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2019年7月30日 (火)

アソシエーション

 丸山眞男がいう市民は、単に都市の住民あるいは個人主義者を指すのではない。市民とは、自主的に他者とアソシエーション(結社)を形成する個人のことである。

 上の引用は柄谷行人氏(以下、敬称は略させて頂く)が「丸山眞男の永久革命」の表題で書いている『世界』2019年7月号所収の一文である。これは熟考しなければならない。それは戦後日本に<市民>という概念が具体化されたか、という問いにもなるからである。もちろん、この論考で柄谷は丸山を介してそれに答え持論を展開している。それは誤解、誤読もされてきた丸山眞男という政治思想学者、大学教授の思想を真摯に現在に受け継ぎ思索し行動、行為することである。

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2019年7月27日 (土)

労働の現場

 毎日が違う現場だ。長く務めた会社の縁で未だに会長さんとはお付き合いさせて頂いている本社のある駅を通過し現場近くの最寄り駅に向かう。これも不可思議な縁というものだ。路上警備という労働は天候が大切な要素である。きのうは台風の余波で昼過ぎに俄雨に見舞われた。きょうの仕事も危ぶまれたが晴れた。途中、霧雨が降り出したが警備に支障はなし。午後5時半までの予定が工事作業は3時半で終了。この仕事はこういう利得があるのがありがたいのだ。 

 いつもは下水道の新設、取り替え、撤去工事が多いのだが本日はビルの足場の撤去作業。この作業場と道路に停車してある4トントラックの間の歩行者や自転車の安全な通行誘導が警備員の任務だ。

 近くのビルは外観は少しくたびれて改装もしていない。五階建ての一階は焼肉店。モンゴルと韓国の料理が人気のようだ。昼間に携帯電話を操作しながら入っていくお客も。外観はともかく、店内が小綺麗で料理がおいしくサービスが良ければお客はつくのだ。

 作業員は三人が中国語を話している。中国人か台湾人かもしれない。足場の建材は重く作業場は危険を伴う。正しく過酷な肉体労働だ。土曜日の高級住宅街の一角で、そのような労働か黙々と行われている。そのような体験は世のサラリーマンたちとは異なる世界が有るという現実の時空間に我が身を現存するという事だ。下層労働の現場で人は労働し、活動し、仕事し現実存在の軋みに耐え抜くのだ。その過酷と現実に活路を開こう。

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2019年7月25日 (木)

映画が暴き立てるもの

 三本の映画を観て述べて置きたい事が出て来る。『秋日和』『上海ルージュ』『夜の女たち』。何れも優れた作品を世に出した名匠の秀作である。小津安二郎、チャン・イーモウ、溝口健二の作品だ。繰り返し観て新たな発見がある。

 『秋日和』は昭和35年の作品。晩年のカラーがデジタル化で鮮やかに蘇っている。その前に観直した『秋刀魚の味』に続けて観たくなりレンタルショップで借りてきた。物語は二人の男女が結婚に至るお話だ。小津作品に繰り返し見られる家庭劇である。しかし、観直す度に新たな発見がある。アカショウビンが若い頃から年を経て見る、その度に新たな感慨に浸る。それは老いの嘆きに溜息ともなり、また更なる思索も促す。多くの方々に観て頂きたい日本映画が到達した映像が確認できると確信する。

 『上海ルージュ』はチャン版フィルム・ノワールである。コッポラの『ゴッドファーザー』へのオマージュと対抗意識も感得する。大都市での闇社会は洋の東西を問わない。主演のコン・リーの美点を監督は見事に引き出している。その鮮やかな映像に感嘆する。役者よし、演出よし、キャメラよし、音楽よし。秀作、傑作の条件を備えている佳作だ。小説を基にしているようだが優れた監督にかかれば全く異なる魅力を醸し出す良い例だろう。コン・リーが女の一生を見事に演じた『活きる』も近いうちに観直してみよう。

