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2018年9月18日 (火)

老いの本質③

 老いの透徹、武骨とでもいえる境地がある。それは、表題で愚想するなかで経験する。今朝はブラームスの交響曲第4番を聴いた。友人が昨夜、この作品を演奏するアマチュア・オーケストラの演奏会に行くとメールが届いたので棚から偶然取り出したのがクナッパーツブッシュの1952年のCDだった。ブラームスは、このワーグナー指揮者にとって余芸の如きものかもしれないが、この本当の意味での巨匠の面目が躍如する音楽を体験することなのである。オーケストラはブレーメン・フィル。時は師走の12日。貴重なライブ録音である。先日聴いたのはウィーン・フィルとのワーグナーの『ジークフリート牧歌』。アン・デア・ウィーン劇場での1963年のライブ録画である。それは晩年の巨匠の矍鑠たる姿と、そこから生起する、この巨匠ならではの音楽が当意即妙に生れるのが確認できる。この武骨で作品に通暁した人物にはワーグナーは十八番(おはこ)で生涯を賭けて指揮する至上の作品なのである。歴史的に眺めれば、それは西洋のロマン主義の系譜を継承するものといえるだろうが、個人に体現された表現を聴けば、そのエッセンス(本質)を聴く思いがする。

 老いの本質に透徹と武骨という姿と生き様を、この巨匠は体現していると確信する。それは茂吉の短歌にも通底する。「あらたま」のなかにそれを痛感する。あが母の吾(あ)を生ましけむうらわかきかなしき力おもわざらめや。先日から次男、北杜夫の『青年茂吉』(岩波現代文庫 2001年)を読んでいるが、そこには晩年の茂吉の姿も活写されている。そこにも透徹と武骨が読み取られるのである。

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