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2019年10月31日 (木)

忍野行

 都内から富士の裾野の忍野(おしの)村の別荘ヘの運転手を仰せつかる。二年ぶりか。マダム・Wも二頭の犬たちも自然のなかで遊び悦んでいる。二頭とも老犬で一頭は人間の年齢なら百歳。足腰は、この二年で、かわいそうなほど衰えている。とはいえ自然の中に身をおくと、犬たちもマダム・Wもアカショウビンも清々しい空気が何よりの活性化をもたらしてくれる。日々の路上警備の仕事からすれば格好の気分転換だ。途中の高速道路も久しぶりの運転だが無事に終えられた。

 先週、掃除も済ませた別荘は、前回来た時の蜂や蝿の死骸がトラウマのように思い出されたが、本日は先週ご家族で来られて、きれいになっている。マダム・Wもアカショウビンも歳をとるごとに友人、知人の逝去、訃報が増える。アカショウビンも残り少ない持ち時間を大事に使いたい。きょうの遠出は貴重な時との遭遇である。これで好い冥土の土産になります、と話すと、またか、と呆れながらカラカラと笑った。

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2019年10月30日 (水)

建設工事の現場

 きょうで三日間、仕事にはありつけた。きのうは雨で氷雨に震えながらも何とか凌いだ。ところが夜の飯が喉を通らない。全部嘔吐する。異常である。喉、食道に異変が生じているのだろう。近いうちに築地のガン・センターに行かねばなるまい。先日は治療したばかりの歯も取れた。また、入院、手術では経済的に成り立たない。この数年、経済的には、土壇場の正念場という状況だ。友人たちの好意と憐れみで凌げたのは死ぬ前に返済、決済しておかねばならぬ。その為にも日銭を稼ぎ生活を立て直すのだ。 

 先日は高校の旧友たちと久しぶりの飲み会。大阪や下関からも来て賑やかだった。しかし病を抱えている面子も歳とともに抵抗力がなくなる。大阪から参加したT君は7月に肝臓ガンをカテーテル手術したがいたって元気。取り残したガンを再手術すると笑いながら話した。アカショウビンと同じ頃に膀胱ガンを手術し、その後再発で膀胱を全摘した千葉のT君は、スケッチ画に多くのファンから注文が殺到。嬉しい悲鳴というご様子。飲み会でも参加者に作品を配っていた。ガンなどどこ吹く風という元気さだ。後で知ったが、その日はご長男に初孫が誕生。SNSで写真とおめでとうコールで溢れていた。

 病自慢でもなかろうが、元気な皆さんにはわからぬ現実がしかしあるのだ。それは話題にはしたくともならない。それは奇妙な忖度の如きものにアカショウビンには思えるのだが。

 新宿の料亭には14人集まり、土佐料理を堪能した。アカショウビンも、こういう席では何ともなく飲み食いできるのだ。奇妙な事である。しかし、異変は心身とガン細胞からの警告であるのは間違いない。

 明日は先年、ハウス・シェアして一年暮らしたWさんと愛犬たちを富士の裾野で遊ばせる。幸い、天気にも恵まれそうだ。楽しい旅になれば冥土の土産になるだろう。

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2019年10月25日 (金)

労働の現場

 雨で仕事は中止になるかもしれないが未だ連絡はない。駅まで自転車で行き電車に乗る。

 昨夜はレンタルDVDで久しぶりにセルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』。(1983年)を観た。途中で休憩が入る長尺である。同様のタイトルの西部劇と異なる禁酒法時代の物語で監督は何を描き、何を伝えようとしたのだろうか。冒頭から噴出する暴力か、主人公の恋愛か、アメリカという移民の国の歴史か。そのいずれでもあるだろう。西部劇と比べて物語は少し複雑で脚本も映像も練りに練った跡がわかる。しかし、『ワンス・アボン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト』の仕上がりと比べると納得できない。エンニオ・モリコーネの音楽も前作のほうが後作の抒情より音楽的に物語性がありメリハリがある。アカショウビンはこちらが遥かに優れた作品と思う。もちろん、好みは人それぞれだ。

