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2019年1月29日 (火)

法の精神

 ナンシーやラクー‐ラバルトがナチズムを考察するなかでハンナ・アーレントの全体主義の考察を踏まえているのは明らか。それはまたハイデガーやヤスパースの哲学の考察、批判をも兼ねている。彼らの教え子、ハンナの著作は読み解かなければ大戦後の世界は語れない。それを踏まえた論考なのは言うまでもない。  『全体主義の起源』という三部作で戦後論壇に鮮烈な思想家、政治哲学・思想家として登場したユダヤ人の論考は西欧キリスト教思想の伝統に痛烈な思考として閃光を放ったことがアイヒマン裁判の論考によって通棒を食らわしたことは周知の通りである。全体主義との対決に後半生を費やした思索、論考はヤスパースやハイデガーの思想を受け継ぎ、批判し新たな地平を開いている。同時に師たちと同じく、その思索、考察、著作は現在の世界まで射程を有している。

 「理解と政治(理解することの難しさ)」(『アーレント政治思想集成2』所収 2002年 みすず書房)が、J・コーン編の論考の邦訳の副題「理解と政治」の副題になっている。現在の我が国の政治情況でハンナの思想は鮮やかな批判として読める。それは法の破壊という憲法破壊として全体主義の微候となって現象しているのではないか?

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2019年1月26日 (土)

擬態的

 先日読んだ『ナチ神話』で啓発された箇所を引用し思考を継続しよう。ナンシーとラクー・ラバルトは次のように記している。 
 プラトンが都市国家の芸術を追放し示したのは、神話の問題はつねに芸術の問題と分かちがたいということもあり、それはなぜかといえば神話が一個の集団的創造物ないし芸術的であるというよりも、神話が、それを利用する芸術作品と同様に、一個の同一化の装置であるからなのである。神話とは、すぐれて擬態的(mimetique)な道具ですらあるのだ。(p45)
 これは啓発と言うより熟考しなければならない指摘といえる。ナンシーはともかくアカショウビンにはハイデガーを介したラクー・ラバルトの思索に挑発されるからだ。
 擬態とは昆虫や植物の生き残る知恵と本能であろう。さて人間は知恵と本能でこの惑星から太陽系の外まで歴史を継続できるのであろうか?

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2019年1月22日 (火)

茂吉56歳

 昭和12年、斎藤茂吉56歳。帝国日本は南京陥落で意気あがる。マスコミ報道に国民は熱狂していただろう。茂吉も新聞記事で読み思索、創作の機縁を得たかも知れぬ。『寒雲』に、その日常が留められている。それを熟考しアカショウビンはきょうを凌ぐ。茂吉より10歳も年を経た。肉体労働で疲弊、消耗する。しかし、食い、飲み、聴き、書かなければならぬ。娑婆で生を全うするためには。働かざる者、食うべからずという。食わずに死を迎えることもできよう。しかし娑婆でし残した事は幾つかある。悟り得ず、娑婆の負債を帳尻合わすためには働かざるを得ず。

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ほとほと愛想がつきる二枚舌

  先の経団連会長の「再稼働どんどんやるべきだ」の発言に本日の東京新聞コラムで鎌田 慧氏が皮肉と怒りを突き付けている。その前に中西宏明という日本財界の〝最高司令官〟は、「国民が反対する原発はつくれない」と語っていたではないか。これを日本語では二枚舌、騙りというのだ。正にアンポンタン以前の思考力ゼロというしかない。

 それはまた金満国家を引率する〝指導者〟の拙劣な知力を明かして余りある愚劣だ。

 「政治という虚構」の著者、フィリップ・ラクー=ラバルトは、「ハイデガーの「貧しさ」」(2007 藤原書店)でドイツの国民詩人ヘルダーリンとハイデガーを介してマルクスを論じている。ラクー=ラバルトが注釈する深読みというか裏読みとも思える思索に共振してアカショウビンも屋上屋を重ねる愚を恐れるも再考しよう。

 ハイデガーが1945年のドイツで身近な聴衆に語った意図を探ることは苛烈な時代を生きた有数の思索者、哲学者の豊饒とも孤高とも思われる思考に分け入ることである。異民族の抹殺を踏まえて自民族の世界支配を目論んだナチズムに関わった哲学教師の戦後の思索、考察、論考は再考、再々考に値する。そこでは人類史を俯瞰し有とも存在とも訳される概念を生涯かけて思索した稀有の思考があるからだ。マルクスに深く影響されたと推察されるラクー=ラバルトがユダヤ人という出自を込めて読解を試みるハイデガーというナチと関わった稀有の哲学者の思索に踏み込み述べる晩年の論考は後に続く者たちにとって避けて通れぬ通路である。

