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2019年6月30日 (日)

イギリス民謡

 今朝のNHKラジオ〝音楽の泉〟はイギリス民謡である。アカショウビンも少年のころから馴染んできた曲が男女の声楽アンサンブルで聴けてありがたい。皆川達夫さんのご説明、案内が親切、懇切でこの番組を毎週楽しみにしている。各曲は原詩とは異なる日本語訳も多い。「蛍の光」などがその例だが、それも好し。ザ・スコラーズという声楽アンサンブルの声だけの精妙さがすばらしい。アンサンブルの妙だ。

 幕末から明治時代に、同じ島国で世界制覇した強国の民謡は富国政策のなかで異文化の受容として日本人の心にもメロディの面白さと翻訳によって精神にまで影響を与えたのだろう。その変奏が、きょうの朝に聴ける幸いは言祝ぐべし。「スカボロー・フェア」は、かつてサイモンとガーファンクルで繰り返し聴いた曲だ。

 民謡には素朴で感情の沁み込んだ懐かしさと楽しさがある。バルトークやコダーイの作品の面白さもそれが起源となっている。それは洋の東西南北に共通している。アカショウビンも故郷、奄美の民謡を聴けば心身が共振し血が騒ぐ。二月に帰郷した時に地元FM局では新民謡という曲が放送されていた。奄美は唄の島でもあるのだ。その伝統が受け継がれているのを知って面白かった。しかし、心を揺さぶるのは古民謡である。朝原郁恵さんの声は古くから伝えられた奄美の土地の歴史の声を通した喜怒哀楽が沁み込んでいる不可思議な深淵が伝わる。

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2019年6月29日 (土)

紅の豚

 宮崎駿さん(以下、敬称は省略させていただく)の「紅の豚」を観たのがいつか定かではないが、面白くも違和感をもって観たのは想い出す。何で豚が主人公で舞台がイタリアなのか不明だったからだ。しかし、そこに流れる加藤登紀子の歌は心に沁みた。宮崎と加藤の奇妙だが、魂の交歓のように感じられたからだ。秀作、佳作には、そのような瞬間がある。それは決して失われることがない貴重な瞬間である。

 東京新聞の昨夜の夕刊でそれを読み、挑発された。1992年の尾崎 豊の死の報道の渦中の回想だ。「さくらんぼの実る頃」の抒情が心に沁みたのだ。加藤はピアノ伴奏で録音したと書いている。フランス語で歌うのは初めてだったとも。「ジーナの滴る美しさ」という加藤の記述も共感する。加藤はジーナはマレーネ・ディートリッヒだと書いている。それには共感する。その歌い手の録音はかつて繰り返し聴いた。独特な英語は面白く聴けた。久しく聴いていないが、そこには歌い手の魂とでもいうようなものが聴き取れたからだ。ジーナが生きた1901年はマレーネが生きた時代と重なる。ドイツからハリウッドに移り住んだマレーネはハリウッドが大嫌いだったらしい。それは、多くのヨーロッパ移民たちに共通するのかもしれない。しかし新たな天地に希望を感じ抱いた人々もいたに違いない。それは現在のアメリカに生きる人々に確かに存在するだろう。そこは熟考を要する。ワルターやクレンペラーたち多くの音楽家や優れた芸術家、名も知られぬ民衆たちの姿と声を通じて。マレーネ・ディートリッヒは1992年五月六日、90歳で此の世を去ったという。加藤は誕生日が十二月七日で同じらしい。「彼女の死がジーナを演じたこの年だった偶然が深く心に残った」と加藤は書いている。この世の縁とはかくの如し。「もっと、もっと怒ってください。登紀子さんの生きた年月全部の怒りを」と宮崎は加藤に36回もダメだしをしたという。その結果に観衆、聴衆は激しく挑発され、仏教でいえば「感応道交」するのだ。「紅の豚」を再見し加藤の歌を改めて聴こう。

