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2020年6月28日 (日)

病室スケッチ

 肺の手術をしてから担ぎ込まれた病室はナースセンターの近く。すぐ異変に対応できるためという配慮があるのかもしれない。他の患者もかなり重病という印象だ。自分で食事が取れない80歳の老人Aさん。同じく中年男のOさん。もう一人は高齢の女性。彼女は一人で食事もできる、他の二人からすれば軽症の患者という感じだ。今回は先の胃外科病棟のときのように先に居る患者さんたちに挨拶する余裕がなかった。何せ術後に集中治療室で一泊したあと担ぎ込まれた病室なのだから。しかし、重病の二人を看護する看護師さんたちは他の病棟に比べて仲がよく、看護等介護を楽しんでいるようにも思われる。

 Aさんには娘さんがいて、きのうも面会に来たらしい。しかし、病院はコロナを警戒し面会を厳重に禁じている。娘さんは、父親に手紙を幾つも書いたようだ。高齢で重篤のAさんは、それが読めない、それを看護師さんが声に出して読んでいるのが聞こえた。それは稚拙だが、愛情に満ちた文章だ。看護師さんもAさん、愛されているんだね、と声をかける。その声に感傷がないのがアカショウビンには返って、その場の空気をからりと明るいものにして好感をもてる。

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38年ぶりの将棋会館対局

 今年の将棋名人戦第三局の会場が千駄ヶ谷の将棋会館で行なわれたのが38年ぶりという記事に感慨新ただ。名人戦史上未だに破られてないと思う七番勝負で名人中原 誠と加藤一二三挑戦者は全十局の正に死闘を展開した。その最終局になるかもしれない対局にアカショウビンは足を運んだ。アカショウビンにとって加藤一二三という棋士は実に人間的に興味を惹く人だった。神武以来の天才、ともて囃されながら大山康晴の牙城を崩せなかった。加藤は、その活路を宗教に求めた。それくらい追い詰められ悩み葛藤したのだ。その大山を破砕したのが中原 誠だった。それが名人戦で激突した。面白くないわけがない闘いだった。

 アカショウビンは相矢倉という戦法、戦型を加藤一二三の著書で学んだ。いわば個人的に師匠である。その最終局を見逃すわけにはいかない。大盤解説は谷川浩司。終盤で加藤勝ちが見えてくるとテレビ画面を見ていただくほうが良いでしょう、と解説を止めた。幾ばくもなく両者の手が盤上に交差した。「新名人の誕生です」の一言にアカショウビンは感無量だった。その光景をありありと思い起こすのである。

 余談だが、加藤さんが対局のとき必ず注文するのが、うな重。対局は体力勝負でもある。庶民にうな重はあまりに値段が高くなり過ぎた。しかし、月に一度くらいは食べたいものだ。茂吉も、うな重が大好きだった。しかし、国産鰻は希少品なんだろうな。

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露伴のこと

 友人I君の差し入れで、幸田露伴の娘、文(あや)の文庫を読んでいる。『父・こんなこと』(新潮文庫  平成14年改版)。文庫になったのは昭和30年12月25日だから平成14年までは旧字体だったのかもしれない。

 所収の「父  ーその死ー」は、露伴の晩年から臨終・葬儀まで、娘から見た父親像と娘も知らぬ露伴像が娘の文章を介して浮き彫りされている労文、名文である。

 露伴の文章に接したのは若いころ以来、業界紙記者をやっていた時に偶然のように訪れた。知人が、渋沢栄一の本を発刊するという。その出版社の社長とも多少のご縁があったので、弊紙でもアカショウビンが書評を書かせていただく、ということになった。そこで下調べに資料を探したら露伴の渋沢栄一翁伝があったのだ。それは実に面白かった。とはいえ読み終えてはいないのだ。読み終えなければ書評は書けない。

 そのうち、締め切りが来て、書評は立ち消えになってしまった。生家の深谷には何度も行ったが記念館も訪れていない。しかし、露伴が筆を執るほどの傑物なのだ。退院したら読み継ぐ楽しみができた。これもI 君と文さんの文章のおかげである。

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2020年6月25日 (木)

