2020年9月19日 (土)

二つのドキュメンタリー作品 

 二つのドキュメンタリー映像で二人の人物の名前と生き様を記憶しておこう。ヘンリ・ミトワとレオン・ヴィターリ。ヘンリは青い眼の禅僧と慕われた日米の混血人。京都天龍寺僧侶である。父はドイツ系アメリカ人、母は新橋の芸者。三人兄弟の末っ子。『禅と骨』で、その生涯が本人と中村高寛監督ほかスタッフの尽力によって記録されている。2011年6月当時92歳。人の一生は、かくも波乱に満ちていることを伝えて余りある。ヘンリの思いをスタッフが理解していないと時に怒りを発する。しかし、その概要は映像から察せられる。一見の価値ある作品である。禅僧の側面より日米混血人としての生涯に中村監督の関心は向けられているのがアカショウビンには不満だが、それはまた水上  勉とも親交があったというのだから水上の著作も辿りながら考察していきたい。

 もう一本は、映画監督スタンリー・キューブリックに魅せられた俳優レオン・ヴィターリのドキュメンタリー作品である。『キューブリックに魅せられた男』。キューブリック作品に深く関わった人物の語りが興味深く面白い。人が人に惚れる、魅せられるということの一端がわかる。それはスタンリー・キューブリックという巨匠の魅力と謎でもある。キューブリック作品に魅せられたアカショウビンには、各作品のメイキングは実に興味深い。『バリー・リンドン』に主演したライアン・オニールもインタビューに答えている。途中まで、それがあのライアン・オニールであることは翻訳を見るまでわからなかったが。傑作『2001年  宇宙の旅』の宣伝、公開にまつわる逸話も面白い。キューブリックに関するドキュメンタリー作品はもう一本ある。それも観て改めて、この巨匠の作品を観直してみたい。

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2020年8月10日 (月)

アラン・パーカーの作品②

 きのうレンタルDVDで『ミッドナイト・エクスプレス』(1978年)を久しぶりに観た。脚本をオリバー・ストーンが書いている。演出もしているようだ。当時の最強のタッグとも思える。それほど緊張感漲る無駄のない映像に構成された傑作だ。アカショウビンは池袋の文芸座で観た。確か二階席だった。少し離れた席の話し声が聞こえた。どうも、そのスジの男二人で、「兄貴が、いい映画だから是非みてこいというんだよ。それでお前を誘ったんだ」などと声高に話している。そういうお兄さんたちは、健さんや文太が出てくる東映ヤクザ映画だろうというのは先入観である。「兄貴」は、なかなかのインテリなのではないか。作品の麻薬組織や麻薬密輸などヤバイ世界の或るリアリズムを作品に見たのかもしれない。そこに危ない橋を渡る覚悟を弟分たちに伝えようとしたのかも知れない。

 それはともかく、同作品は実話に基づく苛烈な事実が描かれている。それは世界の何処かで現在も生じている現実だろう。文化、習慣、宗教、人種の違いというのはわれわれ暢気な日本人が考えるほど簡単なものではない。作品中のイスタンブールの風景、人々を見ているとそれを痛感する。

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2020年8月 3日 (月)

アラン・パーカーの作品

 新聞の訃報や記事を散見すると、『エヴィータ』『ミッドナイト・エクスプレス』『アンジェラの灰』は出てくるが、『ミシシッピー・バーニング』の扱いが思いのほか小さい。氏が生まれて初めて書いた脚本の『小さな恋のメロディー』は、地元の英国、米国ではあまり話題にならず、日本でヒットした、という話は記事の一つで初めて知った。しかし、アカショウビンが強く推したいアラン・パーカー作品は『ミシシッピー・バーニング』である。

 この作品は米国の黒人差別、1960年代の公民権運動を描いて監督の力量が示されている秀作だ。ジーン・ハックマン、ウィレム・デフォーら出演者たちも、熱演というより当時の時代を現実に生きているように思えるのは、ひとえに監督の演出、俳優たちの意気込みによるものと言える。

 アカショウビンは、この作品とラウル・ペック監督の『私はあなたのニグロではない』、スパイク・リー監督の『マルコムX』を観て米国の宿痾とも言える人種差別、黒人差別を考える。それは、米国だけの宿痾にとどまらない。日本にも世界にも遍在する差別という宿痾だ。

 それはまた、アカショウビンにとってマイルス・デイヴィスの音、生き方、ニーナ・シモンの声、ピアノの音を辿ることでもある。マイルスもニーナも生涯かけて差別と闘った闘士だ。今朝はマイルスの『ビッチェズ・ブリュー』を聴き一日を始める。マイルス、ニーナを聴きながら、アラン・パーカーの他作品も観ていくことになるだろう。

