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2019年8月30日 (金)

定期検査とCT

 三月以来の病院通いである。そのときは前立腺のグレーゾーンの検査というより拷問のようなものだった。幸いガンではなかったが膀胱、胃、下咽頭のガンで手術した身には何があってもおかしくない。その覚悟はできているつもりだが閻魔大王は呵々大笑しているだろう。

 本日は採血のあと超音波で膀胱を観察。そのあと採尿。いま主治医の診察を待っているところだ。胃と膀胱の手術で入院して三年から四年が過ぎた。生きているのが不思議にも思う。手術、入院の日々は病院を訪れて改めて思い起こす。胃の手術をした主治医は転院した。本日は膀胱ガンの主治医である。若い女医さんでアカショウビンは信頼している。美人ではないが表情がよい。えらぶってない。押しつけがましさがない。医師としての経験はベテランに比べこれからだろう。しかし医師として患者の信頼をえることは簡単ではない。特にアカショウビンのようにへそ曲がりで短気な輩には医者であろうが政治家であろうが関係ない。それも何人もの医師、病院の対応で経験的に確信することである。

 いつものように待たされることは了解済み。携帯した文庫本が面白い。映画監督・新藤兼人の「『断腸亭日乗』を読む」(岩波現代文庫 2009年5月15日)である。巻末には『新藤兼人の足跡6・老い』(岩波書店、1993年12月刊)より「まえがき」、「老いの愉しみ」、「2 『断腸亭日乗を読む』」を抜粋して同文庫のために新たに編集されたオリジナル版である、と記されている。

 以前に新藤監督の『墨東綺譚』は観た。墨の字はさんずいがつくが、このアンドロイドでは変換できない。その映画化の過程で監督は原作を数十回読んだという。併せて『断腸亭日乗』も精読したのだろう。〈老いと性〉という主題に新藤監督は全力で取り組んだことがよくわかる。その先達として荷風が格好の人なのは新藤監督ならずとも理解できる話である。

 それはともかく、超音波検査の結果は特に異常なし。これからCT検査だが結果は一週間後。それより診療・検査費の出費は生活を苛む。

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2019年8月28日 (水)

完璧主義者

 今朝の東京新聞“筆洗"はウィンストン・チャーチルの言葉を引用している。曰く「完璧でなければ役に立たないという完璧主義者は結果として何も物事が進まないまひ状態に陥らせる」。なるほど彼らしいと思う。昨年公開され評判になったた映画『ウィンストン・チャーチル』を先日レンタルDVDで観て感銘したばかりだったからだ。ヒトラーの脅威を拒否しダンケルクでの救出作戦に腐心するチャーチルの姿を描いて秀逸。政治家の決断と苦悩を丹念に作品化した跡がよくわかる。斯様に歴史事実は回想され現在を刺激し挑発し今を生きる者たちを鼓舞し警告する。“筆洗"記者の意図にもその気持ちがあったのだろう。

 幾つかの芸術作品にそれを看取することはあっても多くの人間たちに完璧な行為、行動はない。しかし、一人の人物の言動が多くの者たちを励起し或る崇高とも言える行為に赴かせる時が現出する。そこに刮目しなければならない。それは私たちの日常にも生じる事だ。日常と歴史事実の間も人間の行為として同じ意味として見なせる時がある。その回路を意識に留めることは至難な事だが、それを開く意識は励起させねばならぬ。それは幾つかの芸術作品と向き合う時に生じる。

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2019年8月26日 (月)

アキアカネ

 きょうの現場近くの公園には蓮池があった。トンボの幼虫ヤゴを生息させるためである。池に魚は入れない。ヤゴを食べてしまうからだ。蓮は白と薄赤いピンク。メダカはいた。池端にアキアカネが羽を休めていた。もう、秋の気配が体色で季節の移り変わりを知らせている。解説文によるとオニヤンマは羽化するまで五年間ヤゴで過ごす。世界にトンボは約5500種。日本には1998年に214種が確認されたそうだ。

