« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »

2020年1月31日 (金)

1800Kcal

 健康に生きる人の一日あたりの消費エネルギー量である。アカショウビンの場合この約三ヶ月、半分以下しか摂取できていない。自他共に、それでよく生きてられるな、と呆れているのが現状だ。

 本日は放射線治療の18回目。担当医師は胃瘻を作るための入院を勧めたが聞くと栄養剤を入れるためだけの処置だ。未だ口から栄養剤は飲めるのだから過剰な手術は御免被りたいとひとまずご辞退申し上げた。仕事で右太腿付け根を骨折した、以前の仕事仲間のKさんは退院したが仕事はない。それからすればアカショウビンは身体は動き仕事もある。日々のシノギで一日一日を生きるのだ。

 この三日間、小春日という陽気で塞ぐ気も紛れた。きのうは学生時代以来の友人N君とも久しぶりに会い数時間駄弁った。彼も甲状腺ガン経験者だ。いろいろ気を遣ってくれる。奥方とは仲良く旅行も楽しみ穏やかな生活をおくっている。アカショウビンとはえらい違いだが、これもそれまでの生き方の違いである。N君は高校教師の職を辞し新たな第二の人生を模索中だ。それぞれの第二の人生がある。苦しみも楽しみもそれぞれ。アカショウビンは、読み残した本、再読、再々読しなければならない本、聴き残した音楽CD、映画などやるべきことは山積みだ。一つ一つ粛々とこなしていくだけである。とりあえず圓朝の噺を聴く。それからベートーヴェン・イヤーにちなみベートーヴェン作品だ。今朝はエリー・ナイを聴いた。1960年録音の『皇帝』だが、なかなかなものなのである。他の巨匠たちに優るとも劣らない演奏である。ソナタ全曲が残されてないのが惜しまれる。

 一日1800Kcalは難しくとも1500Kcalを目標に生活を律し組み立てる、ここから励行する。

| | コメント (0)

2020年1月29日 (水)

天晴ル

 古の歌人なら日記にそう記したかもしれない朝だ。二日間降り続けたあと晴れた空を眺める爽快さは格別。仕事には就けなかったけれども。 

 先週で放射線治療は半分を終えた。きょうは16回目。採血と女医のS医師の診察がある。晴れた日は原付バイクで駅まで行くのだけれども、きのうはバスにした。無駄な出費だが安全を期す。二日間読み差しの単行本を読みちらしたが、きょうは文庫本。先日観たDVDで亡くなる前の歌丸師が集中的に圓朝作品に取り組んでいたという事を知り、『三遊亭圓朝と明治』(2012年8月30日 朝日文庫 矢野誠一著)。圓朝作品は大阪に棲んでいた頃に円生で聴いた。それ以来である。感想は後日。

| | コメント (0)

2020年1月27日 (月)

イタリア人気質

 イタリア人気質というものがあるように思えるのは映画作品やオペラコンサートの聴衆の感動表現の異国のものとの違いに遭遇する時である。

 先日観た米伊合作だったかの映画でフェリーニのことをフェフェと言うのに違和感を持ったのだがイタリア本国ではそう呼んでいるのかも知れない。フェリーニとは映画監督フェデリコ・フェリーニである。必ずやアカショウビンの映画監督ベストテンの上位に入る人である。映画の中ではフェリーニと話をしたこともあるフェリーニ礼賛女が彼のことをヒロインに事ある毎にフェフェはこう言った、こう話したと講釈する。それが面白く、フェリーニの熱烈なファンならさもありなんと得心したのである。その女はフェリーニの作品のなかで『カビリアの夜』がいちばん好きだ、とも語ったのだった。なるほど、そうか、それはそうなのだろう。それは作品を改めて観て見なければ。以前レーザーディスクで買ったけれども再生装置が故障し修理に出したら修理費が高くそのまま引き取らず。手持ちのディスクは観られないので先日レンタルで借りて観た。主演はジュリエッタ・マシーナ。1957年制作のときフェリーニ夫人になっていたかどうか。しかし監督がこの女優の魅力と才覚、才能を見事に引き出したことがよくわかる。作品に登場する人達は私達がああこれがイタリア人という人々だよなと感嘆する人たちだ。

