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2020年5月31日 (日)

染み付いた野蛮

 白人警官による黒人男性ジョージ・フロイドさん暴行死に対する全米規模のデモが拡がっているという記事に「またか」という気持ちに支配される。このブログでも何度か書いたが『私はあなたのニグロではない』というラウル・ペック監督作品には米国での黒人差別の歴史が抉り出され告発されている。それはひいては、イスラエル支援によるパレスチナ差別にもつながる、この超大国の恐るべき恥と暴力に血塗られた歴史である。それは、染み付いた野蛮といってよい。黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの嘆きと怒りが思い起こされる。この憎しみの連鎖を人間という生き物たちは断ち切ることができるのだろうか。リアリスト達は即座に否定するだろう。しかし、人は理念を掲げ、実現に闘う生き物でもある。その繰り返しの闘いに敗北が続くとしても、最後の勝利を諦めてはいられない。

 トランプの「略奪が始まれば狙撃が始まる」というツィッターは人種差別のこの国の歴史の再現でしかない。アカショウビンが参考にする映画にはもう一本『ミシシッピーバーニング』(アラン・パーカー監督)がある。それと『マルコムX』(スパイク・リー監督)。改めて日本人として事件に対する黄色人種という被差別者として怒りを吹き上がらせようではないか。

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ギレリスの『ハンマークラヴィーア』

 以前買ったセット物のCDには聴かずに棚にあるものが幾つもある。値段の安さと、正規盤にはないライブ演奏がセットにまとめられているのが、ついつい買ってしまう理由である。エミール・ギレリスの6枚組セットはベートーヴェンの協奏曲とソナタ集が入っている。かつて聴いたのはソナタの方で協奏曲は聴かず終いの筈だ。それを今朝は『ハンマークラヴィーア』を取り出して衝動的に聴いた。1984年のライブ録音である。改めて先ず驚いたのが音の輝きと美しさだ。それは夜空に輝く星々が燦然と輝いているような。ベートーヴェン晩年の新たな境地の音楽が、こんなにきらきら輝いて鳴り響くのが実に意外で驚きだった。この作品は豪放というより瞑想的で思索的、晩年のベートーヴェンが未踏の世界に分け入っているのを聞くたびに痛感する作品だ。それをギレリスは明晰に明快にきらきらとしたタッチで奏でる。それはやはりギレリスという人の人柄とピアニストの解釈した『ハンマークラヴィーア』なのだ。このような経験も偶然のようでそうではないかもしれない。先日はダニール・シャフランのバッハに驚愕した。この感想も書いておかねばならない。

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2020年5月30日 (土)

警句

 ゴダールの新作『イメージの本』を昨夜二度目で観直した。先に書いた感想は要を得ないが急所を外してはいない筈だ。そこはゴダール自身もファンにも見えないところだろうからである。それほど、サイードが抉り出した偏見の根は深いのが真実だろう。それは改めて熟考を要する論点だ。

 それでも、ゴダールが提起する問いというものがあるとすれば、我々はそれを明るみに出さなければならない。それは、「私たちに未来を語るのは"アーカイヴ"である」というゴダールのコメントがひとつのヒントになるかもしれない。彼は、それを作品で表現した。それが本作ということになる。しかし、それはあまりに恣意に過ぎる。一般の観客でその意図するところを理解できる観客が果たしてどれくらいいるだろうか。ゴダール自身にそのような配慮があるとも思えない。<芸術>とはそんなものだ、とすれば身も蓋もない。しかし作品の中の警句はゴダールらしい。曰く。「一秒の歴史を作るには一日かかる。一分の歴史を作るには一年かかる。一日の歴史を作るには永遠の時が」。自身の作品作りを喩えているのだろう。それを加味すれば本作も簡単には評せない。蓮實重彦氏が手放しで絶賛する「新たな傑作の異様な美しさ」にも受け取り方の違いがある。それはまた芸術作品に対する評価の違いともなるのは言うまでもない。