 工事現場は正午過ぎに終了。京王線から小田急に乗り換え、駅から自転車で帰途に就く。途中、強い雨に振られスーパーで雨宿り。早めに帰られたのは幸い。警備中だったら大変だった。

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澤地久枝さんインタビュー

 本日の東京新聞に澤地久枝さんのインタビュー記事が掲載されている。敗戦での満州で経験した体験を元に国家の非情を告発しておられる。それはシベリヤに抑留された香月泰男の体験とも呼応する。8月15日を過ぎても思索は継続しなければならぬ。先日観た大林宣彦監督の『野のなななのか』は北海道・芦別が舞台である。樺太では終戦を知らず9月まで戦闘していた。埋もれた事実は後に続く者たちに思索と行動を督促する。

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2019年8月25日 (日)

ファミリー・コンサート

 高校の同級生のファミリー・コンサートに来ている。町田から千葉県の野田市・愛宕まで、開会時間に間に合わず。同行する別の同級生、N君には陳謝。先に行ってもらった。会場は何度か行っている喫茶店。息子二人とT君も共演。父親はピアニカを演奏した。10年前に親子は生体肝移植で大手術をした。若年性の肝臓不全で肝硬変になれば数年しか生きられないという診断による。アカショウビンが大阪に引っ越した時だ。手術の様子は長文の手紙で知った。それは涙なくして読めない文章だった。以来、ご長男は回復し一昨年は可愛い伴侶も得た。昨年は妊娠もわかり今年は長女を出産する予定。ファミリーは、苦しみの後に大きな喜びに満ちている。その喜びがコンサートに溢れていた。ラスト曲は「翼をください」。アカショウビンが高校の頃に大ヒットした青春の曲である。ラストにふさわしい。二人は親のおかげで見事な翼を得た。久しぶりに生の演奏と歌が聞けたのは幸い。人生紆余曲折、苦あれば楽しみもあるのである。その様子はネットで配信し多くのおめでとうメールで賑わうことだろう。

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2019年8月18日 (日)

小澤征爾の音楽と生き方

 アカショウビンが学生の頃からの付き合いで友人のIさんはアカショウビンの音楽好きを知っていて長年録画されたDVDを送り続けて頂いている。その中には、小澤征爾氏(以下、敬称は略させていただく)関連のものがある。ボストン交響楽団を去りウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任するまでのNHKの特集番組は何度も繰り返し観て活力を得る。ウィーン国立歌劇場の音楽監督という西洋クラシック音楽界の頂点を東洋人として初めて極めた快挙は日本のファンを歓喜させた。アカショウビンも世界の巨匠たちに伍して成長する姿はCDやDVDで観聴きしてきた。それが2010年に食道ガンという新聞報道に驚いた。しかし常に前向きの氏の姿勢は病でも衰えることなく記者会見の様子にいかにも小澤征爾らしいなと感嘆したものだ。一月の大手術のあとに9月に復帰演奏界が告知された。復帰までのNHK特集もIさんが録画して送ってくれた。それを昨夜久しぶりに観た。それは指揮者、小澤征爾が指揮し表現する音楽観と人間としての生き方を再確認することである。長年共に薫陶してきたサイトウ・キネン・オーケストラとの病後の新たな関係性も刮目して観る。