 それにしても、セルジオ・レオーネというイタリア人が、米国で巨匠と称してもよい地位まで登り詰め、暴力と恋愛、歴史を描いて伝えたかったものとは何だろうか。

 仕事は中止。途中から引き返す。「噺家殺すにゃ刃物はいらぬ、あくび一つで即死する」と落語のまくらや、「土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の十日も降ればよい」といった自虐ネタの顰に倣えば、「警備員殺すにや刃物はいらぬ、雨の三日も降ればよい」だ。即死はしないが、餓死はするかもしれないが。

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2019年10月24日 (木)

ハンナ・アーレントの工作人

 ハンナ・アーレントが思索した、<工作人>という術語がある。それは概念だろうが、人間の歴史と私たちの日常に照らし合わせても興味深い内容を秘めている。それはホモ・ハーベルという語が由来かもしれぬ。人間は道具を使い労力の負担を軽くしてきた歴史は言うまでもない。しかし、その紆余曲折を簡単に纏めることは簡単ではない。それは個々の人間たちの知力を問う。人間は道具の道具を作り知力の成果を展開し現在に至っている。それが人工知能となり<世界>を構成し席巻しているわけだ。チョムスキーの2001年から2002年のインタビューを読むと、その語られる射程は、現在に届き、恐らく未来に至るものだ。そこを考え抜かない限り、私たちは閉塞感からストレスを溜め暴力をふるい戦争を起こし、家庭を壊し、犯罪にも至る。

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2019年10月22日 (火)

屋根の上から大声で叫べ

 表題はノーム・チョムスキーが2001年9月11日の世界貿易センター、国防総省(ペンタゴン)に対する〝テロ攻撃〟に関し発刊した著書『アメリカに報復する資格はない』(山崎 淳訳 文藝春秋社)で訳者に述べたコメントの一部である。その後、同氏にインタビューしたプレイボーイ誌日本版に掲載された辺見 庸氏の記事と共に興味深く読んだ。

 チョムスキー氏は騒然とした米国で数多くのインタビューに答えたものを訳者の山崎氏は全7章で詳細に翻訳した。それを読めば現在の氏の発言を知りたくなる。先日、大学図書館で『チョムスキー、世界を語る』という著作を借りて面白い。それは氏の70歳の頃のインタビューである。2002年に㈱トランスビュー社から田桐正彦氏の翻訳で読める。2001年以来のチョムスキー氏の縦横無尽の語りが生き生きと活写されている。それを読めば言語学者が当時のベトナム反戦運動から90歳近くの現在まで論説、行動、思索を継続しているのを感得する。

 このインタビューはフランスのジャーナリスト達の問いに答えたものだ。それはフランスのジャーナリズムへの痛烈な批判ともなっている。9・11後のチョムスキー氏への非難、批判、同意は推して余りあるものだろう。その一端が、この中に横溢している。

 辺見氏の著作も先日購入し感想を少しアカショウビンもこのブログで書いた。しかし、改めて氏の言動には、現在の世界の現実を介し述べる必要をアカショウビンは痛感する。来年のオリンピックに向け海外からも多くの人々が日本を訪れ日本人たちと交流している。本日は新天皇の即位の儀式がマスコミで報道されるだろう。テレビが観られないアカショウビンにとっては新聞報道が頼みだが、関連書籍にもあたりながら感想を書いていく。

 先日は小伝馬町で毎年開催されている寶田恵比寿神社の「べったら市」に行って来た。以前は三日間行われていたのが今年は19日、20日の二日のみ。アカショウビンは初日の午後5時過ぎ、アルバイトの帰りに友人二人と会う前と後に一回りした。それにしても低調な人の出だった。テキヤさんたちも仲間同士で飲み食いしていた。なかなか稼ぎにはならないだろう。それでも家族や仲間たちと飲みながら話に花を咲かせている様子を眺めるのは悦ばしい限り。これから年末・年始に向け此の国はオリンピック狂想曲が巷に溢れることだろう。その一端でアカショウビンも何か書いていく。本日の仕事は祝日のためありつけなかった。その間はCDやDVD、読書で過ごす。

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映画三本立て

 映画産業が最盛期のころは三本立てといった興行もされていただろう。以降の衰退期を経てどん底から映画界が少し復興したのはこの10年くらいだろうか。レンタルDVDで過去の名作や未見の作品も観られるようになった。映画ファンにとって悦ばしい限りだ。アカショウビンもこの約10年、その恩恵を享受している。先日からは幾つか観たが凡作、秀作、駄作、佳作に改めて出会う。その中から秀作を三本挙げよう。