病室移動

 明日の手術に備え病室を胃外科から呼吸器外科へ移動。五階から十二階へ。しかも窓側。見晴らし抜群である。これまでは通路側で天候など知る由もなかった。現在のところ、四人部屋でアカショウビンを含めて二人。早速挨拶すると、Nさんは同年輩の穏やかそうな紳士である。何とか落ち着いた術後が過ごせそうで先ずは安心。

 ともあれ、読書に専念しよう。友人のN君差し入れの『ソルジェニーツィン短編集』(岩波文庫  木村 浩訳  1987年6月16日)、I君差し入れの『父・こんなこと』(新潮文庫  幸田  文著  昭和30年12月25日)、『山谷崖っぷち日記』(角川文庫  大山史朗著  平成14年8月25日)。いずれも面白い。

 特に幸田  文のものは露伴の晩年、最期を娘が愛憎半ばする、何とも複雑な心境を全身全霊で、魂の奥底から搾りだす文体で露伴像が書き残されているのが貴重だ。

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差し入れ

 緊急入院ということで何の準備もなく病室に車椅子で運ばれた。三月の入院の時は用意周到。本とCD、ノートパソコン、携帯ラジオまで揃えた。五月四日に退院したときは、それでも読み残した本があった。

 今回は、たまたま携帯していた文庫本一冊。それでは退屈極まりない。そこで友人たちに懇願。ブックオフで安い本を買って来てくれるようメールで頼んだ。その本を暇に任せて読んでいる。時に病室の他の患者と看護師たちの世間話がうっとおしい。しかし、静かな時のほうが多い。読書には格好の時だ。

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2020年6月23日 (火)

やって来たのは自衛隊と左翼

 本日の東京新聞、玉城デニー沖縄県知事のインタビュー記事で思い出す。アカショウビンが中学生のころはベトナム戦争で「北爆」が始まった。アメリカ軍による北ベトナムのナパーム弾・空爆である。北ベトナムを焼き尽くす。米軍得意の物量作戦である。それは唖然とする苛烈な殺戮戦略だった。その攻撃基地の主力が沖縄だった。その前には朝鮮戦争。沖縄はアメリカ軍の戦争に戦後も振り回されてきたのだ。昭和天皇のアメリカ軍との裏取り引きで沖縄は事実上、米国に差し出された。以来、日米地位協定で米軍はやりたい放題。日本はそれが同国人かという扱いが現在の沖縄である。

 1972年、本土復帰で多くの県民が本土の高度成長の恩恵が及ぶと期待していた。ところが、「図らずもやってきたのが自衛隊と左翼運動」。基地をめぐる沖縄人同士の葛藤と分断は続いた、と知事は話す。

 アカショウビンの故郷奄美は既にミサイル基地が設置されている。自衛隊が来て地元経済は少しは潤うだろう。しかし、一時的なものだろう。沖縄と同じ葛藤と分断は行なわれているだろう。解決への隘路はないのか。日本人の覚醒しかないだろうが、すでにボケは進行が止められない段階と見られる。

 

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同室者

 隣のベッドのKさんは、木曜日に退院らしい。アカショウビンが緊急入院して以来、まったく会話なし。一度すれ違う前に挨拶したら返事なし。看護師さんたちとの会話を聞いていると実にマトモな中年のオッチャンなのである。ところが、病室には、暗黙の了解のようなものがあり、互いに会話は交わさないのである。関西と違い、東京にはそういうところがある。文化のが違いと言ってしまえばそれまで。何とも、話好きのアカショウビンに釈然としない話である。

 それはともかく、退院の時くらいは挨拶するかもしれない。それは密かな楽しみではある。

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鎌田氏の含意

 東京新聞〈本音のコラム〉火曜日は、ルポライター鎌田慧氏。タイトルは「沖縄の命は大切」。本文は、安倍、橋下のネット番組に対するコメント、秋田と山口の〈陸上イージス〉への揶揄。最後の文章が表題。

 ここには、アメリカでのフロイドさん圧殺死に対する全米規模のデモのプラカードにあったという〈黒人の命も大切〉という文言に対する鎌田氏なりの批判がありはしないか。

 アカショウビンは強烈な違和感と憤りを感じた。「も」とは何か。黒人の命も?ふざけては困る。それでは白人の命が優先で黒人の命はその次という事になる。そんな馬鹿な事がまかり通るのがアメリカ白人社会という赤恥を晒している。それに鈍感という事は人権意識がない、という事である。多くの日本人もそうではないのか。 

