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2019年5月28日 (火)

ハンナ・アーレント覚書②

 ハンナがナチズムとボルシェヴィズムの分析をしたあと、遺作まで思索、著作に集中した過程で不十分に終わったのは中国、日本の現状の分析、解析だったと思われる。1960年代の中国は文化大革命の猛威が吹き荒れていた。日本は高度成長期の途中で勢いがあった。中国の政情は恐らく表面的にしか伝えられなかっただろう。日本にも欧米にも、紅衛兵の姿や毛沢東ら指導部の表向きの現実の報道は、その裏で何が起きていたのかを伝えていなかっただろう。しかし、それは少しづつ洩れてきた。その現実と事実はハンナが分析した独ソの全体主義が新たに中国で生じていたと分析を展開したかもしれない。しかし、ハンナは独ソの全体主義分析で本質的な分析は済ませたように思える。新たな全体主義の分析と告発、行動はハンナの仕事を受け継ぐ後に続く者の責務である。

 ハイデガーは戦後の中国での災害、政治体制の混乱の中で数百万の人々が死んだ報道に長い論考を書いた。それは人が死ぬとは、どういう事か、ということへの考えを述べたものだ。それはハンナも読んでいる筈だ。米国でアイヒマン裁判に関する論説が大騒ぎになっていたころハンナは『全体主義の起源』の執筆に集中していただろう。続けてハンナはマルクス、エンゲルスとマルクス主義の研究に没頭していた。それは『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』で確認できる。米国で刊行は出来なかっが草稿も含めて日本では訳され出版されたのは幸いだった。

 アカショウビンはハンナの論考も読みながら中国や日本の当時の様子を確認していきたい。それは文献と映像も観ながら。

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2019年5月27日 (月)

ハンナ・アーレント覚書

 『全体主義の起源』でハンナが分析するナチズムとボリシェヴィズムの全体主義の事実は“非全体主義国家”である各国家にも切実な考察を促す。日本や半島国家、中国にもそれは当て嵌まる。トランプの来日でマスコミ、マスゴミは紙面、映像で大騒ぎだ。しかし、現在の世界と我々が生存、生活する時空間は歴史的な過程の中で、ハンナの論説が示す本質的な考察、思索の継続を示唆する。それはまた、ハンナが畏敬するヤスパースやハイデガーの思索、論考をも熟考しなければならないということだ。

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降旗監督追悼

>映画は劇場に多くの観客が入ってこそ、その価値が生まれる。今はテレビ映画やビデオが茶の間に侵入し、観客の足はなかなか劇場まで行かない。
 昔は映画館の入場料とラーメン一杯分がほぼ同じだった。今はどうだろう…。「映画の日」だけ安くするのではなく、日常もっとやすくすれば入場者が増えるかもしれない。あるいは、そんなことに関係なく、たとえば「大勢で聞く語り」から「一人で読む小説」にとって変わったように、現在、視聴覚文化は大きな変化の節目を迎えているのかもしれない。

 降旗康男監督の訃報を知りネットで監督が生前、郷里長野の信濃毎日新聞に連載した記事を面白く読んだ。上はその中からの抜粋。映画業界の変遷のなかで一生を過ごした監督の述懐は現在の映画界と社会との繋がりを評す批評として傾聴にあたいする。先日、京マチ子さんの訃報を知り、小津安二郎監督が大映で撮った『浮草』を久しぶりに観た。デジタル修整されているのだろう実に鮮やかな映像に蘇えっていた。京の匂うような色香と若尾文子の若き頃の花のような笑顔がすばらしい。女優達の共演より小津という巨匠の才覚を痛感する秀作は映画史に特筆される仕上がりだ。降旗監督も後半生で秀作を撮り続けた。先日は衝動的に『ホタル』を観直し、監督の才覚を確認したばかりだった。小津より長生きして映画を撮り続けられた一生を心から賛し追悼する。

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2019年5月24日 (金)

朝帰り

  色気のある話ではない。先週に続き二度目の夜勤仕事である。マイクロバスから現場まで、先週は亡者のような連中に、はてアカショウビンも娑婆からオサラバしたのか、と周りを見廻した。しかし、大型スーパーはあるし若者たちは飲み屋で奇声をあげて盛り上がっている。まだ冥土ではないらしい。地獄八景亡者の戯れ、とはいかないようだ。

