2017年6月21日 (水)

加藤一二三九段、引退

  加藤九段引退の報に感慨新た。学生の頃に将棋にのめりこみアカショウビンの大学は新宿の将棋道場の如きものだった。その頃の新宿は大道詰将棋や将棋道場の隅では賭け将棋も行われていて何とも面白い場所だった。ジャズ喫茶も健在で将棋を指し終わったあとはジャズと映画館通いがアカショウビンの日課。不勉強のツケは今に至り少ない時間は読書にあてる。三か所の癌を抱え残り時間は少ない。将棋の勝負では終盤の秒読みになりそうな頃である。毎日を充実して生きることなど不可能。それでも、それを目指し生きる、これしかない。先日は日曜日に学生時代以来の友人、I君、N君に手伝っていただき中古で買ったCDラック、衣装ケースを新居に運び込んだ。きのうは築地の病院へ。今度は下咽頭癌の定期検査だ。その間を縫う時間は殆ど居眠り。昨夜も部屋の片付けを深夜まで。それでも五時過ぎには目覚める。引っ越しの段ボール捨て、買ってきた蛍光灯でやっと部屋が明るくなった。これが文明生活というものだと改めて実感した。本日はアルバイト。霧雨だが日銭を稼がねばならぬ。明日は友人のN君から頂いたチケットでカンヌに出品した『光』(河瀨直美監督)を観に行く。きのう病院の帰りに観るつもりだったが、時間が合わなかった。

 それはともかく。加藤九段、本当にお疲れさまでした。将棋の面白さ、棋士たちの面白さ、見事さを教えて頂いたことはアカショウビンの人生に多くの豊かさを与えてくれました。心から感謝致します。

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2017年6月18日 (日)

団地の長閑な日曜日

 ここのところ朝が肌寒い。しかし日曜日の朝はアルバイトの仕事疲れを貴重な時である。この数年はNHKラジオの「音楽の泉」を聴くのが習慣。今朝はベートーヴェンの〝三重協奏曲〟だ。かつて巨匠たちの共演として評判になった録音である。解説の皆川さんによるとベートーヴェンの作品のなかではベートーヴェン風が空回りもしている作品という。しかしこの十年くらいアカショウビンには繰り返し聴いて厭きない愛聴作品なのである。それは本日の録音(カラヤン指揮ベルリン・フィル、リヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチ)ではなく、フリッチャイ指揮、おや、おや、オーケストラがどこだったか、ソリストはアンダ、シュナイダーハン、フルニエは間違いないだろう。本日の録音は学生時代にレコードで聴いて以来。あらためて聴くとそれほど悪くない。しかし録音時のエピソードを何かの本で読むと、それは面白いが嫌いなカラヤンのバックでは敢えて聴くこともない。フリッチャイのほうが遥かに好もしい。この頃のベートーヴェンは交響曲第3番〝英雄〟を書きあげ正に次のウィーンの音楽界から西洋音楽を担う勢いをもっていた頃だ。この作品にもそのエネルギーが満ちている。2楽章の速度指定は皆川さんの解説によればア・ラ・ポロッカ。ポーランドの舞曲ポロネーズ風に。ここのところがアカショウビンほ実に好きなのである。ショパンの作品で馴染んでいるためかもしれない。

 天気はよくないが新居の団地の周辺は鳥たちの囀りも好ましい。穏やかな日曜日だ。昨日の夕刊には今年公開された『聖の青春』の試写会でコメントを述べた将棋棋士、森 信雄七段のインタビュー記事も掲載されていて興味深く読んだ。現役を引退するということだ。65歳。アカショウビンと殆ど同世代といってもよい。将棋にのめりこんでいた学生時代から名前は存じていた。同時代を生きた幸いを心から言祝ぎご苦労さまと言いたい。コメントを述べる広い試写会会場では遠目だったが飄々とした関西弁のコメントがお人柄を実感させた。記事中で「僕自身も実力がなく、、奨励会に拾われた人間。だから出来が悪くても、一生懸命やる子なら引き受けたくなる」の言や好し。優れた師弟関係とはいいものである。ダメな師匠と優秀な弟子、優秀な師匠とダメな弟子、様々だろう。しかし師弟関係とは親子関係以上のものがあるのではないか?それは血縁という形而下と形而上の違いとも言えるかもしれないが。『聖の青春』はレンタルショップで貸し出された。将棋ファンでなくとも一人の将棋棋士であり世間的に言えば短い人生を終えた若者の一生を観る者それぞれに思索を促す作品に仕上がっている。多くの人にお奨めしたい。

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2017年6月10日 (土)

人生は音楽の時間のようなものか?