 闘病後の復帰演奏会が松本市で、その年の9月に予定されていた。ところが記者会見で「ガンは卒業したんだけど腰痛でプログラム全部の指揮ができなくなりました。悔しくて、残念で申しわけない」と語り、武満 徹の『ノヴェンバーステップス』など数曲は後輩の指揮者、下野竜也氏に託すことになる。しかし冒頭の作品のみ自ら指揮する。番組は、そのリハーサルを追う。そこに稀代の指揮者の苦渋と奮闘が貴重な記録として残されている。作品はチャイコフスキーの『弦楽セレナード ハ長調 作品48』である。師の斉藤秀雄から若い頃から薫陶を受けた〝斉藤先生のテーマソングのようなもの〟と小澤は語る。サイトウ・キネン・オーケストラは小澤の呼びかけで世界中で活躍していた斉藤の教え子たちによって結成されたオーケストラだ。その実力はブラームスの交響曲のヨーロッパ公演で驚愕され高く評価された。メンバーは入れ替わっても、世界で初めて指揮法を体系化した〝斉藤メソッド〟と称される指揮法を受け継ぐ小澤征爾の存在は継続している。病を乗り越え復帰したとき75歳。あれから9年が経過している。氏も84歳だ。全盛期の力はないだろうが、番組では「二度目の人生の初日だと思ってます。これからもっと音楽が深くなればいいんだけどね」と話していた。その言や好し。若いオーケストラ仲間も、その小澤の更なる高みに達しようとする姿勢に心から敬服していることがわかる。病を越えて苦闘する小澤の指揮に応え見事な演奏となって聴ける。

 長野県松本市で毎年開催されているサイトウ・キネン・オーケストラの公演には一度くらいは訪れたいと思っているが未だに叶わない。まだ元気なうちにライブに接したいが映像で繰り返し観聴きすればカが湧き起こる。このような人と同時代を生きる幸いに感謝する。アカショウビンが小澤征爾に敬服するのは、内外の若い演奏家たちの薫陶である。それは巨匠となっても教育の大切さを実践していることである。かつての世界の巨匠たちが若い音楽家を小澤のようにトレーニングしたという例をアカショウビンは知らない。それは師匠のレナード・バーンスタインから受け継いだものだ。音楽監督として29年務めたボストン交響楽団時代にはタングルウッドで若い演奏家たちを鍛えた。その映像もNHKは残している。それはまた実に興味深く小澤征爾という指揮者の面白さと偉大さに頭の下がる映像である。

 番組最後には手術する何年か前にベルリン・フィルと演奏したチャイコフスキーの最後の交響曲、第6番〝悲愴〟の全曲ライブも放映された。正に渾身の演奏である。指揮者の意気込みに団員も最大限に応えている。 酷暑の毎日にそのような映像を観て新たに力を奮い起す。

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2019年8月15日 (木)

画家の復員

 香月泰男という画家を特集したNHKの番組を観たのは1995年だったかもしれない。代表作、「シベリヤ・シリーズ」と題された作品群は驚愕した。先の大戦に従軍し生還した一人の画家の眼差しはアカショウビンに痛烈な告発のメッセージとして伝わった。それは先年、町田の美術館で開催されたときに実作に対面した浜田知明の作品とも呼応する。香月の故郷、山口県三隅町の「香月記念館」は一度くらいは訪れたいと思ってきたが未だに叶わない。『シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界』(立花 隆著 2004年8月30日 文藝春秋社)を古本屋で見つけたのは昨年だった。ところが、本棚に並べておいたままになっていた。それを読みだしたのは一昨日からだ。お盆休みで仕事がない不安もあり、気力がわかない。きょうは台風10号の余波で天気も悪い。しかし読みだしたら実に面白い。まだ通読していないが、戦後74年、この日に何か書いておくのも一つの縁というものだろう。

 香月がシベリヤ抑留から復員・帰国したのは36歳、1947年5月である。以来、シベリヤの収容所体験を戦後描き続ける。優れた画家の眼差しと作品はかくの如しという作品がここにある。それを通し戦後74年を振り返ることは戦後世代に不可欠と確信する。この著作は著者渾身の作品として公刊されたことが出版までの経緯を読むと実感する。

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2019年8月 9日 (金)

新藤兼人インタビュー

 溝口健二監督の昭和23年5月26日公開の『夜の女たち』のDVDに特典映像で新藤監督が溝口監督の人となりを語っているのが面白い。小津安二郎たち戦前から映画を撮り続けた名手の作品は興味深い。新藤は、溝口は作品を撮るために吉原遊郭を取材し講演までしたという。その成果は作品に生かされている。

