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2018年12月27日 (木)

今年の「第九」

 日曜日の〝音楽の泉〟はバッハの「クリスマス・オラトリオ」だった。リヒターとミュンヘン・バッハ合唱団、ミュンヘン・バッハ管弦楽団の1965年の録音。この季節になると毎年聴いていたものだ。定番といえば定番の演奏だが繰り返し聴いて厭きない名盤だ。二月、三月、六月の演奏を編集している。ソリストもその頃の選りすぐり。天使をソプラノのグンドラ・ヤノヴィッツ、アルトはクリスタ・ルートヴィヒ、エヴァンゲリストをフリッツ・ヴンダーリッヒ、ヘロデをフランツ・クラスが受け持っている。他の盤も聴いたが、やはりリヒター盤がアカショウビンには好もしい演奏だ。放送は皆川さんが抜粋で解説される。それが改めてこの作品の見事さを明かしてくれる。

 そのような作品に触発されてバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、パルティータも聴き、ベートーヴェンの第九に辿りつく。きょうは、サイモン・ラトルとウィーン・フィルの2010年盤に集中した。バーバラ・ボニー、アンジェラ・デノークのソプラノ、ビルギット・リマートのコントラルト、クルト・ストライトのテノール、トーマス・ハンプソンのバリトンという布陣だ。合唱はバーミンガム市交響楽団合唱団とアーノルト・シェーンベルク合唱団。実に面白く、挑発的な演奏である。モノラルでは聴き取れないピッコロやヴァイオリンの音が新鮮でラトルの解釈が味わい深い。

 続けてフルトヴェングラーの録音を聴いた。1953年5月30日のウィーン・フィルとのライブだ。半世紀以上の時を経てウィーン・フィルのメンバーも大きく入れ替わっている。しかし、ベートーヴェンの第九を演奏し歌う機会は格別の緊張をもたらすのだろう。その演奏と声がこちらを刺激する。フルトヴェングラー盤は亡くなる一年前。耳も遠くなり指示も遅くなるがウィーン・フィルには楽匠の意図は阿吽の呼吸で伝わるのだろう。見事な正に正調ベートーヴェンの演奏が留められている。この勢いで他の盤も聴いてみよう。

 季節がらあちらこちらで第九の演奏会が行われているだろう。友人のN君は明日、サントリー・ホールで秋山和慶指揮のライブを聴きに行くという。さぞや盛り上がることだろう。CDでは小澤征爾さんの新しい録音が発売されている。この時期は夏のバイロイトのワーグナー作品も放送される。アカショウビンも手持ちのCDでワーグナー作品を聴く。2018年もかように過ぎて行く。明日は来年早々、ソウルに赴任する高校時代の同級生K君の壮行会兼忘年会を渋谷でする。それも楽しみだ。他の同窓生との再会もあるので話は尽きない筈だ。

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2018年12月25日 (火)

冥途の旅の一里塚

 少々早いが、門松も誕生日も冥途の旅の一里塚だ。おめでとうもご愁傷さまも裏腹。生まれてよかったか、迷惑で余計な事なのかも人それぞれだろう。
 水俣で胎児性水銀中毒になり生を受け生きた患者さんたちにとり果たして此の世を生きることは苦でない事があり得るのだろうか?あるとすれば、それは何か?それはまた人間に理解できるものとも思われるない。
 またアカショウビンのように病苦を抱え生きる者にとって生きるということ、生きているということは如何なる意味があり、あり得るのか?愚想は次々と湧き起こる。更に愚考を重ね、旅のひと時を過ごすに如かず。
 

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シューベルトの遺作

 この若くして逝った天才の作品の或る箇所は現在のアカショウビンに恩寵のように響く。ピアノ・ソナタのD959の二楽章、アンダンティーノは晩年のシューベルトのいかなる心境から楽譜に留められたのか?繰り返し聴いてシューベルトという人の心の闇のような深淵の周りを辿る思いで聴く。この天才の生きた時代はベートーヴェンが作品を公開していた時だ。それにこの天才は鋭く反応した人々の一人だ。その作品がベートーヴェンと拮抗しあるいはそれを凌ぐと言ってもよい作品を残したことは私たち後世の人間の至福と言ってよい。もちろん、ベートーヴェンは楽聖と讃えられる偉大な作品を残した稀有の音楽家である。しかし、それは一人の苦悩多き人生を生きた、当時も現在も巷にいる人間達の一人である。シューベルトしかり、モーツァルトしかり、それは音楽の領域に限らない。先日、作品に挑発されたジョルジュ・ルオーしかりである。その作品が当時も後世の私達をも熱狂させ、鼓舞し、沈思させ、生きる意味を問う契機を促す。それはそれを聴く私たちには今や消え失せた時間のなかで観て聴けば、かつて在った名残りの如きものであるとしても私たちは現在を生きる糧とすることができることは幸いである。

 本日はブレンデルの録音でそれを確かに聴いた。

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2018年12月21日 (金)