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副作用

 きょうで抗がん剤治療4日目。きのうから食欲が落ちている。疲れやすさもこれまで以上で尋常でない。副作用を疑う。症状がでてくるのは一週間後というから少し早い。患者はあれこれ気にするのだ。まして体調異変は他人事ではない。あれこれ雑用をしなければならないがしばらく横になる。

 

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2020年5月28日 (木)

風景論

 今朝の東京新聞で訃報を。今年三月半ばに亡くなっておられた。松田政男、享年、87歳。経歴が概括され記者との接点などが記されている。アカショウビンは著作を読んだわけではない。訃報肩書きの"映画評論家"として映画雑誌などで書かれたものに接したことがあるていどの接点である。

 記事で関心を唆られたのが、氏が「風景論」で名をはせた、という箇所。曰く。「身の回りの風景自体が国家や資本の思惑通りに構成され、個人が圧迫されている状況を指摘した」。なるほど。詳細が知りたいところだ。先日読んだ和辻哲郎の『風土』との関連を邪推する。五十年前の議論が甦るような。「議会主義ではない直接行動の道を模索した」と書く記者の一行にも氏の行動の軌跡が浮き出ているようにも思える。当時の空気はいまや跡形もないが、同時代を生きた者たちの精神や記憶に、それは燻っていないか。

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2020年5月26日 (火)

洞察と卓越

 『和辻哲郎ー文人哲学者の軌跡』(2009年 岩波新書 熊野純彦著)を読み啓発されたので『風土ー人間学的考察』(1979年 岩波文庫)を読んだ。実に面白く読み終えた。和辻哲郎という哲学者の力量は『沙門 道元』で納得していた。しかし、ベストセラーと思われる『古寺巡礼』も主著『倫理学』も読まずにきた。『風土』は未読のまま本棚にあったので読み出したしだい。和辻の〈序言〉には、書き始めたきっかけが、ドイツに留学したおり、ハイデッガーの『有と時間』を読んだことが機縁になったことが明かされている。一般に『存在と時間』と訳されているハイデッガーの主著は、最新全集では『有と時』である。Seinというドイツ語を和辻は漢語の有と理解したわけだ。そして、その著作が時間の分析が精緻なのに対し空間の分析に不備であることに不満で『風土』を書き出した、と書いている。アカショウビンは、その動機に刺激された。あの未完の大著に対抗する著作が、まったく異なる姿となって世に出たことに興味が湧き、一気に読み終えた。その感想が表題である。少し場違いかもしれないが、和辻の考察、思索を辿れば、そのように評してよいと思う。批判より先ず著者の観察眼の鋭さと構想の意外性に感嘆するのが先だ。

 それはともかく、この著作は文庫になってからアカショウビンの手持ちの版だけでも1993年までに28刷を重ねている。実に多くの読者に読み継がれている好著なのである。誰でも楽々読める内容ではない。ある種の口説さ、執拗さがある。しかし、最後まで読めば、和辻哲郎という哲学者の視界、視野が古くは古代ギリシャからカント、ヘーゲル、マルクスにまで及んでいる事に改めて納得する。それくらいの射程、地平の元に書き上げられた労作である。解説で井上光貞氏が慎重に述べているように、この作品が世に出た昭和初年頃から幾つかの批判に晒されたこともよくわかる。しかし、それには、当時の左翼陣営から、ためにする批判であることも憶測される。和辻も昭和18年に書いているように、「当時の左傾思想」に駁論を交えたからだ。しかし、それを脱色してもこの著作に和辻哲郎が込めた気概と気迫は行間に横溢している。改めて、その詳細を述べてみたいと思う。

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2020年5月25日 (月)

ゴダールから見えるオリエント

 ジャン=リュック・ゴダールが四年かけた新作『イメージの本』をレンタルで観た。88歳になったのだ、あのゴダールも。公開時の会見は喧しかったようだ。あれこれ答えただろう回答で面白いのが次のコメントだ。

 曰く、私たちに未来を語るのは"アーカイヴ"である。

 先のブログにも書いたが、アーカイヴは、記録、古文書(こもんじょ)、公文書とも訳される。ゴダールからすれば、文書ではなく、映像ということだろう。84分間の作品はゴダール流イメージの切り貼りである。蓮實重彦は〈美しさ〉とべた褒めだが、ひとそれぞれ好みの分かれるところだろう。

