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2019年1月22日 (火)

ほとほと愛想がつきる二枚舌

  先の経団連会長の「再稼働どんどんやるべきだ」の発言に本日の東京新聞コラムで鎌田 慧氏が皮肉と怒りを突き付けている。その前に中西宏明という日本財界の〝最高司令官〟は、「国民が反対する原発はつくれない」と語っていたではないか。これを日本語では二枚舌、騙りというのだ。正にアンポンタン以前の思考力ゼロというしかない。

 それはまた金満国家を引率する〝指導者〟の拙劣な知力を明かして余りある愚劣だ。

 「政治という虚構」の著者、フィリップ・ラクー=ラバルトは、「ハイデガーの「貧しさ」」(2007 藤原書店)でドイツの国民詩人ヘルダーリンとハイデガーを介してマルクスを論じている。ラクー=ラバルトが注釈する深読みというか裏読みとも思える思索に共振してアカショウビンも屋上屋を重ねる愚を恐れるも再考しよう。

 ハイデガーが1945年のドイツで身近な聴衆に語った意図を探ることは苛烈な時代を生きた有数の思索者、哲学者の豊饒とも孤高とも思われる思考に分け入ることである。異民族の抹殺を踏まえて自民族の世界支配を目論んだナチズムに関わった哲学教師の戦後の思索、考察、論考は再考、再々考に値する。そこでは人類史を俯瞰し有とも存在とも訳される概念を生涯かけて思索した稀有の思考があるからだ。マルクスに深く影響されたと推察されるラクー=ラバルトがユダヤ人という出自を込めて読解を試みるハイデガーというナチと関わった稀有の哲学者の思索に踏み込み述べる晩年の論考は後に続く者たちにとって避けて通れぬ通路である。

 ラクー=ラバルトはハイデガーの「貧しさ」という演題の講演について当時ハイデガーが初期マルクスの論考を読んでいた筈だと推察し「プロレタリアート」という概念との関係性を指摘する。それはハイデガーがキーワードのように使用する「精神」「本来的」という術語に対するリオタールやアドルノの異論、反論とも呼応する。

 ハイデガーは冒頭、ヘルダーリンの次の言葉を引用している。

 我々においては、すべてが精神的なものに集中する。我々は豊かにならんがために貧しくなった。

 そしてギリシア以来の西洋史に於ける「精神は質料の対立項だといわれて」いる〝精神〟の来歴が述べられ、「ロシア・コミュニズムと名づけているものは、ある精神的な世界に由来するのだと、まったく誇張なしに言えるのである」と説く。更に「これは当時の時代情勢に於けるひとつの事実を歴史学的に確認した言葉では決してなく、<存在>そのもののうちに隠された生起の、つまり来るべきもののうちにまで届くはるかな射程をもつ生起の、思索と詩作による命名である」と述べる。(同書p16

 そしてラクー=ラバルトも指摘している次のハイデガーの独特の考察は熟考しなければならないだろう。

 しかしながら、貧しさの本質はある<存在>のうちに安らっている。真に貧しく<ある>こととは、すなわち我々が、不必要なものを除いては何も欠いていないという仕方で<存在する>ことを言う。

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