 ラクー=ラバルトはハイデガーの「貧しさ」という演題の講演について当時ハイデガーが初期マルクスの論考を読んでいた筈だと推察し「プロレタリアート」という概念との関係性を指摘する。それはハイデガーがキーワードのように使用する「精神」「本来的」という術語に対するリオタールやアドルノの異論、反論とも呼応する。

 ハイデガーは冒頭、ヘルダーリンの次の言葉を引用している。

 我々においては、すべてが精神的なものに集中する。我々は豊かにならんがために貧しくなった。

 そしてギリシア以来の西洋史に於ける「精神は質料の対立項だといわれて」いる〝精神〟の来歴が述べられ、「ロシア・コミュニズムと名づけているものは、ある精神的な世界に由来するのだと、まったく誇張なしに言えるのである」と説く。更に「これは当時の時代情勢に於けるひとつの事実を歴史学的に確認した言葉では決してなく、<存在>そのもののうちに隠された生起の、つまり来るべきもののうちにまで届くはるかな射程をもつ生起の、思索と詩作による命名である」と述べる。(同書p16

 そしてラクー=ラバルトも指摘している次のハイデガーの独特の考察は熟考しなければならないだろう。

 しかしながら、貧しさの本質はある<存在>のうちに安らっている。真に貧しく<ある>こととは、すなわち我々が、不必要なものを除いては何も欠いていないという仕方で<存在する>ことを言う。

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2019年1月14日 (月)

マーラー考

 ブルーノ・ワルターが記した『マーラー 人と芸術』を読むと、作品を聴く新たな視点が開かれる。作品の精緻な分析とマーラーと親しく交わった人でなければ見抜くことの出来ない観察と解釈が書には見事に残されている。その幸いを感謝しよう。

 それは一人の天才と苦悩に苛まれながらも偉大な作品を残した人物像を確認できるからだ。

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三人のジャンゴ

 先日、ジャンゴ・ラインハルトの生き方と演奏を題材にしたフランス映画をレンタルDVDで観た。この天才ギタリストの姿と生き方を興味深くみた。最初その演奏に惹かれたのはルイ・マル監督の『ルシアンの青春』でだった。ジャンゴの演奏が実に効果的に使われていた。そのご、ジャズに親しむなかでジャンゴの音楽にあるのがスイングであり、ブルースであることにアカショウビンもそれらの演奏と録音に馴染んでいったのであった。それは渡仏した米国のジャズメンたちとの共演ともなった。そのなかで〝スイングの王様〟というのがジャンゴの評価である。しかし、その半生を描いた映画は先の大戦でのナチとの相克を辿り興味深い。ジプシー(現在はロマになっている)の姿を通し、そのなかで戦後まで生き延びた一つの〝歴史〟をこの作品は描いている。それはヨーロッパでの各民族の姿と相克だ。それが音楽を介して描かれるのが作品のメッセージである。

 それで思い出すのがイタリア製のマカロニ・ウエスタンのジャンゴである。それは米国映画でも描かれた。その元になったのはマカロニ・ウエスタンのジャンゴである。それは三様のジャンゴとして面白い。『ギター弾きの恋』はジャンゴ、ラインハルトを尊敬するギター弾きの話である。ウディ・アレン監督の仕掛けにアカショウビンは、まんまとハマり脱帽した。マカロニ・ウエスタンの音楽はエンニオ・モリコーネである。アカショウビンが中学生のころ大人気を博しアカショウビンも夢中になった。音楽と映画のコラボが強烈だった。学校は、このような〝残酷〟な映画を上映する映画館の出入りを禁じた。しかし、さすらいのジャンゴ〟の挿入曲や『荒野の用心棒』の〝残酷な〟ジャンゴは真面目な中学生に校則への反抗への端緒を開いた。アカショウビンは以来モリコーネの音楽を繰り返し聴いて鼓舞される。

 それはともかく、近作の『永遠のジャンゴ』で描かれるナチとの関わりは現在もロマの姿を介しヨーロッパの歴史を通底する〝歴史〟として現在しているだろう。それはユダヤ人たちの生とも深く連関する民族が相克し現象する現実だ。先日読んだ『ナチ神話』も、それを想起させる。ジャン=リュック・ナンシーとフィリップ・ラクー=ラバルトの共著である。二人の哲学者がナチズムの哲学的分析をしている。それは哲学分析であるが現在のフランスやドイツのユダヤ問題との関わりを論じてアカショウビンを挑発する。それはまたハンナ・アーレントの政治哲学とも共振する。

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2019年1月 6日 (日)