 沖縄戦で殺された県民は約九万四千人。国籍、軍民を問わない犠牲者は、24万1593人と新聞は伝えている。心から哀悼し追悼する。

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ドラマー

 太鼓叩き、太鼓といってもいろいろある。和太鼓はなかなか勇壮。サラリーマン時代、地方に行くと宴会で偶に地元の有志の演奏がある。それは役得で楽しかった。

 ここで言うのは、つのだ☆ひろ氏。東京新聞夕刊に〈この道〉という自叙伝を連載されている。先週の土曜日は第48回。渡辺貞夫がアメリカから帰り、バークリー音楽院仕込みの理論で演奏していた頃の話である。ヒロ氏はまだ高校生。授業をサボりテレビスタジオに通う。職員室に呼び出され尋ねられる。「一体、君はどういうつもりか」。事情を説明すると教師は、「そうか、角田君はプロの音楽家になるのか、それならずっと出席していたことにしてやろう」。泣ける話ではないか。昔は、今もいるだろう、そういう教師が多くいた。何故か。皆貧しく、教師は家庭の事情を知っていたからだ。

 それはともかく、アカショウビンが興味があるのは、この渡辺貞夫カルテットでドラムを叩いていたのが富樫雅彦。名前だけは知っていた。しかし、レコードもライブも聴いたことがない。ヒロ氏は、この富樫の弟子なのである。富樫の映像と演奏に初めて接したのは小川紳介監督のドキュメンタリーだった。面白いドラムが、作品のなかから聴こえてきた。それが富樫雅彦だった。黒いサングラスをかけて表情はわからない。しかし、実に精妙なドラミングだった。

 ヒロ氏は現役である。しかもジャズもロックもサンバもボサノバも叩けるノンジャンルドラマー。退院したら何か録音を探してみよう。ライブも行く機会があればよいが、とりあえずは新聞連載の記事を楽しみにする。

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2020年6月22日 (月)

プラネタリー・ヘルス

 アフリカなど、途上国の感染症対策にとりくんでいる医師・国井 修さんが主張する概念である。現在の地球に喫緊な対策ということだ。耳傾けるべし。全身全霊で受けとめ理解すべし。

 これ以上、地球を傷つけ、痛めつけ、汚すな、という主張とアカショウビンは解する。それは環境論や地球に優しいなどと、歯の浮いた議論などではない。人間という不気味だが、時に霊妙ともなる不可思議な生き物の、地球での害毒について和辻哲郎の説く風土、水土と共に本質的、根源的思索を全開にし駆動させ考え抜くという事だ。

 本日の東京新聞〈こちらの特報部〉の記事は熟読した。さらに考えるべし。

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大義名分

 先週土曜日の東京新聞〈本音のコラム〉師岡カリーマさんの記事について。

 自ら命を絶った、サラ・ヘガーズィーさん三十歳を追い込んださまざまな要因のうち、エジプトの愛国や信仰を掲げる人々が実名で〈断罪〉する理由が、「社会を堕落から守るという大義名分」であるらしい。

 同性愛者が社会を堕落させる、という根拠はあるまい。それはカリーマさんも書いているように宗教的禁忌だ。それが理由で社会が堕落した例があるとでもいうのか。それは物語の世界だ。中東社会だけでなくキリスト教社会も社会が向ける目は厳しい筈だ。というより、彼ら彼女たちからすれば残酷なのだ。

 〈大義名分〉で人間どもは争い、殺し合い、挙げ句の果てが戦争だ。歴史は、優れた知性がその打開、活路、理念を提示してきた。しかし、人間というエゴイスト、身勝手で、矮小な生き物はたかが知れている知とずる賢さでこの惑星に蔓延ってきた。そのツケが回ってきているのだ。その危機感に鈍感である事は正しく死活問題である。