  先ずは『日本女侠伝 鉄火芸者』(山下耕作監督)。これは眼の覚めるような秀作である。10年前にヤクザ・侠客映画を集中して観ていた頃に観ている。その頃は、マキノ正博(何度か改名しているが)監督作品を中心に深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズも観た。そのなかで山下監督も数本観た筈だ。しかし改めて観て、この作品は間違いなくヤクザ・任侠映画の傑作・秀作のひとつと言える。主演は藤 純子。現在は冨士純子さんだが、この女優のもっとも美しいときを山下監督は映像に残してくれた。この作品は映画スターの、特に女優のオーラを見せつける。演出も周到を極める意志が伝わる。菅原文太も助演をわきまえ、寡黙で実直一途な男を演じている。高倉 健とは異なる任侠の男を演じて見事だ。山下監督はその後もスターとなった藤 純子を主演に緋牡丹シリーズを撮っているが、その中でも、この作品は出色の出来と確信する。物語は昔の深川芸者の心意気を描いたものだ。その芸者たちと旦那、周辺の人間模様を描いて見事。そこで浮かび上がり、沈んでいく善人や悪人、政治家や政治屋がいる。そのシガラミを山下監督は丹念に描き緊張感を造型していく。脇役たちも熱演だ。その後、有名を馳せた俳優もいれば映画界から去っていった人もいるだろう。それが秀作の映像として残っている。それを懐かしむ元俳優もいるだろう。アニメ全盛の此の国で若い人たちにも是非観て頂きたい作品だ。藤 純子こと冨士純子さんの近年の御姿は『フラガール』で拝見した。かつての女侠客が歳を経て見事な風格と貫録を醸しだしていた。

 二本目は『タバコ・ロード』。名匠ジョンフォード監督の1941年公開作品である。生涯136本の映画を撮った監督の佳作といえる。西部劇監督として印象が強いけれども、作品は多岐にわたる。戦記ものからコメディ、人情ものまでアカショウビンもその一部しか観ていない。先日は久しぶりに名作の誉れ高い『荒野の決闘』を観た。これも改めて観て、幾つかのかの忘れていたカットを改めて堪能した。名作の名作たる豊饒さゆえである。保安官・ワイアット・アープは米国で語り継がれる西部劇のヒーローなのだろう。それはともかく。この作品は西部劇の監督としての印象を覆させる作品の一つだろう。ここにヒーローはいない。開拓期の農夫たちの菅田、生き方が面白可笑しく描かれているだけだ。しかし、そこには人の好いアメリカ人たちがいる。1941年といえば戦争中である。監督も参加し戦火のなかで映画を撮り続けていた。ミッドウェイ海戦では日本の戦闘機の爆弾の破片で傷ついたとも伝えられている。太平洋だけでなく、大西洋にも従軍したらしい。日本に関連しては『硫黄島』をジョン・ウエインを主役に撮っている。これは出来の良い作品とは思えない。しかし、日本人として観ておいて損のない戦争映画ではある。優れた監督というのはドキュメンタリー映像を元に物語として軽々と描きあげる才能をもっていなければならないと思うからだ。それは日本映画で新藤兼人監督にもいえる事だ。新藤監督の晩年の秀作がジョン・フォードにもあるだろう。それは次回の楽しみだ。