 アカショウビンから言わせてもらえば、或る一人のフランス人が見たオリエントのイメージと概括できる作品だ。今は亡きエドワード・W・サイードなら西欧知識人の偏見に満ちたオリエント像から少しも出ていない、と切り捨てかねない仕上がりにしかなっていないのではないかと危ぶむ。それほど典型的な印象を受ける。ゴダールの語りは、それを補う含蓄を持つのもまた正直なところだが。しかし、多くの観客には、こ難しい理屈っぽい映画だろう。蓮實のような見巧者ならともかく。しかし、88歳の爺さんの作品とは驚く若々しさをもっていることをアカショウビンは実感したのもまた正直なところである。それはともかく、新作も既に出来ているのかもしれない。それを楽しみにしたい。

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遅い追悼

 佐々部 清監督の訃報を知ったのは三月に入院している時だった。中堅からベテランの手堅い作品を作る日本映画界に貴重な監督と見なしていた。それは、『半落ち』という作品を観たときの感想だったようだ。先日来、レンタルで三本観た。内容は殆ど忘れていたが、俳優陣の抑制された演技、演出が冴えているのを確認した。重いテーマを各俳優が熱演、好演で応えている。この作品だけでも映画史に残ると確信する。

 他の二本は、『チルソクの夏』と『陽はまた昇る』。これらは不満が残る。しかし、未見作品も多い。それらを観る機会もこれからあるだろう。還暦を過ぎ、これから秀作、傑作を制作していく途上での急逝が惜しまれる。遅れた追悼をし哀悼の意を表する。

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1967年のOZAWA

 きのうのNHKラジオ「音楽の泉」は、モーツァルトのクラリネット五重奏曲などを放送していた。日曜朝の音楽の楽しみは時につまらないこともあるけれども、好きな作品が聴こえてくれば無上の至福の時になる。ことしはベートーヴェン生誕250年でもある。アカショウビンもベートーヴェン作品は改めて聴く機会も増やしている。やはり偉大な存在なのだ。テオドール・W・アドルノのベートーヴェン論考は刮目して読まねばならない難解だが挑発される思索が鮮烈に展開されている。

 しかし、ここで考えてみたいのは、私たちが生きている現代、同時代の作品である。そこには歴史の過程で選別された名作ばかりではなく、凡作、駄作、愚作多々がある。しかし、好みとはいえ面白い作品に出会うことがある。この何年かCDで聴くことも多いアルヴォ・ペルトもそうだが、先日は中古ショップでメシアンを買ってきた。今朝はたまたま棚から1967年に小澤征爾がトロント交響楽団と録音した『トゥーランガリラ交響曲』を久しぶりに聴いた。若きマエストロ面目躍如の名演である。作曲者も感嘆した録音ではなかろうか。小澤(以下、敬称は略させて頂く)も同時代の巨匠の作品を全力で読み込み音にする気迫で臨んだに違いない。それは音楽を介して時代と切り結ぶという作用がはたらくという事である。私たちは録音を介してだが、それを再体験する。それは日常に変化を暫しの間ではあるけれどももたらす。音が止めば、そこには静かな日常が戻る。しかし、作品と録音は聴く者の日常を挑発する。私たちは、そのような時間をも経験し現在を生きる。

 あの若き小澤も既に老境である。先日は友人から送って頂いた20年前のNHKの特集番組の録画も幾つか改めて観た。小澤征爾という指揮者が頂点を極めたウィーン国立歌劇場のシェフに就任したころ、食道がんの手術から復帰したあとの特番など。それは観るたびに啓発される。ことしの夏は、松本で振る機会があるのだろうか。アカショウビンは、今こそ、若き小澤が同時代と切り結んだ作品を聴いていきたいと思う。武満 徹作品もそのなかにある。それは、私たちが生きている時代とは何か、という問いを発し、それに思索を展開するという事でもある。トゥーランガリラとはサンスクリット語で〈愛の歌〉という意味らしい。メシアンは東洋に多大の関心をもっていた。先日買ってきたCDは、1962年初来日の印象に想を得た作品をブーレーズがクリーヴランド管弦楽団と録音している。

