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2019年6月 3日 (月)

ハンナ・アーレント覚書④

 『全体主義の起源』のエピローグでハンナは「孤独」と「独りぼっち(loneliness)」を区別する。それはアウシュヴィッツの絶滅収容所とボルシェヴィキの強制収容所で抹殺されたユダヤ人やロシア人の生と死を分析するハンナ・アーレントの独自の思索を読むということである。それはアカショウビンのような独身者に痛烈な思索を促す啓示のように届く。「孤独」はまだ自己の中で、もう一人の自分と共生することである「人間」という生き物の特異性ということである。そこにハンナは注目する。しかし全体主義・全体主義運動は、それに「箍をはめ」、「孤独」ではなく、「独りぼっち(loneliness)」に、がんじがらめにしてテロルで抹殺する。そのハンナの思索は時に日常のなかで疲弊し消耗するアカショウビンを鼓舞する。 

 ナチズムとボルシェヴィキ支配下という人間の歴史のなかで初めて生じた現実を俯瞰し考察する苦闘、熟考するハンナ・アーレントの思索はアカショウビンには精神を鼓舞し励起する恩寵のようなものである。同書の啓発される箇所を引用しておこう。

 ― 非全体主義の世界の中で人々に全体主義支配を受け容れさせてしまうものは、普通はたとえば老齢というようなある例外的な社会条件の中で人々の嘗める限界的体験だった独りぼっちであることが、現代の絶えず増大する大衆の日常的経験となってしまったという事実である。全体主義が大衆をその中に追いこみ、、その中で組織した無慈悲な過程は、この現実な過程からの自殺的な脱走のように見える。「君を万力のようにしめつける」「氷のように冷たい推論」も、弁証法の「力強い触手」も、何びとも何ものも信頼できない世界の中での最後の支点のように見えてくる。それは内的な強制であり、その唯一の内容は一切の矛盾を避けるということでしかない。そしてこの矛盾の回避が、他者との一切の関係の外で人間のアイデンティティを確証するように見えるのである。それは人間が一人でいる場合にすらもその人間をテロルの箍に嵌めこむ。しかも全体主義的支配は、独房に監禁するという極端な場合を除いて決して人間を一人にしてこうとはしない。人間と人間のあいだの一切の空間をなくし、人間と人間を押しつけることで、孤立の持つ生産的な可能性すらも無に帰せられてしまう。独りぼっちであることの中では、すべての過程の出発にあった最初の前提を取り逃がしてしまったら完全に破滅してしまうことがわかっているのだが、そのような独りぼっちであることの論理の働きを教え、それを賛美することによって、独りぼっちであることが、孤独に変わり、論理が思想に変わるほんのわずかな可能性も消し去られてしまう。こやり方を暴政のやりかたと比較すると、砂漠そのものを動かし、無人の地球のありとあらゆる部分を蔽いかねない砂嵐を巻き起こす方法が見つかったというように見える。(p352)

 人間の歴史過程の中で、君主制、共和制、暴政、専制という時代があり、全体主義という新たな経験をした後も、私たちは現在の世界の中で生存している。それは日本という「天皇制」という過去と現在を継承する国家のなかでも生じている現実ということに迂闊ではいられない。ハンナ・アーレントの論考は現在の世界にも警鐘と根底の思索、考察を促すのだ。

 『全体主義の起源』の結語を引用しアカショウビンも新たに余生の生の活力としよう。

 ― しかしまた、歴史におけるすべての終わりは必然的に新しい始まりを内含するという真理も残る。この始まりは約束であり、終わりがもたらし得る唯一の<メッセージ>なのである。始まりは、それが歴史的事件になってしまわないうちは、人間の最高の能力なのだ。政治的には始まりは人間の自由と同一のものである。「始まりが為されんために人間は創られた」とアウグスティヌスは言った。この始まりは一人一人の人間の誕生ということによって保障されている。始まりとは、実は一人一人の人間なのだ。

 このハンナ・アーレントの思索、考察に共振しようではないか。

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