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官僚体制と政治

 差し押さえ、という行為は、官僚体制という近代の政治機構のうちで、官吏たちが冷酷に〝仕事〟として行う現実を経験するということである。それは、〝差し押さえ〟という仮名交じりの日本語表記でなく、〝差押〟という二文字で銀行通帳に記載される。その意図は中国官僚制度に基づく歴史的な経緯を経ている。官僚制という制度の基に官吏たちが血も涙もなく無表情に差し押さえ、市民に向き合う現実となって現象する。そこに、此の国の歪(いびつ)さが現れているとアカショウビンは痛感し怒りが突出したのだ。その後には先行きの生活の不安が精神の領域に不安となって生起する。しかし余生といえど娑婆での生活は続いている。官僚制という制度になめられてたまるか、という怒りと憤りが噴き上げる。胃を切られ食はさらに細くなったが食欲はまだある。くたばるまでに食べねばならぬ。食べられる、ということが如何に大切か、ということは生活に金銭的に困窮して改めて実感することである。

 それは人間に限らない。生物という存在には不可欠の行動・行為である。武士は食わねど、というのはあくまでレトリック(修辞)である。それはまた、人間という生き物の傲慢と傲岸である。歴史のなかで、その多くは食えるための戦いであることは世界の現実を視なくともアカショウビンの日常のなかで、また多くの下層労働者の日常で誰もが経験している現実である。そのことに鈍感に、金持ちや多くの日本人は日常を面白可笑しく生きている。それはけっこうな事なのだ。しかし、そこで見えなくなる現実がある。そこに気付くことは人間という生き物の、仏教的にいえば「業」として思索、考察することでもある。

 それは洋の東西を問わない。人間という生き物の本質、可能性を問うことである。それに気付くだけでも、現在のアカショウビンの苦境には光が射す。しかし人は往々にして忘れる。しかし、その生きることの根源は、そこに存する筈だ。それはハンナ・アーレントが〝人間の条件〟という壮大なテーマで真摯に辿る西洋の文化・風土で継続した思索、考察である。私たちは2019年に著作を辿りハンナの思索、考察と共振する。

 生活の困窮で不安に取り込められ暗澹となるけれども、闘う気力を奮い起さねばならぬ。残された時間は少なくとも、娑婆の生を十全に終えるためには些かなりとも余力を掻き立てねばならぬ。

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2019年6月27日 (木)

二人の俳優

 先に観たのは高倉 健のドキュメンタリー映像だった。先日、三船敏郎のドキュメント映像が同じレンタルショップで貸し出されていたので観た。両作品にマーティン・スコセッシがコメントを述べている。それが明晰で的確なコメントである。後者のコメントから引用しよう。

 「役者と映像は特性を助長し合う。黒澤と役者との関係、特に三船との関係こそが、『羅生門』の独自性の核心だった。三船の演技には幅があり、感情も豊かなものだった。野生のライオンの動きを研究して演技の参考にしたそうだ。まるで檻の中の獣」。

 日系アメリカ人が撮った映像には長男や日本の名優たちにインタビューしている。香川京子や加藤 武らの三船評が感慨深い。名優たちのなかでも三船や高倉は世界に通用した俳優であることが、スコセッシや米国のスタッフのコメントでわかる。先日は「羅生門」もレンタルDVDで観直した。それは三船や高倉 健という俳優の真価を伝えている。映画と音楽、それに加えて読み続けている本を通してアカショウビンも余生を生きる糧とする。断続的だが、その感想は書き続けていく。

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東洋とは何か

 先日、年金を市役所に差し押さえられた。都市税、国民健康保険の滞納のためだ。それでは生活できない。分割で払うからと言っても金は返せないと言う。あとの経緯は省く。斯様に地方自治体は市民に冷徹な対応をして何の善処もしない。あとは弁護士を介するしかない。私たちは、そのような国に生存している。憲法では最低限の生活と生存権が保証されている。しかし、行政はそれを無視した行為をして恥じない。

