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2019年5月21日 (火)

大人になれない政治家

 意気がった党名の所属議員が醸した本音が新聞紙上で丁々発止される。事の顛末を紙面で辿れば、頭の悪いおぼっちゃまくんが、アルコールの勢いで、大ボラふいたような話だ。大人になれない、「恐るべき子供たち」の現代日本版というところだろう。議員の支持者の責任は、党派を超えて政権の横暴と通じている。ハンナ・アーレントの全体主義分析の論説を辿ると、西洋近代が世界に生じさせたハンナの説く「超意味」という概念の到達するナチズムに席巻されたドイツ国家の歴史を考察する意志を励起させられる。それはまた同時代にナチズム国家と呼応した日本帝国主義国家の歴史を辿るということでもある。一人の軍人に光をあて、戦争という愚行を分析する梯久美子さんの著書に集中することでもある。その成果はこれからの楽しみの一つである。アカショウビンは、それがハンナの到達した境域に達することを期待する。それにはハンナが生きた欧米とは異なる東洋的知性も駆使しなければならないだろう。アカショウビンには残り少ない時間を梯さんはたっぷり持っておられる。心からご精進を期待する。アカショウビンも残された持ち時間を無駄にせず余命を全うしたい。

 大人になりきれない若い議員の責任は支持者の責任であり、法を踏みにじり歴史の愚行を確信犯の如く辿る現政権の暴虐は国民の責任と無責任である。その情況のなかで、ハンナの論説を熟読しアカショウビンは告発、暴露、思索していく。

 若い議員の知性と行為も現在の日本国民の平均レベルである。それは敗戦の時に敵国の将軍から子供のように幼稚だと皮肉られた事を想い起こさせる。

 「超意味」をハンナは次のように説明している。

 最も不条理なものまで含めてすべての行為、すべての制度が、この超意味によって、われわれには思いもよらなかったほどすっきりした形でその<意味>を与えられる。全体主義社会の無意味性の上に君臨するのは、歴史の鍵を握りあらゆる謎の解決を見つけたと称するイデオロギーの持つ、<超意味>なのだ。それと同時に、十九世紀のさまざまなイデオロギーや、科学的迷信とか半可通の教養とかがひけらかす奇妙な<世界観>が無害であるのは、それを本気で信ずる人間がひとりもいない間だけだということもあらためて明らかになる。―『全体主義の起源』 p279~280 (みすず書房 2017年8月10日 大久保和郎・大島かおり訳)。

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