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ふりかけ

 今朝の食事は数日ぶりに全部食べられた。おかゆ、ハム野菜ソテー、白菜煮浸し、味噌汁、それにふりかけ。これまでも、ふりかけは何度かでた筈だがパスしていた。しかし、今朝は興味本位でトライ。何とメーカーは熊本市の企業。原材料は、入り胡麻(国内製造)鯖、鰯、鰹の削り節ほか。魚は、天草、水俣産というわけでもなかろう。天草、水俣の海も穏やかなことだろう。しかし、水俣病の患者、遺族の皆さんの差別と闘いは継続されている筈だ。歴史の隠蔽、改竄は許されない。いずれ、世界の何処かでミナマタ病が発生する事がある。その時のために資料と闘いの歴史が参考になる筈だ。

 ふりかけから、思わぬ記憶にワープした。石牟礼道子さんの作品にもご無沙汰して久しい。渡辺京二さんは、お元気か。

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2020年6月21日 (日)

カンポーヌクェヌクサー

 先の大戦の沖縄戦終結の23日を前に東京新聞は、破壊され残り、略奪されたが返還された琉球王国の文化財を特集している。表題は、鉄の暴風と称された3500万発の艦砲射撃の「喰い残し」の琉球方言。

 450年間続いた王国が、75年前には残っていたという景観が一挙に壊滅した。その猛烈と苛烈は数ある戦史のなかでもきわだっている筈だ。我が奄美の放浪唄者、里 國隆も琉球はフィールドにしていた。その変貌には驚愕したことだろう。もっとも盲目の里には視覚的には把握できない姿だが、盲目なればこそ全感覚を駆動させ、その現実を体感した筈だ。

 戦争は略奪でもある。終結のドサクサの中で米軍は金目のモノを多く盗み去った。いくらかは返還されても多くは持ち去られ、どこかのお屋敷の壁を飾るか、倉庫に眠っているのだろう。

 沖縄戦は未だに沖縄で継続されている現実に盲目であってはならぬ。現実の終結のために闘いは継続している。それは内戦の如き様相を呈しているが、アメリカ合州国支配からの解放の闘いだ。日本の犠牲になる理由などない。その国家的欺瞞との二重の闘いを、小さな島が背負わされているのだ。

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2020年6月20日 (土)

ことし二度目のスイカ

 夕食は、すき焼き。スイカ付きである。ことし二度目。実に甘く、おいしかった。夏場になりスーパーに行っても価格の高さで手が出ない。しかし、病院食はあれこれ工夫してくださる。そこに登場するスイカに感動するのである。

 産地は茨城かもしれない。先ごろ観た、小川紳介監督の成田闘争の映像の中で、農民たちがスイカの収穫期の人出の事で親子、仲間たちの話題になることがあった。スイカは農家の稼ぎ頭なのである。

 そんな事も思い出しながらありがたくいただいた。

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入院五日目

 火曜日に定期検査と抗がん剤の継続使用の件で来院したら、緊急入院という事態になってしまった。レントゲン、採血、CT検査と振り回され、肺に溜まった水と膿を抜くという治療に入り継続中なのである。脇腹からチューブを入れ、左腕には抗生剤を注入する点滴が入り身動きがとれない。トイレも看護師さん頼りだ。

 前回の入院の四人部屋とはちがい、今回は三人。皆さん静かでおとなしい。前回は、関西弁で株のやり取りを大声でがなり立てる爺さんに閉口した。文句を言っても耳が遠いので効果なし。散々な入院生活だった。それに比べれば今回はまだマシな入院生活である、今のところ。

 

 

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あからさまな挑発

 19日は南北戦争に勝った北軍が南部テキサス州で最後の奴隷を解放した記念日。トランプは、この日に南部オクラホマ州タルサで大統領選に向けた支持者集会を再開する予定だったという。何とタルサは1921年、白人による黒人虐殺事件が起きた現場という。今回の全米規模の抗議デモは、このようなあからさまな挑発に激怒する黒人だけでなく、ジェネレーションZと称される若い白人たちも多く参加しているという。

 すでに『私はあなたのニグロではない』という作品で、ラウル・ペック監督は、米国での黒人差別を痛烈に弾劾、告発した。既に何度も映画化、映像化されているテーマだろうが、監督の視点、歴史の再構成は新鮮で強烈だった。監督の視野、視界は今回の抗議デモを予測する歴史的視野と未来を予測する知性を有する。