『夜の女たち』は昭和22年の若き田中絹代を主演にした溝口の気迫に満ちた作品だ。大阪の焼け跡映像も貴重な記録で戦後を生き抜く女たちを溝口は呵責なく描いている。それは正しく映画が暴き立てるものだ。そこに刻まれる此の国の歴史は現在に照射する力をもつ。特典映像で新藤兼人監督のインタビューも見られる。弟子の興味深い逸話が知られる貴重な記録だ。それは別に書いておきたい。

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2019年7月23日 (火)

ムーラン・ルージュ

 今朝の東京新聞の筆洗は斎藤茂吉の短歌を介して茂吉が感銘した女優の死を伝えている。かつて新宿にムーラン・ルージュ新宿座という芝居小屋があり、そこで演じられた長谷川伸の作品に茂吉は涙を流した。女優は当時大人気で出征する兵隊たちとも手を取り合ったと記事は書いている。そこで戦時下の或る光景が眼に見えるようだ。それは茂吉の短歌が醸し出す体験の真実のようにアカショウビンには思える。それは茂吉の感動が伝わるからだ。「新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり」

 日本でも人気のあったシャンソンのこのタイトルの曲はアカショウビンもよく聴いた。近年では映画化もされた。それはパリで賑わい多くのパリジャンや外国人にも愛された歴史の一コマとして、茂吉の感動としてアカショウビンに伝わる。

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2019年7月21日 (日)

キネマ旬報創刊100年

 東京新聞の朝刊は15面で半面をその記事で埋めている。アカショウビンの若い頃も評判の作品の批評は同誌で読んだ。もっとも近刊はほとんど読むことはないが。しかし気になった記事は若い頃から保存し残っている。映画を観る切っ掛けは、最近は友人から頂く招待券などで劇場に通う程度で殆どはレンタルショップで間に合わせている。その感想は時々書いている。最近では、久しぶりにゴダールの「パッション」を観て新たな刺激を受けた。この1982年に公開された作品は観ている筈だが殆ど新たに観るように新鮮で挑発された。ゴダールの新作は公開されたようだが未見。既に80歳を越えている筈だが雑誌でのインタビューを読むと意気軒昂。大したものと感嘆し観るのが楽しみだ。それにしても、このフランス映画の巨匠の作品は断続的に観て刺激を受け続けている。

 朝刊の外国作品・監督別入選回数でゴダールは12位。トップはクリント・イーストウッドである。それに異論はない。しかし、日本作品・監督別入選回数に小津安二郎が入ってないのは意外である。アカショウビンにはトップにもってきてもおかしくない監督である。先日から晩年の「秋刀魚の味」、「秋日和」を観てますますその感を深くする。戦前から映画を取り続けた監督が晩年のカラー作品で達した境地は日本人なら誰しも共有できるというのもアカショウビンだけの主観ともいえないと思うがどうだろう。作品には小津のユーモア、諧謔、隠蔽、趣味、すべてが込められていると言ってもよい。俳優たちも小津の演出に応えて過不足ない。それが小津作品を観る楽しみなのだ。それは恐らく洋の東西を問わないのだろう。小津の発見はむしろフランスやドイツ、イランなどの外国で継続されている。その映像を繰り返し観ると新たな発見がある。それが名作の持つ豊饒さと言ってよい。「秋日和」は昭和35年の作品である。様々な家族間の交流でひと組の男女が結婚に至る経緯を描いて飽きさせない。原 節子、三宅邦子、沢村貞子、司 葉子、岡田茉莉子、らの女優陣に対し男優は佐分利 信、中村伸郎、北 竜二、笠 智衆、佐田啓二。これらの俳優達が織り成す物語と小津の演出が冴える。日本映画の傑作の一つと確信する。もっともアカショウビンが務めた会社の新入社員で大学の頃に映画クラブだったという社員に小津は観ているかと訊ねたら知らないと聞いたのには驚いたが。現在でもそんなものかも知れない。しかし傑作、秀作はいつの時代にもある。それが変化しても、文学でいえば古典の価値は失われないようなものだろう、と思いたい。それは音楽でも絵画、美術でも同じだろう。傑作の前に立てば人は襟を正す。優れた作品というのはそういう対応を迫る。