 国政は集団的自衛権で憲法を踏みにじる違法を犯して恥じない。国と地方自治体は同じ穴の狢という事だ。

 同様の事は世界でも行われている。先の大戦後にパレスチナの土地を奪い移り住んだユダヤ人国家、イスラエルの無法と所業を支えているアメリカ合州国の現在のやりくちだ。

 昨年からハンナ・アーレントを読み続けているが、先日図書館でエドワード・W・サイードの『パレスチナ問題』を借りてきて読み出している。それはハンナらユダヤ人と対立するアラブの民の立場に立った論説・論考である。それが熟考を促す。サイードは西洋的文化で学者になった。しかし、一人のパレスチナ人として思想家として一生を終えた。その言説、論考、論説、思索がアカショウビンら東洋の島国の民にも他人事ではない思索、考察を促すのである。それはハンナ・アーレントが提示する行動、行為という概念を考え抜き自らの行為、行動とすることに繋がる。

 もう一つの論点は、サイードが展開するパレスチナという、西洋からするとオリエントとされる東方の野蛮国の側に住む人々の歴史と現実から発する主張だ。それは日本人やアジアの民人の主張として共闘できる。それは東洋とは何かと考察、思索し行動することだ。仏教的思想地盤に生きる東南アジアの人々の声にも耳傾ける。

 それはともかく、生活のためには国と事を構えなければならない。国会にデモもかけよう。現政権の憲法違反の暴挙には怒りを突き付けねばならない。日銭を稼ぎ怒りの声を挙げるのだ。

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2019年6月21日 (金)

1945年1月28日、ウィーン

 人類の殺し合いが世界中で生じた時に〝音楽の都〟では不安の渦中で指揮者とオーケストラ、聴衆が精神と心を共振させながらコンサート会場で強烈な時空間を共有していた。ナチス・ドイツはウィーンを手中に収めながら断末魔の時を迎えている。戦争は最終局面に至ろうとしている。阿鼻叫喚は洋の東西に満ちていたことは史実を辿れば明白だ。

 多くのユダヤ人、指揮者ではクレンペラー、ワルターも亡命している。ハンナ・アーレントもパリを経由し米国に亡命した。指揮者も故国を去る段取りを済ませていた。そこで演奏された作品はセザール・フランクの「交響曲ニ短調」。かつてレコードでは別の録音で馴染んだ。指揮者はフルトヴェングラー、オーケストラはウィーン・フィルハーモニーである。フルトヴェングラーには珍しいフランス音楽だが、ドイツ風の重厚な響きが横溢している。不安に満ちていたであろう、〝音楽の都〟で聴衆と気分を共にし、将来を模索するにはドイツ音楽と共に適う作品で、フルトヴェングラーらしい選曲だ。それを聴けば歴史の或る時の音楽の響と咳(しわぶき)が我が身に届き気持ちが引き締まる。この時の回想はフルトヴェングラー夫人が語っている(『人間フルトヴェングラー エリザベット夫人にきく素顔の巨匠』 朝日文庫 1993年 志鳥栄八郎)。1984年に音楽の友社から発刊された時に読んで以来。文庫になって再読したが引っ越し段ボールの中。先日古本で購入したので三読し実に面白い。フルトヴェングラーと敗戦間近の当時のドイツ、ウィーンの雰囲気がエリザベット夫人の生々しい回想で甦るようだ。間一髪、フルトヴェングラーは、ナチスの追及を脱しスイスの家族の元に辿り着く。その直前の記録が残る幸いを感謝しよう。

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2019年6月20日 (木)

正念場

 生活の立て直しに行動する。先週面接してくれた警備会社から指示された必要書類を取得に都内へ。朝はバルトークと大西順子トリオのヴィレッジ・ヴァンガード録音を聴き気合いを入れた。

 昨夜はレンタルDVDで今村昌平監督の初期作品を観た。『盗まれた欲情』『西銀座駅前』。今村昌平のパワーと役者たちの勢いが楽しい、今村組の佳作だ。

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2019年6月19日 (水)

