている。小林作品で面白い仲代と丹波哲郎の決闘シーンは三池作品にはない。主君への殉死のシーンも三池作品にはない。それは主人公の行動の理由として三池作品は説得力を欠く。両者は脚本、撮影、音楽スタッフとの周到な意見交換で作品を練り上げた経緯が幾らか確認できたことは幸いだった。音楽は小林作品で武満 徹が担当していたこともすっかり忘れていた。武満は映画が好きで、その才能は当時すでに周知だっただろうから小林監督もあまり口を挿まなかったかもしれない。しかし脚本の橋本 忍とは周到に想を練った筈だ。そこで様々な事が幾つかのテーマで考察されねばならないと思われた。その一つには原作と解釈の違いという事である。小林作品のスタッフは出演者も原作を周到に読み抜いた筈だ。しかし恐らく三池作品で監督はともかく、俳優たちは原作を読んでいるとは思えない。その違いは歴然としている。時代の違いも影響している。小林監督は前作の『人間の条件』で自らの戦争体験を作品に反映させている。それはエンターテイメントとして二時間前後の作品に集約できるものでないことは作品を見ればよくわかる。しかし次の作品は戦争が主題ではないが監督の戦争体験が武士道批判として帝国軍人たちに色濃く引き継がれていたそれを痛烈に批判するものとして反映していることは視て取らねばならないだろう。小林監督の先の大戦への関わりとこだわりは『東京裁判』に引き継がれている。

 それはともかく。三池作品はリメイクとして評価できるものの小林作品の骨格を移譲しただけで小林作品に徹底している原作の解釈の周到な読みと解釈が物足りないことは否めない。それは先ず脚本に言える。そして結局は主役の器量の違いにも。小林作品は監督にとっても主役の仲代達矢にとっても最高傑作と確信する。それを三池作品は畏敬を込めてりメイクしたが元の作品を超えることはできなかった。それは残念というより仕方がないものとも思えた。仲代という稀代の俳優に市川海老蔵を比較することは酷というものである。それは小林監督の最高傑作とアカショウビンが見なす作品をリメイクで他の監督が超えられる筈もないというのも仕方がないという事かもしれない。しかし久しぶりに『切腹』を観て日本映画の全盛期ともいえる時代の秀作は明らかに世界的レベルであったことは間違いない。  作品と解釈といえば音楽でも同じ。このところ聴いているマーラーの各録音も様々である。それはまた稿を改めて考察しよう。

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2018年1月29日 (月)

二本の映画 

 昨年公開されたイギリス映画、『私は、ダニエル・ブレイク』と同じ頃にフランス映画『ティエリー・トグルドーの憂鬱』という作品は奇しくもイギリスとフランスの中高年男、家族の生活を描いた内容である。それは恐らく他の国の都市で生きる人々の生活と共通するものだろう。かくいうアカショウビンも日本の首都で似たような生活をしているからだ。

 そこで生きる男や女、家族、周辺の人々それぞれの生活が描かれる。『私は~』は欧米で多くの共感を得た。『ティエリー~』もフランスで多くの観客が観たようだ。しかしフランス映画でこのような社会派的な作品が共感されているというのも、欧米で似たような経済情況で中高年者たちが困窮、疲弊しているという事実が日常となっているということでもある。かくいうアカショウビンも病を抱えアルバイトと少ない年金でかつかつ生きている。白髪の貧相な姿は時に若者や忙しいサラリーマン達から疎まれもする。それには「このボケが!」と呟きながら心を奮い立たせるのだ。そのような日常は、その二作のなかでも繊細に描かれている。それが共感の原因であるのは間違いない。そして、そういう経済苦を齎すのが国の強圧的な行政である。都市の市民たちは、そのような政治支配のなかで生きている。それは人間の歴史の中で、この数百年である、というのがハンナ・アーレントの指摘である。『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(2002年 大月書店)は、戦後にマルクス研究に取り組んだハンナの草稿も訳出した著者、訳者たちの労作である。そのなかでハンナが駆使する「活動」というキーワードは多義で難解であるが、その語がギリシアに発する西欧政治思想を理解するうえで重要な意味を持つことが読み進むうちに納得される。それはヘーゲルを経てマルクスが新たな哲学と政治思想を展開するうえでも不可欠の用語となる。ハンナはマルクスが言う「労働が人間を創った」という用語を吟味し咀嚼し批判する。その詳細は本書を読み解いて頂くしかない。ハンナはマルクスの全理論と哲学を支える三つの文章に執拗にこだわる。①労働が人間の創造者である②暴力は歴史の助産婦である③他者を隷属させる者は誰も自由たりえない(同書p36)。このマルクスのテーゼをハンナはギリシアのプラトン、アリストテレスの論考まで遡り分析、思索する。その過程がこの著作に通底する面白さだ。それは1950年代の政治、経済、哲学界を介した生の思考と言える。それはまた先の大戦を生きたユダヤ人の知識人として思想家として活動した女性の生き様の刻印として貴重だ。

