2019年3月14日 (木)

名優列伝

 時代を体現する名優がいる。アカショウビンにとってクリント・イーストウッドはそのうちの一人である。中学生のころイタリア製のアメリカ西部劇が故郷の映画館にもやってきた。好奇心に溢れるガキに音楽と映像は五感と想像力を掻き立てる強烈な媒体だった。当時流行ったカンツォーネとマカロニウェスタンはアカショウビンの好奇心の最大の対象と言ってもよかった。小学校の頃に夢中になった蝶採集は墓を作り終わりにした。
 マカロニ・ウェスタンのスターはクリント・イーストウッドとフランコ・ネロ、リーバン・クリフである。さしものクリント・イーストウッドもこのリーバン・クリフなくして少年達の憧れるヒーローにはならなかっただろう。そのリーバン・クリフも亡くなった。名優列伝に彼は欠かせない。
 きのう、クリント・イーストウッド監督の最新作『運び屋』を観た。名優88歳にして融通無碍という境地だろうか。老成が達する姿を垣間見る思いがした。少年の日のヒーローの老いの姿は我が身に照らし学びの対象でもある。

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2019年1月14日 (月)

三人のジャンゴ

 先日、ジャンゴ・ラインハルトの生き方と演奏を題材にしたフランス映画をレンタルDVDで観た。この天才ギタリストの姿と生き方を興味深くみた。最初その演奏に惹かれたのはルイ・マル監督の『ルシアンの青春』でだった。ジャンゴの演奏が実に効果的に使われていた。そのご、ジャズに親しむなかでジャンゴの音楽にあるのがスイングであり、ブルースであることにアカショウビンもそれらの演奏と録音に馴染んでいったのであった。それは渡仏した米国のジャズメンたちとの共演ともなった。そのなかで〝スイングの王様〟というのがジャンゴの評価である。しかし、その半生を描いた映画は先の大戦でのナチとの相克を辿り興味深い。ジプシー(現在はロマになっている)の姿を通し、そのなかで戦後まで生き延びた一つの〝歴史〟をこの作品は描いている。それはヨーロッパでの各民族の姿と相克だ。それが音楽を介して描かれるのが作品のメッセージである。

 それで思い出すのがイタリア製のマカロニ・ウエスタンのジャンゴである。それは米国映画でも描かれた。その元になったのはマカロニ・ウエスタンのジャンゴである。それは三様のジャンゴとして面白い。『ギター弾きの恋』はジャンゴ、ラインハルトを尊敬するギター弾きの話である。ウディ・アレン監督の仕掛けにアカショウビンは、まんまとハマり脱帽した。マカロニ・ウエスタンの音楽はエンニオ・モリコーネである。アカショウビンが中学生のころ大人気を博しアカショウビンも夢中になった。音楽と映画のコラボが強烈だった。学校は、このような〝残酷〟な映画を上映する映画館の出入りを禁じた。しかし、さすらいのジャンゴ〟の挿入曲や『荒野の用心棒』の〝残酷な〟ジャンゴは真面目な中学生に校則への反抗への端緒を開いた。アカショウビンは以来モリコーネの音楽を繰り返し聴いて鼓舞される。

 それはともかく、近作の『永遠のジャンゴ』で描かれるナチとの関わりは現在もロマの姿を介しヨーロッパの歴史を通底する〝歴史〟として現在しているだろう。それはユダヤ人たちの生とも深く連関する民族が相克し現象する現実だ。先日読んだ『ナチ神話』も、それを想起させる。ジャン=リュック・ナンシーとフィリップ・ラクー=ラバルトの共著である。二人の哲学者がナチズムの哲学的分析をしている。それは哲学分析であるが現在のフランスやドイツのユダヤ問題との関わりを論じてアカショウビンを挑発する。それはまたハンナ・アーレントの政治哲学とも共振する。

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2018年12月 7日 (金)

ベルトルッチ批判・再々考 

 『ラストタンゴ・イン・パリ』を何十年かぶりにレンタルDVDで観直した。細部も物語の展開も殆ど忘れている。話題になった性描写も現在からすれば微温的といってもよかろう。しかし、マリア・シュナイダーからすれば、それは屈辱であったということになる。現在の鍛え抜かれた女優からすれば19歳の新人の甘さとも解されかねない彼女の述懐と回想とも読みとられるのではないか。しかし師岡さんは、それに女性として鋭く反応した。それを加味しながら作品を観ると、監督の構成と意図、部分から全体を構想するなかで俳優はそのなかの道具といってもよかろう。そこに不満があっても多寡はあれどギャラを得て出演を了解した出演者は不満を裁判に訴える根拠の正当性の是非は困難を極めるだろう。作品を観直しマリア・シュナイダーのコメントにはそのような感想も得た。

 殆ど消え失せていた映像を新たに観ると、それは鮮明で監督の力量を実感した。俳優という〝道具〟を駆使し監督は作品を構成する。その編集の手際が監督の才覚である。それをベルトルッチは確かに持っている。それは或る意味で〝巨匠〟への道を辿ったと言える。『1900年』で現代イタリア史を辿り、『ラストエンペラー』という大作で中国、『リトルブッダ』でインド、と東方への関心を作品に留める。それは音楽でいえばプッチーニの東洋への強い関心とも重なりベルトルッチのイタリア人インテリの歴史的伝統ともいえるかもしれない。それはマーラーの中国詩人たちの影響をも想起させる。

