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2019年2月28日 (木)

検査入院②

 検査というより麻酔なしの手術のようなものだった。若い生真面目そうな、少し女性的でもある若い男の看護師が車椅子を用意してくれ手術室へ。その部屋か他の部屋で胃ガンと膀胱ガンを手術したのだ。しかし今回は肛門周辺だけの局部麻酔。手術室も眺められ、主治医のK医師の声もはっきり聞こえる。肛門に超音波器が挿入される。その痛みと不快感は大腸内視鏡検査以来だ。今回は、それに加えて会陰部から前立腺に針を打ち込み生体を採取する。その数、18本。それは、膀胱ガン手術後の抗がん剤治療で尿道からカテーテルを入れられるより苦しい。死に至る苦行だ。沈み、耐え、かつ忍び、浮かび上がり、漂う。これがアカショウビンの晩年の通奏低音なのだ。
 途中まで数を数えていた。針を打ち込むたびにカチーンと音を発するからだ。最先端治療の病院という触れ込みだが、約40分の処置は何とも原始的。途中、少しはこちらの声も聞いてもらわねば、とK医師に話しかけると苦笑しているようだった。
 お産の形という格好から解放され手術台を降り、車椅子で移動。看護師の世話になり14階の病室まで戻った。

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2019年2月27日 (水)

検査入院①

 昨年暮れの膀胱のMRI検査で膀胱でなく前立腺にグレーゾーンがあるというので生体検査をすることにした。一泊入院しなければならないというので本日入院。午後に検査となる。検査といっても前立腺に針を刺し14箇所の生体を取る。膀胱のカテーテル検査の苦痛以上のように思われる。
 詳細は逐次書いていく。出費ばかりで生活費は苦しくなるばかり。しかし、シノギである。
 入院手続きを済ませ病室へ。14階の四人部屋。三年前の胃ガン手術、二年前の膀胱がん手術のときと同じ病棟だ。検査は午後の早い時間と思っていたら午後四時という。それなら持参した読み差しの『全体主義の起源』を読むことにする。ハンナ・アーレントの論考と思索は半世紀以上たった現在にまで射程をもち新鮮だ。先日の加計呂麻島訪問で新たな思索の契機となった島尾敏雄の作品、戦争体験と併せて考察していきたい。
 検査の前にお風呂でシャワーを浴びる。湯槽の脱水栓が欠落している。お湯が溜められないのでお風呂に浸かることができない。清潔できれいな病院だが、少し間抜けだ。もっとも、完璧すぎるのも気味が悪い。読書に戻りハンナの考察にナチス時代のドイツの情況を読み解く。

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2019年2月25日 (月)

加計呂麻島行③

 呑之浦は実に静かな入江だった。静寂を現実に戻すのは砂浜に寄せる水音だけ。途中まで舗装された道を越えて歩くと岩場に出る。奇岩の固まりがそこだけ異様でもある。そこからは遥かに奄美本島の古仁屋の街並みが見える。その間は大島海峡の外洋である。震洋艇もそこから敵艦への特攻を敢行する計画だったのだろう。今からすれば無謀というより唖然とする作戦というのもの愚かな命令だ。しかし、それが戦争である事に震洋隊183名は黙々と従った。その部下を率いたのが島尾隊長なのである。
 特攻艇震洋を格納する洞窟は今も残っている。映画撮影に作られたと思しき震洋のパプリカが残っていた。その奥は昼間でも暗く足元は土の固まりのデコボコである。外に出ると穏やかな入江の静謐が支配している。歴史と現実が共存している異空間とも言えるだろうか。
 舗装された道を戻る途中、左側にモニュメントのような物がある。それが島尾敏雄文学記念碑だった。坂を登り、森を刳り貫き建てた顕彰碑のなかには小川国夫氏の島尾評が刻されていた。島尾作品の抜書もある。それだけが、この入江であった歴史の何たるかを伝えている。
 冬に此の地を訪れ人も少ないのだろう。石碑の文字は薄汚れていた。周囲に生き物の気配はなかった。暫し土地の風光を浴びてEさんの待つ休憩所に戻った。

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2019年2月24日 (日)