 1912年生まれの新藤は、1937年、溝口の『愛怨峡』に美術助手として参加し『元禄忠臣蔵』(1941年)で建築監督に抜擢され溝口から高い信頼を得た、と記されている。

 新藤は、20年にわたり24本の溝口作品を担当した脚本家の依田義賢から聞いた話として次のように話す。

 ▶この作品で戦後に転換出来たかというと、そうじゃない。まだまだだ。溝口は過去を引きずっている。『祇園の姉妹』みたいな新しい世界の中に持っていき自由に羽ばたいた作品が撮れたか、というとそうではない。溝口さんは戦後に、そのような作品が撮れるか、非常に焦りがあったんですね。

 『夜の女たち』を撮っているとき、吉原まで行き、体験的にそういう女たち知りたい、と思うんですね。そこで溝口さんが講演し、皆さんの不幸は社会が作ったんだ、と話したらしいんですよ。本当にそう思っていたかわかりませんが。溝口さんはそういうところで話すのは、そういう言葉が正しいと思ったのでしょう。そして泣き出しちゃったというのです。皆さんの不幸は男の責任です、これも直情的で納得がいかないんですが、そういうところは、溝口さんが自分の過去をいかに捨てなければならないかという必死な姿ですね。

 このあとに玉島愛造の娼婦たちへの説教のシーンが挿入される。さらに新藤は語る。

 ▶戦後の民主主義の世の中に映画を撮りたいのなら、それらしいプロデューサーとシナリオライターを連れてくればいいじゃないと思うのですが、そうはいかないんですね。依田義賢や、その取り巻きたちと脱出したいんです。(中略)溝口さんは京都の仁和寺近くの借家に棲んでいましたが、静かで鐘の音か聞こえるところにいたら僕たちは置き去られます。東京に行きましょう、と松竹の監督として東京に出てきます。それが一週間もすると、こんなガチャガチャしたところにいるとダメになります。京都に帰りましょう、と言う。ほんとにそんな感じなんですよ(笑)。そんな事を繰り返しながら『夜の女たち』を作ったんですが、物語の中心はメロドラマ的な人情話ですよ。しかし、大塚の赤線地帯にキャメラを持って行って、キャメラマンの杉山公平に、「君はイタリーの映画を観ましたか、ロッセリーニ監督の『戦火のかなた』、『無防備都市』、君はもう古いんだ、だから変えなさい」と言うわけです。(中略)しかし自分は早く脱皮したいんだけど、誰も脱皮しない、というような焦りがありましたね。そこが溝口さんの凄い偉いところで、プロデューサーたちは、溝口は過去の監督で古いと言っているわけ、それで大映の企画部に行って何か撮ってやるから良い企画を考えてくれと言うわけ、撮らしてくれじゃないのが溝口らしいとこです。そういうことをしながら外国映画をたくさん観ましたね。そこで自分でキャメラを見ながら溝口さんは格闘していたのです。溝口さんが偉いのは、溝口はもうダメだと言われながら、それにヘタることなく、恥も外聞もなく、『西鶴一代女』(1952年)を企画なんかしているのですね。「ぼくは、きょうの監督ではありません。古い監督です。だから古いままにやります」と。はじめは松竹に持っていったのですが、そんな古い監督を相手にはしません。松竹には若い木下恵介などがいますから。

 ▶その頃に私は京都で溝口さんと度々お会いし食事したりお話をする機会がありました。そのとき生殺しになった蛇みたいな感じがあるんですよ。「溝口は、きのうの監督だから溝口とは映画を撮りませんというプロデューサーがいるんですよ、僕は、もう駄目ですか、古い溝口ですか、新藤君、どう思います?」という感じなんですよ。凄いですねぇ。普通はそこで挫折し倒れるわけですよ、大体は。そこから這い上がってきたわけですから。それまで戦前に女を描いてきて戦後の女を見ても、どこも変わっちゃいない、ということがわかったのね。そこで「僕は古臭くなっているわけがない」という考えかたなわけです。(中略)『西鶴一代女』は、プロデューサーを誤魔化して作った作品ですが素晴らしい作品が出来ましたね。主演は田中絹代です。非常に愛着がある。味方なんですよ。味方がいる、俺は一人じゃないんだ、味方がいる、それが自信になったんじゃないですかね。