 三本目は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト』。かつては『ウエスタン』という邦題で公開されていた。先月から都内でオリジナル版なるものが公開されている。アカショウビンは友人から招待券を戴き新宿の劇場で観た。平日だったがかなりの入りだったのには驚いた。この作品は公開当時に観た。その後、何度か都内の劇場でもDVDでも観ている。久しぶりに観て感銘新ただった。マカロニ・ウエスタンで一世を風靡したセルジオ・レオーネ監督が本場アメリカの西部で大掛かりなロケーションを敢行し仕上げた傑作だ。友人の感想を聞いたらにべもなかった。しかしアカショウビンにとって、この作品は数ある西部劇作品のなかで出色の傑作と思う。それは、俳優たちの配役と何よりエンニオ・モリコーネの音楽が素晴らしいからだ。巷では決闘交響曲とも称されているらしい。それほど緊張感と哀切な旋律が心に沁みる。俳優では何よりヘンリー・フォンダが素晴らしい。それまでジョン・フォード作品はじめ、善良なアメリカ人を演じてきた名優をセルジオ・レオーネは何と悪役として登場させるのだ。これは善良な保守的米国市民には眉を顰めさせるだろう。しかし、セルジオ・レオーネはこの名優の芸域をこの作品で見事に拡げた。それは主演のチャールズ・ブロンソンを食っていることでも明らかだ。物語は開拓期の大陸横断鉄道を敷設するなかでの人間たちの確執を基調にしている。女優ではイタリアからクラウディア・カルディナーレが参加している。この紅一点は山下監督の藤 純子にも相当するだろう。それは、このイタリアの名女優へのオマージュが感得できるからだ。245分の長尺だが冒頭からの緊張感はラストまで持続されている。マカロニ・ウエスタンで習熟した演出力が見事に新たに開花していると言ってよい。視線の動きの細やかな演出、瞳のクローズ・アップなどがその一例だ。ジョン。フォード監督作品に描かれる西部の風景をセルジオ・レオーネもしっかり映像に取り入れている。そのロング・ショットが作品に深い味わいとして描かれる。それは西部劇ファンにとって溜息のでる見事さである。アカショウビンにとってはイタリア・米国の西部劇というジャンルの集大成といってもよい。チラシでクエンティン・タランティーノ監督が「この作品を観て映画監督になろうと思った」というコメントも納得する。同監督は近作の『ジャンゴ』でマカロニ・ウエスタンへのオマージュを作品にしたからだ。その作品も多くの人に観て頂きたい秀作だ。そこには黒人差別の負の歴史も監督が見事に描いている。そこから米国の奴隷制度という凄まじい歴史事実を、この白人監督は容赦なく描いている。それは新たに現在の米国の現実にも視線を向けることを促す。それはまた別のテーマとなる。

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2019年10月18日 (金)

1949年、ナポリのカラス

 先日、図書館に借りていた本を返しに行ったついでに中古店で不満なCDとDVDを売り、幾つかのCDを買った。その中にカラスが歌っているヴェルディの『ナブッコ』があり夜中に聴いた。ライブ録音で音は劣悪だが、観客の熱狂ぶりは尋常ではない。イタリア人気質とでもいう感情がよくわかる。何と演奏の途中、聴衆の歓呼で同じ合唱が繰り返し演奏されるのだ。カラスの歌唱にも聴衆は歓呼の声を挙げる。何と正直に聴衆は感動を伝える人々であろう。それはイタリア人気質というものなのだろうか。その演奏会が際だって傑出していたのだろうか、そのいずれであるのかもしれない。作品もイタリア人には格別なのだろう。アカショウビンもヴェルディ作品の中で『レクイエム』と共に偏愛する作品だ。優れたライブはジャンルを問わない。前に集中して聴いたクィーンやローリング・ストーンズのライブでも同じようなものだ。しかし、マリア・カラスという歌姫が、このような歓呼と熱狂を経て世界の大スターへと上りつめていった途上の記録を確認できたことは何とも悦ばしい限りである。

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2019年10月17日 (木)

連携の可能性

 雨が降れば仕事はなくなる。降らなくても施工業者の都合で仕事はなくなる。きょう、明日も仕事はない。それが下層労働の現実だ。それなら、CDとレンタルDVD、読書で過ごす。先日から読み続けている、エドワード・W・サイードの『パレスチナ問題2004年 みすず書房 杉田英明訳)が実に面白い。中東の複雑な歴史、現実をサイードは精密、緻密に辿り告発する。欧米を支配するに至った現在のユダヤ人支配に彼は一人のアラブパレスチナ人として論陣を張る。その意気や好し。既に亡くなったけれども論考は後に続く者たちを鼓舞し行動を促す。アカショウビンも持ち時間の少ない時をそれに費やしたい衝動に駆られるのだ。

 それは洋の東西で連携、連帯の可能性を模索し行動に赴く意識を活性化する。日銭を稼ぐ日常の中で、それは行わなければならぬアクションである。ハンナ・アーレントの論考もそれに共振する。ユダヤ人・アーレントの思索もサイードに共闘の可能性を模索させたに違いない。サイードはアーレントの主著に刺激されているからだ。全体主義という西洋を席巻した先の大戦の分析をサイードは更に後を継ぎ戦後の現実に敷衍し論陣を張った。それに私たち日本人も加わらねばならない。