 それはともかく、間違いなく此処は東京湾に近い巨大な物流センターの一つだ。しかし、これまでの作業場とかなり様子が違う。先ず外国人が多い。しかもアジア系の。中には浅黒い肌の男女もいるが、行き交う言葉は東南アジアの、かつてタイやベトナムで耳にした、やわらかい女性的な声の響きだ。年齢は皆さんお若い。アカショウビンのような白髪頭の中高年は彼らからすれば不思議な生物のようなものだろう。そういう時空間で彼らと視線を交わす。彼らは日本人と会話したいのだ。しかし、恥ずかしがりで英語の下手な日本人は警戒して声をかけない。電車でも携帯電話に夢中な今の日本人のコミュニケーション能力は、これまで以上に減衰している。

 それは外国人にとって正しく不思議な人々なのだろう。サムライは何処にいるのか、まともな会話もできない人々から私たちは何が学べるのだろう。幕末から先の大戦、敗戦後の復興のエネルギーに眼を瞠った賢人は、日本に学べ、と国民に説いた。その声に応じ日本を目指した有為の若者もいるだろう。彼らは果たして現在のニッポンから何かを学ぶ事が出来るのだろうか。それには高度の知性を必要とするのではないか。それでは学べる者は限られる。その実態を知れば多くの皆さんが日本から欧米へと行き先を変えるだろう。胸襟を開く、と言う言葉は若者たちには意味不明な昔の言葉なのか、英語も日本語も不十分ではコミュニケーションなどできない。ひたすらスマホで自分の殻に閉じ籠る、井戸のなかの蛙である。

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2019年5月23日 (木)

労働の日々

 先週に続き、二度目の夜勤アルバイトである。町田から大井町まで。都会の夜は地方と違う。サラリーマン時代に信州の夜汽車で移動したことを想い出す。「姥捨」という駅にも止まった。木下や今村が映画の舞台とした土地だ。一度くらいは降りて、土地の風情を呼吸するのだった。あの時の侘しさは都会の電車にはない。信州の夜も都会とは違う。山間の暗闇は土地に棲んでみなければわからない。電車は乗り換え駅に着いた。さぁ、日銭を稼がなければならぬ。

 ところが、電車が止まった。蒲田の前で。やっと動き出したが間に合うかどうか。向こうの座席ではアベックの若い男が正体なく女により掛かり眠り呆けている。女は携帯電話を操作するのに夢中だ。これは日本の現在を見事に象徴している。しかし、電車は目的地に何とかたどり着いた。マイクロバスはゆるゆると物流センターに向かう。電車の遅れで食事も取れない。駅近くのたこ焼き屋でたこ焼き六個を買い車中で食う。何とも忙しない夜だ。

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2019年5月22日 (水)

追悼

 加藤典洋氏の訃報を今朝の東京新聞〝筆洗〟で知った。71歳とは平均寿命からすれば早すぎる死だ。しかし人の寿命はそれぞれ。アカショウビンは氏の論考をたまに読むていどの読者だが、それは戦後の此の国の現状に対し実に刺激的な批評家だった。それは加藤周一や吉本隆明に続く思想家と思う。

 筆洗では氏のゴジラ論を紹介している。曰く、ゴジラとは第二次世界大戦の死者たちの体現物である(『さようならゴジラたち』)。氏は『戦後後論』で、日本がアジアでの戦争加害と向き合うためには、まず日本の戦没者を弔うべきだ、と論じた。その視座に同意する。「戦争の先兵にして犠牲者。日本の戦争の死者の両義性を理解せずしてアジアの戦争犠牲者への真の謝罪はできない」という筆洗筆者の一文にも。それはまた『散るぞ悲しき』で硫黄島で散った栗林忠道の一生を辿った梯久美子さんの著書とも呼応する。また氏も読んだであろう、ハンナ・アーレントの政治思想とも。

 今朝は故人を弔いバッハの『マタイ受難曲』をクレンペラー盤で聴く。晩年の巨匠の遅いテンポの演奏はバッハのスコアの行間を読みこむ気配が感じ取られる。加藤氏はこれを聴いただろうか。それは正にイエスの死を受容する過程を辿る気迫である。改めて氏の著作を辿り戦後日本の経緯と現在に思考を巡らせたい。

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2019年5月21日 (火)

