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2019年6月19日 (水)

ハンナ・アーレント覚書⑥

 ハンナが伝えようとしたものは何か。それを読み解くことは易しくはない。しかし、それは2019年の現在の人間たちや昆虫、植物、動物たちが生息する、この惑星の消長に関わる難問とも関係する。ハンナの後に続く者たちには、その物を思索し回答を出す責務があるとアカショウビンは考える。下手の考え休むに似たるかもしれない。しかし自らの生命が終わるまで、ハンナが言う行為、行動、活動は継続しよう。

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2019年6月17日 (月)

ハンナ・アーレント覚書⑤

 『政治の約束』は、ハンナが企図して実現できなかった論考を編者のジェローム・コーンが集めたものである。ハンナの著作と思索はコーンが説くように現在こそ再考すべき豊かな啓示である。ハンナの闘いを私たちは継承しなければならぬ。それを痛感する。カーンの序文の中から、それを受け取る箇所を引く。

 ▶アレントにとって決定的な点は、過去に起こった事件の固有の意味が、再現的想像力によって生き続ける可能性を有するということである。それがどんなに私たちの道徳感情を害するものであろうとも、そうした意味が物語で我が事のように体験されるとき、それは世界の深部を教化=再生(リクレイム)する。そのようにして間接体験を共有することは、世界における過去の存在を受け容れるためには、また歴史的現実から私たちが遠ざかるのを防ぐためには、もっとも効果的な方法かもしれない。

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就活とチャリティ寄席

 現在のアルバイトでは生活に困窮するだけ。新たな職場を探し本日は面接に向かう。電話で話した担当者の声は誠意を感じる。関門の一つは通過出来そうだ。仕事内容は路上警備。大阪で経験して以来だが、現状を改善するためには選り好みしていられない。夏場の毎日は大阪でも楽ではなかった。その時はまだしも、病を抱え体力の衰えで疲弊するアカショウビンの現在だが力を奮い起こさなければならぬ。ゆるゆると冥土に赴くのだ。

 きのうは、縁ある噺家さんの闘病を励ます落語会に友人と共に参加した。久しぶりに寄席で生の芸を楽しめた。お弟子さんや後輩たち若手の芸を聞けたのは幸い。闘病中のKさんは難病で大変だが八月復帰を目指しているという。昨夜も満員で収容人数を超える盛況だった。ご本人もお弟子さんからの報告を聞いて力を得たことだろう。入院・手術ではアカショウビンのほうが経験豊富である。退院したら寄席で演目を楽しみ積もる話をしたい。

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2019年6月13日 (木)

孤軍と孤老

 「孤軍」とは秋吉敏子さんのアルバムのタイトルである。孤老とはアカショウビンのような一人男、一人女の生活、生き方と称してもよかろう。現在の世界で、そのような日常を生きている現実は、表向きと内面で様々な現象として伝えられる。ネットや新聞記事でそれを知る。

 先日、高倉 建のドキュメンタリー作品「建さん」(2016年 日比遊一監督)を観た。俳優・高倉 建へのオマージュである。2014年11月に亡くなり既に4年余が過ぎているのだ。建さんと出会った人たちの様々な話が実に興味深く見聞きできる。この不器用で武骨な男の一生が活写されている秀作である。映画ファンだけでなく多くの人に観て頂きたいと切に思う。

 昨夜から今朝に、あれこれ映画や本・CDを観、読み、聴きながら、書きたい事は山ほどある。その幾つかを書くのがアカショウビンの遺言の如きものである。

 「建さん」の映像でもっとも興味深く観たのはマーティン・スコッセシと降旗康男監督の言葉である。それを見れば高倉 建という俳優の本質と生の一端は見事に切り取られている。それは、先日読み終えた「散るぞ悲しき」の栗林忠道という軍人の姿も彷彿する。それはまたハンナ・アーレントの著作を読む契機も促し励起する。

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2019年6月11日 (火)

