« ベルトルッチ批判 | トップページ | ベルトルッチ批判・再々考  »

2018年12月 4日 (火)

ベルトルッチ批判・再考

 師岡さんが、「野暮だろうが」と前置きし、マリア・シュナイダーの涙の重さにベルトルッチ作品の全てより重さに共感するという気持ちは尊重されるべきだ。しかし、ベルトルッチが作品を撮るときに女優に仕掛けを作った事に一つの問いが生ずる。それはベルトルッチが述べた“罪"という意識は普遍的なものだろうか、という問いである。それはキリスト教文化圏で生ずるものではないのか。『ラストタンゴ・イン・パリ』を撮ってからベルトルッチは作品テーマを広げる。その幾つかは観てベルトルッチの目指すところが何か、所感がある。それは人間という生き物が背負うモノである。キリスト教文化圏では“罪"であり、仏教思想では“業"であろう。映画作品という虚構の世界を拵えるのを仕事とした者が、そこに一人の女性に屈辱を齎し作品を創作する是非が問われる。そのアポリアは映画という映像媒体が背負う罪であり業である。その回答は個々に問われる普遍性を持つのではないか?

|

« ベルトルッチ批判 | トップページ | ベルトルッチ批判・再々考  »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ベルトルッチ批判・再考:

« ベルトルッチ批判 | トップページ | ベルトルッチ批判・再々考  »