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2019年4月30日 (火)

なかじきり

 先日、山遊亭金太郎師を「励ます会」のお誘いを頂いた方が廃業されると言う。久しぶりにお会いして金太郎師匠の話をあれこれ聞けると楽しみにしていたところに寝耳に水の如きの話だった。先代から六十数年続けてきた家業を閉めるのは忸怩たる思いであろう。寄席の場であり、それ以上の話は憚れた。改元の国家的節目の年に長年お付き合いさせて頂いた方の近況は感慨深いものがある。

 「励ます会」ではお弟子さんやお仲間の噺家さんが金太郎さんの復帰を願い、それぞれの思いを高座で自らの芸に託した。アカショウビンも芸人たちの芸を興味深く拝見できたのは幸いだった。これも廃業を決意したM社長のおかげである。娑婆での縁はかように展開する。その幸いを言祝ごう。

 表題は鷗外の随筆である。人の生には節目がある。その時は改めて次の生に娑婆を生きる。Mさんもそうだろうし、金太郎さんも復帰に向けて病を克服しファンたちを前に落語を語る時を目指し治療に専念するだろう。心からご健闘を祈る。芸人は舞台が生命の全開する場である。そこで生の深みに赴く。ファンには、その過程と遭遇することが貴重な機会となるのである。

 今朝はデューク・エリントンのジャズ・ヴァイオリン・セッションを聴いて心身が共振し律動した。これからアルバイトの肉体労働である。心身を奮い起たせるには名手、達人たちの芸が不可欠。今生での限りある残り少ない時にエネルギーを充填し一日を凌ぐのだ。

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2019年4月25日 (木)

歴史を遡る

 1945年3月29日、戦艦大和は呉軍港から出撃した。沖縄の米軍戦力を撃滅する一助として乗員三千余名は決死の覚悟を固め世界最大の不沈戦艦に乗り込み特攻作戦に参加する。しかし沖縄に到達する途上米軍機三百余と潜水艦の波状攻撃にあい激戦の末撃沈させられる。沖縄では米軍の攻撃に日本軍が対処し県民の移動を命令し迎撃体制を組む。しかし圧倒的な米海軍の艦砲射撃は激烈を極め沖縄島は形を変える様相を呈する。戦闘員以外の県民の死者数は兵隊の数を圧倒的に上回る戦闘が行われたのだ。

 先の大戦末期の断末魔は〝戦争を知らない〟戦後生まれのアカショウビンらの世代や現在の多くの日本国民にとり、歴史を遡り日本国民一人一人が現在の生を介して反芻するしかない。アカショウビンも一人の日本人として歴史事実を辿るのである。その一助として戦艦大和の生き残りの戦闘記を奇跡的に残された吉田 満氏の文章は熟読しなければならぬ資料である。『戦艦大和ノ最後』は文庫で読める。氏が戦後を生き延びられた経過は『戦中派の死生観』として読める。これは正しく氏の遺書といえる。昭和55年2月に文藝春秋社から刊行され、1984年8月25日に文春文庫から再刊されている。アカショウビンは毎年、この時期にはこれらの書物の他、沖縄の集団自決の書籍、先の大戦に従軍した方々のドキュメンタリー映像などを読み観て歴史を遡る。沖縄の現実と、この昭和20年の敗戦までと戦後の歴史は共振している。それを確認するのが日本国民の責任だろうからである。もちろん、そんなことはないという意見もあるだろう。そんな〝非国民〟とアカショウビンは相手をしている時間はない。アカショウビンを含め多くの日本国民が暢気で能天気な日常を過ごしている。これからの十連休をどう過ごすか、あれこれ楽しみにしているであろう。しかし沖縄では国家と沖縄県民が対峙している。マスメディアは、そのような現実に意識的にか無意識にかアホ報道を垂れ流す。それに国民は誘導され動き回り遊びまわる。折しも改元の年である。政府はそれを支配し能天気な振る舞いで国民を悦ばせ誑かし、海外出張で国費を使い確信犯の如き活動をするのである。ボケはここに極まる。

 1945年8月15日まで大日本帝国は断末魔の経過を辿ったのである。その経過と沖縄の地獄は歴史を冷静に振り返らねば自らのものとはならない。アカショウビンも、そのために下層労働の合間に文献を読むのである。吉田 満氏の戦後は、そのような戦後史の生き証人の記録である。それに正面することは日本人として、日本国民として責務とアカショウビンは心得る。

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2019年4月23日 (火)

九州より友来たる

 日曜日に福岡から上京した高校の同級生TA君と他の同級生も交えて新宿で会った。一年ぶりか。TA君は大学の同窓会で上京、高校の友人たちにも会う機会をもったのである。在京の二人と、昨年膀胱ガンの全摘手術をしたTO君も参加、高校の寮生活で同じ釜の飯を食った縁は、異なる人生を生きる現在を介して話は尽きない。土産の辛子高菜もおいしく頂いた。

