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2019年6月29日 (土)

官僚体制と政治

 差し押さえ、という行為は、官僚体制という近代の政治機構のうちで、官吏たちが冷酷に〝仕事〟として行う現実を経験するということである。それは、〝差し押さえ〟という仮名交じりの日本語表記でなく、〝差押〟という二文字で銀行通帳に記載される。その意図は中国官僚制度に基づく歴史的な経緯を経ている。官僚制という制度の基に官吏たちが血も涙もなく無表情に差し押さえ、市民に向き合う現実となって現象する。そこに、此の国の歪(いびつ)さが現れているとアカショウビンは痛感し怒りが突出したのだ。その後には先行きの生活の不安が精神の領域に不安となって生起する。しかし余生といえど娑婆での生活は続いている。官僚制という制度になめられてたまるか、という怒りと憤りが噴き上げる。胃を切られ食はさらに細くなったが食欲はまだある。くたばるまでに食べねばならぬ。食べられる、ということが如何に大切か、ということは生活に金銭的に困窮して改めて実感することである。

 それは人間に限らない。生物という存在には不可欠の行動・行為である。武士は食わねど、というのはあくまでレトリック(修辞)である。それはまた、人間という生き物の傲慢と傲岸である。歴史のなかで、その多くは食えるための戦いであることは世界の現実を視なくともアカショウビンの日常のなかで、また多くの下層労働者の日常で誰もが経験している現実である。そのことに鈍感に、金持ちや多くの日本人は日常を面白可笑しく生きている。それはけっこうな事なのだ。しかし、そこで見えなくなる現実がある。そこに気付くことは人間という生き物の、仏教的にいえば「業」として思索、考察することでもある。

 それは洋の東西を問わない。人間という生き物の本質、可能性を問うことである。それに気付くだけでも、現在のアカショウビンの苦境には光が射す。しかし人は往々にして忘れる。しかし、その生きることの根源は、そこに存する筈だ。それはハンナ・アーレントが〝人間の条件〟という壮大なテーマで真摯に辿る西洋の文化・風土で継続した思索、考察である。私たちは2019年に著作を辿りハンナの思索、考察と共振する。

 生活の困窮で不安に取り込められ暗澹となるけれども、闘う気力を奮い起さねばならぬ。残された時間は少なくとも、娑婆の生を十全に終えるためには些かなりとも余力を掻き立てねばならぬ。

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コメント

現在の日本の法体系に順守できないというならば
国内にいる限りは革命を起こさなければならない。

投稿: ここわ | 2019年6月30日 (日) 午後 06時05分


>ここわさん
>
>現在の日本の法体系に順守できないというならば
>国内にいる限りは革命を起こさなければならない。

★まさにその通り。革命とは命を革むと訓読します。しかしマルクス、レーニンの〝暴力革命〟は既に全体主義の悪路に陥った歴史に学ばなければなりません。ご指摘のように香港市民、韓国国民のデモによる国家との対峙は一つの対抗法です。しかし、それは命を革むというところまで到達しているようには思えません。それは西洋的な一つの異議です。産業革命以来、世界を席巻し歴史を主導してきたとも見える近代のそれは産物と言ってもよいのではないでしょうか。私たちは、それを超えた革命を現実のものとしなければなりません。それは人間という生き物がこの惑星で生を永らえる囲碁でいえば死活を問う難問です。囲碁には解答がありますが人間存在の根本に関わる問いに果たして解答はあるのでしょうか。しかし、それを問い回答しない限り人間の存否はありえないのも確かと私は思います。

投稿: アカショウビン | 2019年7月 3日 (水) 午前 02時27分

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