ハンナ・アーレント覚書⑥

 ハンナが伝えようとしたものは何か。それを読み解くことは易しくはない。しかし、それは2019年の現在の人間たちや昆虫、植物、動物たちが生息する、この惑星の消長と死活に関わる難問とも関係する。ハンナの後に続く者たちには、その物を思索し回答を出す責務があるとアカショウビンは考える。下手の考え休むに似たるかもしれない。しかし自らの生命が終わるまで、ハンナが言う行為、行動、活動は継続しよう。

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2019年6月17日 (月)

ハンナ・アーレント覚書⑤

 『政治の約束』は、ハンナが企図して実現できなかった論考を編者のジェローム・コーンが集めたものである。ハンナの著作と思索はコーンが説くように現在こそ再考すべき豊かな啓示である。ハンナの闘いを私たちは継承しなければならぬ。それを痛感する。カーンの序文の中から、それを受け取る箇所を引く。

 ▶アレントにとって決定的な点は、過去に起こった事件の固有の意味が、再現的想像力によって生き続ける可能性を有するということである。それがどんなに私たちの道徳感情を害するものであろうとも、そうした意味が物語で我が事のように体験されるとき、それは世界の深部を教化=再生(リクレイム)する。そのようにして間接体験を共有することは、世界における過去の存在を受け容れるためには、また歴史的現実から私たちが遠ざかるのを防ぐためには、もっとも効果的な方法かもしれない。

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就活とチャリティ寄席

 現在のアルバイトでは生活に困窮するだけ。新たな職場を探し本日は面接に向かう。電話で話した担当者の声は誠意を感じる。関門の一つは通過出来そうだ。仕事内容は路上警備。大阪で経験して以来だが、現状を改善するためには選り好みしていられない。夏場の毎日は大阪でも楽ではなかった。その時はまだしも、病を抱え体力の衰えで疲弊するアカショウビンの現在だが力を奮い起こさなければならぬ。ゆるゆると冥土に赴くのだ。

 きのうは、縁ある噺家さんの闘病を励ます落語会に友人と共に参加した。久しぶりに寄席で生の芸を楽しめた。お弟子さんや後輩たち若手の芸を聞けたのは幸い。闘病中のKさんは難病で大変だが八月復帰を目指しているという。昨夜も満員で収容人数を超える盛況だった。ご本人もお弟子さんからの報告を聞いて力を得たことだろう。入院・手術ではアカショウビンのほうが経験豊富である。退院したら寄席で演目を楽しみ積もる話をしたい。

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2019年6月13日 (木)

孤軍と孤老

 「孤軍」とは秋吉敏子さんのアルバムのタイトルである。孤老とはアカショウビンのような一人男、一人女の生活、生き方と称してもよかろう。現在の世界で、そのような日常を生きている現実は、表向きと内面で様々な現象として伝えられる。ネットや新聞記事でそれを知る。

 先日、高倉 建のドキュメンタリー作品「建さん」(2016年 日比遊一監督)を観た。俳優・高倉 建へのオマージュである。2014年11月に亡くなり既に4年余が過ぎているのだ。建さんと出会った人たちの様々な話が実に興味深く見聞きできる。この不器用で武骨な男の一生が活写されている秀作である。映画ファンだけでなく多くの人に観て頂きたいと切に思う。

 昨夜から今朝に、あれこれ映画や本・CDを観、読み、聴きながら、書きたい事は山ほどある。その幾つかを書くのがアカショウビンの遺言の如きものである。

 「建さん」の映像でもっとも興味深く観たのはマーティン・スコッセシと降旗康男監督の言葉である。それを見れば高倉 建という俳優の本質と生の一端は見事に切り取られている。それは、先日読み終えた「散るぞ悲しき」の栗林忠道という軍人の姿も彷彿する。それはまたハンナ・アーレントの著作を読む契機も促し励起する。

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2019年6月11日 (火)