女たちの声

 東京新聞、4日、5日の夕刊に上野千鶴子さんと荻上チキさんの対談が掲載されている。タイトルは「共に生きる~ポスト平成の男女平等論~」。未だに男女平等がない日本の現状を痛烈に告発している。性差とジェンダーの違いに鈍感な日本という国を記事を読んで痛感する。

 昨年12月に世界フォーラム(本部・ジュネーブ)が発表した2018年版「ジェンダー・ギャップ指数」で、調査対象149ケ国のうち日本の男女平等度は先進7カ国(G7)で最下位の110位という。基準は男女収入格差、女性国家議員の少なさなどらしい。何とも暗澹たる思いになる。これだけ経済的に豊かになった国が世界のなかでこの有様である。

 職場で下層労働に従事するアカショウビンは中高年に対する現場の対応はまだしも楽なほうかとも思う。女性達と中高年の賃金格差はほぼ同じとも思うから彼女達の現状には敏感にならざるをえない。記事を読み、その現状がこの国のていたらくに唖然とするのである。  

 この国の労働現場で「性被害は矮小化」(荻上)され、先の性差別入試で、それは「発覚」(上野)した。上野さんが述べている、昨年4月の集会で、若い男性が「これは僕らの問題です」という発言に上野さんは「大きな変化」と述べる。アカショウビンの労働現場で若い男の言葉にその一端は聞きとっている。しかし、それはまだしもアカショウビンを含め男どもの現状は情けないものと記事を読んで反省する。

 その現状はどのように改革されるのか。それは現在を生きる私たち日本人に突きつけられる問いである。しかし日々を生きるなかで回答し現実を生きねばならない。それは未来を生きる者たちの実現する世界である。先のブログで書いた黒人作家、ボールドウィンの米国の現状に対する告発と共に、それは洋の東西南北を問わない喫緊の問いである。

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2019年1月 4日 (金)

仕事始め

 暮れに一日、アルバイトに行き、正月まで五日間、休みを取った。休養は十分だが病を抱え決して万全ともいかぬ。しかし、観たい映画や音楽はあれこれある。昨夜から今朝までには、先日借りた『UDON』(2006年 本木克洋監督)を久しぶりに観た。その頃の感想は書いた筈だが、とにかく観た。しかし、役者たちの演技があまりに稚拙で杜撰。監督の責任である。テレビ局を動員しての大作とはいえ、ノリのコントロールが出来ていない。ハチャメチャすれすれの前半には観通すのを止めようか、と思ったほど。しかし、何とか最後まで観終えた。後半はそれなりに物語が展開し少し納得。夜は讃岐うどんを食べたくなり駅前まで出かけたがつい別の店で済ませてしまった。物語の舞台は讃岐富士の麓町。県人口百万人の中に900軒のうどん店があるという。都内のマクドナルドは500軒というから驚く。うどんは地元のソウルフードなのである。物語はうどんを巡るお話だが父と息子の葛藤の話でもあるのが観る者の感情を刺激する。興味ある方はレンタルショップでお借りしてご覧頂きたい。
 きょうは仕事始め。あれこれ雑用を片付け団地の部屋を出たら何と公園前の道路に老婆がうつ伏せになり倒れているではないか。声をかけると少し身動きした。そのうちゆっくり立ち上がり歩き去った。他人事ではない。明日は我が身。油断めさるなアカショウビン君。さぁ、これから現場に向かう。

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2019年1月 3日 (木)

遺作のシューベルト

 去年はシューベルトの遺作ピアノ・ソナタのD559の二楽章・アンダンティーノを何人かのピアニストの録音で聴いてきた。ブレンデル、内田光子、ルドルフ・ゼルキン、アンドラーシュ・シフ、それぞれ聴き応えのある演奏と録音だ。本日は暮れに購入したエリザベス・レオンスカヤで聴いた。何とも繊細で優美、実にシューベルトを熟知したピアニストと言える。それはリヒテルとも、上記の演奏者とも異なる一人のシューベルト演奏家のシューベルトだ。アカショウビンには、まるで死期を悟った人が黄泉の国に旅立ち、歩き続ける孤独と絶望、というよりその旋律を携え彼岸に至る一人の人間を一人の女性が労り、賛美し励ますように聴こえる。そこでアニマやアニムスという概念や解釈も超越し、それは正しく、一人の早世した天才への哀悼であり、弔音だ。修辞が過ぎたかもしれぬ。しかし、レオンスカヤの演奏はそれほど哀節を極め痛々しくも美しい。それも、シューベルトの晩年に寄り添う女性ならではの哀節だろう。

 天才の作品は、かように後進たちが演奏する幸いを言祝ごう。

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2019年1月 1日 (火)