 あらゆる時間は過ぎ去るけれども、/グールドの時間は過ぎ去らない。/聴くたびに、いま初めて聴く曲のように聴く・・・/人生は、音楽の時間のようだと思う

 長田弘の詩をきのうの東京新聞の〝筆洗〟は引いている。グールドが弾くワーグナーの楽劇〝ニュルンベルクのマイスタージンガー〟のピアノ演奏に詩人は共鳴したのだ。その前節で詩人はこうも書いている。

 芸術は完成を目的とするものではないと思う。/微塵のように飛び散って、/きらめきのように/沈黙を充たすものだと思う。

  きらめきのように沈黙を充たす、の言や好し。グールドの9分32秒の演奏録音でなくともそういう時間を誰しも経験したことがあるのではないか。引っ越してから段ボールの中に入ったままのCDやレコードが出てきて新鮮な気持ちで新たに聴いている。そのうちグールドの〝ニュルンベルク~〟も出てくるかもしれない。そのとき詩人と同じように感ずるかどうかは定かでないけれども。

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2017年6月 9日 (金)

病み、疲弊し、消耗すれども

  引っ越しはしたものの部屋は片付かない。きのうはアルバイトの帰りカーテンを買った。団地は他所様の視線が気になる。両向いは児童公園や庭で離れてこちらの様子は殆ど遠目にしか見えない。カーテンで遮蔽するということは外を気にするというより内側の空間を自分の気に入るように設えるということなのだ。カーテンはお手頃価格のものが買えた。最近駅前にオープンした大手企業である。なかなか気の効いた商品が多いのだ。

 ともあれ粛々と部屋を機能的に整え終わりに向かう、これである。引っ越しで一年間未開封の段ボールの中から聴きたいCDや必要な書物、資料も出てきた。鷗外の『伊澤蘭軒』は何と以前に買ってあった。先日は図書館から大判の全集を借りて読み始めたがこれで傍線や書き込みもできる。引っ越しの功徳というべきものだ。この流れを引き寄せる。それは将棋、囲碁でいう形勢を優勢に持っていくということだ。

 先日からアルバイト作業で右手が上がらなくなった。体力を消耗する仕事なのである。下層労働者の現場は多かれ少なかれそのようなものだ。病と年齢による負担は日々高まる。体力も維持するのがやっとだ。しかし娑婆でやり残した事は多々ある。

 先般亡くなったS・スクロバチェフスキーのブルックナー交響曲全集を中古で手に入れた。かつてバラで買って聴いていたものだ。逝去後に特集が組まれるかと思ったがさほどの話題にもならなかった。しかしこのブルックナー指揮者の録音は無視できないというより熟聴すべき解釈だ。これを新居でじっくり聴く楽しみができた。

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2017年6月 4日 (日)

遠きより友来たる

 中国旅行からきのう帰国した高校時代の同級生T君に会いに東京駅へ。ところが朝の電車が人身事故で止まっているではないか。駅は大混雑。私鉄からJRに乗り換えられたのは幸い。T君に連絡をとり少し待ち合わせ時間を遅らせた。途中の駅はJR横浜線の小机。学生時代アルバイトで通った駅だ。その頃は都内の江戸川区に棲んでいた。そこから通うのは大変。しかし日銭を稼がねばならない。地質調査のボーリングの土木作業できつかったが日当が良かったのだろう。何日か通ったのだった。
 横浜駅で東海道線に乗り換え東京へ。退社以来この路線に乗るのは久しぶりだ。
 T君は中国の西安で2泊3日を過ごしたらしい。一昨年はポーランド旅行も。アウシュヴィッツも訪れた。その話も興味深かったが今回も中国の現状が聞けるのを楽しみにした。
 一年ぶりに会い新幹線の出発時間まで話した。話は尽きない。早めに切り上げ別れた。西安の写真と去年のポーランド旅行でアウシュビッツの写真も再見した。
 一年が過ぎ仮住まいから引っ越しも先週済ませた。一年間、同居人さんには本当にお世話になった。心から感謝する。お互い今後の健闘を祈るのみ。二頭の犬たちと別れるのは残念だが此の世の縁の不可思議を体験できたのは幸い。冥土へのよい土産となった。

