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2018年12月 7日 (金)

ベルトルッチ批判・再々考 

 『ラストタンゴ・イン・パリ』を何十年かぶりにレンタルDVDで観直した。細部も物語の展開も殆ど忘れている。話題になった性描写も現在からすれば微温的といってもよかろう。しかし、マリア・シュナイダーからすれば、それは屈辱であったということになる。現在の鍛え抜かれた女優からすれば19歳の新人の甘さとも解されかねない彼女の述懐と回想とも読みとられるのではないか。しかし師岡さんは、それに女性として鋭く反応した。それを加味しながら作品を観ると、監督の構成と意図、部分から全体を構想するなかで俳優はそのなかの道具といってもよかろう。そこに不満があっても多寡はあれどギャラを得て出演を了解した出演者は不満を裁判に訴える根拠の正当性の是非は困難を極めるだろう。作品を観直しマリア・シュナイダーのコメントにはそのような感想も得た。

 殆ど消え失せていた映像を新たに観ると、それは鮮明で監督の力量を実感した。俳優という〝道具〟を駆使し監督は作品を構成する。その編集の手際が監督の才覚である。それをベルトルッチは確かに持っている。それは或る意味で〝巨匠〟への道を辿ったと言える。『1900年』で現代イタリア史を辿り、『ラストエンペラー』という大作で中国、『リトルブッダ』でインド、と東方への関心を作品に留める。それは音楽でいえばプッチーニの東洋への強い関心とも重なりベルトルッチのイタリア人インテリの歴史的伝統ともいえるかもしれない。それはマーラーの中国詩人たちの影響をも想起させる。

 それはともかく、しばらくはベルトルッチ作品を観直し感想を書いていきたい。そのうち追悼上映会も企画されるだろう。

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