« 名優列伝 | トップページ | 従姉妹たち »

2019年3月16日 (土)

神々の黄昏

 きのうの東京新聞では福生病院での人口透析中止問題を〝こちら特報部〟で識者が論じている。〝医師による「与死」の危険〟という副題で最首 悟氏への取材記事だ。「与死」とは死を与えるである。西洋ではキリスト教の文脈で主語は神である。日本語のなかでその神はいない。その西洋的思考はジャック・デリダが展開していた。東洋的思考のなかでそれはどのように展開されるか。

 空海の思想は仏教の可能性があるとすれば現在でこそ問わなければならない。梅原 猛(以下、敬称は略させて頂く)もそういう問いを生涯のうちで反映させ、思索し続けたものと思う。それは人間という生き物に大日如来が在り、また到来するという思想が西洋哲学でいえば、世界性を有するか、という問いになる。それは〝西洋かぶれ〟から脱却する思索のなかで梅原の思索の音楽でいえば通奏低音として通底していると思われる。

 表題はワーグナーの楽劇のタイトルである。西洋音楽のなかで今なお演奏され日本も含めた世界から、その作品の上演に、それは詣でるとでもいうような聴衆がいるのは何故かという問いにもなる。アカショウビンも若い頃から聴き続け一度くらいはバイロイトという〝聖地〟で生の体験をしたいと思うが今生では叶わぬだろう。しかし幾つかの録音でその音楽を聴くと新たな刺激を受け、〝東は東、西は西〟というわけにもいかない思いになるのである。それはワーグナーとニーチェの対立としても考察できる論点だがそれは別の機会に。

 今朝の朝刊ではニュージーランドでの殺戮が報じられている。それは果たしてテロリズムなのか。むしろそれは宗教対立であろう。キリスト教とイスラム教の。それはナチズムを介して人間の歴史として、そこで存在し続けている私たちが問わなければならない根源的な問いだ。

|

« 名優列伝 | トップページ | 従姉妹たち »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 神々の黄昏:

« 名優列伝 | トップページ | 従姉妹たち »