 それはともかく、しばらくはベルトルッチ作品を観直し感想を書いていきたい。そのうち追悼上映会も企画されるだろう。

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2018年12月 4日 (火)

ベルトルッチ批判・再考

 師岡さんが、「野暮だろうが」と前置きし、マリア・シュナイダーの涙の重さにベルトルッチ作品の全てより重さに共感するという気持ちは尊重されるべきだ。しかし、ベルトルッチが作品を撮るときに女優に仕掛けを作った事に一つの問いが生ずる。それはベルトルッチが述べた“罪"という意識は普遍的なものだろうか、という問いである。それはキリスト教文化圏で生ずるものではないのか。『ラストタンゴ・イン・パリ』を撮ってからベルトルッチは作品テーマを広げる。その幾つかは観てベルトルッチの目指すところが何か、所感がある。それは人間という生き物が背負うモノである。キリスト教文化圏では“罪"であり、仏教思想では“業"であろう。映画作品という虚構の世界を拵えるのを仕事とした者が、そこに一人の女性に屈辱を齎し作品を創作する是非が問われる。そのアポリアは映画という映像媒体が背負う罪であり業である。その回答は個々に問われる普遍性を持つのではないか?

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2018年12月 1日 (土)

ベルトルッチ批判

 今朝の東京新聞朝刊の27面“本音のコラム“で師岡カリーナさんがベルトルッチ批判を書いておられる。タイトルは「芸術家の『自由』」。『ラストタンゴ・イン・パリ』に出演したマリア・シュナイダーの話した事実に共感したものだ。マリア・シュナイダーがレイブされる場面の「屈辱的な詳細」を後で明かした、と師岡さんは書いている。女優は19歳。拒否できることを知らす、撮影に臨んだ。ベルトルッチの説明は「演技ではない屈辱と怒りを撮るため」、「罪意識はあるが後悔はない。映像作家には完全な自由が必要だ」。その後の女優はその作品の影響で、麻薬依存や自殺未遂などのトラウマに苦しんだ、と師岡さんは書いている。
 たとえ野暮と言われても、私にとって彼女の涙は、ベルトルッチ作品すべてを合わせた価値より重い、という結語は熟考を促す。

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2018年11月27日 (火)

ベルトルッチ監督追悼

 朝刊でベルナルド・ベルトルッチ監督の訃報を知った。77歳という。若い頃に内外の作品を雑食のようにあれこれ観ていたころ刺激されたのが『暗殺のオペラ』だった。フランスのヌーベル・バーグや日本映画も世界と伍して佳作を公開していたころだ。その中でイタリア映画の伝統を受け継いだ監督の作品は興味深かった。それはイタリアの戦後史を垣間見る経験だったからだ。イタリア・マフィアの作品で一世を風靡したコッポラの作品は大ヒットしたが、ベルトリッチ作品は作風が異なり、むしろ対抗していたのはゴダールらのフランス映画だった。『暗殺の森』で、ベルトルッチはゴダールを抹殺した、と語っていたのではなかったか。それほど熾烈な競争意識があったのだろう。1972年の『ラストタンゴ・イン・パリ』は過激な性交シーンが話題になったが、それは邦洋を問わず、検閲される映像の限界は各国で規制され物議を醸すのは世の習いだ。

 それはともかく、アカショウビンはフェリーニやパゾリーニと同じように当時のイタリア映画には強い刺激を受け観ていた。当時はスウェーデンのベルイマン監督の作品にも挑発された。黒澤、小津の日本映画の新作が世界と伍していた映画という媒体が新たな才能を生み出していた時代といってもよいだろう。それはまた新たな映画史として書かれねばならない。

 

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2018年11月26日 (月)

映画寸評(続き)

 クリント・イーストウッド監督の『ヒア アフター』は、なかなか面白い構成とテーマに取り組んだ作品だ。監督も老いを自覚し、新たな境地に挑戦したように思われた。霊能者とみなされる人がいる。それは古代から人間の共同体には発生した存在とも言えよう。そのような研究は世界中で確認できる筈だ。しかし、それを想像力と創造力を駆使し一つの作品に仕上げるには才覚と才能を必要とする。監督には長年の経験と熟練した技術がそれを可能にした。そう実感させる作品だ。
 それは仏教の輪廻や転生思想にも交錯する視界を有していると思う。それはまた別の機会に考察してみるけれども。

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2018年11月24日 (土)