幾つかの論点

 先日、討ち入りの日の前に忠臣蔵の映画が見たくなりレンタルショップで一本借りた。『赤穂浪士』松田定次監督の昭和36年作品だ。モノクロームかと思ったが実に鮮やかなカラー映像に驚いた。それに大スター揃い踏み。東映創立10周記念というから力の入れようも映像からひしひしと伝わる。劇場で観客も固唾を飲み楽しんだ事だろう。松田監督は三度目の題材らしい。制作、配給会社の東映も総力を挙げたのが作品を観ればよくわかる。。大石内蔵助は片岡千恵蔵、吉良は月形龍之介。市川歌右衛門、山形 勲が熱演している。浅野内匠頭は大川橋蔵。萬屋(当時は中村)錦之介兄弟も若い。とにかく、今観て映画産業全盛期の屈指の作品と思う。それにしても日本人は何故そんなに忠臣蔵が好きなのか。それは日本文化の一つの論点たりうるだろう。

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定期検査

 本日は都内の病院でMRI検査。三つのガンの症状を確認するためだろうが、他に新たなガンが見つかる可能性もある。その場合どのように治療するのか先手の対応も検討される。ここでは三年前に胃ガンと膀胱ガンの手術をした。ガンという病気は昔と違って治療方が進化し恐れることはないという論説も多い。しかし完治する保証も論拠も曖昧だ。ノーベル賞を受賞した本庶さんの功績も絶対ではない。ガンは厄介な病なのだ。しかし、粛々と対処するしかない。娑婆に未練はないが、次の世代に伝え残しておきたい事は幾つかある。それは伝えて冥途に渡りたい。三途の河の舟頭には舟賃も渡さねばならない。土産話は沢山ある。舟頭とあれこれ話すのも楽しみだ。彼が面白がるかわからないが。 
 今、MRI検査を終えたところ。主治医の説明では前立腺にグレーゾーンあり。膀胱ではなく前立腺というのが意外だが転移は近い場所というのが常識だから主治医には了解内だろう。画像の専門家が精査し改めて説明すると言葉を選んでいたがガンだろう。いずれにしろ新たな局面に対処しなければならない。また入院、手術になれば金の算段もしなければならぬ。定年後のお気楽年金生活とはいかないアカショウビンの晩年だが粛々と最期に向けて対応するだけだ。

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モーツァルト考

 先日、中古屋で安く購入したリヒテルのキエフでのライブを録音したCDで驚愕したのがベートーヴェンとモーツァルトのソナタだっった。購入動機はシューベルトも演奏していたからだがモーツァルトが凄い。K280のソナタだ。そこには10代の天才の天衣無縫と奔放、その裏にある深淵が聴き取られる。このロココ調のハイドンに影響された頃の少年に既に心の暗闇があることをリヒテルは表現している。手持ちのCDでラローチャの全集で同曲を聴いたがまるで違う曲のようだ。それほどリヒテルの演奏は傑出している。

  吉田秀和によればリヒテルは「おそろしくむらの多い」ピアニストだ。しかし、その演奏の稀有をこの録音は伝えている。吉田はバックハウスとクラウスの演奏を傾聴し批評を書いている。これも繰り返し読み啓発されるモーツァルト論だ。 宇野功芳によれば、モーツァルトのピアノ・ソナタ17曲で一番優れているのはK281だそうだが、リヒテルの録音を聴けばアカショウビンには、むしろ「良くない」という、この作品に共感する。それもリヒテルの表現と解釈による。

  かつて中村紘子は「ピアニストという蛮族」と面白く書いたが野蛮の反対は崇高といってもよい境地に蛮族は達することをリヒテルの演奏は留めていると確信する。これを聴き、宇野が称賛するリリー・クラウスの録音、モーツァルトでは定評のギーゼキングの録音も聴いている。それにしてもモーツァルトの作品は宇野がいうように「奇跡の音楽」ということに改めて同意する。

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2018年12月15日 (土)

あくがれいづる魂

 今朝の東京新聞“筆洗"は和泉式部の歌から書き出している。アカショウビンも先日観たルオー展で式部の歌が想い起こされた。理由は互いに異なる。しかし、この王朝歌人の歌は現在にも調べが何かを共有し挑発する力を持っているという事である。茂吉の歌も同じだ。歌とは詩魂であり何物かの魂なのである。それは言葉であり言霊である。
 アカショウビンが想い起こした式部の歌は、ものおもへば澤のほたるも我が身よりあくがれいづる玉かとぞみゆ。玉とは魂である。"筆洗“は、くらきよりくらき道にぞいりぬべき遥かに照らせ山の端の月。
 ルオーの作品を言葉にすれば、式部のあくがれかもしれない。恋する男とイエス、キリストへの対象の違いはあれど。

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2018年12月12日 (水)