 それはともかく、同誌の百年には映画ファン達の様々な思いがあろう。アカショウビンも内外の傑作を観るのが日々の活力を得ることである。

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2019年7月16日 (火)

下層労働の実態

 本日の東京新聞夕刊は<労働者のための政治を>の主見出しで、<「偽装請負」の末 使い捨てられ>、<直接雇用求め 会社を提訴>の副見出しで、カーペットや内装材の総合メーカー「東リ」の仕事切りに対し裁判で神戸地裁で闘っている五人のレポート記事だ。アカショウビンの下層労働に照らして他人事ではない内容である。詳細は省く。「東リ」工場での請負の形での就労は製造業への労働者派遣が禁じられていた1999年頃に始まっていた、と記者は書いている。法改正により現在は派遣が可能だが、三年ごとに労働者を換えねばならず熟練工を使い続けられないデメリットが企業側にある。仲間で労働組合を作った人たちは労働者派遣法にある「みなし制度」を使い直接雇用を求め東リに団交を申し入れたが東リは拒否。別の会社からの労働者調達に切り替えようとした。ところが組合員16人のうち雇用を約束した11人を派遣会社に雇い五人を不採用にした。組合崩しである。五十代での職探しは厳しい。アカショウビンも10年前に体験した。裁判には費用がかかる。兵法でいえば兵糧攻めである。原告弁護団の弁護士は「これが救済されないなら、せっかく法改正したみなし制度が生かされないことになる」と主張している。「〇八年に派遣切りが多発し、選挙で雇用の安定は重要な争点だったのに、今はどうか」とも。

 アカショウビンが働く警備会社は作業リーダーを隊長と呼ぶ。これが様々だ。きょうの隊長は軍隊の悪軍曹のようなものだ。初年兵を人間扱いしない。暴力こそ振るわないが言動は紙一重だ。それには当然抗議した。向こうは鼻白んでいたが。雨のなかアカショウビンはヘルメットと合羽姿で水道工事現場の交通誘導である。とはいっても人通りの少ない高級住宅街である。殆ど立ちつくしたまに通る歩行者や自転車に声をかけるだけだ。それを果たして仕事というのか。むしろ下層労働というべきだろう。労働に上中下があるのは経験的事実だ。その欺瞞が、非正規と正規雇用の平等という建前の裏の本音は差別の実態なのだ。労働契約申し込み「みなし制度」の施行は2015年。その後、適用例はないという。それが現実の法の施行の実態なのだ。アカショウビンの労働の実態もそのような法制度の現実の渦中にあるということだ。

 

 

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カモカのおっちゃん

 田辺聖子さんが亡くなられて突然「カモカのおっちゃん」が読みたくなり中古本で探したが見つからず書店に問い合わせるも在庫なし。しかたなく図書館で訊ねると全集があるという。しかし他の図書館から取り寄せるというのでお願いした。「カモカのおっちゃん」は全集第九巻にある。2005年2月10日刊行である。二段組みでなく文字が大きく読みやすい。読みだしたら面白くてたまらない。さすが日本文学、海外文学に通暁している文才に驚く。それが大阪弁の可笑しさで見事な読み物になっている。全集では持ち歩くことかなわぬ。文庫は文春文庫なのだが手に入らぬけれども新たに増刷されているのかもしれない。

 全集では「カモカのおっちゃん」のあとに「芋たこ長電話」が続く。これまた面白い。昭和54年9月6日から昭和55年8月14日号までの連載である。『死亡記事』ではジーン・セバーグの睡眠薬自殺の訃報に感想が述べられている。そうか、彼女が亡くなったのはその頃なのか。評判の女優だったけれどもアカショウビンの女優烈伝では下位である。『悲しみよこんにちは』、『勝手にしやがれ』のジーンが田辺さんには強い印象を与えたようだ。アカショウビンは殆ど記憶がない。改めてレンタルショップで探し観直してみよう。