 二本の映画は、そのような読書とも共鳴する。60年を越えて生きているアカショウビンたちの人生は千差万別である。しかし何か共通するものがあるだろう。戦後世代の幸いは戦で死にに行かされることがなかった、という事である。それを否定するのはよかろう。しかし死んだ者たちの苦衷を思いやる思考を閉ざしてはならない。昨今の政治家たちの姿を見るとそれを危惧する。保守を自認する西部邁氏の自裁(自殺)は、戦後の思想空間のひとつの終焉として暫し考えさせられる死に方であった。それにしても三島由紀夫から江藤 淳、西部と保守派の憂鬱になる死に方の系譜はこれからも続くのであろうか。それは見事な覚悟といえる。しかし多くの保守派たちにその死に方はできまい。真冬の寒さに川の水はさぞや冷たかっただろうが、かえって爽快な気持ちにもなったかもしれぬ。娑婆の楽しみは味わい尽くしたと諦観したのかもしれない。それはそれで好しとするしかないだろう。しかし老境の入り口でアカショウビンはじめ中高年たちはそうもいかない。ダニエルやティエリーたちと同様に経済苦に足掻きながら活路を開くしかないのだ。死をその先に覚悟しながら。

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2017年10月11日 (水)

М・スコセッシの『沈黙』を観る

   昨年公開されたマーティン・スコセッシ監督の『沈黙』をレンタルDVDで観た。翻訳された遠藤周作の原作を28年前に読んで映像化を意図してきたという。28年前というと1988年、『最後の誘惑』を撮った頃だ。この作品はギリシアの哲学者・小説家ニコス・カザンザキスの原作『キリスト最後の小さなこころみ』を映画化したものという。おそらく、その作品を撮るうえで参考文献として読んだのだろう。それが実現されて監督のファンはじめ今や世界的巨匠となり多くの人々に17世紀初頭の日本と諸外国の関わりが宗教的なレベルで伝えられたことは幸いだ。原作はいち早く篠田正浩監督が映画化し当時アカショウビンも観た。しかしレンタルショップにはなかった。当時読んだ原作も度重なる引っ越しで手元にはない。いずれ新たに購入し感想を書きたい。

  それはともかく、米国のイタリア系移民の末裔が遠藤の原作に刺激されたというのは興味深いことである。当時の日本の家屋、日本人、ロケーションには多少の違和感も感じたが、それは仕方のないことと思える。しかし扱うテーマは重く、それは現在の信仰者たちにも痛烈な思惟を促す内容であることは言うまでもない。背教、棄教という信徒とイエズス会司祭たちに強いられた事実をカソリック信者の原作者は小説として真摯に作品化した。映画も多くは原作の根幹を丁寧に読み込み仕上げたものと思われた。アカショウビンはこの作品のなかで急所と思われたシーンを取り上げて感想を述べたい。それは棄教した(転んだ)神父フェレーラとその弟子のロドリゴとの再会と対面の場面である。

