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2018年9月 9日 (日)

祷り、とは何か

 朝のNHKラジオ〝音楽の泉〟はモンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」である。この16世紀から17世紀にイタリアで活躍した音楽家の作品は西洋バロック音楽の開幕と位置付けられオペラの始まりともなっている。この作品の祈りは「晩祷」とも「挽歌」とも訳されているが「祷り」の音楽的表現である。祈りという漢字よりアカショウビンには祷りという表記がしっくりくるのは個人的なものであろうが、それはともかく、人は祷る生き物、といえる。

 その祷りの姿と行為は様々である。新聞報道では北海道地震、台風被害などで亡くなった人々の名前が公表される。多くは高齢者、子供たちだ。身を助けることの困難な事情が思わぬ事態に対処できないこともあるのだろう。それはアカショウビンのように病を抱え日々を凌ぐ者たちとは異なる突然の最期ともいえる。その死を遺族や縁あった人々が追悼する。その祷りも各人様々だ。しかし、そこに共通する祷りとは何か。声は人間という生き物の何物かを伝える。それは何か。それは祷りという行為と併せて考えなければならない急所であろう。

 それは宗教的な行為となって歴史には現れている。しかし、その内実は何か。アカショウビンにとっては喫緊の思考、思索を督促される難問である。

 番組の司会を長年務めておられる皆川達夫さんは長崎の隠れキリシタンたちの祷りであるオラショの研究者でもあられる。キリスト教の祷りは16世紀から17世紀にかけてスペインから日本に移植され歌い継がれた。皆川さんにとってはモンテヴェルディの音楽の響きは人間という生き物の洋の東西を問わぬ祷りとなって深く響くのであろう。それは西洋ではバッハが引き継ぎ西洋の人々の祷りとなって現在まで継承されている。極東に棲むアカショウビンにもその作品は共振し共鳴する。

 本日はこれから長年お世話になった業界のオーナーの誕生日祝いと退任の集まりに出席する。高齢の会長さんは熱烈な阪神タイガースのファンで野球好きである。アカショウビンはプロ野球に関心がなくなって久しい。しかし少年のころは野球に興じていたのは最近の子供たちのサッカーや野球以外のスポーツへの熱中と同じである。会長さんとは前職のときに両国の阪神タイガースファンの集まりに同行したご縁も懐かしい。85歳のご高齢で様々な苦難を乗り越えてこられた事はご本人から聞き知っている。久しぶりの再会も楽しみである。

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