大人になれない政治家

 意気がった党名の所属議員が醸した本音が新聞紙上で丁々発止される。事の顛末を紙面で辿れば、頭の悪いおぼっちゃまくんが、アルコールの勢いで、大ボラふいたような話だ。大人になれない、「恐るべき子供たち」の現代日本版というところだろう。議員の支持者の責任は、党派を超えて政権の横暴と通じている。ハンナ・アーレントの全体主義分析の論説を辿ると、西洋近代が世界に生じさせたハンナの説く「超意味」という概念の到達するナチズムに席巻されたドイツ国家の歴史を考察する意志を励起させられる。それはまた同時代にナチズム国家と呼応した日本帝国主義国家の歴史を辿るということでもある。一人の軍人に光をあて、戦争という愚行を分析する梯久美子さんの著書に集中することでもある。その成果はこれからの楽しみの一つである。アカショウビンは、それがハンナの到達した境域に達することを期待する。それにはハンナが生きた欧米とは異なる東洋的知性も駆使しなければならないだろう。アカショウビンには残り少ない時間を梯さんはたっぷり持っておられる。心からご精進を期待する。アカショウビンも残された持ち時間を無駄にせず余命を全うしたい。

 大人になりきれない若い議員の責任は支持者の責任であり、法を踏みにじり歴史の愚行を確信犯の如く辿る現政権の暴虐は国民の責任と無責任である。その情況のなかで、ハンナの論説を熟読しアカショウビンは告発、暴露、思索していく。

 若い議員の知性と行為も現在の日本国民の平均レベルである。それは敗戦の時に敵国の将軍から子供のように幼稚だと皮肉られた事を想い起こさせる。

 「超意味」をハンナは次のように説明している。

 最も不条理なものまで含めてすべての行為、すべての制度が、この超意味によって、われわれには思いもよらなかったほどすっきりした形でその<意味>を与えられる。全体主義社会の無意味性の上に君臨するのは、歴史の鍵を握りあらゆる謎の解決を見つけたと称するイデオロギーの持つ、<超意味>なのだ。それと同時に、十九世紀のさまざまなイデオロギーや、科学的迷信とか半可通の教養とかがひけらかす奇妙な<世界観>が無害であるのは、それを本気で信ずる人間がひとりもいない間だけだということもあらためて明らかになる。―『全体主義の起源』 p279~280 (みすず書房 2017年8月10日 大久保和郎・大島かおり訳)。

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2019年5月19日 (日)

ラルゴ エ メスト

 速度指定で「幅広く ゆったりと そして 悲しく 憂鬱に」という。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品10の三つのソナタのうち三番目の三楽章の速度指定である。ケンプの1965年の録音で聴き直した。若きベートーヴェンの息吹と嘆息が聴き取れる思いがする。続く四楽章、メヌエット アレグロへの移行も静謐ですばらしい。この録音を聴くきっかけになったのはグリューミオ・トリオが1967年に録音したベートーヴェンの弦楽三重奏曲の第二番ト長調の第一楽章アダージョをたまたま聴いて息をのむ弦の妙音に挑発されたからだ。若きベートーヴェンの作品を優れた演奏家が演奏すれば現世の妙音と言ってもよい調べが奇跡のように奏でられる。それに驚愕し刺激され、改めて若きベートーヴェンの作品に集中しようという気力を得た。弦楽トリオ、ピアノ・ソナタを経てベートーヴェンは作品15で最初のピアノ協奏曲を世に問う。それも幾つかの録音で聴いてみよう。

  そのような衝動に駆られたのも先に読んだ河島みどりさんのリヒテルの本、そして古本で購入した武満 徹の対談集を読んで刺激されたからだ。武満が1975年10月30日に出した『ひとつの音に世界を聴く』(晶文社)の中に吉田秀和との対談がある。それが実に面白い。1974年1月、『ユリイカ』に載ったものだ。タイトルが「ベートーヴェンそして現在」。興味ある方には是非読んで頂きたい。それは行間に若い武満や吉田の当時の時代情況への思いも読み取れるからだ。

 それはまた我々が生きる現実と現在、政治情況、文化情況とも呼応する。アカショウビンは一年近くテレビを観ないが、東京新聞でそれらは記事で読んで過不足ない。関心のある話題には更に突っ込んだ記者や論説委員の記事で読める。その幾つかはブログで感想を述べる。今朝の朝刊の27面〝本音のコラム〟は前川喜平氏が「高等教育無償化が変だ」という見出しだ。同紙のコラムは先日、奄美大島の見出しで同氏が初めて訪れたというアカショウビンの故郷の現実も興味深く読んだ。何と奄美にミサイル基地が設置中という。我が故郷も現在の政権の無法と横暴にに翻弄されている。