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2017年5月14日 (日)

長閑な日曜日

 ここのところアルバイト疲れから抜けだそうと心身がもがいていいるのであろう音楽や読書に少しずつ集中しようという欲求が生じているように思われ今朝は早めに目が覚め読書にも二時間近く集中した。一昨年の入院前から習慣になっているNHKの将棋、囲碁、〝日本の話芸〟という番組は日曜日の日課のようなもの。本日の将棋はマスコミで話題にもなっている藤井聡太四段の登場である。いつものように番組終了までの熱戦かと思えば時間を余しての終局。途中見逃したが疾風の如き終盤の寄せだった。きのうの新聞では連勝記録を17に伸ばしたという。どうもその強さは本物のようだ。こうなると当然比較されるのは羽生である。羽生の実績に至るまでは長い道のりではある。将棋界にとっては話題作りと棋界にとっても久々の大型新人の登場で内外ともに活況で何よりだ。

 先日は「3月のライオン」の後篇を観て来た。なかなかの仕上がりで4時間以上の大作になった理由を納得させられた力技ともいえる。これまた将棋界、将棋ファンにとっては悦ばしいかぎり。そんななかで時に想い起こされるのは小池重明という真剣師の事である。真剣師とはアマチュアの賭け将棋指しのことである。破天荒な一生は本にもなっている。棋界の活況は悦ばしくとも勝負師とは盤上の勝ち負けはそれを生業とする者の殺し合いである。そこに面白さを超えた凄みという感覚が生じる。小池という真剣師はそれを体現し果てた勝負師だった。

 「聖(さとし)の青春」という作品には実在した村山聖という棋士の一生を描いてその凄みの一端が描かれていた点で秀作と思う。それは羽生との会話を通して描写されていた。

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2017年3月16日 (木)

命日

 きょうは吉本隆明の命日だという。若い友人からのメールで知った。そうか、そういえばこんな季節だったなと記憶を辿るも既にアカショウビンはアルツハイマーが進行中である。それにしてももう五年が過ぎているのだ。

 今朝の駅売りのスポーツ紙には久保奪還の見出しと渡瀬恒彦死去の大見出し。そうか、王将はカド番を凌ぎ切れなかったか。いちおう記事を読むために新聞を買った。渡瀬氏(以下、敬称は略させて頂く)は胆嚢ガンだったらしい。不思議なことに先日『新仁義なき戦い』(昭和49年 深作欣二監督)の第1作(シリーズ6作目)を借りてきて観たばかりだった。これも何かの縁かもしれない。

 先日は別の友人からメールがきて「あさま山荘事件」の日を知らされた。45年前の2月28日のことだった。友人は失業中の父親とテレビに見入っていたという。そういえば若松孝二監督が撮った作品は何年だったかとレンタルショップに行き借りてきた。2007年制作の2008年公開なのだった。「実録 連合赤軍 あさま山荘への道程(みち))」は若松が撮らずには死ねないといった執念の漲った作品である。

 ここのところアルバイトで体力の消耗甚だしく映画を観る気力も失せていた。しかしこの二本はしっかり観た。近いうちに感想を書く。吉本隆明の著作も久しく読んでいない。「狂うひと 『死の棘』の妻・島尾ミホ」(2016年10月30日 梯 久美子 新潮社)に登場する吉本隆明はしばらくぶりでその名を目にしたことだった。こちらの感想も近いうちに。

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2017年2月28日 (火)