 それは差別構造の超克への思索、行動となる。先ず日本では現政権への否定の声として噴き上がる。先の若者たちの行動は現在どのように継続されているのか。それを見極める前に我々中高年、高齢者たちが立ち上がらなければならぬ。松蔭寅次郎の草莽決起は我々が受け継がねばならない。世界史の中で我々日本人は超高齢化社会という未曾有の現実の中で世界に先駆け行動に移さなければならない。 

 余力を消耗する日常でアカショウビンも力を奮い起こそう。明日は無職の時を有効に活用しよう。残された少ない時を無駄にはできない。万国の老人たちよ立ち上がれ、雄叫びを挙げよ。

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2019年10月15日 (火)

日々の労働

 きのうは、世田谷区弦巻の現場。きょうは、狛江市岩戸北の現場である。日銭を稼ぐ毎日に祝日は単なる休む日とはならない。仕事がなければ日銭が稼げない生活を不安にさせる単なる無給日なのだ。 

 きょうは、一般紙は休刊、何年ぶりかでスポーツ新聞を買った。アカショウビンがかつて購読していた毎日新聞のグループ会社、スポニチで将棋欄を見ようとしたら無い。以前は王将戦の棋譜が掲載されていた。王将戦はかつてのトップ棋士たちが死闘を繰り広げたタイトル戦である。アカショウビンもワクワクして棋譜を辿り、追い、楽しみと棋力向上の道具とした。愛読していた週間将棋も何年か前、入院中に廃刊となった。もちろんネットでは情報は見られる。しかし、新聞という紙媒体に慣れたアカショウビンにはネットの仮想空間を渉猟するのはまた異なる場なのである。しかし、その差異に胡乱では、過去と現在、将来、未来を接続し、生きることは不可能といってもよい。それはまた別のテーマで論じ考察、思索しなければならない。

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2019年10月12日 (土)

危急存亡の自然の猛威

 友人たちに連絡を取ったら、それぞれだが、命の危機を先ず守れというラジオのアナウンサーが伝えている。こちらの近くの川は水位の上昇で避難勧告が発令されている。被害は時々刻々増大するだろう。アカショウビンが棲んでいる団地は平穏だが近隣はパニック状態になっているかもしれない。正に前代未聞の災禍が人々を襲っている。日本を訪れている外国の観光客たちも驚愕しているに違いない。自然の猛威は所を選ばない。その現実が日本の首都周辺を襲っている。強かった雨も今はこちらで小康状態だ。しかし一夜明ければ惨状が次々に明るみに晒されるだろう。最小の被害を祈るばかりだ。

 きのうはアルバイト仕事にありつけた。雨もたいしたことがなく手持ちの薄い合羽で凌げた。きょうの仕事も打診したら全てキャンセル。おかけで日銭は入らないが、仕方ない。骨休みのつもりで、レンタルDVDやCDを観聴いて一時の休息を過ごしている。食料を調達にいこうとしたら近くのスーパーは閉まり、コンビニも営業していない。冷蔵庫の残り物で凌ぐしかない。

 昨夜から観た映画は、それより過酷な先の大戦の作品だ。『人間の条件』全六部の最後の一本である。主人公の仲代達矢演じる梶の渾身の生きざまと死にざまが胸を打つ。それは戦争の中で生き死んだ男の姿だ。これを観れば戦後日本の繁栄は、いかなる人々の生死の後に謳歌されたのかに暫し留まる。小林正樹監督が五味川純平の原作を映画化した作品は全編約9時間半の超大作である。公開当時、年に二本ずつ上映されたらしい。特典映像で映画評論家佐藤忠男が仲代にインタビューしている。そこで撮影の裏話が仲代によって語られる。この作品をアカショウビンは学生時代に池袋の文芸坐で観て以来、大阪に棲んでいたころレンタルDVDで観直した。以来、約10年ぶりで最後の最終巻をみたのである。その感想も書かねばならない。明日は台風も抜けているだろう。店もぼちぼち開けてくるだろう。市街地まで行き、現状を確認したい。

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2019年10月 8日 (火)

