« 励ます会 | トップページ | ホタル »

2019年4月16日 (火)

表現と解釈

 先週の金曜日、銀座で開催されていた「若生のり子展」を訪れた。ネットで〝公共空間X〟というサイトの代表者も兼ねられておられる美術家、ご本人の言い方を借りれば「絵描き」さんである。かつての学生運動にも参加された〝行動する表現者〟とでもいえるアーチストである。今回は、〝絵描き〟が近年追求しているテーマのバリエーションが展示されて興味深かった。それはテーマを抽象したものである。そのテーマとは何か。それは作品に正面する人びとが感得し解釈する差異をもつといってもよいだろう。作者の意図とはかけ離れる解釈もあるだろう。それが作品のもつ器量というものと思う。アカショウビンもそれなりの解釈をする。それはともかく、表現とは絵画でも文学作品でも様々な作者の創作する衝動の結実である。それは千差万別。そこから触発され精神を揺さぶる度合いが作品の価値ともいえる。若生さんから感想を求められたが安易に言えるものではない。この数日あれこれ愚想したことを伝えるしかない。

 それを文字にすれば現代美術の到達点と正面することは、どういうことかという問いになる。とかく現代芸術は難しいという嘆きともなる。音楽で言えばシェーンベルクの作品は難しい、マーラーは難しいという嘆きともなる。しかしマーラーの生きた時代の評価と唖然とする戦後の内外のマーラー評価は周知の通りである。絵画にしても古典から現代絵画への変遷のなかで断絶と革命は周知の如し。ピカソはその良い例だろう。シェーンベルクはその象徴的な例である。マーラーにしても本人が予言したように「私の時代がくる」という確信が現実となって実現している。その恩恵をアカショウビンも実感している。

 それはともかく、若生作品に正面して陳腐な感想を述べるわけにもいかない。それは具象と抽象という歴史的な考察を経なければ具体化はできない。あるいは表現と解釈という論点にもなる。今朝は衝動的にグレン・グールドのハイドンを聴いて愚想の契機ともなった。バッハ演奏家が晩年のハイドンのピアノ・ソナタを実に面白く演奏している。先年、ベルリン・フィルの常任指揮者を引退したサイモン・ラトルが休暇中にハイドン作品をピアノで毎日演奏するのが悦びだと語っていた。さもありなん。ハイドンという音楽家の膨大な作品の偉容はアカショウビンも折々に聴き続け実感するのである。

 若生作品のファンたちも同様であろう。その作品から触発、啓発される精神の律動こそが作品の価値である。若生さんの益々のご精進を心から期待する。

|

« 励ます会 | トップページ | ホタル »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 励ます会 | トップページ | ホタル »