 2006年8月22日、近代映画協会でのインタビューである。先日は、『西鶴一代女』を久しぶりに観た。『祇園の姉妹』も借りてきた。両監督の作品を視ながら夏を過ぎる幸いに感謝しよう。本日は長崎の原爆忌だ。夕刊の記事を読み何か感想も書こう。

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ピアニストたち

 今朝の読売新聞に秋吉敏子さんのインタビュー記事が掲載されている。御年89歳。1945年は15歳。中国の遼陽で生まれ育った秋吉さんは小学校二年生からピアノを習い夢中になっていたという。しかし、戦況の悪化で1945年5月、陸軍の看護師に志願するも戦地に配属される前に敗戦を迎えた。「戦争で全部なくなっちゃって。ピアノをも弾きたかった。ジャズに出会い、私には性に合っていると思ったの」と語っている。アルバム『孤軍』は1974年。アメリカを拠点に活動した回想は、かつて新書で読んだ。アルバムも幾つか聴いた。きょうは、手持ちのアルバム聴く良いきっかけになった。

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下層労働者の現在

 路上警備の仕事が三日間ない。それでは食えない、生活に困る。蓄えのない孤独中高年のシノギはこれが実情だ。その現実をお気楽サラリーマンたちは知らぬ。それが現政権を暢気に支持する日本人と日本国家の現状なのだ。かつて戦勝国の将軍は、老兵は死なず、ただ消え去るのみ、とコメントを残し公の舞台から去った。彼が一時的に支配した国は世界第三の金満国家として現在している。その良し悪しは国民それぞれの判断だ。国政選挙で国民は現政権を支持した。しかし、それは世界の現状と未来に胡乱であるということだろう。敗戦後の復興と再建のなかで国民は世界に伍する経済的繁栄を実現した。ベタな言い方だが、かつて岡林信康が叫んだように「それで自由になったのかい」という問いかけは現在も賞味期限を有している。人は呆ける。アカショウビンもアルツハイマーは粛々と進行している。しかし、呆けきるまでに愚想は重ねよう。

 引っ越しの段ボールを取り出し整理しているなかで幾つかの文庫本が出てきた。拾い読みして面白い。三島由紀夫の『若きサムライのために』(文春文庫)、『カメラの前のモノローグ 埴谷雄高・猪熊弦一郎・武満徹』(マリオ・A著 2000年5月22日 集英社新書)である。前者は福田恒存との対談が出色。この保守の論客二人が、戦後日本への本音を吐露している。福田との対談は「文武両道と死の哲学」のタイトルで「論争ジャーナル」社でのもの。文庫の表題の論考は、昭和43年5月号から昭和44年4月号まで「Pocket パンチOh!」に掲載された。単行本では昭和44年7月に教文社から刊行されている。それを通読すれば死に至る三島の思想、思索が読みとられる。後者は、その三島の死に対抗した稀有の小説家、思想家である埴谷の一人語りの如きものである。当時82歳の埴谷は若い外国人カメラマンにトカイ・ワインを飲みながら6時間に渡って話した。その感想は熟思し夏が過ぎるまでに述べよう。

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2019年8月 8日 (木)

原爆ファシスト

 中上健次が林京子を評した言である。文壇の寵児の言葉として面白い。しかし、その言葉の裏には寵児のやっかみもあったろう。8月6日のヒロシマを過ぎ、8月9日を前にして何か書かねばならないと思う。現在の此の国の実情は歴史忘却の極みとも言えるからだ。それはハイデッガーの哲学的論説を介してハンナ・アーレントの思索とも共振しなければ歴史の真相には回路を開けない。小説家たちも千差万別である。林がファシストであるかどうかは中上のレトリックだろう。しかし、林の体験と創作は小説家としての表現だ。肝要なのはその裏を読み取ることである。