甘くはなくて、苦みのある

 アルヴォ・ペルトの『タブラ ラサ/アルヴォ・ペルトの世界』(1984 ECM)のライナー・ノート(解説)で、黒田恭一氏は「甘くはなくて、苦みのある、明るくはなりきれなくて、うつむきながら、走る前にまずためらいが先に立ってしまうペルトの音楽にあるのは、いわゆる「現代音楽」とよばれる音楽の多くが忘れてしまった、音楽への熱い思いである」と記している。その言や好し。いくつかの録音を聴きながらアカショウビンも同意する。「現代音楽」が難解とされるのは古典音楽の形式からの脱却を試みた実験とでもいうような結果に対して聴く者が抱く感想なのだろう。それは難解なのではなく、黒田氏に言わせれば、「音楽への熱い思い」が失われているからだ、と受け取れる。しかし、武満 徹やシュニトケ、アルバン・ベルク、ペルトの作品にアカショウビンは、その「熱い思い」を聴き取る。それは何故か。人間が生きる或る時に遭遇する不安を作品が伝えることがあるからだ。それは存在することの不安と言ってもよかろう。特に歴史区分でいえば近代以降の人間にとって複雑な人間関係(もっとも、それは古代も同じだろうが、産業革命以後の〝世界〟が狭くなって以来の人間たちにとっては)や機構、国民国家のなかで生きるストレスは様々な病も伴う。その精神的な病は不安の原因となることもあるだろう。しかし、病には治療が施される。それは完治しなくとも生きられる時間を延ばすことはできるようになった。癌のように。しかし病でなくとも、狭くなった〝世界〟のなかで生きる人間にとって、紛争、戦争の絶えない現実は生きることの不安をも醸しだす。私たちが生きている〝世界〟とはそういう時空間なのだ。アカショウビンの生も正しくその中で経過している。それをペルトの作品は表出していると思う。黒田氏の批評もそこから出ているものと思われる。

 アルヴォ・ペルトが自分のスタイルでありテーマともなっているのは、生国であるエストニア語のティンティナブリ・スタイルというティンティナブル(鐘)の音を使い何かを象徴する手法だ。それは弔鐘であり、祇園精舎の鐘とも響き合う。それが日本人にも共感できる効果を齎しているのだろう。現在、ペルトはベルリンに移住しているようだ。故郷で生きるより音楽家はベルリンのほうがはるかに生きやすいのだろう。ベルリン・フィルの音楽監督を終えたサイモン・ラトルも英国に戻ったがベルリン・フィルの近くに家を買ったそうだから。

 1935年生まれのペルトは84歳の高齢である。その近作は聴いてみなくてはならない音楽家の一人である。

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2019年6月 7日 (金)

泣く中島みゆき

 東京新聞夕刊に掲載されている加藤登紀子さん(以下敬称は略させていただく)の〝この道〟は興味深く読んでいる。昨日は第47回。中島みゆきとの出会いが書かれている。アカショウビンの歌姫たちの一人、中島みゆきは同世代の稀有の歌姫だ。若き頃の「時代」は同時代を生きるアカショウビンには愛聴するオペラ歌手たちに勝るとも劣らない作品として今も時に口ずさむ

 1975年当時の人気歌手二人の出会いはそういう意味で実に興味深いのだ。二番目の出産をひかえた加藤に中島みゆきは加藤宅を訪れ持参したギターで「夜風の中から」を歌ったという。その二年後に「わかれうた」が大ヒットした。加藤は中島を「革命的な大スター」と賛す。その言や好し。それは決して褒めすぎではなく、中島という歌い手はそれほどの歌い手なのである。それを加藤は直感している。加藤のライブに中島が訪れステージの袖に身を潜めで聴いているという回想も驚く。二度テレビで共演したらしい。二度目の時はフジテレビの「ミュージックフェア」だったという。その時歌ったのが「ホームにて」。途中から中島みゆきが泣きだしたという。歌のシーンがそのまま伝わってくるような瞬間を加藤はありありと思いだすと書く。この曲が帯広を舞台にしているということも初めて知った。この歌の抒情は格別で卓越している。中島みゆきという歌い手のやわらかくも凛とした感性が伝わる名曲だ。加藤は「途方もなく広い大地、深い孤独。彼女の、誰にも無い闇の濃さが好きだ」と書いている。加藤の中島みゆきへの最大のオマージュである。アカショウビンも同じ思いで深く共感する。