 アカショウビンは、先日、スパイク・リー監督の『マルコムX』を久しぶりに観た。マルコムが、師に反旗を翻し教団を脱退する。師が子孫を残すため、教団の女性を孕ませたことに激昂したのだ。その後、マルコムはメッカに巡礼する。その砂漠の地の美しさは、デビット・リーン監督が描いた『アラビアのロレンス』のワンシーンを思い出した。ロレンスという英国人は、この砂漠の美しさに魅入られた一人の西洋人だった。マルコムの見た砂漠は、どのように脳裏に刻まれただろうか。このメッカ巡礼を機にマルコムに転機が訪れる。しかし、歴史はこの宗教的・政治的闘士のさらなる成熟と長寿をゆるさない。これを観ても米国という国家が担う負の遺産の重さに暗澹となる。

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あなたはとてつもなく残酷だった

 自ら命を絶ったエジプト人女性、サラ・ヘガーズィーさんの最後のメッセージだ。今朝の東京新聞〈本音のコラム〉(25面)で、師岡カリーマさんが書いている。性的少数者の活動家で三十歳。宗教的禁忌とみなされる同性愛に、中東社会が向ける目は非常に厳しい、とカリーマさんは書く。その中でサラさんはカミングアウトし、無防備なまでに自らの思考をさらけ出し、理解と歩み寄りを呼びかけた、という。表題の後に続く文章は、「でも私は許す」。それが哀切を極める。「あなた」とは〈世界〉である。その絶望の深さは計り知れない。

 是非、記事の詳細はカリーマさんの文章を、お読み頂きたい。アカショウビンは、彼女のコラムのファンで楽しみにしている。

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2020年6月19日 (金)

悲劇

 ギリシャ悲劇は西洋文化の原点である。当時、上演された円形劇場は、海を遠景にする絶妙の地が選ばれたという。和辻哲郎が『風土』で詳細に記述していた。アカショウビンは映像などで観るだけだが、一度くらいは現地で呼吸してみたいものだ。和辻が言うように、その場に我が身を置かないと、風土、水土は知覚できず哲学的思索も観念論の域を出る事がないからだ。

 それはともかく、きのう王女メディアの悲劇に〈筆洗〉の文章で出会い、パゾリーニの作品など久しぶりに思い出していた。きょうは、たまたま開いた文庫本の一行に偶然のような必然を感じた。

 悲劇つねに父に創まり雨季ちかき砂になすなくゐる蟻地獄

 もう一作。

 卵生みて安らへる蛾の貌さむくすべての〈母〉に似通ひにつつ

 塚本邦雄『装飾楽句 (カデンツァ)』所収

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2020年6月18日 (木)

王女メディア

 今朝の東京新聞〈筆洗〉は、エウリピデスのギリシャ悲劇『王女メディア』を引用している。北朝鮮が爆破した、開城の南北共同連絡事務所に関連した北朝鮮担当者が女性であることで連想したらしい。アカショウビンはイタリア映画のパゾリーニ監督『王女メディア』を思い出す。若いころに観たときパゾリーニの最高傑作だと確信した。稀代の歌い手、マリア・カラスを起用したのも監督の天才的直感がはたらいたのだろう。しかもカラスに台詞なし。映像だけで勝負するという監督の強靱な意志を痛感した。そこで出来上がった傑作である。

 エウリピデスの悲劇は、夫の裏切りに対し、花嫁と我が子さえ手にかけてしまう、という凄惨な物語である。メディアは我が子の亡骸を前に茫然となる夫に言い放つ。「おまえのせいだ!」。〈筆洗〉の記者は、これが、北朝鮮の韓国に対するメッセージだろうと推測する。その文学的譬喩は納得する。それにしても、国家間の意思疎通の難しさには虚しさがつきまとう。

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2020年6月12日 (金)

語りと対話

 『教誨師』は初見、『聖の青春』は久しぶりに観た。二本とも秀作である。前作は死刑囚六人とキリスト教・教誨師の対話が淡々と描かれる。俳優にとっては厳しい演技が問われる難しい作品だろう。それは監督にとっても演技指導の可否が問われる難しさがある。それを見るに耐える作品に仕上げたのは手柄である。

