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2018年10月25日 (木)

歌姫考

 以前、歌姫という形容でアカショウビンの好きな歌手たちの列伝の如きものを書いていこうと画策したことがあった。それはジャンルを問わずオペラ歌手からジャズ歌手、中島みゆきをはじめ声を聴いて震撼させられた歌い手というのが条件となるものだった。その最上のものは誰か。少し前の新聞にアレサ・フランクリンの死去の報にからめて「アレサ・アムロ」というタイトルで追悼文を読んだ。二人に共通するのはソウル(魂)の歌い手という賛辞である。アムロはともかくアレサ・フランクリンを集中して聴いたことがなかったので中古屋でレコードとCDを買って聴いた。震撼させられない。アカショウビンの鈍感な感性ゆえだろう。そのソウル(魂)という賛辞で評する二人と比較できる歌い手はアカショウビンにはニーナ・シモンしかいない。かつて聴いたレコードやCDは引っ越しで段ボールのなか。中古屋を物色し未聴のアルバムを買ってきた。「ムード インディゴ」はニーナの60年代の録音を集めたシリーズの第2巻である。かつて聴いたものと初めて聴くものが混在している。しかしこれが震撼させられる歌い手とピアノの声と音なのだ。

 先日は依頼があり奄美のウタシャ(奄美では優れた歌い手を敬意をこめてこう称する)の里 國隆のかつて書いたブログを書き換えネット用に書き送った。里の声は黒い。奄美の言葉ではクルグイといったのではなかったか。それはいわゆる〝島歌〟とは異なる奄美という風土で歌い継がれ聴き継がれてきた歌というより唄、謡なのだ。アルバムの一つには「奄美の哭き歌」というのがある。それは慟哭という漢語の哭だ。それは嘆きではなく叫びというより〝おらび〟というものだろう。万葉集いらいの和語が当たらずとも遠からずの表記と思われる。

 それはともかく、ニーナを聴いて連想するのは里の声だ。飛躍だろうがそれはアカショウビンのなかで根拠というのか確信というのがある。それは前回のブログで書いたアドルノの突破という概念とも通底する。マーラーの作品とニーナ・シモンの声とピアノ、里の声、かきならす鳴らす竪琴は突破という概念でアカショウビンには括られる。

 ニーナのアルバムで更に震撼したのは『ライヴ・トリロジー』という三枚組のアルバムだ。ヴィレッジゲイト、タウンホール、ニューポートでのライヴを集めたものだ。これがまた凄い。ライヴでのニーナの声とピアノ、観衆、聴衆の讃嘆が聴き取られる。これを聴けば歌姫列伝のトップはニーナ・シモンで決まる。これが魂(ソウル)なのだ。

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