 TA君は長年務めた大手金融会社を数年前に離職し悠々自適の生活だ。鬱病の病も克服し孫との写真もラインで送ってくれ定年後のアカショウビンの下層労働のシノギ生活とは異なる穏やかな人生である。聞けば空路での上京らしい。新幹線より安いという。先日はアカショウビンも空路の帰郷だった。アカショウビンが高校の時は夜行列車と船便の帰郷だった。隔世の感あり。生活のすべてに時の移り変わりの早さを感じる。我が人生の残り時間もそう多くはない。長い付き合いの友人や親戚、知人たちとは娑婆でのご縁を懐かしみ会う機会に冥土の土産にする。TA君、近況はネットで伝えられるけれども、やはり会って話すのが良い、来年の再会を楽しみにする。

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2019年4月20日 (土)

ホタル

 先日、衝動的に借りてきた『ホタル』(降旗康雄監督)を昨夜久しぶりに観た。2001年5月26日の公開。劇場で観たのか定かでない。しかし、改めて観て刺激的で降旗監督渾身の作品である事が伝わる。奇しくも今年の改元に呼応するかのように物語は昭和の終わりの年の物語として展開する。特攻隊の生き残りが、それぞれの生き方で死者たちとの思い出をフラッシュバックさせながら。高倉健、田中裕子の夫婦愛も哀切極まる。韓国ロケの韓国俳優たちも名演である。そこには演技を超えた両国の歴史が背負われているからだ。

 十年くらい前に仕事の役得で鹿屋と知覧を初めて訪れた。鹿屋の平和記念館では特攻隊の生き残りの方の話も聞いた。死者たちの遺品も哀切だった。それらの痕跡を降旗監督は作品にした。昭和から平成、そして令和と三代の歴史は日本人とアジアの歴史事実である。改元の年に改めて思索を継続していきたい。

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2019年4月16日 (火)

表現と解釈

 先週の金曜日、銀座で開催されていた「若生のり子展」を訪れた。ネットで〝公共空間X〟というサイトの代表者も兼ねられておられる美術家、ご本人の言い方を借りれば「絵描き」さんである。かつての学生運動にも参加された〝行動する表現者〟とでもいえるアーチストである。今回は、〝絵描き〟が近年追求しているテーマのバリエーションが展示されて興味深かった。それはテーマを抽象したものである。そのテーマとは何か。それは作品に正面する人びとが感得し解釈する差異をもつといってもよいだろう。作者の意図とはかけ離れる解釈もあるだろう。それが作品のもつ器量というものと思う。アカショウビンもそれなりの解釈をする。それはともかく、表現とは絵画でも文学作品でも様々な作者の創作する衝動の結実である。それは千差万別。そこから触発され精神を揺さぶる度合いが作品の価値ともいえる。若生さんから感想を求められたが安易に言えるものではない。この数日あれこれ愚想したことを伝えるしかない。

 それを文字にすれば現代美術の到達点と正面することは、どういうことかという問いになる。とかく現代芸術は難しいという嘆きともなる。音楽で言えばシェーンベルクの作品は難しい、マーラーは難しいという嘆きともなる。しかしマーラーの生きた時代の評価と唖然とする戦後の内外のマーラー評価は周知の通りである。絵画にしても古典から現代絵画への変遷のなかで断絶と革命は周知の如し。ピカソはその良い例だろう。シェーンベルクはその象徴的な例である。マーラーにしても本人が予言したように「私の時代がくる」という確信が現実となって実現している。その恩恵をアカショウビンも実感している。

 それはともかく、若生作品に正面して陳腐な感想を述べるわけにもいかない。それは具象と抽象という歴史的な考察を経なければ具体化はできない。あるいは表現と解釈という論点にもなる。今朝は衝動的にグレン・グールドのハイドンを聴いて愚想の契機ともなった。バッハ演奏家が晩年のハイドンのピアノ・ソナタを実に面白く演奏している。先年、ベルリン・フィルの常任指揮者を引退したサイモン・ラトルが休暇中にハイドン作品をピアノで毎日演奏するのが悦びだと語っていた。さもありなん。ハイドンという音楽家の膨大な作品の偉容はアカショウビンも折々に聴き続け実感するのである。

 若生作品のファンたちも同様であろう。その作品から触発、啓発される精神の律動こそが作品の価値である。若生さんの益々のご精進を心から期待する。

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励ます会

 長年務めた会社と業界の縁で落語好きのアカショウビンが高座を聞く機会に恵まれた噺家さん、山遊亭金太郎師が病で入院治療に入ったことを知人との電話で知った。たまたま電話で詳細を聞いたら何とご本人の見舞いに来ていて電話を代わってくれた。「アカショウビンさんの病気を心配していたら自分のほうが大変なことになってしまいましたよ」といつものご陽気な声とは裏腹のか細い声。知人を介し見舞いをしたいと意向を伝えたが、手術準備や何かで落ち着いてからにしたほうがよいというアドバイス。その後、アカショウビンが高座を紹介した縁で高校時代の友人から新たな情報が入った。読売新聞で〝励ます会〟が「お江戸日本橋亭」で開かれると報道されたらしい。友人が記事のコピーを郵送してくれた。