加計呂麻島行②

 古仁屋に来たときの記憶は殆どない。母の郷里の徳之島から名瀬に戻るとき寄港したことがあったかもしれない。しかし、徳之島発の汽船が古仁屋に寄港するのは当時も今も殆どないだろう。名瀬に住む人も古仁屋に行くのは珍しい、とEさんも話していた。

 船を待つ中年の女性がいてEさんが話しかけた。女性は若いころ東京に出て結婚し離婚し大阪に移り住んだと言う。それから故郷の加計呂麻島に戻り今は年金暮らしと穏やかに話した。

 漁船は定刻の午後一時に古仁屋を出発した。アカショウビンは船尾に座り、去りゆく古仁屋の街並みを眺め、大島海峡を渡る海の香を嗅ぎながら短い船旅を過ごした。大島海峡は外洋である。或る時季は鯨も通過し、それを目当ての観光客も訪れるらしい。約20分の船旅で漁船は生間(いくんま)に到着した。瀬相のほうが吞之浦には近くかつて海軍基地もあったらしい少し大きな町のようだったが、帰りのフェリーの時間が遅く生間にした。ここも天然の良港なのだろう、港にはクルーズ船のような小型船が停泊していた。Eさんを待合所で待たせアカショウビンは少し離れたレンタカー店で車を借りに。ガソリン・スタンドもある小屋のような事務所に入ると中年男が応対してくれた。古仁屋で電話予約した時は女性の声だった。どうも唖らしい。用意された文書があり書き込み身ぶり手ぶりで手続きを済ませた。目的の吞之浦までは約15分らしい。

 古仁屋まではEさんの自家用車で来たのでこちらではアカショウビンが運転した。聞けばEさんは去年、仲間たちと加計呂麻島を訪れたらしい。島尾敏雄記念碑も立ち寄ったと言う。加計呂麻島のもう一つの漁港、瀬相に通じる道は曲がりくねった道路だった。ハンドルを右、左に辿ったが対向車はほとんどない。夏とちがって冬の奄美に観光客は来ないのだろう。うっかり通り過ぎようとした道をEさんの指示で脇道を右折した。そこから吞之浦に入るのだ。島尾敏雄文学記念碑と表示もされている。休憩所があり、Eさんは、そこで待っているというのでアカショウビンは一人で歩き震洋の基地跡へ向かった。

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2019年2月22日 (金)

加計呂麻島行①

 加計呂麻島に行くには奄美大島本島の西南に位置する古仁屋まで行く。かつての名瀬市、現在は奄美市から車で一時間余り。アカショウビンが子供の頃とは見違えるように舗装された道路とトンネルの多さに驚いた。Eさんは、かつての山道はアップダウンが急で車の転落事故も多かったと話す。夜にはハブが道路を横切ることもあった。それはアカショウビンも父の車でか通ったときに見た記憶がある。車で轢かれても簡単には死なないらしい。そのような記憶も甦り、午前中にホテルに迎えに来てくださったEさんの車に乗せてもらい奄美市を発った。ところが、日曜日でフェリーの時間が帰りは夕方六時半になるという。それでは遅すぎる。そこで観光案内所に相談すると午後一時に加計呂麻島に渡る漁船があるという。料金は350円。これ幸いと港でそれを待った。

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2019年2月18日 (月)

五年ぶりの帰郷

 二泊三日の帰郷は慌ただしかったが幾つかの収穫もあった。行きは成田から、帰りは関空に戻った。加計呂麻島訪問は同窓会のおかげで実現した。もう一つの、友人の墓参りができなかったのが残念。行きの便に乗り遅れたのが悔やまれた。

 いま、大阪駅から高速バスで東京に向かう途中。書いておかねばならないことは幾つかある。何より島尾敏雄の読者として長年心の奥で熾火のように燻り続けていた加計呂麻島呑之浦訪問を実現できた事は改めて島尾作品を読む貴重な体験となった。今回の帰郷で父の葬儀でお世話になったEさんに会えた事も奇遇というか偶然ではない縁の絡みが一つほどけた思いがした。Eさんは空港での迎えから加計呂麻島訪問まで付き合ってくださった。父が経営していた小さな印刷会社の叩き上げの印刷工で、父への敬意の厚さに改めて痛感し恐縮した。

