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2019年3月31日 (日)

ドナルド・キーンの「カルメン」

 今朝の東京新聞朝刊に亡きキーンさんの遺稿集が四月に発刊されるコメント記事が掲載されている。書名は『ドナルド・キーンのオペラへようこそ!』。アカショウビンもかつて読んだキーンさんのオペラ好きの文章は未聴のイタリア・オペラを聴く手引きとなった。

 キーンさんがオペラ好きになったのは15歳の時にメトロポリタンで観聴きした『カルメン』だという。誰の指揮かは書かれていないが、さもありなんと思う。『カルメン』という作品の面白さは音楽好きには誰しも共有できるものと思うからだ。音楽だけでも刺激的だが、物語の展開は男と女の愛憎を音楽的に描いて秀逸。メリメの原作をビゼーは音楽的に昇華している。原作のカルメン・シータはかなりの悪女だが、それがオペラではビゼー流に解釈されている。それがビゼーの作品だ。繰り返し聴いて共感する。それが15歳のキーン少年のオペラ遍歴の端緒となったのだろう。

 小澤征爾さんが若い音楽家たちに『カルメン』を介して伝授したいのもオペラの面白さが凝縮されているからだろう。長寿を全うされた日本文学研究の泰斗が生涯の最後に発刊された著作で新たなオペラ・ファンを生み出すことを期待する。先日購入したイタリア版『カルメン』を聴きながら、この作品が洋の東西南北を問わず広く親しまれることを願う。

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2019年3月26日 (火)

小澤征爾のカルメン公演

 友人から小澤氏がかねてよりで継続している若手音楽家たちを薫陶する公演を京都で行ったというニュースがNHKであったという事を知らせて頂いた。聞けばそれを東京でも行うらしい。友人は小澤氏の姿に愕然としたと言う。全部を指揮することができず一幕だけの指揮だったらしい。しかし指揮台にたつと矍鑠としていたとも話してくれた。演目がカルメンと聞いてアカショウビンには腑に落ちるものがあった。アカショウビンが若い頃に二期会で行った公演がカルメンだったからだ。若い小澤が師のカラヤンからオペラをやれといわれ、それまで関心の薄かったオペラに取り組み場数を経るなかでカルメンはその契機となった作品ではないかと推する。アカショウビンはリハーサルも見た。奥様やご家族たちもそれに来ておられた。ダブルキャストのカルメンは伊原直子さんと西 明美さんだった。大学を卒業し就職した先が二期会事務局だったのでそのリハーサルにも付き合ったのだ。学生の頃にモーツァルトのオペラにはまり込んだアカショウビンにカルメン公演は実に心躍るものだった。当時も今もそうかもしれないが二期会はドイツオペラ、藤原歌劇団がイタリアオペラとされていた。事務局の先輩達は皆さんがそうでなくとも互いにライバル意識があった。ワーグナーの演出にたずさわった方はイタリアオペラを〝ぶんちゃかちゃっちゃ〟と揶揄していた。それにアカショウビンはいやな感じをもった。なぜならモーツァルト作品に心酔していたアカショウビンにはヴェルディの作品も興味の対象だったからだ。たまたま就職した先が二期会だったわけで、その公演がカルメンだったことは偶然のようなものといえる。 二期会も藤原もない、日本のオペラ公演に当事者として参加できることがアカショウビンにはありがたいことだったのである。小澤氏の来歴は若い頃のブザンソン優勝いらい本で読み知っていた。その〝武勇伝〟は実に面白く、世界と伍する才能の現実に小澤氏を介してアカショウビンも共有したことは奇遇と好機だった。

 或る事情でアカショウビンは二期会を辞めたが、その後もオペラには現在まで継続している。小澤氏はその後、フランスで新たな録音を行った。カルメンはジェシー・ノーマン。その録音はメイキング映像もあり、小澤氏の指揮と共に何度も見聞きし小澤氏のオペラ作品に親しんできた。ガンとの闘病で苦闘する小澤氏の苦境もテレビで知った。しかしその熱情は洋の東西を問わず周知のものだ。その現在に小澤氏の熱意が伝わる。若手の薫陶にボストン響時代から継続する様子はNHKで知った。その現在が京都で継続していることはアカショウビンのガン罹患で他人事とも思えないのだ。その公演も映像で残されることを期待する。今や晩年の小澤氏の現在の仕事は世界の音楽ファンにとって関心の的である筈だ。アカショウビンはカルメンの様々な録音をCDや映像で楽しむ。それは残り少ない娑婆での冥土の土産の如きものである。