 アカショウビンが知人から聞いた話では白血病ということだった。しかし、記事によると〝骨髄異形成症候群〟という病名らしい。難病なのだろう。復帰は今年八月という。そこで仲間の噺家さんたちが〝励ます会〟を今月27日に開催することになった。それは駆け付けねばならない。他の落語好きの友人にも声をかけた。ご本人は出席できないが、お弟子さんや兄弟子さん、友人の小遊三師も出席されるらしい。アカショウビンも久しぶりの寄席に足を運びたい。

 金太郎師匠は山形県のご出身。アカショウビンは長年務めた会社の仕事で年に何度か訪れた縁ある土地である。それも不思議な縁である。27日の盛会を期待し楽しみにする。師の一日も早い復帰高座を祈る。

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2019年4月 9日 (火)

万葉考

 新元号が万葉集や中国古典を元に制定されたという報道を読み、たまたま読んでいた梅原 猛の『日本学の哲学的反省』のなかで〝令〟を、官僚の規範、と書いている。「律令というものは、天皇を中心とした官僚を支える法律でございます。官僚体制の規則が『令』でございまして、この官僚体制に反抗する連中を罰するのが『律』でございます」。(昭和51年8月1日 講談社学術文庫 p45)。これは、1976年、3月14日、高崎での講演に加筆したものだが、当時の梅原の思索、考察を残して、万葉集という最古の文献を新たに再考する必要性を看取する論考だ。同時に、当時話題になった梅原の空海の論考も面白い。こちらは1980年頃の論考を集めている。それは仏教とは何か、という問いを改めて問い直す契機となる。

 とりあえず、春に桜が咲き散るころに日本という国で生きる意味を考えてみよう。先日は胃カメラ検査の結果を聞き、何とか娑婆での時間も与えられた。主治医が変わり、新たな仕切り直し。前の女性主治医は転院し、若い男の主治医と初めて会ったが、あまり好感はもてない。こういう医師に自らの命を託すのは、御免被りたいものだが。帰りは行きつけの中古店でCDも購入し生き延びる活力も充填する。残り時間は少ない。しかし多少の抵抗はしなければならぬ。

 かつて、渡辺一夫が書いている、セナンクールの言葉を水先案内としながら。

 「人間は滅び得るものだ。さうかもしれない。しかし、抵抗しながら滅びようではないか?そして、もし虚無が我々のために保留されてあるとしても、それが正しいといふやうな、ことにはならないとしよう」。

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2019年4月 1日 (月)

英国映画の秀作

 昨日、友人から頂いた招待券で『マイ・ブックショップ』(2017年 イザベル・コイシェ監督)をシネスイッチ銀座で観た。久しぶりの銀座で少し迷ったが、ちょうど午後2時40分の上映に間に会った。この映画館も久しぶり。地味だが佳作、秀作を厳選して上映する好感のもてる貴重な、劇場というより映画館なのである。周囲は高級店がしのぎを削り新たな店も多い。それはともかく、作品は実に静謐で、女性監督らしい細やかな配慮のいきとどいた佳作、秀作だ。舞台は英国東部の海辺の小さな街。1959年の時代設定で原作は英国ブッカー賞受賞の作品という。

 映画の快楽とでも言える雰囲気を湛えた時空間がそこにはある。一軒の書店もない田舎町で書店を営む決意をした美しい女性の奮闘を作品は物静かに淡々と描く。あまりの心地よさに途中居眠りもした。その部分は改めて観直したけれども。引きこもりの老人と若い未亡人との淡い恋も物語の伏線として味わい深い。英国映画だが制作にスペインとドイツの協力も記載されている。

 予告で興味を惹いた作品が二つ。ジャン=リュック・ゴダール監督の新作『イメージの本』とフォン・シャオガン監督の『芳華』。88歳のゴダールの作品は必見である。「私たちに未来を語るのは〝アーカイブ〟である」というゴダールのコメントはゴダールらしい。アーカイブとは古文書(こもんじょ)である。それは映像も小説作品も広く芸術にはそういう要素が〝未来〟への通路を開示するという意味にも取れる。同時代を生きる老巨匠の片言隻句は熟思しなければならない。『芳華』は文化革命という負の歴史の歴史を背負う中国という今や米国と対抗し覇権国家をめざす大国の現在と過去を映像で観る好い機会である。これまた楽しみな作品だ。

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