  フェレイラは棄教後に妻も子もあてがわれ、寺でロドリゴと面会する。フェレイラは〝穴吊り〟という身体を藁で包まれ地面に掘った穴に逆さ吊りにされる拷問に耐えられず信仰を棄て〝転んだ〟。それをロドリゴに説明し、かつての弟子にも棄教を促す。弟子はそれを詰るが師はキリスト教が間違った教えでそれを書物にもしている、と話す。『顕偽録』という名の本を「欺瞞の開示、または暴露」と説明し「より派手な表現だ」と 自嘲する。それを付き添いの浅野忠信演ずる武士が「真理だ」と口を挟むと、ロドリゴはすかさず「真理を毒のように扱う」と返し、「むごい、むごすぎる」と吐き捨て「人の魂を歪めるなど拷問より残酷だ」と述べる。武士は「彼はフェレイラではなく、今や沢野忠庵であり、〝平安を見い出した者〟彼に導いてもらうがいい、仁慈の道を、我を棄てることだ、人の心に干渉してはならん、仏の道は人に尽くすこと、キリストもそうだろ、どちらも変わりはない、一方に引き入れなくともよいのだ、似ているのだからな」と言う。フェレイラが踏み絵を踏み〝転ぶ〟場面は、この作品の白眉ともいえる。リーアム・ニーソン演じるフェレイラの演技は見事だ。奉行を演じたイッセー尾形の描き方も監督の演出で司祭達との対比が実に見事な効果を醸し出している。キャスティングにあたって監督は彼が昭和天皇を演じたロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の「太陽」も見ている筈だ。

   フェレイラは日本に渡り15年間布教し、「我々の宗教はこの国に根付かない、この国は沼地なのだ」と話す。「苗を植えても育たない。根が腐る」と。これにロドリゴは反論するがフェレイラは「日本人が信じたのは歪んだ福音だ。我々の神など信じてはいない」と断じる。ザビエルを持ち出し反論するロドリゴにフェレイラは「ザビエルは〝神の御子〟を教えるため、神をどう呼ぶのかと尋ねられ、〝大日〟だと答えた」と。神の独り子は〝太陽〟で、「聖書でイエスは三日目に甦る。だが、日本では〝神の太陽〟は日々昇る」と笑う。「彼らは自然の内にしか神を見いだせない。人間を越えるものはないのだ、キリスト教の神の概念を持てない」と述べる。  フェレイラは、そこで日本に膾炙している「山河を改む」という言葉を引き「山河の形は変われども人の本性は変わらぬ、とても賢い考えだ、我々は人の本性を日本で見いだしたのだよ、たぶんそれが神を見つけるということだ」とロドリゴに諭す。「キリストがここにいたらキリストは彼らを救うために棄教したはずだ、お前の愛を見せろ、主が愛する人々を救え、教会の裁きよりもっと大切なことがある。今まで誰もしなかった最も辛い愛の行為をするのだ」とロドリゴに棄教を促す。そこにキリストの声が聞こえる。踏み絵を踏むロドリゴに「それでよい、よいのだ、お前の痛みは知っている、私は人々の痛みを分かつため この世に生まれ十字架を背負ったのだ、お前の命は私と共にある、踏みなさい」と。

  それは時を超えて宗教教団の宗派を超えて問われる難問だ。長崎はじめ日本のキリシタン達はあの時代に多くが殉教者として時の権力者に殺された。その歴史事実は世界で現在も行われている。その現在性に目を向けなければならない。それは監督のメッセージでもあるだろう。 先日読んだ、『沖縄と国家』のなかで辺見 庸が目取真俊との対談の最後にアーサー・ケストラーを引いて書いている。それは、映画とは関係ないが底で通じる論説だ。曰く、「殉教者の血は大地をゆたかに肥やした、ということがいわれてきた。しかし、じつのところは、殉教者の血は、下水道にごぼごぼと単調な音をたてて流れくだっていたのである。人間が回想できるかぎりの昔から、世界のどの部分をみわたしてみてもごぼごぼの音が低まり、あるいはやみそうな希望を抱かせてくれる証拠は、ほとんどなにもない」(『機械の中の幽霊』)。それは1967年のことである。「人民と政府は、歴史からなにものも学ばず、あるいはそこからみちびきだされる原理にのっとって行動することもない、というのである」(同書p182~p183)と嘆く。それはヤマトゥと日本の関係、世界の現状と歴史に鑑みて発する嘆息であるが、宗教と世界についても首肯する事実である。