 後作は、このブログでも何度か書いたが、将棋界という〈異世界〉での人の生き様と死にかたを描いて秀逸。村山 聖という若くして逝った天才棋士と羽生善治や現役棋士たちとの交流、生態をリアルに描いている。師匠を交えた、プロになれなかった後輩を慰労する席で主人公は荒れて喧嘩沙汰になる。それは、将棋界の退会制度から落ちこぼれた敗残者の姿でもある。二人の喧嘩は将棋界の制度の厳しさと、その中で生きる者たちのピンキリでもある。ネフローゼと膀胱がんという身体的ハンディを負い、名人という将棋界の頂点を目指す天才の世界は〈異世界〉のなかでも異様で特異である。

 喧嘩沙汰のあと、場面は一転して冬の東北での羽生五冠との対局である。これに村山が勝つ。対局が終わったあとの打ち上げの席を二人は抜けだし、村山の好きな小さな飲食店に行き対話する。その再現が事実に忠実なものかどうかわからない。しかし、事実ではないとしても、穏やかで、二人の天才の心情を表現したシーンとして特筆されればならない深さを帯びている。我々の日常には彼等が見ている世界は未知の世界だ。しかし、此の世はさまざまな世界でさまざまな人々が生き、死んでいく。それを映像で確認できるのが映画を観る楽しみだ。

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2020年6月 9日 (火)

歩け

 コロナのせいではなく。退院いらい身体各所の痛みのせいで外に出るのが面倒になっている。この数日は、背中に新たな激痛がはしり、さらに出不精になった。それが術後の経過によくないことは、八回もガンを体験された俳優の黒澤年雄さんが自叙伝やインタビューで、できるだけ歩いて身体を動かすことが大切と繰り返し強調されている。

 そうなのだ。歩くのだ。人間は歩き回り心身を整えてきた生き物なのだ。原始なら動けなくなることは死を意味する。現在でも、それに伴う不如意はあちらこちらに出てくる。

 話は違うが、きのうの将棋棋聖戦で挑戦者の藤井聡太七段が初戦を制したことは友人からのメールで知った。今朝は将棋好きの古い友人からラインメールが入り延々とやり取りし疲れ果てた。最近はブログやメールを書くのも疲れがひどいのだ。古い友人にいい加減なことも書けない。友人は実際に将棋はあまり指さないようだが、将棋界にはやたら詳しい。こういう人はどの業界にもいるのだろう。

 それはともかく、歩かねばならない。陽を浴び、風を呼吸し自然と世界に自分を置くのだ。

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2020年6月 6日 (土)

憤り

 ジャズマンのエピソードには黒人差別・人種差別の実態がいくらでも出てくる。ナット・ヘントフの先の著書ではデューク・エリントン、ビリー・ホリデイ、チャールズ・ミンガス、マイルス・ディヴィス、オーネット・コールマンなどの体験がヘントフによって記されている。加えてマイルスの自伝にも赤裸々な体験が残されている。ミンガスやマイルスのように戦闘的なミュージシャンはともかく、殴られても無抵抗を貫くジャズマンも多かったのだ。アメリカ合州(衆ではなく、かつて小田  実が主張した指摘にアカショウビンも従う)国という国家の歴史の現在には奴隷制度という経験が遺伝子のように、あるいは現在の白人たちの無意識に残されて時に何かのきっかけで意識と行為・行動に噴出するのだ。この国が背負うものの、仏教でいえば業の如きものの重圧は外国人にはわからないと思われる。しかし、憤りは共有できる。ヘントフが引用しているチャールズ・ミンガスの言葉を改めて肝に命じよう。

「私はジャズを通して、自分が感じるままに曲を書いたり、演奏したりしている。それが新しかろうとなかろうと関係ない。音楽は感情表現の言語なのだ。現実逃避してしまうような人間には、私の音楽を理解してもらおうとは思わない・・・私の音楽は生きていて、生と死、善と悪についてのものなのだ。それは憤りであり、憤りがあるからこそ本物なのだ」(p42)。

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2020年6月 5日 (金)

