先日来、マリア・カラスの録音を聴き続け、好みは分かれるだろうが、その声の卓越性というものには、やはり驚愕せざるをえない。それは才能というものに基づくといえど、それが教師たちに導かれ、鍛え抜かれることによってしか到達できない領域があることを私たちに示し、明らかにする、といえる。それは洋の東西南北を問わないだろう。そしてジャンルをも。オペラという分野が西洋で発展し、私たちは東洋の島国で、それに出会うことが出来る。それは偶然であり必然でもある体験といえる。アカショウビンの場合もそうであり、多くの人々にとっても、そういう体験として経験されるのではないか。カラスの声が多くの人々に理解され、体験されるとは限らない。しかし、それと似た体験を介すれば、人間という生き物には、それが共有できると思われる。そうでなければ、人間の共通体験という事はありえない。
卓越する、卓越性、という概念に添えば、それはそのように理解できるのではないだろうか。アカショウビンが偏愛する歌い手たちも、そのようなものとして身体に響くのである。テバルディ然り、中島みゆき然り、美空ひばり、や多くの国民歌手という存在も正しくそうであると確信する。衆に卓越した声として、それは人間達に共振すると言える。卓越したもの、あるいは現象は声に限らない。すべての人間に生起する現象、経験、体験、としてそれは生ずる。
たとえば、それは政治という領域でも、或る人間に、個人に出現する。それはまた、別の主題として論じなければならない主題だが、共通する事象は、卓越するとは、どういう事なのか、という問いになる。それはまた、誤解を恐れずに言えば、善悪という西洋的な概念で表出される二項対立を超える。それを西洋の哲学者、思想家たちは超越という概念で展開した。それは東洋でも異なる形と思索として展開されているだろう。その共通する、思索が人間たちに共鳴、共振として現実化する。私たちは、そのような時空間に存在する生き物ということもできる。
マリア・カラスの録音された声に集中してその何たるかを聴け何か、貴重なもの、それは或る時空間を切り取った哲学用語を使えば〝実在〟に遭遇するように思える。そこには無限の、人間に対する敬意・思慕・尊崇という感情が湧き起こるのを如何ともし難い。それは、アカショウビンだけの体験・経験とも思えない。先ごろからアカショウビンの偏愛するイタリアの歌い手(メゾ・ソプラノ)、フィオレンツァ・コッソットが、トゥリオ・セラフィンの指揮で1959年に録音したヴェルディの『レクイエム』をローマ・オペラハウス、合唱団と録音した録音を聴いて飽きない。ソリストたちはイタリア人だけでない。バスはボリス・クリストフ、恐らくロシア人だろう。ソプラノはシェイカー・ヴァーテニシアン、テノールはエウゲーニオ・フェルナンディという面々である。別な録音では、カラヤンがミラノ・スカラ座を振った映像と録音をかつて聴いた。お目当てはコッソットだが、髯をきれいに剃った若きパバッロッティも参加していた。バスは美声でロシアのバス歌手を代表するといってもよいニコライ・ギャウロフである。スカラ座が総力を結集した録音と思われる。しかし、作品の魂とでもいうものはセラフィン盤にアカショウビンは聴き取られる。作品の構造、ソリストの配置、録音の加工は総合的に組み立てられなければならない。声の卓越性は国境を越え、それを実現しようと総力が必要である。完璧を目指しても評価はそれぞれだ。しかし、オペラという総合芸術は無数の音楽家たちがそれに挑戦する。それは現在でも同じだ。小澤征爾も師のカラヤンから若き頃にオペラを振ることを薦められ初めてオペラの面白さに憑かれた人の一人といえる。
イタリアのベルカントというジャンルでヴェルディらの作曲者たちの作品で頂点に達したと思われる。プッチーニの作品は日本、米国を舞台にし世界中のファンに愛されている。それは再生芸術、録音という近代技術を介したものであっても、人間が到達した時空間に存在している。その幸いは仏教的にいえば〝娑婆世界〟での貴重な体験・経験として届くのである。それは幻聴かもしれない。しかし、その声はアカショウビンにとって、繰り返し聴くに値する恩寵ともなる。
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