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2017年8月 2日 (水)

追悼

 ジャンヌ・モローとサム・シェパードの訃報が伝えられた。いくつかの作品を観て刺激を受けた者として作品を思い出しながら追悼しよう。
 先ずはジャンヌ・モロー。若い頃から好みの女優というわけではない。しかし、フランスを代表する女優の一人である。その存在をスクリーンで正面し捉えなければならない。記憶にいくらか甦るのは『小間使いの日記』(1963年 ルイス・ブニュエル監督)だ。鼻っ柱の強い、小間使いをよく演じて、なるほどこれは独特の個性であるなと納得した。『死刑台のエレベーター』(1957年)はマイルス・デイビスの音楽の方が有名になった感もあるがルイ・マル監督のファンとしては監督作品の新たな刺激としても観直したい作品だ。老いても活発に活動しておられたようで新作を一昨年くらい前に観た。気骨のある老婆を演じて恐れいったものだ。
 サム・シェパードは病との格闘が意外な印象として新たな感慨をもった。病は筋委縮性側索硬化症。徳田虎雄と同じ難病だ。それは過酷な病であることは徳田の闘病をテレビや書かれた本で少しは知った。劇作家としての仕事より俳優としてアカショウビンは関心をもった。『ライトスタッフ』(1983年 フィリップ・カウフマン監督)は面白く観た。宇宙飛行が戦闘機乗りの経験から科学的データの積み重ねで現実化した経緯を巧みに描いた佳作だ。
 ジャンヌ・モローは享年89歳。倒れているのを家政婦が見つけたというから、家族に看取られての大往生というわけでもない。サム・シェパードは73歳だったろうか。こちらは病との闘病での辛い、厳しい最期と思える。此の世での映像を介したご縁だが心から哀悼の意を表したい。近いうちに出演作品を観て感想を書く機会もあるだろう。

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2017年6月23日 (金)

河瀨監督の「光」を観る

昨日、アルバイトを休み新宿の劇場で河瀨直美監督がカンヌに出品した「光」を観てきた。朝の回で何と観客はアカショウビンの他三人。おかげでゆっくり観られた。食事もしながら。しかし何とアイスコーヒーとホットドッグで800円には魂消たが。

  前作の「あん」に続く作品として期待もした。カンヌでは観客総立ちで10分間拍手が止まなかったという。物語は一本の映画を視覚障害者のための音声解説に取り組むスタッフの遣り取りである。健常者には思いもつかない現実を彼らは生きている。それは想像力を最大限に発揮し生の活路をはたらかすという日常を彼らは生きているということだ。全盲といくらか光を感知する主人公の生きざまを河瀨監督は繊細な感受性で構成する。それは時に冗長でもあるが、その人々が感じ生きる時の推移を辿るには不可欠の時とも言える。それは観る者にも想像力と感受性を要求する。主演は「あん」に続き永瀬正敏。熱演である。脇役陣も好演。もう少しこの作品のテーマとカットなどの細部を廻って考えてみよう。

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2017年3月 2日 (木)

移民への仕打ち②

 二人への死刑を求刑する検察官カッツマンの論告から再現しよう。(ただし字幕の句読点は少し変えてある)

 「遠い未開の貧国からはるばる来た人々だ。イタリア人やポーランド人、プエリトリコ人などが、この文明国に近づこうと努力する姿は涙をさそう。我々の習慣や知性に順応しようとしている」

 「差別発言だ!」(ムーア弁護士)

 「陪審員の皆さん、弁護人こそ差別しとる。誠実な米国市民の申し分ない証言と哀れな移民を同等に考えとる。移民はわが国の原則を知らん。自由社会の理想や民主主義正義さえを知らん。英語もろくに離せん」