 ジュリエッタが仲間の娼婦たちと喧嘩騒ぎになる時にマンボを踊りだすシーンの姿態と表情、台詞の生き生きとした感情を表現して恐れ入る。この女優の素晴らしさの瞬間を監督は的確に捉えている。特にジュリエッタの台詞と手指の動きにイタリア気質というしかないものが集約、横溢していると思う。それを説明するには多言を要する。

 もう一つは先日のブログでも少し書いたが、オペラでのイタリア人の感動表現である。マリア・カラスが1949年、ナポリの劇場で歌ったヴェルディの『ナブッコ』での聴衆の興奮にそれが現れている。何とある場面で聴衆は感動し指揮者とオーケストラ、舞台に三度アンコールをさせたのである。日本や他国でこのような事が起こるだろうか。現在のイタリアでもこのような事が起きたことがあるかどうかアカショウビンは詳らかにしない。しかしやはりイタリア人気質というものがあるように思えるのだがどうだろうか。

| | コメント (0)

2020年1月24日 (金)

女の思想

 東京新聞22日の夕刊に茨木のり子と親交のあった蘇芳のり子さんが「茨木のり子とデュラス」の見出しで寄稿された記事に眼が留まった。茨木(以下、敬称は略させて頂く)は蘇芳からの手紙に次のように返信したという。 

 「デュラスは一生のテーマにふさわしい人と思います。二十世紀〈女の思想〉というものを結晶化できたほとんど唯一の女流作家(世界で)」(2003年6月14日付)

 アカショウビンは若い頃に観たアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』を思い出す。それは何とも〈難解〉な作品だった。ヒロシマという場所に対するデュラスやアラン・レネの複雑な思索、考察によるものだろうが、レネの『夜と霧』を観たあとで、この作品の不可解さは、当時流行った〈不条理演劇〉の亜流のような思いで、生意気で不勉強な不良学生には敷居が高すぎた。しかし、茨木をそこまで挑発、刺激、感動させた詩人の作品は改めて読む契機になる。〈女の思想〉というものがあるとすれば、天野正子の老いの探求は女の老いの考察、調査、研究の成果である。それは更に〈男の思想〉というものもありえるわけで、それを超えたものもありえることになる。それはともかく、デュラス作品、茨木のり子の作品と〈思想〉にも視界を拡げていきたい。


| | コメント (0)

2020年1月22日 (水)

毎日がシノギ

 平日は毎日朝8時30分からの通院治療。生活費は夜勤の路上警備にシフトし稼がねばならぬ。都内各地の現場から始発電車で病院ヘ。正しく囲碁で言う終盤のシノギ(凌ぎ)勝負の局面である。病院から帰ると身体を休め横になる。きょうは好きなレンタルDVDを観る気力が湧かなかった。局面は敗色濃くとも投了するまでは粘る。勝負はゲタを履くまでわからぬ。闘う気力、精神を掻き立てよ。何故なら鶴見和子によれば、〈世界〉は驚きに満ちている。なるほど。それを体験し、味わい、探求し、楽しむ時はかえって今こそ輝きを増してアカショウビンを取り巻いているのかも知れない。

 天野正子の老いの探求は、癌患者に置き換えて読める。それは正しく最期を見据えた時を体験、経験することだからだ。

| | コメント (0)

2020年1月20日 (月)

築地ぶらぶら

 治療を終え、築地の場外市場をぶらぶら。波除神社から以前の仕事で馴染みの店先の陳列商品を眺めながら歩いた。観光客は増え、場内市場は移転しても築地の活気は残っている。市場の面白さは世界共通なのだ。アカショウビンもサラリーマン時代に仕事で東南アジアや中国、韓国を訪れた時に市場を見て歩くのが楽しみだった。お土産に長崎産の煮干し一袋150円を買った。ところが二匹食べたら噎せてきた。難儀なことである。