 コラムの下には先日、俳優・佐藤浩市のインタビューが思わぬ騒動になっていることを伝えている。彼のコメントに右派・保守派、ヘイト・スピーカーらが過剰反応したらしい。現在の政治・文化情況を反映すると思われる現象だ。改元やオリンピックに向けて能天気な空気のなかで時に突発的な状況が生じる。その一端を現わす遣り取りだろう。そのような空間・時間の中にアカショウビンも市民、国民も生きている。それは未だ幸いなほうだ。世界の各地では砲声が止まない。アカショウビンもベートーヴェンの作品に集中できる。それは現世の安穏ともいえる。それが否定される時が来る。将棋の故・米長邦雄の名言がある。タイトルは取ったときに笑っておけ、いずれ泣く時が来る。それは新名人の豊島名人も肝に銘じているだろう。将棋や囲碁の世界は盤上の勝負がすべてである。泣くも笑うも。しかし私達が生きる政治情況は将来の市民、国民に跳ね返る死活に関わる。そこに能天気ではいられない。

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2019年5月17日 (金)

労働の現場④

 本日は夜勤。初めての現場だ。大井町駅から送迎バスに乗る。初めての現場というのは不安になる。どんな作業をやらせられるのか、面子は、どういう輩が仕切っているのか。先月までの潮見や舞浜からすれば距離的にいくらか近い。駅近くには飯屋も多い。とにかく日銭を稼ぐのだ。身体が動くうちに。

 午後10時30分、送迎バスに乗る。面子はまるで亡者のようだ。こういう面子とどんな作業をさせられるのか。バスはマイクロバス。ラジオ番組の音が不快。現場はアマゾン、ユニクロなどの商品仕分けというが。

 作業は、ベルトコンベアで流れてくる商品を取り分けてカゴ車に積み込む単純作業。外国人が異常に多い。ベトナムや東南アジアなのだろう、かつて仕事で訪れたタイ語と思しき言葉も飛び交っている。他の現場で共に働いた人も何人かいる。

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2019年5月16日 (木)

ファンタジーとレクイエム

 ドリス・デイの訃報に続き、京マチ子の訃報が続いた。ドリス97歳、京95歳、共にご長寿で何よりだ。東京新聞は京の評伝も掲載している。出演作品の幾つかが想い起こされた。意外な事実も知った。『羅生門』で眉をそって演じ監督を驚嘆させたという。あの黒澤が驚嘆するほどの女優なのである。代表作は溝口の『雨月物語』と『羅生門』と思う。歳を経て出演した作品も幾つか想い起こされるが記事には仲代達矢さんと山田洋次監督のコメントもある。俳優になる前からのファンだったという仲代さん、『男はつらいよ』(1976年 シリーズ第18作)でヒロインで登場した時の山田監督の回想「息を吞むような美しさ」というコメントも名女優への最大のオマージュだ。同作品も観直してみよう。ドリス・デイは『知りすぎていた男』(1956年 ヒッチコック監督)で歌った「ケ・セラ・セラ」が大ヒットし日本語の歌詞でも歌われた。アカショウビンのジャズ歌手列伝では上位にこないが、「センチメンタル・ジャーニー」(1945年)は名曲だ。ともに映像作品で楽しませて頂いたことに心から哀悼する。

 


表題の〝ファンタジー〟とは、先日借りてきて観た大林宣彦監督の『この空の花 長岡花火物語』で繰り広げられる、溢れるばかりの映像の印象である。東日本大震災と先の大戦の長岡空襲にまつわるエピソードは大林監督の死者たちへのレクイエムだ。その空襲は新潟市への原爆投下の予備爆撃であったという事実も初めて知った。現今の政治情況への監督のメッセージが伝わる佳作だ。たまたま古本屋で梯(かけはし)久美子さんの『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮文庫 平成20年8月1日)を読んでいて、先の大戦の事実も新たに辿っている。  

 見事な死にざまと生き方がある。余命のある間に読み続け、書き遺しておかねばならぬ事は多々ある。日々の労働に疲弊しながらその時間を作らねばならない。そして縁あった友人・知人たちとの出会いと別れにも時間を割かねばならない。本日は長く勤めた会社の仕事の縁で出会った企業のオーナーの現役引退の会に出席させて頂く。娑婆での縁は出来る限り失礼のないよう心がけたい。しかし十全とはいかぬ。機会を逃さぬようにせねばならない。