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2020年5月23日 (土)

金目鯛の煮付け

 先日、病院ヘ行った帰りバスを御茶ノ水で降りた。午後三時過ぎで食事をしようと駅周辺をぶらついていたら料理を小分けにして販売している。昼食時が過ぎ残った料理なのだろう。しかしアカショウビンにはちょうどよい量だ。手術のあと、普通の定食では量が多すぎるのだ。その中に金目鯛の大きな目玉の煮付けがあった。五百円と言う。迷っていたら三百円でいいと言う。ちょうだい、とすぐ買った。料亭なら高級料理だろう。千円以上はするだろう。それを持ち帰り冷蔵庫に保存しておいた。それをさっき温めて食べた。うまい。大根とゴボウも入っていた。三百円は格安である。贅沢な夕食になった。店にすればコロナ禍で客も少く用意した見込みが外れたこともあるのだろう。しかし、おかげでこういう恩恵にありつけた。悪いことばかりではないのである。めぐり合わせの幸運もあるということだ。もちろん逆もある。油断はできない。しかし、日々慎ましく生きていれば、何か良いことはある筈だ。術後の体調の不如意のなかで珍しく殊勝な心掛けに辿り着いた。金目鯛の功徳である。

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2020年5月22日 (金)

回想と現在

 今週二度目の通院でCT検査に最寄りの駅に来た機会に、以前、業界紙記者をやっていた頃に付き合いのあった会社跡に立ち寄った。アカショウビンが在職時代に社長がガンで死去。その後、弟の専務が継いだが廃業した。製造問屋として勢力がある企業だったので影響は大きかった。しかし、社屋は残っており、小さく再生したのかもしれない。一時代を画した会社だけにいろいろな思い出がある。主宰していた会で毎年研修旅行を行い、アカショウビンも同行した。青森、秋田の夏祭り、広島から小豆島まで瀬戸内海クルーズ、鹿児島の特攻隊施設訪問など、仕事でなければ行かない各地を訪れられたのは役得だった。韓国の光州にも行った。

 亡くなった社長は押しの強いワンマンタイプの人だった。スーパーなど食品業界で独特な企業展開をしたが時代の大きな趨勢には逆らえなかった。同様な憂き目にあった企業は他にもある。生き残りは自力だけでは難しい。人の生もそうである。病に罹れば医師の世話になる。経済的には友人、知人にも頼る。街に出れば見ず知らずの人の世話にもなる。まことに人は社会的な存在なのである。会社、企業はなおさらそうだ。

 病が機縁で回想もし現在の我が身に感慨も新たにする。外は霧雨で寒く病体にはこたえる。しかし、読みたい本もある、聴きたいCDもある。神田の三省堂は営業していた。ことし刊行された塚本邦雄全歌集の第1巻を購入した。感想は近いうちに。

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2020年5月17日 (日)

古文書

 昨年だったか、ゴダールが新作のインタビューかで、あらゆる映像はアーカイブだ、とコメントしていた。アーカイブとは記録、あるいは古文書(こもんじょ)という含意を込めているのだろう。公文書という意味も辞書にはある。今や老境の映像作家のコメントの含意はあれこれ推測されるが、作品を観るにしかず。いずれレンタルされるだろうから改めて感想を書くこともあるだろう。

 先日、和辻哲郎に関する新書を読み面白かったので感想を少し。熊野純彦氏の2009年発刊の岩波新書である。以下、敬称は略させて頂く。もう十年以上前の著作だが、なぜ新たに和辻を取り上げるのか興味があったのだ。熊野の意図は凡そ納得する。新たに読み直す価値を有している事も批判される根拠も。しかし、そこは熟慮を要する。いわゆる〈文人哲学者〉あるいは天皇主義者として片付けるわけにはいかない体系と論理をその思考、考察は有しているからだ。熊野が引く和辻の文章は実に魅力に溢れ強靭な意志に貫かれている。