 同窓会では思わぬ友人とも再会できた。何と昨年、長年務めた大企業を退職し故郷で落ち着く考えのようだ。それなりの退職金があれば、それも選択肢の一つだろう。故郷の街は五年前と同じでもあり、それはアカショウビンが育っだ頃の痕跡として確認できるが、人は変わり、建物は新たに建ち建て替えられる。山の多い奄美で交通と物流のためにトンネルが幾つも掘られ、区画が変えられかつての景色が変わる。港は埋め立てられ住宅地が拡大していく。考えること、考えなければならぬ事は今回の帰郷で新たに増えたともいえる。    

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2019年2月15日 (金)

帰郷

 五年ぶりに帰郷する。中学の同窓会に参加し旧交を温める。残り少ない時間で縁ある人たちにお礼と挨拶をしなければならない。前回は一泊二日で慌ただしく、失礼した事が心残りだった。その幾らかでも果たしたい。前回お会いした伯母も亡くなった。墓前にも参りたい。十年前に逝った友人の遺族にも挨拶したい。娑婆での縁は果たして彼岸に渡り土産話に花を咲かせたいのだ。
 奄美に縁あった田中一村には前回、終焉の場所を訪ねた。今回は島尾敏雄が特攻を覚悟した加計呂麻島も訪れるつもりだ。場所が発する磁場の如きものがある。それは其処へ行かねば看取出来ない。そのような期待もする帰郷だ。
 東京駅から高速バスで成田へ。何と雪がちらついてきた。南島生まれのアカショウビンは東京で見た初めての雪が忘れられない。みるみる変わる景色が不思議で鮮烈だった。それは音のない静寂で沈思に誘う。その時間の貴重は計り知れない。アカショウビンが存在している時空間は時に無為に過ぎる。しかし、黙考し、瞑想し、生きる時は人間に不可欠である。自然の変化がそれを齎す。その幸いを大切にしよう。
 ところがハプニング発生。成田空港での搭乗手続きに手間取り搭乗を締め切ったと言う。携帯電話の番号も知らせてある。何故確認の連絡をしないのだ。怒り心頭である。料金の払い戻しもできないと素っ気ない。明日の便に乗れればいいが、今回は行かない選択もあるが、それも義理を欠く。島の従妹や知人にも連絡しお粗末を詫び笑った。とにかく、仕切り直しだ。無駄な出費になったが金策に努めよう。なかなか悠々と彼岸に辿り着くことはできないものだ、自らの愚を反省しよう。帰りの高速バスの車窓の景色は雪から雨に変わっている。

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2019年2月13日 (水)

メナヘムへ

 メナヘム・プレスラーというピアニストを聴いたのは数年前のテレビ映像だった。それが何を演奏していたか記憶にない。しかし稀有のピアニストであることは直感した。今や老齢のピアニストの〝音楽〟は燻し銀のごとき深みと艶を醸しだしていた。それは何かの生起としてアカショウビンに伝わった。先日、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲〝街の歌〟と称される作品38の変ホ長調の6楽章構成の楽聖の作品をラジオで久しぶりに聴いた。ケンプ、フルニエ、シェリングらの名人達の録音である。それに刺激され中古のCDでボザール・トリオのものを購入した。それが見事というか何とも味わい深いアンサンブルなのである。このトリオではハイドン作品をアカショウビンは愛聴している。音楽を聴く愉楽とはこういう経験・体験なのである。名人達のスター演奏家たちの奏でる強烈な個性のものではなく、気心の知れた仲間で音楽を奏する悦びに溢れると言ってよかろう。それは生きている悦びを楽器を介し音に現わす。新たな録音も残される今や豊饒な晩年を生きている音楽家と同時代を生きていることはアカショウビンの悦びでもある。メナヘムの長寿を心から言祝ぐ。

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2019年2月10日 (日)