甘くはなくて、苦みのある

 アルヴォ・ペルトの『タブラ ラサ/アルヴォ・ペルトの世界』(1984 ECM)のライナー・ノート(解説)で、黒田恭一氏は「甘くはなくて、苦みのある、明るくはなりきれなくて、うつむきながら、走る前にまずためらいが先に立ってしまうペルトの音楽にあるのは、いわゆる「現代音楽」とよばれる音楽の多くが忘れてしまった、音楽への熱い思いである」と記している。その言や好し。いくつかの録音を聴きながらアカショウビンも同意する。「現代音楽」が難解とされるのは古典音楽の形式からの脱却を試みた実験とでもいうような結果に対して聴く者が抱く感想なのだろう。それは難解なのではなく、黒田氏に言わせれば、「音楽への熱い思い」が失われているからだ、と受け取れる。しかし、武満 徹やシュニトケ、アルバン・ベルク、ペルトの作品にアカショウビンは、その「熱い思い」を聴き取る。それは何故か。人間が生きる或る時に遭遇する不安を作品が伝えることがあるからだ。それは存在することの不安と言ってもよかろう。特に歴史区分でいえば近代以降の人間にとって複雑な人間関係(もっとも、それは古代も同じだろうが、産業革命以後の〝世界〟が狭くなって以来の人間たちにとっては)や機構、国民国家のなかで生きるストレスは様々な病も伴う。その精神的な病は不安の原因となることもあるだろう。しかし、病には治療が施される。それは完治しなくとも生きられる時間を延ばすことはできるようになった。癌のように。しかし病でなくとも、狭くなった〝世界〟のなかで生きる人間にとって、紛争、戦争の絶えない現実は生きることの不安をも醸しだす。私たちが生きている〝世界〟とはそういう時空間なのだ。アカショウビンの生も正しくその中で経過している。それをペルトの作品は表出していると思う。黒田氏の批評もそこから出ているものと思われる。

 アルヴォ・ペルトが自分のスタイルでありテーマともなっているのは、生国であるエストニア語のティンティナブリ・スタイルというティンティナブル(鐘)の音を使い何かを象徴する手法だ。それは弔鐘であり、祇園精舎の鐘とも響き合う。それが日本人にも共感できる効果を齎しているのだろう。現在、ペルトはベルリンに移住しているようだ。故郷で生きるより音楽家はベルリンのほうがはるかに生きやすいのだろう。ベルリン・フィルの音楽監督を終えたサイモン・ラトルも英国に戻ったがベルリン・フィルの近くに家を買ったそうだから。

 1935年生まれのペルトは84歳の高齢である。その近作は聴いてみなくてはならない音楽家の一人である。

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2019年6月 7日 (金)

泣く中島みゆき

 東京新聞夕刊に掲載されている加藤登紀子さん(以下敬称は略させていただく)の〝この道〟は興味深く読んでいる。昨日は第47回。中島みゆきとの出会いが書かれている。アカショウビンの歌姫たちの一人、中島みゆきは同世代の稀有の歌姫だ。若き頃の「時代」は同時代を生きるアカショウビンには愛聴するオペラ歌手たちに勝るとも劣らない作品として今も時に口ずさむ

 1975年当時の人気歌手二人の出会いはそういう意味で実に興味深いのだ。二番目の出産をひかえた加藤に中島みゆきは加藤宅を訪れ持参したギターで「夜風の中から」を歌ったという。その二年後に「わかれうた」が大ヒットした。加藤は中島を「革命的な大スター」と賛す。その言や好し。それは決して褒めすぎではなく、中島という歌い手はそれほどの歌い手なのである。それを加藤は直感している。加藤のライブに中島が訪れステージの袖に身を潜めで聴いているという回想も驚く。二度テレビで共演したらしい。二度目の時はフジテレビの「ミュージックフェア」だったという。その時歌ったのが「ホームにて」。途中から中島みゆきが泣きだしたという。歌のシーンがそのまま伝わってくるような瞬間を加藤はありありと思いだすと書く。この曲が帯広を舞台にしているということも初めて知った。この歌の抒情は格別で卓越している。中島みゆきという歌い手のやわらかくも凛とした感性が伝わる名曲だ。加藤は「途方もなく広い大地、深い孤独。彼女の、誰にも無い闇の濃さが好きだ」と書いている。加藤の中島みゆきへの最大のオマージュである。アカショウビンも同じ思いで深く共感する。