 それはともかく、映画と音楽、読書はアカショウビンの日常に不可欠。先日は、小津の『秋刀魚の味』、ゴダールの『パッション』、黒木和雄の『浪人街』をレンタルDVDで借りて久しぶりに観た。きのうは、張 芸謀(チャン・イーモウ)の『上海ルージュ』も借りてきた。その感想も書いていこう。

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2019年7月13日 (土)

訃報が知らせる事

 先日亡くなった高校の同級生の訃報に続き、アカショウビンが長く勤めた会社の業界で付き合いのあった方の訃報が、これまた長い付き合いの、業界の先輩から届いた。少し予想はしていたが、それが明らかになれば、遅い知らせとしてアカショウビンには、その人の風貌と彼との会話の一端が回帰する。人との出会いと付き合いというのは新たに現在の日常と現実のなかに突然その人の回想とも回帰ともなって訪れる。それは不可思議な人間の在り方ともいえる。

 思い出とは何か?回想、回帰とは何か?愚想はされるが、それは何か人間存在の不可思議とも思える瞬間から暫しの時を思索へと促す。熱中症で急死した高校の同級生とはそれほど親しかったわけではない。何度か飲み会で久しぶりに出会ったくらいだ。しかし、その時の彼の印象や語りは写真や記憶のなかで甦る。

 業界での付き合いが長かったKさんとは昨年も会ったばかり。先日お会いしたくて携帯電話に電話したらつかわれてないというアナウンス。共通の先輩に連絡したら奥様の話が聞けて亡くなったことを知ったということだった。しかも三月に。遅れた訃報はアカショウビンも同級生の死の知らせで後悔したことがある。何と三年前に亡くなっていたことを奥さんから聞いて愕然となった。

 人の死とは何か?それはまた新たな愚考を促す。本日は同級生の追悼会に行く。会場は最後に会った店。何人かの同級生たちと写真を見ながら語りあうことになるだろう。それから既にも五年が過ぎている。しかし同級生達の感想はそれぞれだろう。アカショウビンも高校以来の自らの感想を含めて語り合いたい。

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2019年7月11日 (木)

上田閑照氏の訃報

 93歳という。ご長寿で何より。ご著作にはいくつか啓発された。特にエックハルト研究には。ドイツ留学でハイデガー哲学など当時のドイツの論説に数多く眼を通されたことだろう。その成果の論考を読み、さらなる思索を督促された。改めて碩学の著作に目を凝らしたい。

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女優烈伝

 関西在住の高校の同級生がネットで岡田茉莉子の若い頃を礼賛し好きな女優に挙げていた。異論あり、とだけコメントした。その理由を記しておこう。女優の若き頃というのは、どの女優でも華があると言ってもよい。映画という媒体のモノクロームからカラーへの移り変わりを考慮すると女優観も千差万別。アカショウビンの日本映画、欧米女優観もその一つにすぎない。

 岡田茉莉子については小津作品がアカショウビンの評価基準である。二本の出演作は若夫婦の小生意気な若妻を演じている。夫は佐田啓二。父親は笠智衆。その家族関係が面白く微笑ましい。それは“家族崩壊”が論議される中で現在の家族でも現実としてある姿を小津はその理想型として描いている。結婚せず作品の中で夫婦、親子、父娘、家族を描く小津作品は山田洋次に継がれている。

 もう一本「秋刀魚の味」の岡田茉莉子である。若妻とは異なる下町のチャキチャキ娘が面白い。サラリーマン族を手玉にとる岡田に小津は現代女の典型を造形したように思われ面白いのだ。

 日本女優と欧米女優は明らかに異なる。文化の違いと言えば蓋もない。しかし、その違いは、言葉を尽さねばならない。

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2019年7月 7日 (日)