 先日はアカショウビンが偏愛するフィオレンツァ・コッソットのカルメンもCDで購入した。フェニーチェ歌劇場での1971年4月22日のライブである。イタリア語のカルメンは少しとまどいもするがコッソットのカルメンは格別。ドン・ホセはマリオ・デル・モナコ。観客の熱狂も伝わる。これまた冥土の土産である。若きコッソットの強靭な声はアカショウビンにとって最高のカルメンともいえる。これまた冥土の土産である。数年前、暮れから新年に来日した映像でご壮健の様子も見られたことは幸いだった。いまだ御存命と思われる。ご長寿を心から賛したい。

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診察結果

 きのう先月の前立腺検査の結果を聞きに都内の病院へ。グレーゾーンは新たなガンと覚悟していたが幸いに悪性腫瘍ではなかったという説明。その対応で金策もしなければならないと友人に連絡もしていたのでひとまずは安心した。しかし、次は他のガンの経過である。明日は胃ガンの胃カメラ検査である。下咽頭ガンの症状も調べる筈だ。一難去って安心はできない。余生の艱難は安楽に冥土に至るというわけにもいかないのだ。重なる出費で経済的にも苦慮する。アルバイトを休めば医療費、税金の負担も増える。まだ身体が動くからいい。しかし体力の消耗はいかんともしがたい。明日の胃カメラにそなえ三度の食事もひかえねばならない。娑婆の苦境と苦渋は我が身を苛む。しかし些かの抵抗はしながら今生の生を全うしなければならぬ。


 

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2019年3月25日 (月)

従姉妹たち

 先月、五年ぶりに帰郷したときに会えた従妹は一つ下だが実に溌溂としてアカショウビンのような人生の衰えをまったく感じさせない生のオーラを発していた。ご亭主の事業を支え、人生の最盛期を謳歌しているようだった。彼女の姉や兄は病や離婚で哀れなほどに疲弊している。その対照が鮮やかで痛烈。残酷とも思えたがそれはアカショウビンの主観にすぎないだろう。人の人生とは肉親や血縁を超えてそのようなものであると思われるからだ。従姉の家も訪れた。五年前は元気だった伯母も一昨年暮れに亡くなり、霊前に手を合わせた。葬儀の写真も見せてもらい前回も今回も会えなかった従弟の姿も朧に従姉から知らされた。それは長寿で亡くなった伯母の二男として家業と家族を宰領していることが仄見えた。従姉は人生の後半生を故郷で生きている。伴侶は介護を要する生活らしい。男とは異なる女の後半生を生きている女達の人生も様々だ。同窓会のあと従妹の家で一泊させて頂いた。立派な二階建ての一軒家で彼女は子供達を育て巣だった子供達とは離れ夫婦で一家を切り盛りしている。その輝きのオーラは人生の異なりを実感させた。彼女達と50代で逝った長兄の墓と本家の墓にも詣で空港へ同行した。途中、人気のレストランで鶏飯の料理も御馳走になった。五年前も従妹と食べたのだった。帰りは関西空港経由。京都の従兄の指示に従ったのだ。病で疲弊しているという従姉に会える。その前に大阪に棲む弟にも会えるので好都合と思ったが連絡がつかず京都の従兄の家に世話になることにした。駅で迎えにきてもらい車で従姉の家まで行ってもらった。空港で買った土産を従姉は喜んだ。大好きな柏餅を島ではキャシャモチという。その嬉しそうな顔を見てこちらも嬉しくなった。話しが弾みアカショウビンが一方的に話すのを夫婦は面白く聞いてくれた。夜も遅く名残り惜しく辞した。従兄の家で一泊し大阪に弟を訊ねたが会えなかった。帰りは交通費を倹約し大阪の梅田から高速バスにした。新宿まで九時間だが昼過ぎに出発し夜の九時前に新宿に着いた。今回の帰郷で十分と思えた。十数年の余生は十分過ぎるくらいだ。粛々と最期に向け準備するだけだ。

