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2020年4月15日 (水)

反抗の覆いが解き放たれる

 先に少し書いた〝アンキバシエー〟についてもう少し。この〝秘教的〟とも〝神秘主義的〟とも真面目な研究者たちからは批判、黙殺されかねない、アカショウビンには〝解説書〟の体裁をとった〝文学作品〟といってもよい手稿はハイデッガー哲学の急所をわかりやすく説いた〝文学作品〟と心得る。翻訳の微妙さが原文のニュアンスを十分に伝えているか定かではないが、難解な哲学論説ではない体裁は、内容はともかく、繰り返し読み、新たな思索に誘い込まれる深さと奥行きをもち、わかりやすさが返ってその裏にある深さと奥行きに通路を開き、新たな難解さに至る思いになる。その一節を改めて引用しよう。

 賢者 おそらく人間が自然を対象化しようとすると、まさに自然が自らを示そうとするものの中に技術の攻撃に対する秘かな反抗が生じるのだと思います。この反抗の覆いがはがされることによって自然の力が解き放たれ、それが無化(撲滅)という地球全体を取り巻いている出来事として爆発するのです。(p22)

 これは俗説になるのを恐れず言えば、昨今の新型コロナウィルスの世界蔓延という現状に対する一つの哲学的説明ともなりうるだろう。

 その前に、「技術」という、ハイデッガーが徹底してこだわる語へのギリシャ語の説明を賢者が話すところを引用しよう。

 賢者 テクネーという語の語幹はtekですが、これは外へ出す(hervorbringen)という意味です。ギリシャ語の中に含まれている思索においては、<外へ出す>とは何かを現前化する、現象させるといったことを意味します。但し、テクネーは個々の事柄を外に出すことではなく、ある事柄を見えるように対置し、用意することを意味しており、その見え方に応じて、その事柄がそのつどさまざまな形で見えるものとして現前化されるわけです。ですから、テクネーとはある事柄がその本質において、何であるかを見させ、視野の中にもたらすことであり、その限りで、近代的な意味での<技術>はテクネーの一種なのです。つまり近代の技術とは、今言った見させること、用意することであり、そこにおいて自然が数学的な対象として現象へともたらされるわけです。この技術は自然を計算可能な前置の対象に変えることであり、しかもその場合の計算とは、量的な計量のことです。

 長い引用で恐縮だが、この説明に学者と科学者が反論し自らの不可解と更なる説明を乞う。それに賢者は答える。

 賢者 アリストテレス(『ニコマス倫理学』第4巻)によれば、、テクネーはアレーテウエインの一つのありようであるとされ、この語の意味は現成し、現前するものとして現れるものを非隠蔽化することです。これを私たちのことばで言えば、露わにする、ということになるでしょう。アリストテレスは非隠蔽化のさまざまなありようを区別しており、つまりテクネー以外にエピステーメーやテオーリアがあるとするわけですが、これらはある意味では私たちが<学>と名づけているいるものに対応するありようです。テクネーとエピステーメーの違いをアリストテレスがどのような形で確定していようと、ここで何よりも決定的なことは、テクネーが露わにすることの一つであると考えられていることです。非隠蔽化としてのアレーテウエインの中にも、ギリシャ人の前概念的なテクネー理解が含まれているのですが、しばしばテクネーは通常の言語使用においても、それがエピステーメーと同様に非隠蔽化であるがゆえに、これと同一視されていたのです。(p18)

  頁数は『野の道での会話』 (ハイデッガー全集 第77巻 創文社 2001年11月25日発行 麻生 建訳)所収『アンキバシエー 科学者と学者と賢者による野の道での鼎談』

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