 「差別だ!KKK教団の狂信者と同じだ」

 「こういう連中こそ自由主義の最大の敵だ。思いやりは大切だが危険は避けねばならん」

 「差別だ。KKK団だ」

 「カリフォルニア出身のムーア氏はKKK団と言う・・・だが移民こそ血の絆で結ばれている。イタリア人は血の儀式を行う。〝首長〟の血を〝新入り〟の血に混ぜるのだ。野蛮な未開人だ!」

 アカショウビンが中学生のころ夢中になって観たマカロニ・ウエスタンで強い印象を受けた敵役の名優ジャン・マリア・ヴォロンティ演ずる被告の一人バルトロメオ・ヴァンゼッティは1921年から始まった裁判の13年前に米国に来て魚屋を生業として地道に働いてきたイタリア移民である。故郷のイタリアでは13歳から働き始めた。〝外国人一斉取り締まり〟があると聞いて移民の一部はメキシコに逃げた人々も。靴職人として生業を立てて来た友人のニコラ・サッコもメキシコに逃げたが「生活はできなかった。苦労して技術者になったのに、つまらん仕事しかなかった」。

 これに検察官カッツマンは追い打ちをかけるように激しく法廷に叫ぶ。

 「つまり、米国への愛は仕事と稼ぎしだいなのだ。貴方の米国への愛はドルで勘定できる」

 これにヴァンゼッティが答える。

 「私は1ドルの貯金さえできなかった。私の望みは、皆が食べていけること、子供達が立派な教育を受けることだ。働く者は白人も黒人も同じになることだ。資本家は貯金している間はおとなしいが、突然、戦争を始めて子供達を殺す」。

 1927年4月9日のバルトロメオの最後の陳述は次の通りである。

 「私は無実だ。盗みも人殺しもした事はない。人の血を流したことはない。犯罪をなくすために闘ってきた。その犯罪とは人間が人間を搾取するという犯罪だ。だから私はここにいる。検察官の言ったひと言が忘れられない。『君は金持になろうとこの国に来た』と・・・鳥肌が立つ。金持になるなど考えた事もない。こうして苦しみに耐え罪を受けるのは私が実際に犯した罪のためだ。アナーキストという罪のためだ。私はアナーキストだ。イタリア人という罪のためだ。私はイタリア人だ。だが、私は正しいと確信しているから、皆さんが私を二度殺したら私は二度よみがえって今までしてきた事と同じ事をする。

 ニコラ・サッコ、わが同志ニコラ、話すのは私が得意かもしれない。しかし、いつでも、この男の思いを考えながら話すのだ。皆さんは、彼を泥棒で人殺しだと決めて殺そうとしている。裁判長の身体がちりになり皆さんの名や制度が不幸な過去の記憶でしかなくなった時にも、ニコラ・サッコの名は人々の心に生きているだろう。皆さんにお礼を言おう。我々は哀れな被搾取者にすぎなかった。善良な靴職人、まじめな魚屋。一生かかっても、こんなに世の中の役に立つとは思わなかった。人間の寛容さや正義や理解のために役立てるとは・・・皆さんは哀れな被搾取者の人生に、意義を与えてくれた。

 続けて発言を求められたサッコは、死刑執行前に言いたいことは?と訊ねられて「ノン」とだけ答える。

 刑場に向かう護送車の中からヴァンゼッティが眺める外の景色にエンニオ・モリコーネの音楽が哀切を極める。しかし彼に促されてもサッコは外を眺めようとしない。「外は美しい」と言う彼にサッコは「何を見るというんだ?」と問い返す。「希望を失くしたのか?」「七年もたって?もう終わってほしい」

 サッコにはヴァンゼッティの言う〝希望〟が失くなくなってしまっているのだ。それは〝絶望〟という事なのだろうか。そうかもしれない。しかし、そこには言葉に収まりきれない深い淵に澱のようなものが怒りやあきらめとして時に希望も明滅し不気味に溜まっているように思われる。