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2019年6月 4日 (火)

朝の読書

 先日、CDやDVDの中古店で古本を格安で手に入れた。『ピアニストという蛮族がいる』。中村紘子の1992年の単行本である。何と当時1400円が百円で買えた。そして実に面白い。通勤の時に夢中になって読んでいる。その一行から聴きたいCDが次々と脳裏に浮かぶ。今夜は先ずラフマニノフから。その逸話に興味惹かれるからだ。

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朝の妙音

 昨夜からアルバイト労働に疲れ団地に帰るとCDを聴きながら寝入ることが度々。昨夜はレンタルで借りたウディ・アレンの『人生万歳』の監督インタビューを聴きながら寝ていた。朝、目が覚め幾つかCDを聴いた。リヒテルのキエフ・ライブのベートーヴェン、グールドの後期ベートーヴェン。久しぶりに聴いたグールドが新鮮で澄みきった音が朝の気分を晴らせた。その勢いで、先日ネットのミクシーの書き込みで気になっていたペルゴレージの『スターバト・マーテル』を聴いた。アバドが若いころロンドン響と録音したものである。この早世した音楽家が最期の時に完成させた、それは哀切なミサ曲である。ソプラノとアルトが歌い交わす声がみごと。アルバイト労働の疲れを癒やす妙音となり心安らいだ。

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2019年6月 3日 (月)

週の始めに 

 週刊囲碁で囲碁界の近況を読む。国際戦で日本棋士の不甲斐なさにやりきれなくなる。井山や日本のトップクラスが中国、韓国棋士に勝てない。何とかありつけたアルバイト労働に赴く電車の車中で、それは働く意欲を妨げる。超一流の棋士同士の勝負は紙一重だ。それは彼らが骨身に滲みてわかっていることだ。プロの皆さん、ファンを裏切らす結果を出してくだされ。さぁ、気持ちを切り替えよう。心身を奮い立たせねばならない。午後1時8分、JR横浜線と京浜急行線を乗り継ぎ、羽田空港国内線ターミナル駅に到着した。交通費は自腹である。困窮し、疲弊・消耗する労働から早く脱却しなければならなぬ。朝食と昼食を兼ねた食事は済ませた。あとはこれから肉体労働のシノギの時だ。

 

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ハンナ・アーレント覚書④

 『全体主義の起源』のエピローグでハンナは「孤独」と「独りぼっち(loneliness)」を区別する。それはアウシュヴィッツの絶滅収容所とボルシェヴィキの強制収容所で抹殺されたユダヤ人やロシア人の生と死を分析するハンナ・アーレントの独自の思索を読むということである。それはアカショウビンのような独身者に痛烈な思索を促す啓示のように届く。「孤独」はまだ自己の中で、もう一人の自分と共生することである「人間」という生き物の特異性ということである。そこにハンナは注目する。しかし全体主義・全体主義運動は、それに「箍をはめ」、「孤独」ではなく、「独りぼっち(loneliness)」に、がんじがらめにしてテロルで抹殺する。そのハンナの思索は時に日常のなかで疲弊し消耗するアカショウビンを鼓舞する。 

 ナチズムとボルシェヴィキ支配下という人間の歴史のなかで初めて生じた現実を俯瞰し考察する苦闘、熟考するハンナ・アーレントの思索はアカショウビンには精神を鼓舞し励起する恩寵のようなものである。同書の啓発される箇所を引用しておこう。