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2019年5月14日 (火)

労働の現場③

 昨夜、派遣会社の所長さんから電話があり、派遣先の変更が伝えられた。こちらは体調を整え派遣先への交通、場所の確認をしている。それが変わると面倒なのだが、申し訳ないと懇願されると断るわけにもいかない。日銭を稼がねば食べていけないのだ。本日は新たな現場に行く。かように下層労働者は振り回される。派遣先で知り合った中高年は夜勤で昼夜逆の生活をしている。アカショウビンはそれで体調を崩したから以来、夜勤は避けている。しかし、昼間の仕事がなければ夜勤もせねばならないだろう。貧富の格差が広がる此の国の現実はかくの如し。金持ち喧嘩せず、だが貧しき者たちは声を挙げる。Kさんへのメールも、そのような意図からだ。

 購読紙の東京新聞には興味深い記事が載っている。昨夜の夕刊には加藤登紀子さんの回想記、朝刊には雨宮(あまみや)処凛(かりん)さんの〝私の東京物語〟が連載されている。共に興味深く読ませて頂いている。加藤さんの記事は「ひとり寝の子守唄」は高校生の頃に聴いて脳裏に焼き付いている。1969年の東大全共闘の立て籠もりの逸話が当時のアカショウビンの記憶を呼び覚ます。雨宮さんの記事は2005年頃の彼女の生き様が痛烈だ。多くの方々に読んで頂きたい記事だ。「生きづらいなら革命家になるしかない」と言った自殺した見沢知廉(ちれん)氏が彼女を右翼と左翼の世界に案内してくれた経緯は雨宮さんたち若い女性が生きた事実を証言している。それは現在の〝Mee too〟現象とも連動する。それは自ずと現在の政治情況と世界の現実への関心を掻き立てる。アカショウビンにはハンナ・アレントの著作が啓発される。それは別に書く。本日は新たな現場で日銭を稼がねばならない。

 団地からのバスでは雨のなか車椅子の方もいらっしゃる。アップダウンの多い団地からの移動にバスは便利だ。そのバス代も稼がねばならない。心身に外気を吹き込み身体を刺激し精神を律動させるのだ。

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2019年5月13日 (月)

労働の現場②

 先月でなくなった現場で共に働いていた仲間の一人のKさんは腰が悪く作業がのろい。フォークリフトのベテランから怒鳴られながらも本人はいたって真面目だから黙々と作業に従事する。休憩時間はアカショウビンと他愛ない話で盛り上がる。他の仲間は互いに殆ど口をきかないから二人だけが浮いてしまう。それを承知で座を和ませようという狙いもあるのだ。連休時に二人とも新しい現場を探したがなかった。世間が浮かれているときに下層労働者は仕事がなければ死活に関わる。Kさんは、そのうえ腰の悪さもあり養生状態だったらしい。メールで窮状を訴えてきたので生活保護を申請したら、と返信した。ところが却下されたという。行政は厳しいです、というメールが返ってきた。それは泣き寝入りだと思ったからアカショウビンは、そこで納得してどうするのですか、と怒りのメールを送った。困窮している市民を救済しない行政は何様なのだ、Kさん、なんのために税金を払っているのですか、と。アカショウビンもエントリーした夜勤の仕事がキャンセルされ連休中は仕事なし。Kさんもアカショウビンも日銭を稼がなければ食い詰めてしまうのだ。かくも下層労働に従事する中高年の現実は過酷である。アカショウビンの友人たちは“お気楽年金生活”を楽しんでいる諸氏が多い。病を抱え地べたを這いずり回っているのはアカショウビンだけだ。自業自得である。しかし、身体は動く。働かねばならぬ。きょう明日は仕事を得た。力を奮い起こし一日一日を凌ぐのだ。

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2019年5月 9日 (木)

労働の現場

 一昨日からきょうまで新しい現場。浜松町からモノレールで三駅目の「流通センター」で下車。ここは長年務めた会社の仕事で年に二回訪れた駅。流通センターに展示会場があるのだ。そこのコンビニで昼食を買い、駅前交番の前に集合。初日は到着時間を余裕をもったつもりが危うく遅刻になりそうだった。集合時間は7時30分。浜松町でモノレールに乗り換えても気が気でなかった。久しぶりの車窓の景色を楽しむどころではない。それでもなんとか間に合った。人数は27人。見知った人もいるので挨拶。現場は駅から徒歩で約10分。一年前には別の現場にきた大和大橋を越えた。

