2020年6月12日 (金)

語りと対話

 『教誨師』は初見、『聖の青春』は久しぶりに観た。二本とも秀作である。前作は死刑囚六人とキリスト教・教誨師の対話が淡々と描かれる。俳優にとっては厳しい演技が問われる難しい作品だろう。それは監督にとっても演技指導の可否が問われる難しさがある。それを見るに耐える作品に仕上げたのは手柄である。

 後作は、このブログでも何度か書いたが、将棋界という〈異世界〉での人の生き様と死にかたを描いて秀逸。村山 聖という若くして逝った天才棋士と羽生善治や現役棋士たちとの交流、生態をリアルに描いている。師匠を交えた、プロになれなかった後輩を慰労する席で主人公は荒れて喧嘩沙汰になる。それは、将棋界の退会制度から落ちこぼれた敗残者の姿でもある。二人の喧嘩は将棋界の制度の厳しさと、その中で生きる者たちのピンキリでもある。ネフローゼと膀胱がんという身体的ハンディを負い、名人という将棋界の頂点を目指す天才の世界は〈異世界〉のなかでも異様で特異である。

 喧嘩沙汰のあと、場面は一転して冬の東北での羽生五冠との対局である。これに村山が勝つ。対局が終わったあとの打ち上げの席を二人は抜けだし、村山の好きな小さな飲食店に行き対話する。その再現が事実に忠実なものかどうかわからない。しかし、事実ではないとしても、穏やかで、二人の天才の心情を表現したシーンとして特筆されればならない深さを帯びている。我々の日常には彼等が見ている世界は未知の世界だ。しかし、此の世はさまざまな世界でさまざまな人々が生き、死んでいく。それを映像で確認できるのが映画を観る楽しみだ。

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2020年5月30日 (土)

警句

 ゴダールの新作『イメージの本』を昨夜二度目で観直した。先に書いた感想は要を得ないが急所を外してはいない筈だ。そこはゴダール自身もファンにも見えないところだろうからである。それほど、サイードが抉り出した偏見の根は深いのが真実だろう。それは改めて熟考を要する論点だ。

 それでも、ゴダールが提起する問いというものがあるとすれば、我々はそれを明るみに出さなければならない。それは、「私たちに未来を語るのは"アーカイヴ"である」というゴダールのコメントがひとつのヒントになるかもしれない。彼は、それを作品で表現した。それが本作ということになる。しかし、それはあまりに恣意に過ぎる。一般の観客でその意図するところを理解できる観客が果たしてどれくらいいるだろうか。ゴダール自身にそのような配慮があるとも思えない。<芸術>とはそんなものだ、とすれば身も蓋もない。しかし作品の中の警句はゴダールらしい。曰く。「一秒の歴史を作るには一日かかる。一分の歴史を作るには一年かかる。一日の歴史を作るには永遠の時が」。自身の作品作りを喩えているのだろう。それを加味すれば本作も簡単には評せない。蓮實重彦氏が手放しで絶賛する「新たな傑作の異様な美しさ」にも受け取り方の違いがある。それはまた芸術作品に対する評価の違いともなるのは言うまでもない。

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2020年5月25日 (月)

ゴダールから見えるオリエント

 ジャン=リュック・ゴダールが四年かけた新作『イメージの本』をレンタルで観た。88歳になったのだ、あのゴダールも。公開時の会見は喧しかったようだ。あれこれ答えただろう回答で面白いのが次のコメントだ。

 曰く、私たちに未来を語るのは"アーカイヴ"である。

 先のブログにも書いたが、アーカイヴは、記録、古文書(こもんじょ)、公文書とも訳される。ゴダールからすれば、文書ではなく、映像ということだろう。84分間の作品はゴダール流イメージの切り貼りである。蓮實重彦は〈美しさ〉とべた褒めだが、ひとそれぞれ好みの分かれるところだろう。

