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2020年4月 7日 (火)

崇高と震撼

 先日の日曜日、NHKでクリストフ・エッシェンバッハ指揮NHK交響曲楽団のマーラーの交響曲第二番『復活』を放送していた。途中からだったが聴き入らされた。ちょうど最後の楽章の合唱とソプラノ、メゾ・ソプラノの独唱の場面だ。そこには指揮者の綿密な指示と、それに応える合唱団、ソリストたちの真剣な表情が交互に映され、何やら尋常ならざる空気が醸しだされているのを感じた。それはマーラーが、この作品に託した意図と真情を表現しようとする誠実さに溢れていたと言ってもよかろう。タイトルが示すように、この作品は西洋のユダヤ・キリスト教文明という宗教文化圏から生れたものという歴史学的な制約にある。しかし、その表現されるものは〝崇高〟とは何か、という問いを発したくなる気持ちにさせる成果を醸す境地にマーラーは達していると思わざるをえない。崇高は畏敬でもある。また震撼でもあるだろう。それは宗教的信条、宗教哲学の垣根を超え、洋の東西の文化を超えて人の心に響きはしないか。合唱を使うことでマーラーはベートーヴェンの第九交響曲を明らかに意識している。しかし作品はまるで様相の異なる仕上がりだ。マーラーはベートーヴェンのように聴く者を鼓舞はしない。しかし、存在の淵とでもいう領域からマーラーは生きとし生ける者たちに呼びかける。

 〝崇高〟について、テオドール・w・アドルノは、カントが『道徳形而上学』において自然現象に限定して認めた崇高の定義を芸術美にまで拡大している。カントにおいて崇高とは、感覚を圧倒する現存在を前にしてたじろぐことのない精神の自律性であろう。それが芸術作品にも適応できるかどうかの判断はともかく、アカショウビンはマーラーの作品の幾つかに崇高を看取する。それを指揮者の表情にもアカショウビンは読みとる思いだった。エッシェンバッハも既に80歳なのだ。終演し拍手と歓呼に応える姿には自信と達成感の如きものが感じられた。

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