サン・スーシの女

 レンタルDVDでフランス映画「サン・スーシの女」を何十年ぶりで観た。アカショウビンはロミー・シュナイダーのファンなのである。シュナイダーという名からして彼女はドイツの血を引いている筈だ。イタリアのヴィスコンティ監督の作品にも出演して、その匂うような美しさはスクリーンに溢れていた。若いアカショウビンには瞠目する美しさだった。それを改めて観るとは奇遇というより必然のような思いがする。物語はナチの所業に巻き込まれた人々の悲劇である。ロミーがプロデュースし、しかも遺作となった作品である。ナチスやイタリアの軍事政権が席巻しフランスも巻き込まれた欧州の歴史の一端が痛切に描かれている秀作だ。映画館で観たときは記憶にないシーンもDVDでは繰り返し観られる。先に観た「私はあなたの二グロではない」とも呼応する物語だ。それは物語であり、歴史事実が裏打ちされている。それを改めて自覚しよう。それはまた現実の日本にも警鐘となって響くだろうからである。

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新自由主義

 今朝の東京新聞“時代を読む”で浜 矩子さんの論説が面白い。毒舌と辛辣、これが浜流言説の面白さだ。そこには学者としての学職とリサーチが裏付けとなる。プーチンの「自由主は死んだ」との英国経済紙、フィナンシャル・タイムズのインタビューに応えた発言を分析した論説だ。移民受け入れ、開かれた国境、多文化主義を標榜する欧米的価値観をプーチンは批判する。その帰結がポピュリズムの広がりであり、国家主義の顕現だ、と。そのくせプーチンはトランプを称賛する。非自由主義的民主主義を豪語するハンガリーのオルバン・ビクトル首相も憎からず思っているフシがある、と揶揄する。

 そのような国際政治の現状を浜は自由主義について思索する。それが浜流分析として傾聴に値するのだ。プーチンの発言を詭弁と見なし自由な人々の共生を賛する。曰く、「このような知的構えや心意気が死ぬわけがない。神通力を失うはずはない」。その言や好し。そこから主張する現在の新たな勢力を新自由主義と分析する。それを浜は、市場への盲従と弱肉強食への礼賛で、このような特性を持つ新自由主義は、容易に国家主義と結びつく、と。

 疲弊、消耗するアカショウビンの日常にも、このような論説は力を呼び戻す契機となる。梅雨の雨を干天の慈雨とするには工夫がいる。知恵を働かし活力を奮い起こさねばならぬ。

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朝の安らぎ

 今朝の〝音楽の泉〟はベートーヴェンの「七重奏曲」である。1800年、ベートーヴェン30歳。若きベートーヴェンは次々と浮かぶ着想を作品にしウィーンで評判となった、と皆川さんは語る。作品の経過を語る皆川さんの解説が懇切。素人に作品の解説はありがたいものだ。なにげなく聞く音楽の成立説明は聴く者を作曲者が眼の前にいるような想いに誘う。アカショウビンにその時間は至福のように訪れるのだ。降り続く雨もそれは正に慈雨となる。その束の間の幸いを享受しよう。いずれ辛い日常にあくせくするのだろうから。