ある日目覚めると

 時代遅れになっている、というジャズマンの述懐にある焦燥感は他人にはわからない絶望を含んでいる。それは推し量り、想像力を駆使しても到達できないものと思われる。そういう現実の渦中で彼は毎夜仕事で現場に行き、時代遅れにはなるまいと〈前進〉していたのだ。若い才能は競って新たな音楽を創造する。老いたドラマーがそれについていくのは能力、技量の限界を超える。その絶望は悲劇でもあろう。

 時代が沸騰している時、というのはそういうものなのだろう。新たなモダン・ジャズが生まれていたニューヨークのジャズ・クラブやプレイヤーたちをナット・ヘントフは実に見事に活写している。

 アカショウビンは朝目覚めると、きょうも一日生きながらえたか、と思う。そして、ひとつひとつ済ませておかなければならない事に煩わしさが襲い、しばし瞑目するのである。しかし、ヘントフが記す録音の手持ちのCDを聴く楽しみは無上のものである。他にも買ったままで聴いてないCDセットもある。その音楽に心身を浸す。それができるうちに。

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2020年6月 4日 (木)

時代遅れ

 「時代に追い越されたくはない。だから私は前進する。しかし、ある日目覚めると私は時代遅れになっている」。フィリー・ジョー・ジョーンズという名ドラマーの述懐である。ジャズが急激な変化を生じ賛否両論、若者や古いジャズファンの間に議論を巻き起こしていた頃だ。その変化をナット・ヘントフが記している。『ジャズに生きる』(1994年 東京書籍 堀内貴和訳)。

 コンピュータにプロの碁打ちや将棋指しが勝てず、高齢者までがスマホを操作する時代に私たちは生きている。還暦を過ぎた者たちにフィリー・ジョー・ジョーンズの嘆きは他人事ではない。若者たちからすれば、アカショウビンたちは、時代遅れのポンコツであろう。病から遅々として回復の覚束ないアカショウビンには年齢に加え肉体的ハンディもある。しかし、と思うのである。時代の先を行くだけが人間の能ではない。過去を振り返り歴史を知り、現在の何たるかを理解する、腑に落とす。それは社会の変化の速度に合わせるのではなく、自らの現在の境遇を納得し、そこから思索、行動、行為するということだろう。負け惜しみの強がりに見えるかもしれないが。

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2020年6月 2日 (火)

三人の力が生み出すもの

 毎年長野県松本市で開催される小澤征爾氏を中心にしたサイトウ・キネン・オーケストラの演奏会に何年か前、ジャズ・ピアニストの大西順子トリオが参加したことがあった。NHKが特番を制作し、アカショウビンは友人が録画して送ってくださったDVDを何度も観て飽きない。それは楽しくも見事なジョイント・コンサートだった。先日はジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリらフランス・ホット・クラブ五重奏団の録音を終日聴いて飽きなかった。好きな音楽というのは不思議な魅力を持っているのである。昨年からはビル・エヴァンスのトリオやデュオ、ソロ演奏の録音を聴き続けて飽きない。

 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンにもピアノ・トリオがあるけれども、こちらはヴァイオリンとチェロである。ジャズのベース、ドラムスとは楽器が異なる。この違いは決定的に限りない隔たりを有するように思える。クラシックの場合、基本にあるのは協調だが、ジャズの場合、三つの楽器の個性のぶつかり合いに緊張の火花が信じられないような奇跡的とも思われる瞬間を生む。ビル・エヴァンスのトリオ演奏の録音を聴く楽しみは、そこにある。

 鼎談という形式がある。入院中に読み直した、『野の道での会話』所収の「アンキバシエー 科学者と学者と賢人の野の道での鼎談」がそうである。といっても架空の会話なのだが。なぜハイデッガーは、その形式を選んだのか。その理由はともかく、敗戦の屈辱の中で、自らの思索を継続するうえで、その形式がもっともふさわしいと考えたのだろう。そこには難解とはいえ、ある明快さがあった。その形式でなければ明らかにならない何かがあると思われる。