児童合唱の作品

 昨夜明け方の〝ラジオ深夜便〟をたまたま聴いていたら実に興味深いインタビューだった。昨年11月に亡くなられた蓬莱泰三さんの亡くなる半年前のインタビューだ。NHKの〝中学生日記〟などの番組作成に関わった脚本家ということである。アカショウビンも以前にテレビで視たことがある番組だ。二十数年も続いたというのは初めて知った。反響も大きく毀誉褒貶あったことを蓬莱氏が語っている。南 安雄氏の曲に作詩もしていて「チコタン」という作品をインタビューの間に聴けた。それが実に鮮烈だった。児童合唱組曲だが、それを超えて痛烈な内容を突き付けられた。ご存じの方も多いだろう。アカショウビンは久しぶりに児童合唱曲を聴いて挑発された。これはCDが出ていれば熟聴したい。

 先日は大中恩さんが亡くなられ、手持ちのレコードを探したが氏の作品はなかった。他の児童合唱作品はあったが、近いうちにそれも中古ショップで探し聴きたい。

 土曜日は高校の友人のN君からサントリーホールのコンサートチケットを頂き雪のなかN君と会場に足を運んだ。都響のマチネで小泉和裕氏指揮で川久保賜紀さんをソリストに迎え、シベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いた。久しぶりのライブコンサートを楽しんだ。その感想も書いておきたい。

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2019年2月 8日 (金)

多少の縁と追悼

 このひと月で幾人かの訃報を新聞記事で知った。梅原 猛さん、橋本 治さん、そして本日はネットで日本画家、掘 文子さんの訃報を読んだ。百歳とはご長寿。晩年の作品展には都内の百貨店の会場に赴き近作も拝観した。旺盛な創作欲は作品を一覧し眺めればよくわかる。特に顕微鏡を覗き描いたミジンコの作品は面白く見た。優れたアルト・サックス奏者、坂田 明さんのミジンコ研究に触発されたものらしい。それもジャズ・ファンとして興味深く、坂田さんの近況も堀さんの特集番組で面白く見たことを想い出す。

 橋本 治さんの訃報は、唐突とも思えた。癌の発症で昨年来闘病生活だったらしい。同じ癌患者として他人事には思えなかったからだ。これから晩年の傑作を発表する過程での無念の死だったろう。幾多の賞を得て晩年の受賞のセレモニーには出席せず闘病を理由にしたらしい。70歳とは平均年齢からすれば早い死だ。アカショウビンは映画の『桃尻娘』で見ただけで作品は殆ど読んでいない。しかし、その才能は漏れ聞く記事や文章の断片で面白く読んでいた。源氏物語の現代語訳も氏の知性の面目躍如と思われる。

 梅原さんの死は掘さんと同じようにご長寿で長い人生を旺盛な創作欲で全うした稀有のものと思われた。東京新聞で山折哲雄氏の追悼文を読んだ。山折氏らしい文章だった。口述、編集、論争の副題で梅原 猛という哲学者の仕事を説明しておられる。その梅原論はアカショウビンも熟考し何か書かねばならない契機を取得した。

 面会したことはなくとも作品展や著作、新聞、雑誌記事で接し読んできたものとして、娑婆での多少の縁と恩義は返したい。

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2019年2月 5日 (火)

宗教的土壌の可能性と政治

 昨日の東京新聞朝刊はメルケル首相のプロフィールを紹介している。2015年はシリア内戦などで中東・アフリカから大量の難民が欧州に押し寄せた年だ。そのときに「私たちにはできる」とドイツは積極的に難民を受け入れた。米タイム誌の「今年の人」にも選ばれた。メルケル政権が難民を受け入れた首相の決断には「プロテスタントの牧師の娘だった信仰心が大きく影響したとされる」と記事は記している。批判も受けたが、そこでの首相の言葉が見事だ。「非常事態に親切心を見せて謝罪を求められるなら、もはやここは私の国ではない」。それは宗教と政治が或る可能性を示した一つの証として読み取られる。それは一つの論点となりうる。それは別の機会に論じたい。

 メルケル首相の愛称はアンジーらしい。来日の政治的意図は中国への牽制もあるだろう。かつての同盟国が何を論じるか興味があるが原発では異なる両首相の間で溝はあまりに深い。しかし来日前の動きを読むとどこにお互いの回路が開かれるのか期待はできない。しかし、サッチャーといいアンジーといい、欧州の女性首相の知性の鍛え抜かれた決断と政治的判断はどうだろう。先進国で最低の男尊女卑国家は果たしてどのように改革が出来るのか実に心もとない。