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人種差別の歴史と現在

 ジェームズ・ボールドウィンはケンブリッジ大学での講演で語る。「黒人にとって差別は日常茶飯事だ」と。マルコムXとの出会いを「私がハーレムにいた頃から彼は伝説的存在だった。私は彼を信頼していなかった。白人は彼を〝たいまつ〟と呼んだ」と。メドガー・エヴァーズとの出会いで彼はボールドウィンに同行を求める。黒人射殺事件の調査で作家の眼で精確を期したかったのだろう。二人は証人を探す。証人を演じる者と本当の証人を見極めながら。二人は証人を探し動き回る。1966年、FBIの調査でボールドウィンは危険人物リストに記される。そのころ白人の米国社会は、人種統合は共産主義だというプラカードに象徴される黒人との〝統合〟を忌み嫌う。多くの白人は各地で起きている黒人を狙った事件が全米各地で起きても信じようとしない、行動も起さない、とボールドウィンは嘆き怒る。「バーミングハムとロスアンジェルの事件に違いがないことを白人たちは受け入れないのだ」。1963年、アラバマ州バーミングハムの事件に黒人たちは怒りの抗議を起す。非暴力で。それがマルコムXには我慢がならないのだ。白人警官たちが警棒で黒人たちを小突きながら威嚇する。テレビ局は「黒人問題とアメリカの希望」というタイトルで三人の黒人運動家をゲストに迎える。マルコムX、マーティン・ルーサー・キング、ジェームズ・ボールドウィンだ。マルコムはキングの非暴力を批判する。「マーティンは20世紀版のアンクル・トムだ。それに応えてキングはキリスト教の愛を説く。「愛は悪に対して無抵抗なのではない。暴力をつかわないだけだ」。それはマハトマ・ガンジーの抵抗を彷彿させる。そこで抵抗運動は洋の東西を越えるように思えるのはあながち錯覚でもないだろう。育ちも考えも違う二人は互いを理解しあい距離を縮めていく。二人が殺される頃に立ち位置はほぼ同じなったとボールドウィンはいう。40歳前に殺された三人は米国での人種差別反対闘争の象徴となり現在まで続いているのではないか。

 白人たちの銃声のなか、キングたちは非暴力のデモ行進を続ける。マルコムXはそれに暴力で対抗する。『私はあなたの二グロではない』でラウル・ペック監督は2014年、ミズーリ州ファーガソンの黒人暴動の映像を重ねる。「それは正に戦争である。ボールドウィンは「アメリカ国民は道徳心と優しさに欠けている」と語る。「白人は私を同じ人間と認めていない。言葉ではなく行動でわかる。彼ら自身が怪物となっている」。映像はモノクロから白人たちのカラー映像に一転する。それは、ケネディ兄弟の批判ともなる。

 そののような米国の現状の中でハリー・ベラホンテはテレビ討論で和解の希望を語る。果たして和解は国家の中で実現されるのだろうか。ボールドウィンや黒人たちの告発と闘いは現在の米国でどのように継続されているのかアカショウビンは知らない。しかしネット社会のなかで〝世界〟は、近く遠く現在している。それはハンナ・アーレントらユダヤ人、サイードらパレスチナアラブ人の声と交錯する。

 それはまた正しく沖縄での抗争となって生じている。

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2019年7月 4日 (木)

夕刊の記事から

 いつも楽しみにしている東京新聞夕刊の〝大波小波〟は池袋のミステリー文学館が7月いっぱいで閉館という記事。その隣は江藤 淳没後20年に「文学界」元編集長の評伝刊行の記事。江藤が死んでもう20年がたっているのかと時の迅速に面を革む思いだ。江藤は生前、保守の論客として論陣を張った。その幾つかにはアカショウビンも強い関心をもち読んだ。漱石に関する著作が文芸評論家としての江藤の評価として文壇の地位を築いたとも見える。しかし、文芸だけでなく思想家としての側面は晩年の著作に顕著だ。保守論客たちの中では異色といってもよい論説が興味深かった。何度か、このブログでも書いたが、アカショウビンの江藤評価は吉田 満の『戦艦大和ノ最期』の初出の原稿を米国の大学で発見したことによる。それはGHQの検閲により何度も書き換えられた。その初出原稿を探し当てた奇跡のような発見は江藤の功績である。アカショウビンはそれを読み二十歳前後に読んだ同作品の苛烈と酷烈を想い起こす。それは戦闘の凄まじさとして先の大戦を介し歴史を辿る遍歴として現在に至っている。