 それはともかく、ビル・エヴァンスのトリオ演奏が発するオーラというかエネルギーの噴出と静謐には、ひたすら恐れ入るしかない。当時の褒め言葉で言えばヒップで絶品だ。現在も世界各地のジャズ・クラブでピアノ・トリオの演奏は行われているだろう。しかし、芸の世界はピンキリである。そして時代の空気というものもある。ハイデッガーが記したのはドイツ敗戦の年であり、ビル・エヴァンスが活躍したのは1950年代後半からの三十余年である。今やジャズというジャンル自体が存続しているのか、また時代とどれほど切り結んでいるのか。しかし、三人の白熱した演奏や議論が生み出す不可思議な力は現在も時を超えて存在している筈だ。いつか、そういう場に居合わせる幸いのあらんことを祈りつつ。

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2020年6月 1日 (月)

懐かしきジャンゴ

 気力の萎えた体調に何か刺激を与えようと試みるには音楽だ。アンドラーシュ・シフとシャーンドル・ヴェーグが指揮するザルツブルク・モーツァルティウム・カメラータ・アカデミアのモーツァルトのピアノ協奏曲は絶品である。続けて何か聴こうと棚を探した。このところジャンゴ・ラインハルトを聴いて不思議に心落ち着くというのか奇妙な郷愁感さえ覚えるのである。不思議なことである。ジャンゴを集中して聴いたのはモダン・ジャズを聴いていた若い頃だ。きっかけは、ルイ・マル監督の『ルシアンの青春』でジャンゴの「マイナー・スウィング」が実に効果的に使われていた。それでいっぺんにファンになったのだった。それからあれこれ聴いたから、その時の記憶が今や無意識の底に沈み今になって郷愁となって意識に浮かび上がってくるのかもしれない。録音年代は1936年〜1938年である。あるいは血族のなかにジャンゴの録音が強い印象で刻まれていて、それがアカショウビンの中で新たに再活性化されるのか。そんなことがあるのかどうか。愚想、妄想はともかく、不思議な郷愁を伴う音楽として響くのがジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリの音楽なのだ。果たして衰えた気力、体調は回復、復調するのか。もう少し様子をみよう。ステファン・グラッペリのヴァイオリンもジャンゴのギターも実に快適で心地よいのだが。

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野蛮考

 染み付いた野蛮は何も米国だけではもちろんない。歴史を省みれば暗澹となる。しかし国民として、民族として、という条件が付くと、そこで他人事ではなくそれぞれの個人に問いが突きつけられる。ナチズムはドイツ人に、イスラエルと米国のパレスチナに対する残虐行為はユダヤ人と歴代の米国政権に、日本軍の中国での残虐行為は我々日本人に。そこに積み上げられた死屍累々に眼を背けず過去から未来への隘路を探るのが現在を生きる我々の責任なのだ。言うは易く、行うは難し。しかし、安穏な生が営めるうちに考え抜かねばならない。コロナ禍に苛まれても戦火ではない。考え抜く時はある。それは未来を拓く隘路だが人類が生き延びるための不可欠の回路であり隘路だ。

 余命少ないアカショウビンにとって、そのような分不相応な気分に取り込められ不安になるのも体調不良のためかもしれない。しかし、アカショウビンはともかく、多くの日本人には時間と経済的蓄積と余力がある。そこで考え抜き、活路を拓くのに貢献するのだ。

 人種差別を超克するのは通過点でしかない。難問は積み重なり迫る。そのひとつひとつの超克なくして未来は拓かれない。世界と人々は共に有る。そこで問題は共有できるし、しなければならぬ。アカショウビンの生も、その中で翻弄されている。抗がん剤治療で、どれだけ残り時間が得られるか知らぬ。囲碁、将棋でいえば敗勢は明らか。しかし、一矢報いる。それが勝負の礼儀ともなり望みともなる。相手も同じ人間なのだ。病の場合、それは人体の不思議さという人知を超えた領域に分け入るということなのだろうが。

 それはともかく、萎えた体力と気力を奮い起こすにはどうするか。音楽と読書、それに映画だ。それに陽の光。あいにく本日は雨だが雨もよし。草木には慈雨である。早朝は鳥たちの声、囀りにも耳を澄ませた。此の世の現象は我が身と一体である。草木の繁茂、鳥たちの声然り。

 いかにして野蛮から超克するか。身の回り、書物にそのヒントはある筈だ。しばし瞑想の時に浸ろう。音楽はメシアンの鳥たちの作品を聴きながら。

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