 きょうで放射線治療は9回目。そろそろ喉に痛みが出てくるころだか鈍い違和感はこの二、三日から感じている。聞けば日に2グレイ、通算50グレイの放射線を喉の患部に照射するわけである。個人差はあるだろうが「きつい」のだろう。日々飲用している栄養剤が口から飲めなくなったら胃瘻処置だ。それは避けたい。そのために自分なりに工夫する。これまでの試みから口から入るものは栄養剤のみだ。それを改善、克服することが課題だ。

 天気がよく築地は外国人達で賑わっていた。体調は良くなくとも〈群衆のなかの孤独〉は悪くない。ぶらぶら、ゆるゆる、ヨロヨロと世界の驚きを体感しよう。

 

| | コメント (0)

行動の型のつくりかえ

 鶴見和子が提示する老い期の〈自己改造〉は具体的に、どのように為されるのか。天野正子が説明した先の引用のなかで、行動の型のつくりかえ、という事を考えてみよう。体力の衰えで歩行はもちろん、視力、聴力、五感はそれぞれ衰える。したがって行動の型も変わらざるをえない。それには個人差がある。人それぞれが自らの型を意図的に作り変えなければならない、という事だ。それは日常の時空間のなかで実践される。いまアカショウビンは病院の待合室で待機している。少し離れた席に若い母親たちがお喋りしている。他愛のない事だがアカショウビンの神経に触る。携帯の写真を見てあれこれ話すことは無神経とまでは言わない。しかし、彼女たちの年頃の女特有の無神経さというものがある。子育ては大変だろう。母親同士の付き合い、亭主の世話、親たちの介護も彼女たちの将来に視野のなかに入っているだろう。そういった女たちばかりではない、男たちの個別の事情のなかでアカショウビンは病と老いの日常を生きていかなければならないという事なのだ。それには工夫がいる。本を読むにも、音楽を聴くのにも、レンタルDVDで映画を観るのにも、日常生活全てに工夫がいるのである。極端にいわなくとも、それは呼吸法にもいえる事だ。禅者たちはそこで座禅修行に行動舌だろうからだ。

 先日借りてきたDVDのうち『モリのいる場所』が面白い。94歳の画家の日常にキャメラを据えて構成し撮った作品である。そこにも一人の老いを生きる姿と時空間が描かれている。

| | コメント (0)

2020年1月18日 (土)

未完としての老い

 老いを「未完成のままに受け入れよ」と、はっきり語ったのはスイスの医学者ポール・トゥルニエが初めてだろう、と天野正子は述べている。彼は著書のなかで次のように書いているという。

 私たちの一日一日は小さな断念の積み重ねであり、したがってその連続で成り立つ老いもまた未完成である。

 そして更に続ける。

 どんなものにも「はじめ」はあっても「終わり」はなく、完成が老いに価値を与えるのではない。未完であることははっきりしたかたちや証しをもたないがゆえに不安定このうえない。しかし、そのことが人々に内的生命力をもたらす。「老いの喜び」は、完全はありえぬと認めることからはじまる。(天野正子『老いへのまなざし』p223)

  アカショウビンは、この天野の考察を病で衰弱する己の身体を老いの不如意に困苦する高齢者の生き様に重ねて読む。本日は、久しぶりの昼の勤務である。雨で中止かとも思ったが予定通り。雨から霙、小雪舞う中での路上警備であった。軍手はビショビショ、手指は凍えかじかむ。工事は7箇所のマンホールの下水道を移動した。病体には辛い仕事ではある。しかし、そこで未だ動く心身の変化も実感する。老いと病は残り少ない時を如何に生きるかという共通の場に立つことでもある。そこに活力を見出さねばならない。かつて天野の仲間の鶴見和子が病床で妹さんに語ったように、世界は驚きに満ちている、のだから。

| | コメント (0)

2020年1月17日 (金)

すべては風の一吹きさ!