 アカショウビンから言わせてもらえば、或る一人のフランス人が見たオリエントのイメージと概括できる作品だ。今は亡きエドワード・W・サイードなら西欧知識人の偏見に満ちたオリエント像から少しも出ていない、と切り捨てかねない仕上がりにしかなっていないのではないかと危ぶむ。それほど典型的な印象を受ける。ゴダールの語りは、それを補う含蓄を持つのもまた正直なところだが。しかし、多くの観客には、こ難しい理屈っぽい映画だろう。蓮實のような見巧者ならともかく。しかし、88歳の爺さんの作品とは驚く若々しさをもっていることをアカショウビンは実感したのもまた正直なところである。それはともかく、新作も既に出来ているのかもしれない。それを楽しみにしたい。

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遅い追悼

 佐々部 清監督の訃報を知ったのは三月に入院している時だった。中堅からベテランの手堅い作品を作る日本映画界に貴重な監督と見なしていた。それは、『半落ち』という作品を観たときの感想だったようだ。先日来、レンタルで三本観た。内容は殆ど忘れていたが、俳優陣の抑制された演技、演出が冴えているのを確認した。重いテーマを各俳優が熱演、好演で応えている。この作品だけでも映画史に残ると確信する。

 他の二本は、『チルソクの夏』と『陽はまた昇る』。これらは不満が残る。しかし、未見作品も多い。それらを観る機会もこれからあるだろう。還暦を過ぎ、これから秀作、傑作を制作していく途上での急逝が惜しまれる。遅れた追悼をし哀悼の意を表する。

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2020年3月 5日 (木)

小川監督の世界

 小川紳介監督の『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(1986年)は山形県の村に棲み、米作りを実践し稲の生態と田んぼの農作業にキャメラを回し、土地の人たちと交流し拵えた労作である。スタッフがそこを拠点にしたのは昭和51年。三里塚、芝山で作品を撮ってから数年後。小川監督は農民たちの日常の農作業に自ら取り組み、キャメラを回した。彼らの怒りの根源に分け入りたかったのかもしれない。動機は詳らかにしない。しかし、そこで新たな視線、視界を開いた事は作品に接すれば明白だ。『ニッポン国 古屋敷村』と同じ山形県上山(かみのやま)の別の村の現実と歴史に作品構成のネタを探った。プロの俳優も起用し江戸中期の百姓一揆も再現。物語とドキュメンタリーを併せた壮大な作品になった。

 アカショウビンには小川作品の音楽が興味深い。『日本解放戦線 三里塚の夏』はベートーヴェンの第九の4楽章と林 光の〈神々と善人たちの無防備状態の歌〉(『セチュアンの善人』1960より)。『1000年刻みの〜』では富樫雅彦がドラムスを叩いている。その音と映像の相乗効果がすばらしい。クレジットではパーカッションと記されているが見事なジャズドラムだ。映画、映像に音楽は重要である。これらの音楽を起用した小川監督のセンスにアカショウビンは共感する。林 光は新藤兼人監督作品で力量は承知している。富樫の音は乾いていて味がある。ドラムの打楽器としての効果を熟知しているのだ。映像良く、音楽良ければ秀作である。

 この作品は1987年に京都の鬼市場・千年シアターで公開された。廃屋の場所にスタッフと若者たちが手作業で劇場を築き上げた。その模様も映像化されている。その後、各地で地元と協力して上演されたのだろう。配給会社のロードショー公開にはなりにくい長尺である。しかし見る者は田作りの労苦と稲作特有の時間感覚で日常とは異なる時間の渦中にタイムスリップする不可思議な体験ができる。それは多くの日本人が失ったものである。それを映像で構成したのは小川監督の手柄である。

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2020年3月 3日 (火)

怒りの行方

 きのうは雨で仕事中止。途中の電車の車中で連絡が入った。そこで帰って借りているDVDを観る。今井 正監督の『米』と小川紳介監督の『日本解放戦線  三里塚の夏』。かつての熱い農民の闘いと苦しみが、それぞれの視点で映像化された佳作だ。

 前者は霞ヶ浦周辺に生きる農民の暮らしを丹念に描く。「五反百姓の次男、三男に嫁は来ねぇ」と言う若者の言葉に当時の農家の現実が集約される。〈夜這い〉という風習も笑いを醸す。かつての帆引き船漁の映像も貴重だ。昼は田畑、夜は漁師で働く農漁民の苦楽を今井監督は他作品に比べれば少しユルいテンポでキャメラに捉える。俳優たちもそれに応える熱演だが、小川作品を観るとそのユルさが対照するのだ。それは日々の労働に明け暮れ苦しむ農民たちを描く視線と、自分たちの土地を奪う国家と対決する農民たちの激烈な怒りと闘争に注視する対比となって鮮明する。