不可思議な映画

 ネットのミク友さんの紹介で『ハイ・ライフ』という作品を昨夜観た。何とも重苦しい内容である。ミク友さんは、メキシコに住む日本語教師の方で、日本のレンタルショップに有るかどうか探してみたら、あったというわけだ。何と最新作である。

 監督の名前は聞いたこともあって、興味があったのは、出演者でジュリエット・ビノシュの名があったからでもある。ネットで調べたら、監督はクレール・ドゥニ。フランスの女性である。記憶の片隅にあったのは、出世作『ショコラ』を観ていたからだ。主演がジュリエット・ビノシュ。ボーナス映像のインタビューによると、それ以来の出演らしい。それにしても今作はSFである。

 何とも風変わりな物語をフラッシュ・バックを多用しているので約2時間を集中して観るのは体調と物語の展開についていく関心の程度による。全体のテンポは遅い。それはロシアのタルコフスキー作品も影響しているように思える。 

 何といったらいいのか、ニヒリズムというかシニシズムという用語が先ず作品の全体を支配しているように思えた。今やSF映画の古典になっているようにも思える『2001年宇宙の旅』からすると、この作品が現在のSF映画の到達点の一つには違いない。それは、私たちが棲む、この地球という惑星の現在と未来を監督は視野に入れていると実感するからだ。幾つかのカットには女性ならではの繊細さも強い印象を与える。しかし、『2001年宇宙の旅』の解放感というのか、宇宙空間を介して観客が体験する未来への可能性を帯びた希望というようなものは、この作品にはない。

 冒頭のシーンはくすんだ色の植物群だ。そこから赤ん坊の姿、若い父親と思しき男が宇宙船の外で作業をしながら、無線で赤ん坊の声と遣り取りしている。SF映画の冒頭シーンとしてはアカショウビンは意表を突かれた。観終えて振り返ると、この二つのシーンに、この作品の主題の二つが描かれているともいえる。それは、植物と人間の共生というテーマと人口受精で産ませた子供と両親の育てかたの一つの映像表現と行き着く先の希望と絶望というように集約してもいいだろう。いずれにしても作品を観てそれぞれが思索する切っ掛けとなるには違いない。

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2019年10月 6日 (日)

二人の卓越した声の追悼

 ジェシー・ノーマンと佐藤しのぶの訃報を知った。卓越した声がまた此の世を去った。ジェシー・ノーマンの声の非凡さというより圧倒的な存在感は小澤征爾がフランス国立管弦楽団を指揮した1988年にパリで10日間かけて録音した『カルメン』のメイキング映像と共にCDで繰り返し聴いて飽きない。さきほどハイライト盤を聴き偲んだ。フランス音楽界の総力を挙げて取り組んだと思われる。その前に日本での『カルメン』で小澤は、この作品に習熟した筈だ。その成果を本場のオーケストラとソリストたちと時間をかけ記録に残した。それを聴き見すれば、作品の見事さと再生芸術という世界で展開される声と姿に強くこちらの精神と五感を励起させられる。続けて、小澤とサイトウ・キネンオーケストラが、松本で取り組んだ1992年のストラヴィンスキーの『エディプス王』をDVDで観た。ソリストも演出も総力を結集した感が伝わる舞台だ。ソポクレスの悲劇が新たな相貌を帯びて表現されている。そこに登場するジェシー・ノーマンは正にディーヴァである。私たちはもう生の歌は聴けないけれども録音・録画で、その声と姿に接することができる。それは幸いなことであろう。しかし、その存在が此の世から去ったことに心から哀悼の意を表したい。

 ジェシー・ノーマンに続き、佐藤しのぶ、の死も伝えられ愕然となった。61歳とは。これから日本のオペラ界の先輩として後輩たちを導く仕事も多かったろうに。先日の山遊亭金太郎師の63歳の死と共に早い死が痛ましい。しかし、寿命は寿命だ。早いも遅いもない。娑婆での生は多くのファンたちが記憶に留め、精神を賦活させるだろう。

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2019年10月 4日 (金)