 天野正子が引いている吉野せいの作品中の一文が好い。

 すべては風の一吹きさ!どこからかひょいと生まれて、あばれて、吠えて、叩いて、踏んで、蹴り返して、踊って、わめいて、泣いて、愚痴をこぼして、苦しい呻きを残して、どこかへひょいと飛び去ってしもうすっ飛びあらし‼(『老いて』1973年)

 どこかへひょいと飛び去ってしもう、とは殆ど達観の境地だ。いや、いや、この人には達観などという言葉は似合わない。天野が章立てしているのは、老いた作家の文体論であるわけだが、作家という職業は、文章にその生き様も反映する。そこに天野は注目し老いた作家の生を考察しているのだ。

 きょうは放射線治療8回目。M医師の診察説明ではガンが「溶け始めて」いて治療効果が出始めている、とのこと。内視鏡カメラで撮った画像で示してくれた。先ずは喜ぶべき事と納得する。全身麻酔での手術でもそうだが、最先端治療というのは患者の痛みや身体感覚とは異質の科学的処方が行われる。そこで治療する側とされる側の距離が遠くなる。その遠さを近くするのは互いの会話による。しかし、専門家と素人の違いの差を埋めるのは簡単にはいかない。そこに現代医療がどれほど留意しているかアカショウビンは詳らかにしない。しかし、そこには残された時間を含め、他人にはもちろん本人でさえ不明な精神的葛藤が生じる。

 吉野せいの文章には、そのような葛藤を吹き飛ばす闊達さがある。無文字社会ならぬ、文字社会の恵みとも言える。文字に染まり半ば溺れているアカショウビンや現代人には、古代人の境地に至るのは、それなりの工夫と努力が不可欠なのである。

| | コメント (0)

2020年1月16日 (木)

無文字社会の時間と空間

 天野正子は、子供と老人が親しむ時間と空間は鶴見俊輔が説く、無文字社会の時間と空間を思い出すこと、という指摘を引く。無文字社会の時間と空間は、神話的空間とも記す。それは私達にどのように可能になるのだろうか。孫と祖父母の交わりはその一つだろう。老人ホームを慰問する子供達との間にもそれは発現するだろうか。いずれにしても、それは私達が日常を生きている時空間とは異なる場であろう。

 老いと病のあと現実のなかで、それを自ら生成していくことがアカショウビンの残り時間を活性化させていくだろう。きょうは7回目の放射線治療を終え、食事指導のアドバイスも受けた。好きなものが食べられないというのは辛いことなのだ。健康な時に人はそれに気づかない。病にかかりそれに気づくことは天の啓示のようなものかもしれない。しかし、それが老いと病という時空間が示す人間という生き物の本質と正体とも思える。アカショウビンは正にその渦中を生きている。それは決して捨てたものでもないとも言える。

| | コメント (0)

2020年1月15日 (水)

通院治療の日々

 都心での夜勤の仕事は夜中3時前に終了した。1時前から小雨が降り出した。一昨日、きのう、と同じ現場。一昨日は交通量の多い場所で車線変更の合図を送る担当だったが、きょうは狭い道の自転車、バイクの通行止め。深夜でほとんど通行なし。立哨だけで楽だった。終了したあと始発まで時間をつぶし始発に乗る。電車の中は温かく、居眠りもできる。なんともありがたい空間なのだ。

 電車でしばし休息したあと病院ヘ。受付は8時30分からだが、きょうは行列はないが、きのうは長蛇の列だった。連休明けのためだったのかもしれない。

 先週から始まった放射線治療は中三日をおいて昨日が五回目。きょうはこれから六回目になる。どんより曇った外の景色は、こちらの気持ちまでふさぎこむ。きのうは採血も診察もなかったが、これから採血。その行列にもびっくり。