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2019年3月16日 (土)

神々の黄昏

 きのうの東京新聞では福生病院での人口透析中止問題を〝こちら特報部〟で識者が論じている。〝医師による「与死」の危険〟という副題で最首 悟氏への取材記事だ。「与死」とは死を与えるである。西洋ではキリスト教の文脈で主語は神である。日本語のなかでその神はいない。その西洋的思考はジャック・デリダが展開していた。東洋的思考のなかでそれはどのように展開されるか。

 空海の思想は仏教の可能性があるとすれば現在でこそ問わなければならない。梅原 猛(以下、敬称は略させて頂く)もそういう問いを生涯のうちで反映させ、思索し続けたものと思う。それは人間という生き物に大日如来が在り、また到来するという思想が西洋哲学でいえば、世界性を有するか、という問いになる。それは〝西洋かぶれ〟から脱却する思索のなかで梅原の思索の音楽でいえば通奏低音として通底していると思われる。

 表題はワーグナーの楽劇のタイトルである。西洋音楽のなかで今なお演奏され日本も含めた世界から、その作品の上演に、それは詣でるとでもいうような聴衆がいるのは何故かという問いにもなる。アカショウビンも若い頃から聴き続け一度くらいはバイロイトという〝聖地〟で生の体験をしたいと思うが今生では叶わぬだろう。しかし幾つかの録音でその音楽を聴くと新たな刺激を受け、〝東は東、西は西〟というわけにもいかない思いになるのである。それはワーグナーとニーチェの対立としても考察できる論点だがそれは別の機会に。

 今朝の朝刊ではニュージーランドでの殺戮が報じられている。それは果たしてテロリズムなのか。むしろそれは宗教対立であろう。キリスト教とイスラム教の。それはナチズムを介して人間の歴史として、そこで存在し続けている私たちが問わなければならない根源的な問いだ。

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2019年3月14日 (木)

名優列伝

 時代を体現する名優がいる。アカショウビンにとってクリント・イーストウッドはそのうちの一人である。中学生のころイタリア製のアメリカ西部劇が故郷の映画館にもやってきた。好奇心に溢れるガキに音楽と映像は五感と想像力を掻き立てる強烈な媒体だった。当時流行ったカンツォーネとマカロニウェスタンはアカショウビンの好奇心の最大の対象と言ってもよかった。小学校の頃に夢中になった蝶採集は墓を作り終わりにした。
 マカロニ・ウェスタンのスターはクリント・イーストウッドとフランコ・ネロ、リーバン・クリフである。さしものクリント・イーストウッドもこのリーバン・クリフなくして少年達の憧れるヒーローにはならなかっただろう。そのリーバン・クリフも亡くなった。名優列伝に彼は欠かせない。
 きのう、クリント・イーストウッド監督の最新作『運び屋』を観た。名優88歳にして融通無碍という境地だろうか。老成が達する姿を垣間見る思いがした。少年の日のヒーローの老いの姿は我が身に照らし学びの対象でもある。

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2019年3月12日 (火)