 ― 非全体主義の世界の中で人々に全体主義支配を受け容れさせてしまうものは、普通はたとえば老齢というようなある例外的な社会条件の中で人々の嘗める限界的体験だった独りぼっちであることが、現代の絶えず増大する大衆の日常的経験となってしまったという事実である。全体主義が大衆をその中に追いこみ、、その中で組織した無慈悲な過程は、この現実な過程からの自殺的な脱走のように見える。「君を万力のようにしめつける」「氷のように冷たい推論」も、弁証法の「力強い触手」も、何びとも何ものも信頼できない世界の中での最後の支点のように見えてくる。それは内的な強制であり、その唯一の内容は一切の矛盾を避けるということでしかない。そしてこの矛盾の回避が、他者との一切の関係の外で人間のアイデンティティを確証するように見えるのである。それは人間が一人でいる場合にすらもその人間をテロルの箍に嵌めこむ。しかも全体主義的支配は、独房に監禁するという極端な場合を除いて決して人間を一人にしてこうとはしない。人間と人間のあいだの一切の空間をなくし、人間と人間を押しつけることで、孤立の持つ生産的な可能性すらも無に帰せられてしまう。独りぼっちであることの中では、すべての過程の出発にあった最初の前提を取り逃がしてしまったら完全に破滅してしまうことがわかっているのだが、そのような独りぼっちであることの論理の働きを教え、それを賛美することによって、独りぼっちであることが、孤独に変わり、論理が思想に変わるほんのわずかな可能性も消し去られてしまう。こやり方を暴政のやりかたと比較すると、砂漠そのものを動かし、無人の地球のありとあらゆる部分を蔽いかねない砂嵐を巻き起こす方法が見つかったというように見える。(p352)

 人間の歴史過程の中で、君主制、共和制、暴政、専制という時代があり、全体主義という新たな経験をした後も、私たちは現在の世界の中で生存している。それは日本という「天皇制」という過去と現在を継承する国家のなかでも生じている現実ということに迂闊ではいられない。ハンナ・アーレントの論考は現在の世界にも警鐘と根底の思索、考察を促すのだ。

 『全体主義の起源』の結語を引用しアカショウビンも新たに余生の生の活力としよう。

 ― しかしまた、歴史におけるすべての終わりは必然的に新しい始まりを内含するという真理も残る。この始まりは約束であり、終わりがもたらし得る唯一の<メッセージ>なのである。始まりは、それが歴史的事件になってしまわないうちは、人間の最高の能力なのだ。政治的には始まりは人間の自由と同一のものである。「始まりが為されんために人間は創られた」とアウグスティヌスは言った。この始まりは一人一人の人間の誕生ということによって保障されている。始まりとは、実は一人一人の人間なのだ。

 このハンナ・アーレントの思索、考察に共振しようではないか。

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2019年6月 1日 (土)

ハンナ・アーレント覚書③

 ハンナの全体主義分析が現在を生きる私たちに他人事ではないという実感をもたらすのは、新聞記事で諸外国の状況や事件を眼にするときである。その一つは北朝鮮が米朝首脳会談の準備に関わった高官を結果の不首尾によって処刑したという報道もそれである。北朝鮮は独裁主義国家であるが全体主義国家であるかどうかはハンナの分析によれば予断を許さない。それを判別しなければ全体主義国家、全体主義運動の現代性は理解できないだろうからだ。少なくとも、ヒトラーとスターリンという二人の政治支配者によって全体主義国家・全体主義運動という歴史上初めての事実が現象した。それはトランプや安倍という権力者たちが、それらの資質と権力を有する立場にあるということである。しかし〝民主主義〟という建前がそれを妨げる政体のひとつとなっている。ところが、彼らは十分に独裁者の要素を民主主義政治の中で、その可能性と権力を駆使している。それが十分でないということが民主主義という政体のかろうじての救いである。しかし、それは歴史過程のなかで束の間の期間かもしれないことには注意深くありたい。ハンナ・アーレントを読むということは、そのような意識と意志を励起させる効果をもつ貴重な機会なのである。マルクス・エンゲルスの顰(ひそみ)に倣えば、全体主義・全体主義運動という魔物の亡霊・悪霊が世界のあちらこちらを徘徊している。

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