 話は前後するが、この裁判には世界中から反対の声が挙がった。裁判でも知事の恩赦への請求が行われた。カッツマンは知事が同席した部屋でヴァンゼッティにそれを伝える。

 「君が闘う権力体系はクーリッジ大統領から判事へ、知事からここの看守へと及んでいる。この体系をどう思うかね?この体系の中でひとつの弱い点にすぎない知事がアナーキストに対して温情をかける力を持つと思うか?これにヴァンゼッティは「我々の罪は殺人ではない。アナーキストという罪だ」。これにカッツマン検察官は更に問いかける。

 「君がアナーキストではないとする。強盗殺人だとしよう。世界中にこれほどの反響が起こるか?起こりはしない。君はあたり前の一市民ではない。アナーキストだ。世界中に運動が起きている。温情措置は反権力運動に水をさすのでは?弱さととられるかもしれん」。

 ヴァンゼッティ 「正義を話したかっただけだ」

 カッツマン 「正義は、権力体系の一部では?こんな状況でも君が権力者なら恩赦を与えるか?」

 ヴァンゼッティ 「私は正義の証明がほしかっただけだ。貴方がたは改めて教えてくれた。権力体系は暴力の上に成りたっていると・・・」

 カッツマン 「アナーキストの君が暴力を論じるのかね?」

 ヴァンゼッティ 「七年前から同じ言い方だ。もう一度言っておく。貴方がたが強制する社会を我々は破壊したい。暴力の上に成る社会だからだ。生活に窮するのは暴力だ。何百万人の人が飢えに苦しむのは暴力。金銭も暴力。戦争も。日々に味わう死の恐怖も。それも暴力なのだ。フラー知事、なぜ言ってくれないのです?〝ヴァンゼッティ、請求は却下された〟と」。

 それに知事は「決めかねていたのだ」と答える。検察官カッツマンは勝ち誇ったように、「君はシンボル的な存在だ。しかし死刑囚でもある。君なら、どちらを助けるかね?死刑囚か?シンボルか?」

 この遣り取りのあと、独房に戻り、向かいの独房のサッコにヴァンゼッティは話しかける。

 「君が何も求めなかったのは正しい。奴らはただの人殺しだ」。

 独房でサッコは息子に手紙を書く。妻と面会に来ても裁判や父の現状を理解できない年頃で父親に近づこうとしない息子に。

 「息子よ。昼も夜も、お前たちを思った。自分の生死も分からなくなった。お前とお前のママを抱きしめたい。許しておくれ。この不当な死のためにお前は幼くして父を失う。彼らは我々の身体を焼くが、我々の信念は焼き尽くせない。それは若者に受け継がれる。お前のような若者に・・・覚えておけ息子よ、利他する幸福は、ひとり占めにするな。へりくだって隣人を思いやれ。弱い人、悲しむ人を助けよ。迫害される人に手を貸せ。彼らこそ、真の友人だ。覚えておけよ。利他する幸福を。忘れるな、利他する幸福を。我々の信念は崩せない。未来の若者に受けつがれる。お前のような若者に・・・」

 サッコは電気椅子に座らされる。「さよなら わが妻よ 息子よ。わが同志よ」

 上半身を縛られ、眼の前に覆いがかけられる。映像は映画の冒頭のシーンのように白黒になっている。画面はヴァンゼッティに変わる。独房から出されるヴァンゼッティ。陪審員たちに正面し、小さく頷く。12時10分を指す時計。その下の陪審員たち。顔に覆いをかけられるヴァンゼッティ。画面は暗転し、「法の定めにより、死を宣告する」のナレーション。クレジットが流れるなかジョーン・バエズの懐かしい歌声が響く。

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2017年2月21日 (火)

移民への仕打ち

 現在の米国が記憶をたぐりよせたほうがよい歴史を映画作品で想い起こすと『死刑台のメロディ』(1971年 ジュリアーノ・モンタルド監督 イタリア・フランス合作)がある。特に物語は辿らない。レンタルショップで借りられる。アカショウビンも先日借りてきて何年ぶりかで観直した。無実の罪で死刑にされたイタリア移民、ニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの実話が映画化された作品だ。裁判での遣り取りのシーンが白眉である。