 食事は相変わらず吐くばかり。コンビニで買った小さなインスタントうどんが二口、三口で食べられなくなり、しばらくすると噎せて嘔吐する。食欲はあるのである。しかし、胃が拒否するのだ。処方された栄養剤だけがたよりの状態が依然続いている。

 採血は8cc。これから放射線科に移動する。

| | コメント (0)

2020年1月14日 (火)

ゆで蛙

 茹で蛙と漢字にすると少しイメージが湧くかもしれない。今朝の東京新聞朝刊のコラムで鎌田慧氏が若者たちの政治への無関心に警告している。軽妙な喩えで現実は軽妙というわけにはいかない。現政権への抵抗は70歳から80歳代の人々が多いという。アカショウビンはその手前の年代だが彼等に熱く共感する。先日、小林正樹監督の『人間の條件』の最終巻を観た。先の大戦の悲劇と愚劣を小林正樹は一人の兵士として体験した経験を作品に描いた。一年に二作ずつ、三年かけた大作である。これを熟視すればタイトルが問いかけるテーマに誰しも立ち止まり熟考せざるをえないだろう。

| | コメント (0)

晩年のスタイル

 昨日、DVD録画機に録画されていた番組を再生していて「笑点」の司会を長年務めた歌丸師の特番があったので感慨深く観た。司会を降りてからの高座の姿もキャメラは追っている。80歳というから亡くなる前年の映像である。移動は車椅子。寄席に到着しても酸素吸入の器械をお供にしなければならない状態。「笑点」の司会も緊急入院で休むこともあった。しかし、奥様や弟子、仲間の噺家たちに支えられて、晩年を昭和、平成の指折りの噺家として円熟して終えた。立派で見事といえる。晩年までの二十年は埋もれていた明治期の名人、三遊亭円朝の噺を果敢に取り上げていたことを仲間の噺家達が畏敬の面持ちで話していた。円朝は志ん生、円生も別格視する落語史上の大名人である。その作品に歌丸師は人並み以上の思いがあったのだろう。その意気や好し。アカショウビンも久しぶりに円朝モノを聴いてみようと思う。

 表題は歌丸師の事というわけではない。断続的に読み続けているパレスチナ人の思想家、エドワード・W・サイードの著書のタイトルである。イスラエルのシオニズムに対し痛烈な論陣を張った思想家は、師のアドルノゆずりの音楽愛好家でもあった。その著書の内容は偉大な音楽家たちの晩年の作品に光をあてたものだ。ベートーヴェンの晩年の作品には典型的に楽聖が到達した境地が残されている。アカショウビンも若いころから、繰り返し聴き続けてきた。今年は生誕250年である。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートでも初めて恒例のウィンナワルツ以外のベートーヴェン作品が奏された。昨年は第九の幾つかの録音を聴いたが、晩年の作品も改めて聴いていきたい。

| | コメント (0)

2020年1月10日 (金)

共棲と転換

 夜勤明けで通院した。放射線治療の4回目。終わってから診察してくれたのは女医のS医師ではなく男医(こういうしかない)のM医師。こちらの病歴を説明するなかで初めて知ったのは、今回の患部が下咽頭ではなく喉頭という事だ。食事が摂れないのに対処するに胃瘻の必要まで話した。そのため手術、入院の可能性もあるという。こちらは放射線治療が終わってから新たに考えようと構えていたら、そんな悠長な事態ではないようだ。そうなのか、それならこちらも対応を変え、鶴見和子の説く〈自己改造〉の行動に移らなければならぬ。新たな経験が始まるのだ。単に受容するのではなく、自らはたらきかける。これなのだ。自らの姿、体調(先に紹介した天野正子によるとこの語彙は広辞苑の三版から記載された比較的新しいものという)、病は老いを促進し我が身を苛むが、これを新たな経験の生成として捉え対処する。ガンと闘うのではなく共棲し付き合う、そういう視点の転換の時なのだ。


| | コメント (0)

2020年1月 9日 (木)