ガタガタでボロボロ

 きのうはアルバイトの手配都合で休み。二日休むと調子がおかしい。そのせいでもないだろうが、今朝出勤の途中いつもの店で朝食を食べていると前歯が欠けた。先週はその二つ隣の歯も半分欠けその下の歯の詰めた金属が取れた。ガンだけではない、我が身はガタガタでボロボロなのだ。
 それはともかく、朝刊にはアカデミー賞に関するコラム。米国らしいスピーチを紹介している。あの国の映画産業にはアカショウビンも一目置いている。先日少し感想を書いた『死刑台のメロディー』の法廷シーンは現在の米国の政治状況と映画文化とも関連する。もう少し詳細に書いておきたい。それと、松方弘樹の追悼をかねて書いた記事で誤りがあるのでここで修正させて頂く。松方の台詞の相手は菅原文太ではなく金子信雄だった。『仁義なき戦い』のあとシリーズの他作品も続けて観直している。この迫力は時に疎ましくもなるが映画表現であの時代の空気が反映されているのは間違いない。映画はそういう効果と機能をもつ表現媒体なのは改めて言うまでもないだろう。であれば、今年の米国アカデミー賞作品にも今の時代が反映されている。いずれ劇場でそれを確認してみよう。

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2017年2月23日 (木)

三氏の追悼

 鈴木清順の訃報を今朝の朝刊で知る。93歳とは大往生か。記事では2005年の『オペレッタ狸御殿』が遺作となった由。もう一作観たかった。『けんかえれじい』(1966 年)は痛快な作品だった。主役の高橋英樹が勃起したイチモツでマドンナのピアノの鍵盤を叩くシーン(もちろん直接的に描くわけではないが)には大笑いした。日活を解雇され裁判闘争のあいだ10年間はテレビドラマやCMで凌いでいたらしい。そのあとの『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)は鮮烈な監督復帰作だった。レンタルショップにはあるだろうか。きょうアルバイトの帰りに探してみよう。
 その記事の下には“最高齢の現役指揮者”の見出しでスタニスラフ・スクロバチェフスキの訃報も報じられている。21日に米国ミネアポリスの病院で亡くなられたらしい。鈴木清順と同じ93歳。氏は日本ではブルックナー指揮者として名を馳せた。日本のオーケストラもよく指揮していた。一度ライブ演奏を聴きたかった指揮者の一人だ。いくつか購入したCDを聴き追悼したい。
 もう一人は棋士の関根茂九段。87歳で老衰のためと記事にはある。S・スクロバチェフスキ氏の死因は記載されていないが鈴木清順は慢性閉塞性肺疾患としるされている。関根九段は一流棋士というわけではないが夫人も女流棋士六段でおしどり夫婦だった。将棋を介した御縁でお幸せな人生と拝察する。

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2017年1月22日 (日)

天才たちと犬の視ている景色

 この数年よく聴くようになった日曜日朝のNHKラジオ第一放送「音楽の泉」で先週は夭折したルーマニアのピアニスト、ディヌ・リパッティが録音したショパンのワルツ集を放送していた。久しぶりに寝床で集中して聴いた。飛行機事故だったか惜しまれる才能としてショパンの演奏録音では必ず名盤に選ばれていた。アカショウビンは若い頃ショパンがあまり好きではなかった。若気のいたりというやつで甘ったるい作品には嫌悪感さえ抱いていた。同様にショパン国際コンクールというものにも殆ど興味はなかった。しかし、クラシック音楽という今となっては特殊な世界、業界のなかで伝えられる往年の名人、天才の残した録音を聴く楽しみは此の世を生きる悦びであり哀しみであり励ましである。それは還暦を過ぎ三つのガンと共生する現在でも変わらない。ショパンについてはその後長年あれこれ聴いてきて未聴の作品や主要作品をいろんな演奏家で聴く楽しみは増えた。