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2020年8月 2日 (日)

アラン・パーカー追悼

 今朝の朝刊で訃報を知った。先日、たまたま『ミシシッピー・バーニング』(1988年)を観直したばかりだった。未見の作品も幾つかある。文芸座などで追悼特集をやってくれればありがたいのだが。レンタルショップには幾つかある。借りて追悼したい。

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2020年6月12日 (金)

語りと対話

 『教誨師』は初見、『聖の青春』は久しぶりに観た。二本とも秀作である。前作は死刑囚六人とキリスト教・教誨師の対話が淡々と描かれる。俳優にとっては厳しい演技が問われる難しい作品だろう。それは監督にとっても演技指導の可否が問われる難しさがある。それを見るに耐える作品に仕上げたのは手柄である。

 後作は、このブログでも何度か書いたが、将棋界という〈異世界〉での人の生き様と死にかたを描いて秀逸。村山 聖という若くして逝った天才棋士と羽生善治や現役棋士たちとの交流、生態をリアルに描いている。師匠を交えた、プロになれなかった後輩を慰労する席で主人公は荒れて喧嘩沙汰になる。それは、将棋界の退会制度から落ちこぼれた敗残者の姿でもある。二人の喧嘩は将棋界の制度の厳しさと、その中で生きる者たちのピンキリでもある。ネフローゼと膀胱がんという身体的ハンディを負い、名人という将棋界の頂点を目指す天才の世界は〈異世界〉のなかでも異様で特異である。

 喧嘩沙汰のあと、場面は一転して冬の東北での羽生五冠との対局である。これに村山が勝つ。対局が終わったあとの打ち上げの席を二人は抜けだし、村山の好きな小さな飲食店に行き対話する。その再現が事実に忠実なものかどうかわからない。しかし、事実ではないとしても、穏やかで、二人の天才の心情を表現したシーンとして特筆されればならない深さを帯びている。我々の日常には彼等が見ている世界は未知の世界だ。しかし、此の世はさまざまな世界でさまざまな人々が生き、死んでいく。それを映像で確認できるのが映画を観る楽しみだ。

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2020年5月30日 (土)

警句

 ゴダールの新作『イメージの本』を昨夜二度目で観直した。先に書いた感想は要を得ないが急所を外してはいない筈だ。そこはゴダール自身もファンにも見えないところだろうからである。それほど、サイードが抉り出した偏見の根は深いのが真実だろう。それは改めて熟考を要する論点だ。

 それでも、ゴダールが提起する問いというものがあるとすれば、我々はそれを明るみに出さなければならない。それは、「私たちに未来を語るのは"アーカイヴ"である」というゴダールのコメントがひとつのヒントになるかもしれない。彼は、それを作品で表現した。それが本作ということになる。しかし、それはあまりに恣意に過ぎる。一般の観客でその意図するところを理解できる観客が果たしてどれくらいいるだろうか。ゴダール自身にそのような配慮があるとも思えない。<芸術>とはそんなものだ、とすれば身も蓋もない。しかし作品の中の警句はゴダールらしい。曰く。「一秒の歴史を作るには一日かかる。一分の歴史を作るには一年かかる。一日の歴史を作るには永遠の時が」。自身の作品作りを喩えているのだろう。それを加味すれば本作も簡単には評せない。蓮實重彦氏が手放しで絶賛する「新たな傑作の異様な美しさ」にも受け取り方の違いがある。それはまた芸術作品に対する評価の違いともなるのは言うまでもない。

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2020年5月25日 (月)

ゴダールから見えるオリエント

 ジャン=リュック・ゴダールが四年かけた新作『イメージの本』をレンタルで観た。88歳になったのだ、あのゴダールも。公開時の会見は喧しかったようだ。あれこれ答えただろう回答で面白いのが次のコメントだ。

 曰く、私たちに未来を語るのは"アーカイヴ"である。

 先のブログにも書いたが、アーカイヴは、記録、古文書(こもんじょ)、公文書とも訳される。ゴダールからすれば、文書ではなく、映像ということだろう。84分間の作品はゴダール流イメージの切り貼りである。蓮實重彦は〈美しさ〉とべた褒めだが、ひとそれぞれ好みの分かれるところだろう。

 アカショウビンから言わせてもらえば、或る一人のフランス人が見たオリエントのイメージと概括できる作品だ。今は亡きエドワード・W・サイードなら西欧知識人の偏見に満ちたオリエント像から少しも出ていない、と切り捨てかねない仕上がりにしかなっていないのではないかと危ぶむ。それほど典型的な印象を受ける。ゴダールの語りは、それを補う含蓄を持つのもまた正直なところだが。しかし、多くの観客には、こ難しい理屈っぽい映画だろう。蓮實のような見巧者ならともかく。しかし、88歳の爺さんの作品とは驚く若々しさをもっていることをアカショウビンは実感したのもまた正直なところである。それはともかく、新作も既に出来ているのかもしれない。それを楽しみにしたい。