最悪な時代

 『ダンシング・ベートーヴェン』のなかでイスラエル・フィルを指揮しこの公演に参加した指揮者のズビン・メータはモーリス・ベジャールの娘の質問に答え、この時代は過去300年間で最悪な時代だ、とシリアやイラクの現状を引き答えている。小澤征爾のインタビューでの思いもそれと共振するだろう。

 アカショウビンは昨年公開された『私はあなたの二グロではない』(ラウル・ペック監督)という映像で米国での黒人、白人の抗争を見てそれを痛感する。小澤征爾が居を据え活動したボストンや米国各地で小澤は生のアメリカという国を熟視した筈だ。それは一人の有色人種が白人社会で音楽を介して渡り合うということである。差別や冷笑、嘲りもあっただろう。其の中で小澤は確固たる地位を築いた。それは日本人、東洋人の誇りである。メータもしかりだろう。そのコメントは一人の指揮者も社会と切り結び生きているということだ。彼らの音楽で精神を鼓舞されるアカショウビンも多くの音楽好きもそうだろう。そこで悩み、救われ、精神を活性化させる。それが人間という生き物の不可思議なところなのだ。

 『私はあなたの二グロではない』で作家のジョージ・ボールドウィンが語る話もメータや小澤征爾の語りと間違いなく共振している。それは現在の米国でも日本でも九割の白人、日本人に理解されない事実と歴史だろう。しかし人間の歴史には時に光明が射す。その一瞬の光はベートーヴェンが最期の際に見た光かもしれない。しかし、それは意志があれば、現在を生きる私たちにも可能かもしれない。その意志は人それぞれに千差万別の勁さを求めるだろうが、それに応える価値は間違いなくあるとアカショウビンは信ずる。

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第九の真髄

 暮れから新年にかけてベートーヴェンの第九交響曲をあれこれ聴き観た。一昨年、公開された『ダンシング・ベートーヴェン』(2017年 アランチャ・アギーレ監督)がレンタルされていたので改めて観た。  冒頭は、スイス・ローザンヌの雪景色から始まる。その地名が一人の放浪の修道士から名付けられたとは知らなかった。アンリ・ド・ローザンヌ、彼はキリスト教異端派のカタリ派の修道士で、その説教が多くの信奉者を得たらしい。語りと連動して画面はゴヤの晩年の版画が挿入される。そこにこの作品の意図らしきものが読み取られる。それに加えて、薄汚れたベートーヴェン像も顔のアップ映像も。  この作品は、モーリス・ベジャールの作品を介し様々なコメントが述べられている。東京公演までの紆余曲折が丁寧に構成され実に興味深い。「第九は演劇的」というのもダンサーたちの動きと表現でベジャールが何を表現したかったのか、ベジャールの家族や仲間達が説明する。その故人の意図が若者たちによって表現される。それは観る者を啓発し挑発する。第九は人間賛歌であり人類の理想をベートーヴェンという音楽家が人生の最期に書きあげた唯一無二の作品というのは一般的な解釈だ。ベジャールもその理想を踊りで表現した。ただ、生前にベジャールが作家のジャン・ジュネと話したときに人間がわかりあえるって?と問い返したというエピソードも伝えられている。それにベジャールは傷ついたらしい。それは、そうだろう。ジュネという作家でなければ言えない揶揄ともからかいともつかぬ問い返しだからだ。しかし、それに反発し、その揶揄とからかいを乗り越えてベジャールが音楽を踊りで視覚化した。その偉業は感嘆するしかない。その作品をスイスのローザンヌと東京で若者たちが全身で表現する。それは観る者に様々な感慨を齎す。

 評論家の三浦雅士が、ベジャールは日本文化を理解しようと禅に深い関心をもったとインタビュに応じ興味深い話をしているのも、この映像作品が日本を理解しようという意思がはたらいていることを明かす。三浦氏は禅はインドから中国に渡り日本で完成された宗教思想だと述べる。ベジャールという振付師が禅に深い関心をもった、ということは洋の東西を問わず宗教者、思想家、哲学者が〝人間〟とは何か?という問いに様々な回答をし思索したことの一つの証でもある。それはベジャール作品の根底に確かに存在する。それを作品を表現し、作品化する過程に観る者は共有する。

 アカショウビンは、サイモン・ラトルがウィーン・フィルと録音したベーレンライター版の2010年盤や小澤征爾が2002年九月に松本文化会館でサイトウ・キネン・オーケストラと録音したライブ演奏を聴いて暮れから新年を過ごした。映像の若者たちは、その後どうしているだろう。ベートーヴェンの作品は血肉となり彼らの生を鼓舞しているだろうか。アカショウビンの余生は、それらの録音を聴きながら鼓舞され生きる力を得る。彼らもまたそうであるという希望は幽かにあると思うのだが。

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