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2017年2月 2日 (木)

オリバー・ストーン監督の最新作

  オリバー・ストーン監督の最新作『スノーデン』を観てきた。米国の新大統領に振り回される私たち日本人や当の米国始め諸外国など「世界」が、どういう現状にあり、どういう現実と現在にあるかに暫し考える時を与えてくれる快作に仕上がっている。公開から間もないとはいえ新宿の劇場が満席というのも驚いた。
 取り合えず簡単に感想を書いておこう。
 2時間以上の長尺だが先ず冒頭のスノーデン氏がCIAに職を得る前に在籍していた海兵隊でのシーンがスタンリー・キューブリックの秀作『フルメタル・ジャケット』のパクリ(オマージュではあろうが)であることが面白く、この作品にかける監督の意欲と才覚を改めて納得した。それからCIAにめでたく採用されてからの経緯も現代の情報産業、情報戦争の最先端を活写し刺激された。ベトナム戦争を兵士として経験した監督の、米国という覇権国家の過去と現在とアジアはじめ諸外国との関わりの過去と現在は、その後の監督の映像作品を観て一貫する問題意識となっている。それが本作でも現在の社会と鋭く交錯し切り結ばれていることが確認できた。それには何より脚本でその名を世界に知らしめた『ミッドナイト・エクスプレス』(1978年 アラン・パーカー監督)を観直さなければならない。そのあとの『プラトーン』など一連の作品より本作は『ミッドナイト~』と密接に呼応していると思うからだ。それは一人の国民が国家と濃密に関わる関係の特異性と苛烈さとも言える。

 話は飛ぶが、アカショウビンは、先日新聞のコラムで或る短歌に痛烈な刺激を受けた。<くろ鉄(かね)の窓にさし入る日の影の移るをまもり今日も暮らしぬ>。これは独房の中で死を覚悟した女性のものである。「大逆事件」で処刑された管野須賀子の辞世である。『ミッドナイト~』と『スノーデン』の主人公も幸い国家から処刑されることはなかったが106年前に一人の女性は国家によって短い生涯を終えさせられた。そのような事もオリバー監督の作品は思い起こさせる。
 それと併せて、私たち人間が日常生活の急激な電脳化と国家間の情報戦のなかに取り込まれて生きている現実と現状を監督は緻密に再現した。この作品は、私たちが生きている現在と「世界」の将来と未来を熟思するために新たな思考を励起しなければ、という刺激を与えてくれる秀作といえる。

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2017年1月25日 (水)

映画の台詞

 東京新聞の“筆洗”は映画と文学の話題で面白い記事が載ることがある。今朝の朝刊は先日亡くなった松方弘樹氏(以下、敬称は略させて頂く)の追悼。『ゴッドファーザー』のアル・パチーノの起用の話から始め『仁義なき戦い』の松方の話に渡す。引用する松方の台詞が作品の或るカットを想起させた。「あんた神輿やないの。神輿が勝手に歩けるいうんなら、歩いてみいや、おう」と主役の菅原文太に詰め寄るシーンだったろう。そこで松方は俳優として観客に痛烈な印象を与えた。アカショウビンもそこで松方が映画史に残る役者になったと思った。1973年のこの作品は久しく観ていないが近いうちにレンタルショップで探してみよう。最近借りてきたDVDを全編観ずに返すことも多くなった。こちらの体力と集中力が衰えてきていることもあるが作品がつまらないこともある。映画でも文学作品でも名作を観て読むことは精神を活性化、励起させる。日々のアルバイト労働は体力を消耗させること甚だしいが、工夫参学は仏者の教えである。古人の言葉は傾聴しなければならぬ。同様にアカショウビンには音楽が有力な活力剤の如きものである。先日のチョ・ソンジン、リサイタルに刺激されショパンの未聴録音も探してみよう。

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