 それは、今や古文書になりかけているわけでもないのは熊野の論考をたどれば腑に落ちる。熊野が読み解く主著の『倫理学』はともかく、『風土』などを熟読し、新た和辻哲学・倫理学を考察してみたい。

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2020年5月15日 (金)

深夜の音信

 たまたまラジカセの電源を入れたら聞き覚えのある声が聴こえてきた。たぶん、と思いながら聴き続けていると、やはり美輪明宏(以下、敬称は略させて頂く)だった。途中からだったが特集らしい。全9曲のうち何曲か聴けたのは幸いだった。美輪版「愛の讃歌」も初めて聴いた。歌い手の気迫が伝わる名唱である。自らの人生を辿る作品も味わい深い、聴く者の記憶や心の琴線に触れる力に満ちた歌唱だ。優れた歌い手に共通する天性の才覚と才能を直感する。「黒蜥蜴の歌」は映画で歌われたのだろうか。未見だが監督が深作欣二というのは遠い記憶の中に埋もれていた。銀座の「銀巴里」を懐かしむ作品で、同店が閉められたのが平成二年というのも、もうそんなになるのか、と感慨あらた。

 何年かまえ、「紅白歌合戦」に美輪が出演したことがあったらしい。会社の後輩から聞いて知った。彼女と美輪の話などしたことがあったことも忘れていた。文学好きだったから三島由紀夫の話などしたかもしれない。何を歌ったの、と尋ねたら「ヨイトマケの唄」と。それは聴きたかった。衣装や美輪の表情など見たかったのだ。アカショウビンにとっては、美輪の代表作と見なしている作品だ。昨夜も放送したのだろうか。最後は、「宵待草」で特集は終了した。録音は販売されているのか探してみたい。しかし、たまに立ち寄るCDショップは、コロナ禍で閉店している。感染が治まったら探してみよう。

 それにしても、深夜に自由にラジオが聴けるのも、入院中とはまるで違うありがたさだ。未だ回復にはほど遠い体調だが、リハビリに努めよう。なかなか、身体は思うようにならないが。

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2020年5月11日 (月)

乞食としての生き方

 現在のアカショウビンの生き方の有りようを言葉にすれば、乞食と言おう。友人たちからの借財で口を糊している。それは卑下ではない。現実である。事実である。人は、そうしてでも生きなければ生きられない状況に堕ちることがある。戦火の渦中でそうである。難民としてそうである。飢饉疫病のときそうである。しかし、そこから見える、洞察と言ってもよい何かがある。それは幻想ではない。アカショウビンの五感は衰えていても機能している、まだ確かに。外では団地の外装の改修工事が継続されている。入院、手術前からだからもう二三ヶ月を越えている。その物音が娑婆世界の確かな音なのだ。

 それはともかく。部屋に戻り、聴きたいCDやDVDも少しずつ聴き観ることが出来るようになったことが何よりありがたい。入院中に読み継いだアドルノの未完のベートーヴェン論(覚え書き)もCDと対照させ読み継がねばならぬ。とりあえずグールドのCDを繰り返し聴いて面白い。ベートーヴェンのピアノ・ソナタの解釈の可能性はかくも広く深い。もちろん、ピアノ・ソナタだけに限らない。交響曲はじめベートーヴェン作品すべてに通じる可能性だ、それは。フルトヴェングラーの録音はその証しである。またベートーヴェンと同時代にはハイドンがいて、何よりモーツァルトがいた。そのような音楽を心新たに聴けるのも乞食生活のなせる功徳である。友人たちには、娑婆での縁を心から感謝せねばならぬ。

 体調、体力は、未だよろしからず回復は心元ない。しかし乞食生活から、自らの微かな余力で活路を探るのだ。これしかない。同世代の独身者たちは無職の身で苦闘している。我が身ばかりが苦しいのではない。この世は正しく苦なのである。それに些かの抵抗と幸いを模索する。それが娑婆での時なのである。食を乞い、生きる微かな力を掻き立てる。それが現実である事に五感をはたらかせ六感、七感、八感へと至らねばならぬ。