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2019年2月 3日 (日)

有為とは

 菅原文太のコメントに「有為」という用語が出てくる。辞書には次のように説明されている。(仏教で)因縁によって生じたこの世の一切の現象。「有為転変(=この世の物事は移り変わり・浮き沈みが激しくて、恒常的なものは何もないという仏教的な考え方。(新明解国語辞典 第四版 金田一京助 1989年11月10日)

 世界は常に変化し、私たちもその中に存在している。しかし同時に、私たちは死者たちの視線に盲目であってはならない。文太の言葉は、遺族・仲間達の記憶とともに共闘の契機となる。それが現在を生きるということだ。そのときに仏教の縁起思想は熟考を要する。

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2019年2月 2日 (土)

菅原文太の遺志と心意気

菅原文太が逝ったあとにネットで様々な追悼の文章を読みアカショウビンも書いた。そのなかで下記の書き込みを読んだ。一度転載させて頂いたが、改めて再掲させて頂く。今こそ、その発言が鮮明に現状に光を放つからだ。

 高倉健と菅原文太。相次いでこの世を去った二人の映画スターが自分の死を伝えるテレビニュ―スを見ていたら、いったいどんな感想を抱いただろう。もしかすると健さんは自分のイメージが守られたことに安堵したかもしれない。だが、文太兄ぃのほうは対照的に、相当な不満を感じたのではないか。

 なぜなら、多くのテレビ局が故人のプロフィールについて自主規制をかけ、彼のもっとも伝えたいことを伝えなかったからだ。

 菅原文太といえば、後年は俳優というより、むしろ市民運動に精力的に取り組んでいた。メインテーマは反戦、憲法改正阻止、反原発。集団的自衛権や特定秘密保護法、原発再稼働にもきっぱりと反対の姿勢を見せ、安倍政権を徹底批判していた。その情熱は、死の1ヶ月前に病身をおして沖縄県知事選の翁長候補(新知事)の総決起集会にかけつけ、演説で戦争反対を語ったことからもうかがいしれる。

 ところが訃報当日、こうした姿勢をきちんと伝えたのは『報道ステーション』(テレビ朝日系)と『NEWS23』(TBS系)のみだった。フジ系の『ニュースJAPAN』は夫人のコメントを紹介して、反戦への思いは伝えたものの、脱原発や集団的自衛権反対など、具体的な問題にはふみこまなかった。

 さらに、日本テレビの『NEWS ZERO』にいたっては、映画俳優としての功績を紹介しただけで、政治的な発言について一切紹介なし。最後にキャスターの村尾信尚が「晩年、社会に対して発言し続けた」と語っただけだった。

 また、NHKは沖縄県知事選での演説を一部流して、社会活動に関心をもっていたことはふれたものの、なぜか夫人のコメントを一部割愛・編集していた。

 実際の夫人のコメントは以下のようなものだった。

〈七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。

 「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。

 恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます。〉

 ところが、NHKはこのコメントから「無農薬有機農業を広める」というくだりと「日本が再び戦争しないよう声を上げる」というくだりを丸々カットし、以下のように縮めて放映したのだ。

〈「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。〉

 これでは、どんな種を蒔き、何を願ったのか、まったくわからない。いやそれどころか、「これら」が「落花は枝に還らず」という言葉をさしているように解釈されてしまう。少し前、川内原発再稼働の報道をめぐって、原子力規制委員会の田中正一委員長の発言を編集した『報道ステーション』がBPOの審議対象になったが、もし、あれがBPO入りするなら、このNHKの菅原夫人コメント編集も明らかにBPOの対象だろう。

 いったいなぜこういうことが起きてしまったのか。

「例の自民党からの通達の影響です。公示期間中なので、選挙の争点に関わるような政治的な主張を取り上げると、後で何を言われるかわからないと、各局、びびってしまったんでしょう。ただ、日テレの場合はそれを利用した感じもしますね。読売はグループをあげて、安倍首相を応援していますから、通達を大義名分にして、自民党に不利になるような報道をやめさせたということでしょう」(民放関係者)