 糞尿弾(袋)、竹槍、鎌を武器に機動隊の催涙弾、装甲車、放水車、ジュラルミンの盾と棍棒に対抗する三里塚、芝山農民と支援若者、学生たちの姿は、韓国、香港、沖縄の現実に姿を変えて現在している。それを我々現在を生きる日本人は映像を通じ我が身に受容しなければならぬ。

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2020年2月22日 (土)

ニッポン国 古屋敷村

 レンタルで小川紳介作品が観られるというので先ず二本借りた。『ニッポン国  古屋敷村』『三里塚・第三次強制測量阻止闘争』。後者は農民と国家権力との剥き出しの抗争にキャメラを回し続けた小川の強靱な意志が伝わる。素顔の農民の姿と能面のような仮面のような無表情の権力側の人間の非情を痛烈に捉えている。

 前者は1980年、山形県上山の村で一年間かけて撮った労作。三時間以上の長尺だが面白い。今日の近代化と同時に残存しているニッポン国のムラで生きる人間と自然に監督スタッフは緻密な視線を向ける。稲の開花と閉花、受精の神秘を映像で見るのは刺激的だ。それは人間の性の営みにも通じる。

 ロケ地が上山(かみのやま)というのもアカショウビンには懐かしかった。この地はサラリーマン記者の頃に何度も行ったからだ。しかし作品で図示された古屋敷村は一度も訪れられなかった。上山は茂吉がこよなく愛した土地だ。改めて訪れてみなければならない。土地独特の地形から生じる"シロミナミ"という山から降りてくる霧や蚕屋など村を支えてきた産業の現場は目の当たりにしなければ映像だけではこちらに響かない。併せて映像を繰り返し観て腑に落とす、これも大事な事であることはもちろんである。他の小川作品も観ながら考えていきたい。

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2020年2月 7日 (金)

芸人の寿命

 昨夜友人の配慮で試写会に行った。ジュディ・ガーランドの晩年を描いた米国映画『ジュディ』である。副題は〈虹の彼方に〉。若い人は知らないだろうが『オズの魔法使い』というミュージカル映画で一世を風靡した。子役である。概して子役は大人俳優を食う。ジュディも同じで天才子役ともて囃された。戦後の敗戦国にもその人気は伝播した。アカショウビンもその余波で観たのである。他愛のない奇想で彩られた作品で黒人作家ジェームス・ボールドウィンは非肉の一つも書いていたのではなかったか。もっとも人気を博したのは主演したジュディ・ガーランドが歌う「虹の彼方に」だろう。作品でもこの曲が彼女の一生を左右した運命の曲である事に焦点を合わせている。その経緯を知らなければこの作品の含意は伝わらない。若い人たちにはその幾らかでも伝わったか知らない。しかし試写が終わり静かな拍手があった。おずおずとも慎ましくとも思えるものだった。含意は伝わったと思えた。聞けば主演女優はアカデミー賞の最右翼というらしい。さもありなん。熱演である。

 これを観て直ぐ連想したのが十年くらい前にフランスで作られたエディット・ピアフの一生を描いた映画である。これも主演女優の熱演が痛烈だった。駆け出しのマリオン・コティヤール。多くの賞を取り今やベテランであろう。こちらはレネー・ゼルウィガー。既にベテランである。女優として期すものがあったのかもしれぬ。ジュディに似せて難役をこなしたことはよくわかった。米国の評価も似たようなものと察する。

 ジュディ・ガーランドは47年の生涯である。ピアフも同じくらいか。先日読んだ矢野誠一の圓朝伝で芸人たちは若死にが多い。多くが酒、女、博打の放蕩による。61歳まで生きた圓朝は未だ長生きのほうである。洋の東西を問わない。モダンジャズメンはそれにヤク覚醒剤が加わる。芸人は多くが若死になのである。長生きした芸人はロクな者がいないというのは言い過ぎである。志ん生、文楽、円生は長生きだったからだ。しかし天才と囃され若死にした者が多いのも事実。持て余す才能を燃やし尽くすという生き様があるのだろう。ジュディ・ガーランドの場合、子役時代から大人たち映画制作者たちから拘束された生き方を押し付けられた不幸というのが作品の根底にあるメッセージかもしれぬ。しかし哀れであるが芸人らしい一生ともいえる。その悲哀のいくらかを作品は伝え得たのかもしれぬ。それを最後の拍手にアカショウビンは看取した。