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2020年5月10日 (日)

故郷考

 今朝のNHKラジオ「音楽の泉」はドボルザークのチェロ協奏曲である。赴任先の米国で故郷ボヘミアを懐かしみ、病に伏せるかつての恋人への思いも添えられているという。聴く者それぞれに郷愁を誘う作品だ。口の悪い評者なら通俗の評語で切捨てかねない。故郷を持たない人もあるだろうからである。しかし、郷愁という概念に普遍性がありはしないか。この作品や交響曲九番の人気は、それを証していはしまいか。

 仏教者は脱俗を説く。しかし、世俗の垢からまた脱俗も生ずる。郷愁は、世俗の人間に共属する何か崇高に通じる共通感覚とは言えまいか。それはまた、熟考を要するテーマだ。

 先日は、久しぶりに小津安二郎監督の『東京物語』を観た。尾道に住み続ける老夫婦が東京や大阪で生活する子供たちを訪ねるという話である。子供たちが故郷を懐かしむ心情を監督は描いていない。都会で生活するのにきゅうきゅうとするばかり。戦後八年にして親子の断絶がテーマの一つだ。もちろん、それは戦後新たに生じた現象でもない。しかし、そこには人間関係の或る亀裂があるようにも思える。それもまた別のテーマだ。

 

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2020年5月 8日 (金)

退院はしたけれど

 4日の午前中、高校の同級生M君が練馬の自宅から車で迎えに来てくれ町田の団地まで送ってくれた。ありがたかった。コロナ禍で交通量も少なくM君はゆっくり長時間の運転をしてくれた。心の中で手を合わせた。如何なる菩薩の化身か。こちらは心から祈り感謝するしかない。

 しかし、体調はなかなか元通りというわけにはいかない。術後の痛みは以前のまま。身体を動かすのもままならない。術後のチューブだらけの姿からすればマシだが、近くのスーパーに行くのも億劫だ。しかし、体力回復には食わねばならぬ。病院の上げ膳据え膳とはいかぬ。自ら動かねばならないのだ。果して、この状態が元に戻るのか、心もとない。

 病院にいる時よりは好きな音楽、レンタルDVDが観られることが何よりありがたい。きのう歯医者に行ったついでに映画を四本借りてきた。それを観て気力を奮い起こす。せいぜい、それくらいだ。入院中に読み継いだ本を更に読み継ぐ集中力がない。とにかく静養だ。

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2020年5月 2日 (土)

忘れるということ

 手術後のICU(集中治療室)での一晩のチューブだらけの不自由と傷跡の痛みを忘れるまいと肝に命じたつもりだが、少し回復したら何の事はない。すっかり忘れている。修行の足りない俗物は、かくの如し。その戒めなのか、今朝、手術の傷跡から血液の混じった体液が滲み出し、下着、パジャマ、腹帯を濡らし肝をつぶした。術後13日が経過しているのにである。幸い、看護師さんが冷静な応急処置を施し現在小康状態だ。連休のためか主治医はじめ何人かの医師は不在。月曜日の退院予定は延期だろう。

 もとより楽観などしてはいない。通常なら腹腔鏡下手術で済ませられる胃の全摘手術を開腹し左胸の辺りから右腹まで「胴切り」するという大掛かりな手術なのだから。合併症の危険は事前の説明で聞いていた。しかし、今回のような事は想定外なのではなかろうか。何が起こるかわからないのだ。医療技術は確かに進歩したし、現在進行中であろう。いずれガンも治療で克服できる時が来るかもしれない。しかし、人間の出来る事などたかが知れているのだ。その一点だけは忘れるわけにはいかない。されど放下する、任せる、委ねる。これである。

 人は生きていくために忘れたほうがかえって楽になることもある。しかし忘れてはならないこともまたあるのである。そこで、残りの生を無為に過ごさないよう不忘三戒を立てる。

 一つ、身体が自由に動けるありがたみ忘るべからず 

 二つ、食事が口から食べられるありがたみ忘るべからず 

 三つ、書物が読め文字が書けるありがたみ忘るべからず

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