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遅い追悼

 佐々部 清監督の訃報を知ったのは三月に入院している時だった。中堅からベテランの手堅い作品を作る日本映画界に貴重な監督と見なしていた。それは、『半落ち』という作品を観たときの感想だったようだ。先日来、レンタルで三本観た。内容は殆ど忘れていたが、俳優陣の抑制された演技、演出が冴えているのを確認した。重いテーマを各俳優が熱演、好演で応えている。この作品だけでも映画史に残ると確信する。

 他の二本は、『チルソクの夏』と『陽はまた昇る』。これらは不満が残る。しかし、未見作品も多い。それらを観る機会もこれからあるだろう。還暦を過ぎ、これから秀作、傑作を制作していく途上での急逝が惜しまれる。遅れた追悼をし哀悼の意を表する。

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2020年3月 5日 (木)

小川監督の世界

 小川紳介監督の『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(1986年)は山形県の村に棲み、米作りを実践し稲の生態と田んぼの農作業にキャメラを回し、土地の人たちと交流し拵えた労作である。スタッフがそこを拠点にしたのは昭和51年。三里塚、芝山で作品を撮ってから数年後。小川監督は農民たちの日常の農作業に自ら取り組み、キャメラを回した。彼らの怒りの根源に分け入りたかったのかもしれない。動機は詳らかにしない。しかし、そこで新たな視線、視界を開いた事は作品に接すれば明白だ。『ニッポン国 古屋敷村』と同じ山形県上山(かみのやま)の別の村の現実と歴史に作品構成のネタを探った。プロの俳優も起用し江戸中期の百姓一揆も再現。物語とドキュメンタリーを併せた壮大な作品になった。

 アカショウビンには小川作品の音楽が興味深い。『日本解放戦線 三里塚の夏』はベートーヴェンの第九の4楽章と林 光の〈神々と善人たちの無防備状態の歌〉(『セチュアンの善人』1960より)。『1000年刻みの〜』では富樫雅彦がドラムスを叩いている。その音と映像の相乗効果がすばらしい。クレジットではパーカッションと記されているが見事なジャズドラムだ。映画、映像に音楽は重要である。これらの音楽を起用した小川監督のセンスにアカショウビンは共感する。林 光は新藤兼人監督作品で力量は承知している。富樫の音は乾いていて味がある。ドラムの打楽器としての効果を熟知しているのだ。映像良く、音楽良ければ秀作である。

 この作品は1987年に京都の鬼市場・千年シアターで公開された。廃屋の場所にスタッフと若者たちが手作業で劇場を築き上げた。その模様も映像化されている。その後、各地で地元と協力して上演されたのだろう。配給会社のロードショー公開にはなりにくい長尺である。しかし見る者は田作りの労苦と稲作特有の時間感覚で日常とは異なる時間の渦中にタイムスリップする不可思議な体験ができる。それは多くの日本人が失ったものである。それを映像で構成したのは小川監督の手柄である。

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2020年3月 3日 (火)

怒りの行方

 きのうは雨で仕事中止。途中の電車の車中で連絡が入った。そこで帰って借りているDVDを観る。今井 正監督の『米』と小川紳介監督の『日本解放戦線  三里塚の夏』。かつての熱い農民の闘いと苦しみが、それぞれの視点で映像化された佳作だ。

 前者は霞ヶ浦周辺に生きる農民の暮らしを丹念に描く。「五反百姓の次男、三男に嫁は来ねぇ」と言う若者の言葉に当時の農家の現実が集約される。〈夜這い〉という風習も笑いを醸す。かつての帆引き船漁の映像も貴重だ。昼は田畑、夜は漁師で働く農漁民の苦楽を今井監督は他作品に比べれば少しユルいテンポでキャメラに捉える。俳優たちもそれに応える熱演だが、小川作品を観るとそのユルさが対照するのだ。それは日々の労働に明け暮れ苦しむ農民たちを描く視線と、自分たちの土地を奪う国家と対決する農民たちの激烈な怒りと闘争に注視する対比となって鮮明する。

 糞尿弾(袋)、竹槍、鎌を武器に機動隊の催涙弾、装甲車、放水車、ジュラルミンの盾と棍棒に対抗する三里塚、芝山農民と支援若者、学生たちの姿は、韓国、香港、沖縄の現実に姿を変えて現在している。それを我々現在を生きる日本人は映像を通じ我が身に受容しなければならぬ。

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