 しかも、この自主規制は翌日のワイドショーをみると、さらにひどいことになっていた。日本テレビ系の『スッキリ!!』や『情報ライブ ミヤネ屋!』が一切触れないのは予想していたが、TBS系の『ひるおび!』でも映画俳優としての足跡のみを特集し、政治活動については全く報道しなかったのだ。

「前日の夜に『NEWS23』と『報ステ』が『菅原文太の死を政治利用している』『反戦プロパガンダだ』と大炎上したんです。抗議も殺到したらしい。それでTBSはビビったのかもしれません」(前出・民放関係者)

 驚いたことに、テレビの世界では「護憲」「反戦」がタブーになっているらしい。いっておくが現時点では日本国憲法が日本の最高法規であり、戦争に反対するというのは大多数の国民の願いでもある。ところが、それを軽視することがタブーになるならまだしも、逆に尊重することがタブーになってしまっているのである。

 おそらく、こうした状況に一番、無念な思いをしているのは当の菅原だろう。強いものにすり寄ることしかしないこの国のヘタレマスコミによって、命をすり減らしながら叫んだ言葉が葬り去られてしまったのだから。

 だったら、その無念の何百分の一でも晴らすために、最後に菅原が雑誌の対談やインタビューで語った発言を紹介しておこう。

「憲法は変えたらダメだと思っている。戦後68年間、日本がどこの国とも戦争をしないで経済を発展してこれたのは。憲法九条のおかげだよ。九条は世界に誇れる日本だけが持っている宝ですよ。」(カタログハウス「通販生活」)

「戦争を知らないバカどもが『軍備をぴっちり整えなくちゃダメだ』とか言いはじめている。そういう国情って、まったく危ういですよね。それを防ぐためにはやっぱり、筋金入りの反戦家が増えてこないといけないし、それが大きな力になると思うんです。」(小学館「本の窓」2012910月号)

「安倍さんの本当の狙いも集団的自衛権というより、その上の憲法を変えることにあるのかと思うのだけど(中略)拳を振り上げ、憲法改正を煽りたてる人たちは、いざとなったとき戦場には行かない人たちじゃないですか。

 出て行くのは無辜の民衆だけで、その結果、沖縄戦で二〇万人。広島と長崎で三〇万人、戦地では何百万人とも言われる有為の青年たちが命を落とした。それを繰り返すのではあまりに情けない。」(「本の窓」20136月号)

「安倍首相が『日本人は中国で何も悪いことをしていない』というようなことを言ってるんだから。(中略)日本はドイツと違ってすぐに過去を忘れて、ニワカ民主主義者が反省もなく生まれて、戦後ずっと来てしまったじゃないですか。上がそうだから、若い連中まで『虐殺はなかった』なんて言ってる。なぜ謝罪をしないのだろうか?」(「本の窓」20137月号)

「まさに戦争を知らない安倍、麻生、石破の内閣トリオは異様な顔ぶれだね。この異様さに、国民も、マスコミも、もっと敏感になってほしいよ」(「本の窓」201312月号)

「平和憲法によって国民の生命を守ってきた日本はいま、道を誤るかどうかの瀬戸際にあるのです。真珠湾攻撃に猛進したころと大差ありません。」

 

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2019年2月 1日 (金)

PSA値

 本日は昨年暮れの定期検査のMRIで〝グレーゾーン〟が見つかりPSA値の再確認のため都内の病院へ。緊急性はないがと主治医のK医師は言葉を選び説明したが早急に検査してもらいたいと意向を伝えた。
 本日の血液検査でPSA値は前回より下がっていた。女医のK先生は、しばらく経過観察でもいいですよ、とやさしく微笑んだが、〝グレーゾーン〟が何かはっきりさせたほうがいい。その生体検査をお願いした。一泊二日になるがやむを得ない。今月は15日に中学の同窓会があり帰郷する。前回の還暦同窓会が故郷の見納めと思ったが五年生き延びられた。しかし、残り時間はそれほどないだろう。最期に向けて粛々と日々を凌ぐに如かず。
 生体検査の入院は今月27日に決めた。来月下旬は胃の定期検査が控えている。それまでに読みたい本、観ておきたい映画、映像、聴いておきたい音楽は継続して感想を記していく。

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