ライブは楽し

 先日のハワイアンは何といってもプロの生(なま)の音楽が演奏される場で彼らと共に音楽に共振するという事を体験させて頂いたことの幸いだ。その共振の度合いは各人で異なるだろう。しかし、優れた演奏は魂を震わす。誰でもそういう体験があるのではなかろうか。アカショウビンには録音ではあるがフルトヴェングラーや今朝も聴いたニーナ・シモンの声はそういう音楽だ。アカショウビンにとって一生繰り返し聴き、魂を鼓舞する音楽だ。
 先日のライブはK君の奥さんや教え子の女性、小学校低学年の女の子のフラダンスが場を盛り上げた。間近にその衣装や踊りを見られるのがライブの楽しさである。
 しかし、残念ながら観客の殆どは女性。それが日本という国の歪さと言ってもよいだろう。それは別な論点で論じる機会があるかもしれない。
 ともあれ、K君のバンドと奥様の見事なフラを見られたのは冥土の土産だ。
 ライブの後は近くに住んでいる友人のM君と久しぶりに会った。脳梗塞で半身不随のリハビリに難儀しているが一杯やりながら話せたのは幸い。共に病を抱える人生だが娑婆でやり残す事は最小にして生きたいものと切に思う。 
 K君には心からエールを送る。女性ばかりでなく男どもの観客を増やすのが君の音楽の素晴らしさのバロメーターと思うからだ。ハワイアンは決して癒やしの音楽ではないだろう。それは生きていることの喜怒哀楽を表現する音楽と踊りと思うからだ。それは音楽と踊りのジャンルを明らかに越えてアカショウビンに届いたことは伝えておきたい。益々のご精進を心から祈る。

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2019年3月10日 (日)

ハワイアンバンド

 業界紙記者をやっていた頃の同僚が退社したあとウクレレ日本一になったと聞いた。その後、ハワイアンバンドを組み成功し全国各地を回っている。大阪で暮らしていた時ライブに行った。それ以来のライブが浦安であると聞き訪れた。あれから十年ちかくなるだろうか。あの時は夜だったが、きょうはマチネである。午後1時の開演が11時過ぎに行列ができている。盛況で何よりだ。食事タイムにK君とも立ち話ができた。記者をやっていた頃は二十歳前後だったが今や48歳。月日の経つのは早い。無常迅速である。 
 結婚もしキュートな奥さんと一人娘との写真もラインで送ってくれた。転職成功組である。早く会場に着いたのでリハーサルの様子も垣間見た。ハワイアンダンサーだったという奥さんの踊りも魅力的だ。これからの本番が楽しみだ。ライブの感想は終演後に。

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2019年3月 7日 (木)

仏教とは如何なる宗教か

 先ごろ亡くなられた梅原 猛さんの追悼記事を読み、氏の幾らかの著作、言説に関心をもってきた者として感想を書いておかねばならないと思ったが、なかなかそのきっかけが掴めなかった。ところが、先日神田の古本屋で『空海の思想について』を手に入れ読み始めるときっかけが掴めた。
 空海という日本の宗教史に特筆される人物には不明なところも多いが和辻哲郎ら、学者たちや司馬遼太郎の作品でアカショウビンも若い頃から長らく関心を持ち続けてきた。
 長寿を全うせられた同氏に比べ、突然の訃報に驚いた映画監督ベルナルド・ベルトルッチの作品もあれこれ観直して『リトルブッダ』が、仏教とは何か、と問い直す契機にもなった。この作品の内容・物語は、ほとんど忘れていたが、釈迦の幼少を描いたと誤解されかねないタイトルとはまるで異なる輪廻転生の是非をイタリア人の監督が試みた意欲作なのである。そのような刺激も受け、表題の問いを、先ず梅原氏の空海論を介してアカショウビンも試みてみよう。

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2019年3月 2日 (土)

加計呂麻島行④

 Eさんと生間まで戻り、フェリーを待った。レンタカーを返却し港の周辺を歩いた。奄美といっても夏とは異なる風光だ。待合所でEさんはテレビを見ている。古仁屋の港より透明度の高そうな海底を見るのは子供の頃の海への興味を想い起こさせる。父の知人を訪ねた夜に夜釣りをさせて頂いた。後にも先にも初めての体験だった。

 釣れた魚が海底から水面に上がって来る姿は海に棲むものと地上に棲むものとの出会いだった。それは海に棲むものの死として。その過酷を地上に棲む子供には理解できていない。幻想的な不可思議さを感受したのかも知れない。人間という生き物の起源も無意識を刺激しただろうか。そのような記憶も甦る。旅とは記憶と無意識のはたらきを掻き立てるものなのだ。それは経験の積み重ねが現在と遭遇する経験とも言える。
 帰りの車の中でEさんとあれこれ話して市内まで戻った。Eさんは昼食を取っていないので馴染みの飲み屋に予約を入れてあり、店の近くに車を停めた。

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