初仕事

 何と今夜の夜勤が初仕事となる。通院治療で昼間の勤務ができなくなりやむなく。それも夜勤の仕事は少ないと言われ雨などもあり二日なかった。という訳できょうが初仕事となった次第。ともかく都内の現場へ。

 先日は同世代で今の仕事に就く前の物流センターのピッキングの仕事で一緒になったKさんから電話があり入院中だと言う。アカショウビンも知っている物流センターの現場で落下事故により右足の付け根を骨折したらしい。三週間の入院という。幸い労災保険はおりるらしいが災難だ。もともとKさんは足が悪く仲間も気を遣っていた。下層労働の現場は三Kである。きつい、汚い、危険なのだ。幸いKさんは、きょう退院するとメールが入った。

| | コメント (0)

自己改造

 先の天野の著書には幕末を生きた野村望東尼の生き方に注目した鶴見和子の考察も紹介されている。女性の社会活動を鶴見は野村の生き方を介し自己改造と捉える。その具体的な行動は次の通りである。

 第一に、いま、自分が身をおいている地位にふりあてられた既成の役割にそのまま従おうとせず、自分で役割を再定義し、その役割を実際に自ら演じていく。

 第二に、過去に自分が果たしていた役割と、現在自分が果たしている役割との間に、変化をつくりだすことである。第一は、個人による既成の社会規範の作り変えを、第二は、個人の異なる時点における価値、考え方、行動の型のつくりかえを意味している。(同書p76)。

 以上の鶴見の提言は、そのままアカショウビンの現在の生と生き方への的確なアドバイスとなる。

| | コメント (0)

世阿弥の洞察

 先のブログの表題について補足しておく。引用した箇所は次の著作。『老いヘのまなざし』(天野正子著 2006年12月11日 平凡社ライブラリー) 副題は〈日本近代は何を見失ったか〉。著者は宮本常一やキューブラー・ロスの論考、言説を引き〈老い〉を考察していく。世阿弥の能楽論『花伝書』に先の歌があり、著者は人間の一生を花のそれから推せよと説くのだ。〈花の萎れたらんこそおもしろけれ〉。アカショウビンなりに解釈すれば次のようになる。

 人が老い、体力が衰え、やがて死ぬ過程をそのままに受け入れ、興味深く眺め、味わい、死に至れ。

| | コメント (0)

治療3回目

 きょうは放射線の前にMRI検査。未明に団地をバイクで出発。電車を乗り継ぎ早めに来て待機中。きのうは治療終了後図書館ヘ本の返却ヘ。途中雨が強く降り傘を買うため100円ショップを探したが見つからず。コンビニは700円もするのだ。しかし、昼過ぎには青空が拡がった。

 今朝も良い天気だ。昨夜は借りてきた喜劇駅前シリーズを観て夜更かし。このヒットシリーズの18作目『喜劇駅前満貫』の佐伯幸三監督は12本目で最後の出番。脚本は藤本義一。なかなか面白いストーリー展開だ。以前に観たが物語は忘れている。伴淳(伴 淳三郎)、森繁久彌、フランキー堺のアドリブもなかなか。少し脱線するのは仕方ない。

 MRI検査終了。約20分。この病院でのMRIはやったことがあるのか覚えてない。やったとすれば三年前の外科手術のあとか。簡易ベッドに仰向けになり磁気を発する機器が体内を撮影していく。大きな音をヘッドフォンでBGMを流し緩和する。着替えて今度は放射線治療室ヘ。時刻は9時すぎ。

 待合室のテレビはイラクの米国ヘのミサイルでの報復攻撃をここぞとばかりに報じている。世界は紛争が絶えない。私は病気治療で毎日病院通いだ。これが現在である。その関係は如何に繋がっているのか。とにかく食事がふつうに出来ることが優先される。しかし、これがこの二ヶ月ままならない。果たしてこの現状は回復、改善されるのか。目安は後遺症が出てくる10回目以降だ。それまで食の工夫だ。

| | コメント (0)