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2019年6月 4日 (火)

朝の読書

 先日、CDやDVDの中古店で古本を格安で手に入れた。『ピアニストという蛮族がいる』。中村紘子の1992年の単行本である。何と当時1400円が百円で買えた。そして実に面白い。通勤の時に夢中になって読んでいる。その一行から聴きたいCDが次々と脳裏に浮かぶ。今夜は先ずラフマニノフから。その逸話に興味惹かれるからだ。

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朝の妙音

 昨夜からアルバイト労働に疲れ団地に帰るとCDを聴きながら寝入ることが度々。昨夜はレンタルで借りたウディ・アレンの『人生万歳』の監督インタビューを聴きながら寝ていた。朝、目が覚め幾つかCDを聴いた。リヒテルのキエフ・ライブのベートーヴェン、グールドの後期ベートーヴェン。久しぶりに聴いたグールドが新鮮で澄みきった音が朝の気分を晴らせた。その勢いで、先日ネットのミクシーの書き込みで気になっていたペルゴレージの『スターバト・マーテル』を聴いた。アバドが若いころロンドン響と録音したものである。この早世した音楽家が最期の時に完成させた、それは哀切なミサ曲である。ソプラノとアルトが歌い交わす声がみごと。アルバイト労働の疲れを癒やす妙音となり心安らいだ。

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2019年6月 3日 (月)

週の始めに 

 週刊囲碁で囲碁界の近況を読む。国際戦で日本棋士の不甲斐なさにやりきれなくなる。井山や日本のトップクラスが中国、韓国棋士に勝てない。何とかありつけたアルバイト労働に赴く電車の車中で、それは働く意欲を妨げる。超一流の棋士同士の勝負は紙一重だ。それは彼らが骨身に滲みてわかっていることだ。プロの皆さん、ファンを裏切らす結果を出してくだされ。さぁ、気持ちを切り替えよう。心身を奮い立たせねばならない。午後1時8分、JR横浜線と京浜急行線を乗り継ぎ、羽田空港国内線ターミナル駅に到着した。交通費は自腹である。困窮し、疲弊・消耗する労働から早く脱却しなければならなぬ。朝食と昼食を兼ねた食事は済ませた。あとはこれから肉体労働のシノギの時だ。

 

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ハンナ・アーレント覚書④

 『全体主義の起源』のエピローグでハンナは「孤独」と「独りぼっち(loneliness)」を区別する。それはアウシュヴィッツの絶滅収容所とボルシェヴィキの強制収容所で抹殺されたユダヤ人やロシア人の生と死を分析するハンナ・アーレントの独自の思索を読むということである。それはアカショウビンのような独身者に痛烈な思索を促す啓示のように届く。「孤独」はまだ自己の中で、もう一人の自分と共生することである「人間」という生き物の特異性ということである。そこにハンナは注目する。しかし全体主義・全体主義運動は、それに「箍をはめ」、「孤独」ではなく、「独りぼっち(loneliness)」に、がんじがらめにしてテロルで抹殺する。そのハンナの思索は時に日常のなかで疲弊し消耗するアカショウビンを鼓舞する。 

 ナチズムとボルシェヴィキ支配下という人間の歴史のなかで初めて生じた現実を俯瞰し考察する苦闘、熟考するハンナ・アーレントの思索はアカショウビンには精神を鼓舞し励起する恩寵のようなものである。同書の啓発される箇所を引用しておこう。