 ハンナ・アーレントを読む衝動も江藤の論説や論考を読む関心と共振するのだ。著者の平山周吉氏の「江藤さんは米国と憲法をともに疑った。日米同盟を支持する保守派と、護憲を訴えるリベラルの双方にとって都合の悪い考えだった」というコメントは江藤評価の核心を衝いている。それを江藤自身は〝生き埋め〟と表現したと氏は続ける。「今も変わらず江藤さんは『生き埋め』になっていると思う。だから、再評価への期待を込めて評伝の題名を『江藤淳は甦る』にした」とコメントしている。それは良く分かる。江藤の論考は『海は甦る』となって継続した。しかしアカショウビンが読んで挑発されたのは、西郷南州の最期を辿った晩年の著作だ。血族を薩摩にもつ江藤渾身の意気込みが伝わる文章だった。この平山氏の大著を読み通す若い批評家はいるだろうが、江藤の著作の本質を抉る作品は果たして現れるのだろうか。それはライバルとも同志ともいえる吉本隆明の評価とも繋がる戦後史を読み解き生きる現在となって結実しなければならない。先日亡くなった加藤典洋の仕事ともそれは共振する筈だ。

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労働の現在

 研修最後の路上警備は雨で中止。約十年ぶりの体験は延期となった。前日の学習研修卒業式の後、ヘルメット、安全靴など装備一式が渡された。昨夜から今朝にかけて本日の現場研修に備えた。しかしが中止ではしょうがない。土方殺すにゃ刃物はいらぬ雨の十日も降ればよい、である。早く少しでも日銭を稼がねばならないが路上警備という労働の宿命の如き無情は仕方がないところである。かくなるうえは居直るしかない。幸い観なければならないDVDや読みたい本は山積み。少しでも腰を据え集中しよう。『私はあなたのニグロではない』(2016年  ラウル・ペック監督)、『人間の条件』(ハンナ・アレント)については書いておかねばならぬ事が多々ある。ハンナの労働、仕事論は我が身の現実を介し書いておかねばならない。引き続き愚想を重ねていきたい。

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2019年7月 2日 (火)

日々雑感

 先週の週末、高校時代の友人からの電話で同級生の訃報を知った。九州の実家に帰り熱中症になり意識を失い入院して回復したものの、帰京して再び意識を失い死去したという説明だった。彼と最後に会ったのは数年前の珠に企画される恩師を迎えての飲み会だった。そこで彼は痛飲しヘベレケになった。恩師も心配したが友人が駅まで付き添い帰した。少し奇行があるのは精神的に病んでいたのかも知れぬ。同級生では同じ熱中症で急死した例がある。それも高校時代以来、久しぶりに会っていくばくもない頃だった。まだ五十代、無念の死であろう。人の生はかくも家族にとり、友人知己にとり意外な時に突然訪れる。還暦を過ぎればその確率は確実に高くなる。災いは忘れた頃にやって来るのだ。

 アカショウビンも本日で物流センターでのアルバイト労働は最後である。単純作業の繰り返しで水分補給を怠り熱中症で倒れることは想定内だ。しかし外国人たちと共に働くシノギ労働は面白くも感じる瞬間もある。きのう同じ作業場で褐色の美人がカタコトの日本語で話しかけてきた。聞けばネパールから二年前に日本に来たと言う。女優にしてもおかしくない。同じネパール人の男のやんちゃぶりとは異なる気品さえ醸しだしている。それはともかく、現在の日本の下層労働現場を為政者たちは経験、体験していない。

 先日の日曜日に突然、友人から携帯に電話があった。新宿にいてデモに遭遇したと言う。何とザイトクカイという連中である。しかもそれを警察が保護している。友人はそれに激怒している。声を荒げ、警察の醜態を憤る。「そんな奴らに我々は税金を払っているのですよ」。正しく此の国の能天気は様々な場面で現象している。首相の大阪城エレベーター発言の胡乱さも同様である。新聞の一面は米朝の電撃会見で一色である。一喜一憂は庶民の日常である。しかし政治は時に意外な展開を演ずる。それがパフォーマンスだとしても。新聞論説は周到にそれを記事にする。それはまだしも。それに暢気に喜ぶほどアカショウビンは能天気ではいられない。それは万国の労働者も同じではないか?

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