2020年1月 8日 (水)

人間の条件とは何か

 若い頃に観て衝撃を受けた映画の一つに小林正樹監督の『人間の條件』全六部がある。原作は五味川純平。先の大戦の中国戦線での日本軍の姿と日本人男女の愛憎を軸に戦争の事実を介して日中二つの国家の相剋を描いた大作である。アカショウビンは、内田吐夢監督の『宮本武蔵』と共に、その後も繰り返し観て監督の力量と内容の痛烈さに刮目する。

 昨年、友人とのメールでラストシーンが話題になり最後の巻を観て今年最初から観直した。戦争の極限状態で生きる苛烈と残酷を監督は容赦なく描く。初年兵虐めでアカ(共産主義者)と主人公の梶を罵り、痛めつける古年兵たち。ソ連軍との戦闘で無惨に負け、逃げ回る関東軍や梶たち。小林監督は一人の兵士として自ら体験した戦争の無惨を映像化する。その基本姿勢はリアリズムという手法だろう。原作の行間あるいは背景にあるものをリアルに描く。それが見る者を挑発、啓発するのだ。主人公の理想と正義感は戦争という現実のなかで翻弄される。逃避行のなかの極限状況で人間が人間であるための条件を監督は観客に問う。

 同じ問いを立て哲学、思想の領域で展開したのがハンナ・アーレントである。それは、アカショウビンも他著作も併せて読み続けている。古今、洋の東西で、この大きなテーマには様々な回答がされてきただろう。それを現在に改めて試みることは日々の日常に倦むことを許さない。アカショウビンの毎日の通院治療のなかでヘタれることなく活力をもたらすのはそのような思索、考察である。小林作品は改めて最終巻を観て新たに感想を書いておきたい。

| | コメント (0)

治療2回目

 朝の築地市場は観光客も少なく静かだ。雨模様の天候のせいもあるのだろう。待合室には三人だけ。10時以降に増える、ときのう説明を受けたが納得。治療室にはリニアックと表示されている。直線加速器付きという説明で米国の大半の病院で採用されているという。初回のきのうのみ午後の治療で夜勤の仕事も雨で中止。寄り道もせず帰り、レンタルDVDで東宝の『喜劇 駅前シリーズ』を二本観た。鬱屈した気分をいなすには笑いが不可欠。気分はいくらか晴れたが束の間でもある。残り少ない持ち時間を有効に使うには工夫がいる。映画もそうだが、生活のなかに現在の現実を受容するための。食事も栄養剤だけでは限界がある。体重は胃ガンの手術後の43kgまで落ちている。二日に銭湯の朝風呂に行った時に計り愕然。肋骨の浮いた己の姿は、おこがましいが、日本版ガンジーである。待合室のテレビでは、おいしそうな料理番組を放映している。昨夜の駅前シリーズ''『駅前茶釜』(久松静児監督)では伴淳演ずる和尚と森繁久彌、ブランキー堺コンビが狸汁(実は犬鍋)をおいしそうに食べていて可笑しかった。しかし、こちらは食べられない。あー情けなや、情けなや、である。

 治療後の診察も済んだ。若い女医のS生活は点滴を薦めたが口から飲めるのだからとお断りした。明日はMRI検査もある。

| | コメント (0)

2020年1月 7日 (火)

新年の寿ぎ

 きのうの東京新聞“筆洗氏が引用している子規の歌は〈あら玉の年のはじめのななくさを籠に植えて来し病めるわがため〉。『墨汁一滴』からの引用である。七草粥など久しく食していない。昨年後半から、そもそも食事がふつうにできない。寝たきりの子規の病に比べればアカショウビンは通院治療である。これからはともかく、現在は身体が動く。であれば、やるべき事をやるだけだ。粛々と。明日から毎日、病院通いになる。間の時間を有効に有意義に過ごさねばならぬ。取り敢えず、読み差しの本を読み継ぎ、映画を観る。今年はベートーヴェン・イヤーらしいからベートーヴェン作品にも集中する。とにかく、そこから継続し冥土への旅支度だ。

| | コメント (0)