 ― 非全体主義の世界の中で人々に全体主義支配を受け容れさせてしまうものは、普通はたとえば老齢というようなある例外的な社会条件の中で人々の嘗める限界的体験だった独りぼっちであることが、現代の絶えず増大する大衆の日常的経験となってしまったという事実である。全体主義が大衆をその中に追いこみ、、その中で組織した無慈悲な過程は、この現実な過程からの自殺的な脱走のように見える。「君を万力のようにしめつける」「氷のように冷たい推論」も、弁証法の「力強い触手」も、何びとも何ものも信頼できない世界の中での最後の支点のように見えてくる。それは内的な強制であり、その唯一の内容は一切の矛盾を避けるということでしかない。そしてこの矛盾の回避が、他者との一切の関係の外で人間のアイデンティティを確証するように見えるのである。それは人間が一人でいる場合にすらもその人間をテロルの箍に嵌めこむ。しかも全体主義的支配は、独房に監禁するという極端な場合を除いて決して人間を一人にしてこうとはしない。人間と人間のあいだの一切の空間をなくし、人間と人間を押しつけることで、孤立の持つ生産的な可能性すらも無に帰せられてしまう。独りぼっちであることの中では、すべての過程の出発にあった最初の前提を取り逃がしてしまったら完全に破滅してしまうことがわかっているのだが、そのような独りぼっちであることの論理の働きを教え、それを賛美することによって、独りぼっちであることが、孤独に変わり、論理が思想に変わるほんのわずかな可能性も消し去られてしまう。こやり方を暴政のやりかたと比較すると、砂漠そのものを動かし、無人の地球のありとあらゆる部分を蔽いかねない砂嵐を巻き起こす方法が見つかったというように見える。(p352)

 人間の歴史過程の中で、君主制、共和制、暴政、専制という時代があり、全体主義という新たな経験をした後も、私たちは現在の世界の中で生存している。それは日本という「天皇制」という過去と現在を継承する国家のなかでも生じている現実ということに迂闊ではいられない。ハンナ・アーレントの論考は現在の世界にも警鐘と根底の思索、考察を促すのだ。

 『全体主義の起源』の結語を引用しアカショウビンも新たに余生の生の活力としよう。

 ― しかしまた、歴史におけるすべての終わりは必然的に新しい始まりを内含するという真理も残る。この始まりは約束であり、終わりがもたらし得る唯一の<メッセージ>なのである。始まりは、それが歴史的事件になってしまわないうちは、人間の最高の能力なのだ。政治的には始まりは人間の自由と同一のものである。「始まりが為されんために人間は創られた」とアウグスティヌスは言った。この始まりは一人一人の人間の誕生ということによって保障されている。始まりとは、実は一人一人の人間なのだ。

 このハンナ・アーレントの思索、考察に共振しようではないか。

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2019年6月 1日 (土)

ハンナ・アーレント覚書③

 ハンナの全体主義分析が現在を生きる私たちに他人事ではないという実感をもたらすのは、新聞記事で諸外国の状況や事件を眼にするときである。その一つは北朝鮮が米朝首脳会談の準備に関わった高官を結果の不首尾によって処刑したという報道もそれである。北朝鮮は独裁主義国家であるが全体主義国家であるかどうかはハンナの分析によれば予断を許さない。それを判別しなければ全体主義国家、全体主義運動の現代性は理解できないだろうからだ。少なくとも、ヒトラーとスターリンという二人の政治支配者によって全体主義国家・全体主義運動という歴史上初めての事実が現象した。それはトランプや安倍という権力者たちが、それらの資質と権力を有する立場にあるということである。しかし〝民主主義〟という建前がそれを妨げる政体のひとつとなっている。ところが、彼らは十分に独裁者の要素を民主主義政治の中で、その可能性と権力を駆使している。それが十分でないということが民主主義という政体のかろうじての救いである。しかし、それは歴史過程のなかで束の間の期間かもしれないことには注意深くありたい。ハンナ・アーレントを読むということは、そのような意識と意志を励起させる効果をもつ貴重な機会なのである。マルクス・エンゲルスの顰(ひそみ)に倣えば、全体主義・全体主義運動という魔物の亡霊・悪霊が世界のあちらこちらを徘徊している。

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