映画寸評

 寒さに体力がなかなか対応できない。喉がいがらっぽい。手術の跡に影響しているかもしれない。風邪の前駆症状かもしれぬ。免疫力、抵抗力、体力共に衰弱しているのだろう。それでもアルバイトで日銭を稼がねば生活費はかつかつ。そのような日常でも何本かレンタルDVDは観て面白かった。
 クリント・イーストウッド監督の『ヒア・アフター』は2011年の作品。冒頭のシーンが、不思議な偶然というのか日本での大地震、大津波を予見したような作品だ。死者の姿が見えたり、声が聴こえ交霊ができる、霊能者というのだろうか実在の人物かも知れない主人公を巡り物語が展開する。
 これからアルバイト作業に就く。続きは明日に。

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2018年11月 9日 (金)

映画寸評

 昨年、北海道でロケーションし撮影され年初に公開された『北の桜守』(滝田洋二郎監督)をレンタルDVDで観た。主演の吉永小百合さん120本目の記念作品で今や日本映画界の重鎮になりつつある滝田監督の作品とあっては心して観た。吉永小百合、北の三部作の完結作である。メイキングでは滝田監督の力の入れようがよくわかる。海難事故の場面は主演、子役と共に夜の海でスタッフに大声で叫ぶ様子も見られ、実に映画製作は監督、スタッフ、出演者の肉体労働なのだな、と痛感した。

 さて仕上がりはどうか。佐藤浩一、堺 雅人はじめ滝田組が主演を支え、出演者たちの監督、主演への敬意が溢れているのはよくわかる。しかし、そのぶん主演の存在が薄い。それはアカショウビンの吉永小百合という女優への過剰な期待によるものであろう。その姿の現在が観られたのは幸い。しかし生涯の傑作という作品が観たいのがファンの真情なのだ。ないものねだりかもしれぬ。しかしそれを新作に期待する、それがファン心理というものだ。既に生涯の傑作は撮られているかもしれない。『キューポラのある街』や『夢千代日記』 がそうかもしれぬ。しかし同時代を生きる幸いは新たな傑作を求める。監督も出演たちも渾身の努力を厭わない。それは作品を熟視すればわかる。しかしアカショウビンのようなへそ曲がりは未知の傑作が観たいのだ。

 それはともかく、滝田作品を観直すために、かつて感銘した『壬生義士伝』(2003年)を借りて観直した。主演は中井貴一。見事な主役を演じている。盛岡弁を徹底して習熟した成果が伝わる。その声と演技の醸しだす力が観る者を共振させるのだ。中井貴一は、この作品で一皮も二皮も剝けて俳優として脱皮したように思われる。俳優は監督、俳優仲間と切磋琢磨し成長する。高倉 健しかり、各名優たちしかり。吉永小百合もかくあるべし。

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2018年10月19日 (金)

憂き世を浮き世に

  先日膀胱全摘手術をした高校の同窓生TO君の見舞いに同じ同窓生NA君と行ってきた。その病院は重なる引っ越しでアカショウビンがかつて棲んでいたところから電車で数駅向こう。周囲の風景はアカショウビンが棲んでいたところとよく似ている。近くを川が流れ白鷺がゆったりと飛んでいる。病室の窓から見える景色をTO君は気に入っていると話した。アカショウビンも手術後のリハビリで同じような河べりを散歩するのが日課だった。TO君は未だ外出できないが点滴を支え持つTO君の姿は正しく三年前のアカショウビンの姿である。TO君は入院中に描いた鉛筆画の幾つかを見せてくれた。彼には退屈を凌ぐというよりこの数年鉛筆画を描くことが仕事となっている。それは趣味の域を越え彼の作品が売れるようになっているからだ。その幸いは家族が遭遇した窮地を乗り越える過酷と苦闘から生み出された。数年前には鬱病でも苦しみ絵も描けなかったと病を乗り越えたとき話していた。まことに生きる苦しみと悦びは裏腹なのである。
 病院を去りかつて乗り降りした駅を過ぎた。引っ越しを手伝ってもらったNA君と一杯やりかつて棲んだ街をゆっくり歩きたかった。しかし図書館に注文しておいた本を借りる期限があり帰途についた。
 スーパーでワインとツマミを買い込みバスに。DVDも借りた。福岡の同窓生にもラインでTO君の写真を送付した。帰って久しぶりに観たDVDは 『スウィング ガールズ』(2014年 矢口史靖監督)。少し鬱屈した気分を逸らしたかったのだ。少し冗長だが女子高生たちがビッグバンドジャズに取り組んでいく姿が面白いのである。方言指導はもっと徹底したほうがよいと思う。しかし家族やアカショウビンも経験した高校生の生態が落語を見るように面白く描かれている佳作なのだ。南島育ちのアカショウビンには夏冬でがらりと変わる東北の地方都市の風景が和めるのだ。圧巻は最後の晴れの舞台の演奏。ジャズに熱中したアカショウビンの若いころの記憶が甦る。デューク・エリントンの名曲が次々と思いだされる。「シング シング シング」を演奏する高校生の姿が眩しくもみごと。ジャズの素晴らしさを映像は見事に捉えている。久しぶりにビッグバンド・ジャズを聴きたくなった。

  TO君、共に憂き世を浮き世として彼岸に達しようではないか。アカショウビンもジャズや西洋古典近代音楽を聴きながら余生を生き凌ぐ。最後のクレジットで流れるナットキングコールの名曲が心に沁みる。

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