夜勤の路上警備

 きょうは、昼間の勤務が雨でキャンセルが重なり、夜勤をやってくれというので引き受けた。品川区南大井の現場だ。

 交番で道を訊ねようとしたら若い女が何やらクレームをつけて警官に事情を話している。こちらが待っているのを意に介さず、長々と回りくどい話を終えようとしない。こちらは警官にわかるように女を睨みつけてやった。それを察知した彼は、話を切り上げようとして、「それなら110番に連絡されてもいいですよ」と呆れたような言い方をした。賢い女なら、警官の対応や待っている私に配慮すれば、もっと違った振る舞いができたろうにまったく無神経極まる女だった。

 警官に道を確かめ現場に少し遅れて到着。隊長さん(この仕事はリーダーのことをそう呼ぶのである)から配置を聞き、歩行者、自転車の誘導、案内に就く。きょうは、三ケ所移動するというのでヤレヤレと思っていたら、四名の警備員のうちアカショウビンだけ最初の現場で歩行者の案内だ。といっても、夜もふけると人通りは少なくなる。何やら侘しさがつのる。真夜中の都会は昼間の喧騒と裏腹に奇妙な静けさが支配している。

 きょうは夜勤を控えていたためでもなかろうが、回転寿司で昼食にしようとした。ところが一皿も食べないうちに噎せてしまい嘔吐してしまった。数日前もコンビニの弁当で同じような事があった。8月のCT検査で胃と膀胱は問題なかったが下咽頭はどうなのか。食べるのを急いだり食べ過ぎると、てきめんに症状がでる。下咽頭の主治医は喉から食道に前ガン症状があるので油断できないと説明していた。三ケ所のガンを手術をしたアカショウビンは死と隣り合わせの毎日といってもよろしかろう。しかし、路上警備の仕事はできる。まだ働けるだけよしとしなければならないのは本人が身に沁みてわかっているのである。しかし、きょうの仕事は孤独な持ち場である。

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2019年10月 3日 (木)

卓越した声

 先日来、マリア・カラスの録音を聴き続け、好みは分かれるだろうが、その声の卓越性というものには、やはり驚愕せざるをえない。それは才能というものに基づくといえど、それが教師たちに導かれ、鍛え抜かれることによってしか到達できない領域があることを私たちに示し、明らかにする、といえる。それは洋の東西南北を問わないだろう。そしてジャンルをも。オペラという分野が西洋で発展し、私たちは東洋の島国で、それに出会うことが出来る。それは偶然であり必然でもある体験といえる。アカショウビンの場合もそうであり、多くの人々にとっても、そういう体験として経験されるのではないか。カラスの声が多くの人々に理解され、体験されるとは限らない。しかし、それと似た体験を介すれば、人間という生き物には、それが共有できると思われる。そうでなければ、人間の共通体験という事はありえない。

 卓越する、卓越性、という概念に添えば、それはそのように理解できるのではないだろうか。アカショウビンが偏愛する歌い手たちも、そのようなものとして身体に響くのである。テバルディ然り、中島みゆき然り、美空ひばり、や多くの国民歌手という存在も正しくそうであると確信する。衆に卓越した声として、それは人間達に共振すると言える。卓越したもの、あるいは現象は声に限らない。すべての人間に生起する現象、経験、体験、としてそれは生ずる。

 たとえば、それは政治という領域でも、或る人間に、個人に出現する。それはまた、別の主題として論じなければならない主題だが、共通する事象は、卓越するとは、どういう事なのか、という問いになる。それはまた、誤解を恐れずに言えば、善悪という西洋的な概念で表出される二項対立を超える。それを西洋の哲学者、思想家たちは超越という概念で展開した。それは東洋でも異なる形と思索として展開されているだろう。その共通する、思索が人間たちに共鳴、共振として現実化する。私たちは、そのような時空間に存在する生き物ということもできる。