シューベルト

 先日のNHKラジオ〝音楽の泉〟はシューベルト16歳の弦楽四重奏と「死と乙女」の歌曲版をフィッシャー・ディスカウの録音で放送していた。最近、シューベルトのピアノ・ソナタを集中し聴いているため恩恵のように放送に耳を澄ませ聴いた。そして読み続けている北 杜夫の『壮年茂吉』(岩波現代文庫 2001年2月16日 第1刷)のなかに茂吉がドイツで師の葬式のときに聴いたシューベルトの歌曲の話を書いていることも偶然の恩恵のように読んだ。倅によれば父は極度の音痴という。ドイツ語も会話は下手だったという。しかし論文や読解力は抜群で、その茂吉が弔いで歌われたシューベルトに感銘し、「死と乙女」の茂吉のドイツ語訳を北 杜夫が記している。それを以下に抜いて、新たにシューベルトという若くして逝った天才の音楽を我が精神に吹き込み娑婆を生きる縁(よすが)にしたい。

処女、過ぎよ。あはれ過ぎよ。あらき死の者よ、去れ。われは未だうら若し。君よ、ここを去れ。われに触るな。われに触れたまふな。

死。汝(な)が手を取らむ。麗しくか繊(ほそ)き者よ。吾は汝(な)が友。汝(な)は罪せじ。吾はあらあらしき者にあらず。こころ和(なご)みて、しずかに吾にいだかれて眠れかし。

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2018年12月 7日 (金)

ベルトルッチ批判・再々考 

 『ラストタンゴ・イン・パリ』を何十年かぶりにレンタルDVDで観直した。細部も物語の展開も殆ど忘れている。話題になった性描写も現在からすれば微温的といってもよかろう。しかし、マリア・シュナイダーからすれば、それは屈辱であったということになる。現在の鍛え抜かれた女優からすれば19歳の新人の甘さとも解されかねない彼女の述懐と回想とも読みとられるのではないか。しかし師岡さんは、それに女性として鋭く反応した。それを加味しながら作品を観ると、監督の構成と意図、部分から全体を構想するなかで俳優はそのなかの道具といってもよかろう。そこに不満があっても多寡はあれどギャラを得て出演を了解した出演者は不満を裁判に訴える根拠の正当性の是非は困難を極めるだろう。作品を観直しマリア・シュナイダーのコメントにはそのような感想も得た。

 殆ど消え失せていた映像を新たに観ると、それは鮮明で監督の力量を実感した。俳優という〝道具〟を駆使し監督は作品を構成する。その編集の手際が監督の才覚である。それをベルトルッチは確かに持っている。それは或る意味で〝巨匠〟への道を辿ったと言える。『1900年』で現代イタリア史を辿り、『ラストエンペラー』という大作で中国、『リトルブッダ』でインド、と東方への関心を作品に留める。それは音楽でいえばプッチーニの東洋への強い関心とも重なりベルトルッチのイタリア人インテリの歴史的伝統ともいえるかもしれない。それはマーラーの中国詩人たちの影響をも想起させる。

 それはともかく、しばらくはベルトルッチ作品を観直し感想を書いていきたい。そのうち追悼上映会も企画されるだろう。

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2018年12月 4日 (火)

ベルトルッチ批判・再考

 師岡さんが、「野暮だろうが」と前置きし、マリア・シュナイダーの涙の重さにベルトルッチ作品の全てより重さに共感するという気持ちは尊重されるべきだ。しかし、ベルトルッチが作品を撮るときに女優に仕掛けを作った事に一つの問いが生ずる。それはベルトルッチが述べた“罪"という意識は普遍的なものだろうか、という問いである。それはキリスト教文化圏で生ずるものではないのか。『ラストタンゴ・イン・パリ』を撮ってからベルトルッチは作品テーマを広げる。その幾つかは観てベルトルッチの目指すところが何か、所感がある。それは人間という生き物が背負うモノである。キリスト教文化圏では“罪"であり、仏教思想では“業"であろう。映画作品という虚構の世界を拵えるのを仕事とした者が、そこに一人の女性に屈辱を齎し作品を創作する是非が問われる。そのアポリアは映画という映像媒体が背負う罪であり業である。その回答は個々に問われる普遍性を持つのではないか?

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2018年12月 1日 (土)

ベルトルッチ批判

 今朝の東京新聞朝刊の27面“本音のコラム“で師岡カリーナさんがベルトルッチ批判を書いておられる。タイトルは「芸術家の『自由』」。『ラストタンゴ・イン・パリ』に出演したマリア・シュナイダーの話した事実に共感したものだ。マリア・シュナイダーがレイブされる場面の「屈辱的な詳細」を後で明かした、と師岡さんは書いている。女優は19歳。拒否できることを知らす、撮影に臨んだ。ベルトルッチの説明は「演技ではない屈辱と怒りを撮るため」、「罪意識はあるが後悔はない。映像作家には完全な自由が必要だ」。その後の女優はその作品の影響で、麻薬依存や自殺未遂などのトラウマに苦しんだ、と師岡さんは書いている。
 たとえ野暮と言われても、私にとって彼女の涙は、ベルトルッチ作品すべてを合わせた価値より重い、という結語は熟考を促す。

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