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2018年6月 9日 (土)

没我し、忘我し、興じ、騒ぐ人々

 朝も夜もアルバイト先の生き返り、もとい(これは中学3年のときの担任教師が、よく発した語である。国語が専門のM先生は、朗読を読み間違えた時にしばしば使った)行き帰りは小さな旅のようなものである。きょうも都心を横切り舞浜の現場に向かう。電車でもアルバイト先の若い男女はスマホに夢中だ。忘我状態ではなく没我状態に入り込んで周囲が見えないのだ。

 それはかつてオウム真理教の若者たちがヘッドフォンやイヤーフォンで修行していた姿とは異なる。先日、たまたま、近くのレンタルショップで森 達也監督の『A』、『A2』があり観た。あらゆる映像はプロパガンダだ、とは氏の主張である。その言や好し。二つの作品でそれはそういう意味合いが込められているわけだ。氏と話す若い信者たちは、拠点があった関東各地の住民、マスコミ各局、との確執は実に啓発的でアカショウビンの精神を挑発する。素顔の若い信者たちは真摯に経験と体験を言葉にする。それはとても普通の真面目な若者たちである。修行の仕方を説く麻原被告の声も久しぶりで聴きとられた。地元住民との確執の経過と和解の様子も生の姿が捉えられている。それは、かつてのマスゴミ、もとい、マスコミ報道とは異なる姿と声だ。1995年から1999年の映像が現在とフラッシュバックする。

 朝晩に中央線で都心を横切り東京駅の京葉線への階段を乗り降りするのはきつい。しかしディズニー・ランドに行き帰るファミリー、外国人たちと行き交うのは、楽しくもあり、怒りもあり、和みもある。その開放性とスマホに忘我、没我する姿は対照的だ。それはハンナ・アーレントが説く、現実という無限の未来と無限の過去の裂け目に存在する人間という生き物の無様(ぶざま)と真摯、仏教哲学で説く不可思議だ。

 東京駅で、仮装し化粧した若い男女、子供達の姿とアカショウビンのような死にかけの爺の姿は外国人にも珍しく面白いことだろう。ディズニー・ランドで米国の夢の世界と日本の現実をしかと視て世界の多様性を記憶に留めていただきたい。アカショウビンも残り少ない生の間に見聞きできるもの、観聴きできるものは楽しんで冥土に旅立ちたいからだ。

 アルバイトから帰りマーラーの第九を聴いた。ワルターの晩年のコロンビア交響楽団との1961年、ハリウッドで四日間かけた録音だ。ウィーン・フィルとの戦中のモノラル録音とは異なる、ステレオで楽器の音像も鮮やかだ。マーラー直伝のワルターの演奏は細部にわたり指示がされていることが楽器の旋律、音の強弱までモノラル盤より聴き取られる。病気と失意で異常な集中力で作曲に没頭しただだろう晩年のマーラーの姿はワルターが最も知悉している。改めてマーラーに集中しよう。アドルノが分析する、「偉大な」九番のアンダンテ・コモドは何度聴いてもマーラーの晩年の境地が推し量られる。その到り着いた境地と音楽、というより音学と解釈、ワルターの一つ一つの指示が知りたいのだ。

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