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2020年1月27日 (月)

イタリア人気質

 イタリア人気質というものがあるように思えるのは映画作品やオペラコンサートの聴衆の感動表現の異国のものとの違いに遭遇する時である。

 先日観た米伊合作だったかの映画でフェリーニのことをフェフェと言うのに違和感を持ったのだがイタリア本国ではそう呼んでいるのかも知れない。フェリーニとは映画監督フェデリコ・フェリーニである。必ずやアカショウビンの映画監督ベストテンの上位に入る人である。映画の中ではフェリーニと話をしたこともあるフェリーニ礼賛女が彼のことをヒロインに事ある毎にフェフェはこう言った、こう話したと講釈する。それが面白く、フェリーニの熱烈なファンならさもありなんと得心したのである。その女はフェリーニの作品のなかで『カビリアの夜』がいちばん好きだ、とも語ったのだった。なるほど、そうか、それはそうなのだろう。それは作品を改めて観て見なければ。以前レーザーディスクで買ったけれども再生装置が故障し修理に出したら修理費が高くそのまま引き取らず。手持ちのディスクは観られないので先日レンタルで借りて観た。主演はジュリエッタ・マシーナ。1957年制作のときフェリーニ夫人になっていたかどうか。しかし監督がこの女優の魅力と才覚、才能を見事に引き出したことがよくわかる。作品に登場する人達は私達がああこれがイタリア人という人々だよなと感嘆する人たちだ。

 ジュリエッタが仲間の娼婦たちと喧嘩騒ぎになる時にマンボを踊りだすシーンの姿態と表情、台詞の生き生きとした感情を表現して恐れ入る。この女優の素晴らしさの瞬間を監督は的確に捉えている。特にジュリエッタの台詞と手指の動きにイタリア気質というしかないものが集約、横溢していると思う。それを説明するには多言を要する。

 もう一つは先日のブログでも少し書いたが、オペラでのイタリア人の感動表現である。マリア・カラスが1949年、ナポリの劇場で歌ったヴェルディの『ナブッコ』での聴衆の興奮にそれが現れている。何とある場面で聴衆は感動し指揮者とオーケストラ、舞台に三度アンコールをさせたのである。日本や他国でこのような事が起こるだろうか。現在のイタリアでもこのような事が起きたことがあるかどうかアカショウビンは詳らかにしない。しかしやはりイタリア人気質というものがあるように思えるのだがどうだろうか。

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2019年12月19日 (木)

司法村

 原一男監督の『ニッポン国vs泉南石綿(いしわた)村』というドキュメンタリー作品の中で最後に呟かれる言葉である。

 この原監督の新作は、大阪府泉南市のアスベスト(石綿)被害者が国を相手取り起こした訴訟を追った映像である。三時間余りの長尺だが、割愛した部分も多いだろう。ときに呆れるようなシーンもある。しかし、キャメラを回す中で患者たちは次々と亡くなる。摂取後20年後に発症するという。病名は肺がん、肺気腫、時限爆弾のようなものだ。原告たちの怒りと支援する弁護士たち、彼らと相対する官吏たちとのやり取りを映像に残したのが監督の手柄である。

 しかし、原告たちを率いて最高裁まで闘った人のため息交じりの呟きが「司法村の中で我々は翻弄された」という感慨になった、とアカショウビンは聞き取った。それはニッポン国の司法制度の厚顔であり、明治以来の富国強兵と産業体制優先による棄民政策だ。足尾鉱毒事件、水俣病裁判、ハンセン病患者に対する国家の冷徹を経て、それは現在も現出している。沖縄は明治の琉球処分と変わらぬ関係構造の中にある。そのような歴史を振り返り我々は、思考、考察、行動を促される。

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