 マリア・カラスの録音された声に集中してその何たるかを聴け何か、貴重なもの、それは或る時空間を切り取った哲学用語を使えば〝実在〟に遭遇するように思える。そこには無限の、人間に対する敬意・思慕・尊崇という感情が湧き起こるのを如何ともし難い。それは、アカショウビンだけの体験・経験とも思えない。先ごろからアカショウビンの偏愛するイタリアの歌い手(メゾ・ソプラノ)、フィオレンツァ・コッソットが、トゥリオ・セラフィンの指揮で1959年に録音したヴェルディの『レクイエム』をローマ・オペラハウス、合唱団と録音した録音を聴いて飽きない。ソリストたちはイタリア人だけでない。バスはボリス・クリストフ、恐らくロシア人だろう。ソプラノはシェイカー・ヴァーテニシアン、テノールはエウゲーニオ・フェルナンディという面々である。別な録音では、カラヤンがミラノ・スカラ座を振った映像と録音をかつて聴いた。お目当てはコッソットだが、髯をきれいに剃った若きパバッロッティも参加していた。バスは美声でロシアのバス歌手を代表するといってもよいニコライ・ギャウロフである。スカラ座が総力を結集した録音と思われる。しかし、作品の魂とでもいうものはセラフィン盤にアカショウビンは聴き取られる。作品の構造、ソリストの配置、録音の加工は総合的に組み立てられなければならない。声の卓越性は国境を越え、それを実現しようと総力が必要である。完璧を目指しても評価はそれぞれだ。しかし、オペラという総合芸術は無数の音楽家たちがそれに挑戦する。それは現在でも同じだ。小澤征爾も師のカラヤンから若き頃にオペラを振ることを薦められ初めてオペラの面白さに憑かれた人の一人といえる。

 イタリアのベルカントというジャンルでヴェルディらの作曲者たちの作品で頂点に達したと思われる。プッチーニの作品は日本、米国を舞台にし世界中のファンに愛されている。それは再生芸術、録音という近代技術を介したものであっても、人間が到達した時空間に存在している。その幸いは仏教的にいえば〝娑婆世界〟での貴重な体験・経験として届くのである。それは幻聴かもしれない。しかし、その声はアカショウビンにとって、繰り返し聴くに値する恩寵ともなる。

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2019年10月 2日 (水)

純粋な幸福

 辺見 庸氏の新著のタイトルである。少し読みだして、詩人へんみようさんの現在というのか近況が知られる著書と思う。まだ読み終えていないけれども、この10数年、氏の著作、講演を聴いた者として何か書かなければならないが、そのうちに。氏は通信社記者、小説家、批評家として様々な論考を公にし、病に倒れ、それを耐え現在を生きておられる。その痕跡を辿ることは、アカショウビンの刺激と思索、行動を促す。読み差しの本は溜まるいっぽうである。また読み通していない文芸書、批評、哲学書は部屋に溢れている。好きな音楽CD、DVDも増えるばかり。

 それはともかく、辺見氏の新著のタイトルが面白い。難解な漢語ではなく、中学生・高校生にもわかるタイトルだ。しかし、そこには辺見 庸という人の、恐らく現在の多くが、哲学用語を使えば〝内在〟している。それは、カール・マルクスという哲学者・革命家・思想者・解体者を〝マルクス〟と呼ぶのでなく、「ねぇ、カール」と呼びかけることで、難解な思想家としてではなく、その著作、論考に刺激を受ける辺見氏の現在が、ひらがなを基調に表現されることで伝えられている。

 純粋な幸福、とは何だろう。中学生・高校生にとっても、われわれ、残り少ない人生をとぼとぼと歩むアカショウビンや中高年世代にとっても、それは簡単ではない思索を促す。純粋ではない幸福があるのだろうか?そうかも知れない。そもそも幸福とは何なのだろう。純粋とは何なのだろう。消費税アップで新聞は記事に溢れている。しかし、アカショウビンのように日々の労働で日銭を稼ぐ者にとって、それは新たな愚想を強いる。

 本日も、きのうに続き、都下の現場へ赴く。それは、若いサラリーマンたちから見れば〝下層〟労働である。しかし、そこで時は穏やかに、また厳しく過ぎもするのである。きのうは、穏やかな夕暮れの推移も体感できた。雨にも降られず、暑くもなく。休憩は近くの公園で暫しとる。若い母親たちと小さな子供たちが互いに声を交わす。夕暮れの空は穏やかに暮れていく。それは、〝幸福〟な時とアカショウビンは実感する。しかし、それは果たして〝純粋〟なのか、アカショウビンは知らない。きょうの労働で不慮の事故や近隣住民のクレーム、ドライバーたちの怒声も想定される。日銭を稼ぐ。それは、そういう日常のなかで〝生きる〟ということなのは間違いない。それは、間違いなく、平穏だが、急な現実に遭遇することでもある。そこで愚想を巡らすことがそれを明かす、とも言える。

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