 先週の火曜日、友人の招待で、一昨年のショパン国際コンクール優勝者の韓国人ピアニストのリサイタルが聴ける機会を授かった。会場はサントリー・ホール。久しぶりである。席は舞台に向かって右側ピアニストを正面に見られる位置。これは幸い、と気合いを入れた。プログラムを見ると楽しみと期待はさらに高まった。オール・ショパンと思ったら最初はベルク、次にシューベルト、それからショパンの前奏曲。その曲目構成にもピアニストの意欲が読み取られ、なるほどと納得。これならピアニストとしての力量がアカショウビンにも計れそうだ。特にシューベルトは一昨年、昨年の入院時にアンドラーシュ・シフの録音をよく聴いた。

 午後7時開演。プログラムの写真ではあどけさの残る若干23歳のチョ・ソンジン登場である。舞台正面を見れば女性の多いのが目立つ。まぁ、ショパンは存命時から女性には人気があったのである。それはともかく、ベルクのソナタ・ロ短調・作品1、シューベルトの第19番ソナタ・ハ短調・D958と聴いてきてショパンへの期待はそれなりに高まった。ベルク、シューベルトはさすがに弾きこなしてはいたが圧倒されたというわけではない。しかしショパンの「24の前奏曲・Op28」には圧倒された。ピアニストはその演奏で会場を支配したと言ってよい。ホールの巨大な空間にピアノが発する音は響き渡り一台のピアノが敢えて言えば神のように鳴り響きピアニストは王であり神の声を仲介する巫であった。聴衆は王と巫の演説を拝聴する民衆の如しだった。そのような陳腐な喩えはその時空間をいくらも表現しているとはいえないけれども。最後のニ短調を弾き終えると聴衆の喝采は奥ゆかしい日本の聴衆とは思えない興奮ぶりだった。アカショウビンも前奏曲を久しぶりに一挙に聴いて深く感銘した。チョは、そこで確かにショパンの魂を仲介する巫だった。作品に対するチョの解釈は専門家からすればさまざまだろう。しかし聴衆の心と精神に食い込み鷲掴みにする才能というものが確かにあることをその夜アカショウビンは経験した。

 天才たちが視ている景色というものがあるらしい。以前のブログで紹介した昨年公開された『聖の青春』という映画で、夭折した棋士、村山聖(さとし)が羽生善治・前名人と交わす会話にアカショウビンは強烈な印象を受けた。それは村山が、羽生さんは僕たちと違う世界を見ている、というものだった。それに応えて羽生は、将棋を指していて手を読んでいると深い海の底に沈み込んで恐ろしくなることがあると話した。さらに羽生は、村山さんとならその海の底に入っていけそうな気がしますよ、と答えていた。そのシーンは、この映画のもっとも印象的なシーンだった。天才たちにしか見えない世界。それは一体どういものなのか。しかし、恐らくその世界は、我々が見ている可視の世界に一端は現れているのではないか。あるいは現れる時があるのではないか。

 昨日、同居している二匹というより二頭の大型犬の一頭が腫瘍の摘出手術で入院。幸いに手術は成功。今朝退院し引き取って来た。もう一頭は神経質だが、こちらはボス型で鷹揚な性格。しかし、さすがに傷跡は生々しく痛々しい。それでも気丈に歩いて車に乗った。その犬たちが視ている世界というものがある。それは人間の天才たちが視ている世界とどこかで相通じるものなのだろうか。このところアカショウビンは冥土の土産を多発し嫌がられ、呆れられているけれども、冥土があるのかかどうかわかったものではない。しかし次の世があるとして、無意識のどこかに前世の生きた痕跡があるというのは何やら興味深いではないか。

 チョのピアニストとしての精進はこれから更に新たな世界を切り開き高みに昇っていくだろう。しかし、それは精進すれば、という条件つきだ。それはピアニストとしてだけでなく人間としてである。余計なお世話ではあろう。それをアンコールで弾いたドビュッシーの「月の光」を聴いて直感した。日課の夜の犬たちとの散歩で見上げる夜空の月や星座を眺めて考える崇高なるものをピアニストは明確な意志で表現しているように思えたからだ。崇高なるものは月や星座そのものにではなく、ドビュッシーや或る特定のピアニストを介して、それを聴き取ろうとする者に伝えられる。それは或る瞬間といってもよい。先日のリサイタルは貴重な時と空間だった。それをさらに深く熟考しなければ至福の時は経験されないこともまた確かなことである。

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