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2019年5月 9日 (木)

アルヴォ・ペルトの作品

 祈りの到達する境位というものがあるとすれば、それをアカショウビンは、この十数年のアルヴォ・ペルトの作品に聴く。先日、初期のころの作品も聴き、この同時代に生きる音楽家の作品に集中する。それは余生を生きる活力とも諦念ともなる。祈りの基底にある根拠ともなるのは嘆きであり諦めでもあり怒りでもあろう。それは西洋哲学ではギリシア由来の伝統的思考である。それはヤスパース、ハイデッガー、フーコー、デリダの思索・考察として現代まで継承されている。それはまた優れた文学作品を読むのと同じ思索を督促する。

 先日、友人と久しぶりに会ったときに音楽や最近読んだ本の話で話が弾んだ。二冊の本も頂戴した。『リヒテルと私』(草思社 2015年8月10日 河島みどり著)、『他山石語』(1990年6月10日 講談社文芸文庫 吉川幸次郎著)。前書はリヒテル好きのアカショウビンと共通の関心を慮って頂いたのだ。後書は中国文学の碩学がマーラーの晩年作品にコメントした一文もある。アルバイトに行く電車の車中で読んで面白い。リヒテルの通訳として彼の人となりが活写されている。音楽とは殆ど無縁の女性が〝巨匠〟の雅気と日常に触れ触発される。その音楽の深淵の一端にも遭遇する。その正直と行間に辿れる演奏を録音で聴き直す。そのような機会も与えてくれる。それはまたロシア音楽やロシア文学を改めて聴き、読み直すということになる。怠惰なアカショウビンの日常にも光射す時がある。それを生きる糧とし日常を非日常と繋ぎ異なる次元への通路を開くのだ。

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