 仕事はカーネーションの送り作業。一年に一度の超繁忙期なのだ。派遣会社の営業マンは、アカショウビンさんにもできる簡単な作業ですよ、と電話で言う。しかし想像と現実はまるで異なる。花卉市場とあって女性の関心も惹くのだろう、女性が多い。アカショウビンのような死にかけの爺いの姿は異色なのだろうチラチラした視線を感じる。

 想像と現実の違いというのは単純作業の不慣れとハードさだ。以前の現場で終日、廃棄する段ボールをカッターで解体する作業を何日も続けたことがある。利き腕の右手が腫れてしまった。同じような単純作業で同じような痛みが三年ぶりに生じた。しかし不思議なもので、それは元に回復する。人体の不思議だろう。それは、この三年の間の入院、手術の折にも経験した。胃癌と下咽頭癌、それに膀胱癌で生還した経験と似る。しかし人は忘れるのだ、その苦しみを。今回もそうだろう。しかし、こうして書きつけ記憶を手繰り寄せる機縁とするのだ。

 それはともかく、三日間のハードワークは終わった。休息をとろう。老体と病体には時間がかかる。しかし、来週の仕事は未定。一昨日は治療中の歯と反対側の歯が外れた。痛みはないが食事の不快感はある。気分は晴れない。しかし三日間のアルバイトにありつけたのは幸い。同年輩と思しき人は夜勤もすると言う。アカショウビンには驚くしかない労働現場の現実だ。

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アルヴォ・ペルトの作品

 祈りの到達する境位というものがあるとすれば、それをアカショウビンは、この十数年のアルヴォ・ペルトの作品に聴く。先日、初期のころの作品も聴き、この同時代に生きる音楽家の作品に集中する。それは余生を生きる活力とも諦念ともなる。祈りの基底にある根拠ともなるのは嘆きであり諦めでもあり怒りでもあろう。それは西洋哲学ではギリシア由来の伝統的思考である。それはヤスパース、ハイデッガー、フーコー、デリダの思索・考察として現代まで継承されている。それはまた優れた文学作品を読むのと同じ思索を督促する。

 先日、友人と久しぶりに会ったときに音楽や最近読んだ本の話で話が弾んだ。二冊の本も頂戴した。『リヒテルと私』(草思社 2015年8月10日 河島みどり著)、『他山石語』(1990年6月10日 講談社文芸文庫 吉川幸次郎著)。前書はリヒテル好きのアカショウビンと共通の関心を慮って頂いたのだ。後書は中国文学の碩学がマーラーの晩年作品にコメントした一文もある。アルバイトに行く電車の車中で読んで面白い。リヒテルの通訳として彼の人となりが活写されている。音楽とは殆ど無縁の女性が〝巨匠〟の雅気と日常に触れ触発される。その音楽の深淵の一端にも遭遇する。その正直と行間に辿れる演奏を録音で聴き直す。そのような機会も与えてくれる。それはまたロシア音楽やロシア文学を改めて聴き、読み直すということになる。怠惰なアカショウビンの日常にも光射す時がある。それを生きる糧とし日常を非日常と繋ぎ異なる次元への通路を開くのだ。

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2019年5月 3日 (金)

批評の極北

 塚本邦雄が亡くなり十数年、今年二月に全作品が文庫で再刊された。この短歌作者は鋭い批評家でもある。『百句燦燦』は、現代俳諧頌の副題が付いた百人の作家の作品評である。この一行一行が塚本渾身の批評眼として実に面白く痛烈で我が精神を刺激する。全五章に分けて塚本流の作品評が読める。底本は2001年、ゆまに書房刊の全集第15巻の評論Ⅷ。

 ありうべき最高の美学は虚無として生涯徹底した反リアリズム、と紹介文にある。その立場には諸氏異論はあろう。しかし、その眼力と文章は異彩を放ち余人を寄せつけぬ力量を示す。まさに稀有の作家、批評家と確信する。余生の間に全作品を昧読はできないだろうが読み齧る時は設けよう。それもまた冥土への土産だ。

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