 林 京子へのインタビューは2011年の岩波ブックレットで読める。書棚からそれを引き出し読まなければならぬ衝動に駆られた。それは広島出身の映画監督・新藤兼人の作品も新たに観直すことになる。爆裂の瞬間を新藤は作品で表現したいと語っていた。その全作品を我々は観ることができる。感想は千差万別であろう。しかし、その苛烈な瞬間を果たして映像で描けるのだろうか。それは山田洋次も試みている。黒木和雄も今村昌平も映画作家は、その試みが責務のように続いた。アカショウビンのような戦後生まれの者にその作品は想像力を喚起する。

 林は中上の評に対して次のように述べている。

 私はそういう過激な思いで書いているのではないのです。被曝とは被爆者個人の体験ではなくて、人間全体の問題―自分の子供を育てながらそう思ったのです。いかに人間全体の普遍的な問題として、つまり人間の経験として、つまり人間の経験として昇華できるか、ということをいつも考えていました。ですから「原爆ファシスト」と言われても、そうか、まだ〝感傷的九日〟なんだな、という感じですね。(同書p22)

 小説家それぞれの体験と作品の内容は自ずから異なる。しかし、その描き方の根底にある歴史の事実と体験の底にあるものに視線は届かさねばならない。私たちに課せられているアポリアはそういう問いを促す。ハンナ・アーレントが戦後の歴史を介し思索したのも、そういう衝動と動機によるものだろう。それは現在を生きる私たちが継承しなけばならぬ責務である。

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2019年8月 6日 (火)

予言

 既に亡くなった映画監督・大島 渚のコメントを宣伝文句に使った作品を昨夜観た。『STAR  SAND 星砂物語』(2017年公開 ロジャー・パルバース監督)だ。大島監督のコメントは次のとおり。

 ロジャー・パルバースが日本にいることに日本の観客が深く感謝する日が来るだろう。

 DVDには特典映像が付いていて、そこに上記のコメントが見える。大島の予言は、観客にどのように受け取られたか知らぬ。しかし、大島作品を観た者にそのコメントが伝える意味はそれぞれだろう。アカショウビンは、少し愚考を巡らす。それは先の大戦の激戦地・沖縄で起きた新たな視角を開くからだ。多くの日本人、アメリカ人、そして世界の人々に観てもらいたい作品である。 

 本日はヒロシマに原爆が落とされた日だ。人間の歴史に特筆される日である。9日のナガサキを経てアカショウビンも敗戦の15日まで、先の大戦を想起し現在を生きる。沖縄では国家と沖縄人民の相克が沸騰している。沖縄の生活民は歴史を背負い闘争を継続している。その現実に共振しよう。私たちはヒロシマ、ナガサキで殺された死者たちや沖縄戦で虐殺された死者たちの歴史を背負い現在を生きていることに胡乱であるわけにはいかないからだ。

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2019年8月 5日 (月)

夏を往還する

 JR横浜線の小机駅で乗り降りしたのは学生時代にアルバイトでだった。江戸川区の平井から通った。ボーリング調査という作業の手伝いだった。交通費はどうしたのだろう。現場の親方さんは優しげな如何にも職人さんという感じの人だった。冬場の寒い時期だった。契約の最後の日は仕事を終えてドラム缶で暖をとりながら日本酒をご馳走してくれた。飲み過ぎて帰りの電車でしたたか吐いてしまったが。小机駅の近くには巨大なスタジアムも出来ている。四十数年前と景色はガラリと変わっている。本日、小机は通過するだけだ。変化した風景を眺めながら日銭稼ぎの労働現場に向かう。蒲田駅は、先日、羽田空港近くの夜勤で来て以来。仕事にありつけたのは幸い。先週は月曜、火曜と仕事にあぶれたのだから。

 JR線から京急に乗り換え蒲田へ。暑い一日が始まる。ヒロシマ、ナガサキの地獄も想い起こし歴史を振り返り現在を照射し、夏を往還せよ。

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