花の萎れたらんこそおもしろけれ

 新年も明けて7日。東京新聞の“筆洗”氏は子規の話と七草にちなむ歌を引いている。もう一週間過ぎたのだ。暮れからきょうまで仕事なく過ごした。これでは生活が成り立たない。生活保護の申請も用意している。2日には近くの銭湯で初風呂に入り身も心もさっぱりした。銭湯など大阪に棲んだころ以来だ。

 それはともかく、生活を新たに立て直さねばならぬ。きのうは会社の新人研修会。講習と警備における旗の振りかたの再訓練である。我流ではいけないのだ。二人の講師に半年ぶりに基本動作を徹底される。身体に叩き込む。芸事でも仕事でもこれが肝要なのだ。それで何か新たな自分が出来上がる。

 きょうは、これから放射線治療の初日だ。治療の経過は逐次書いていくので何かの参考になれば、と思う。表題は現在読んでいる本で引用している世阿弥の言葉。その感想も併せて書いていきたい。

 いま治療が終わり待合室に戻ってきた。実際の照射は3分あまりか。仰向けになり、顔の位置を合わすのに時間をかけた。痛みはまったくない。毎日25回の治療が終わってからあれこれ副作用のような影響が出てくるという説明は前回聞いた。きょう改めて訊ねると10回目くらいから出てくるという。治療機器はバリアン・メディカル社。米国製である。ともかく、治療後に食事がふつうにとれるかどうか。それが次のステップだ。

| | コメント (0)

2020年1月 2日 (木)

ニューイヤー・コンサート

 ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートは毎年の楽しみだ。ただ一昨年からテレビ配線が断線。そのまま修繕せずテレビなしの生活できた。情報は新聞のみ。それでも不都合なし。却って余計な情報が入らず、いかにテレビに毒された生活をしていたかよくわかった。

 それはともかく、テレビ録画は友人に頼み今年はラジカセでのニューイヤー・コンサートとなった。指揮者は未知の人だ。解説によると昨年亡くなったマリス・ヤンソンスのお弟子さんで同郷のラトビアの人らしい。途中からだったが雑音交じりのラジカセの音に集中した。すると何とベートーヴェンの聞き慣れた旋律が奏でられるではないか。英雄交響曲の一節だ。解説ではニューイヤー・コンサートの歴史でも初めてという。何でも今年はベートーヴェン・イヤーらしい。生誕250年か。それは納得。昨年暮れの近藤伸子さんのピアノ・リサイタルもそれを意識されていたのかもしれない。アカショウビンも昨年から今年にかけてベートーヴェンのピアノ・ソナタは手持ちのCDであれこれ聴いた。その面白さは改めてベートーヴェンの音楽と音楽とは何か、という問いに立ち返る。

 そこで昨年から読み出したアドルノのベートーヴェン研究にも眼を通し、ベートーヴェンの作品と時代、それがもたらす意味についても思考を促される。哲学と音楽。この関係と関連を思考するアドルノの論考は難解だが魅力あふれる考察だ。論理的で構築的なベートーヴェンの作品をアドルノはカント哲学よりヘーゲル哲学に近いという。音楽で哲学したとも思えるベートーヴェンの音楽に残されたものに近づこうとするアドルノの思考はスリリングだ。しかし何より作品を聴くに如かず。アドルノを読めばベートーヴェンの作品が新たな光芒を放ち聴こえてもくる。

 ニューイヤー・コンサートにほだされて衝動的に2002年のDVDを取り出した。小澤征爾が登場した年だ。改めて観て小澤の気迫と気合の入りかたに感じ入る。病で苦闘する前の小澤の円熟の芸にウィーン・フィルのメンバーも渾身の演奏で応えている。それは今年早々の眼福、耳福というものだ。改めて音楽の力に驚き喝を入れられた。

| | コメント (0)

« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »