« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »

2018年6月24日 (日)

沖縄慰霊の日

 七十三年目の沖縄慰霊の日の東京新聞記事を興味深く読んだ。写真の翁長氏と首相の姿、視線が二人を鮮烈に対比している。独裁、独善、ボンクラおぼっちゃま首相を睨みつけるオキナワンチュとヤマトンチュの姿と精神を如実に現している。怒りと悪意の対比と言ってもよい。夕刊では相良倫子さんの詩も熟読し感銘した。昨今の政情と現実を振り返り言葉は尽くさなければならない。更に熟考しよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝のブラームス

 今朝のNHKラジオ「音楽の泉」はブラームスの弦楽六重奏第一番である。久しぶりに聴く。引っ越しで段ボールのなかのアマデウス・カルテットと名手たちの名盤を熟聴する。青春のブラームスの抒情と感性が横溢する作品は何度聴いても心を震わせ精神を励起させられる。後年の大作につながる27歳の若きブラームスの心象風景が想起される。この数年、体調不良も重なりブラームスやマーラーを繰り返し聴いている。此の世の悦びは音楽で気力を奮い起すのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ブルーライト・ヨコハマ

 是枝和裕監督の『歩いても歩いても』で、表題のいしだあゆみの大ヒット曲が実に巧みに活用されている。先日、レンタルで借りてきて熟視した。カンヌの受賞も『誰も知らない』以来の一連の作品に対する敬意によるものと理解される。心から悦びたい。日本映画としては今村昌平監督以来の快挙というのも日本人として誇らしい。最新作も近く観るつもりだ。

 旧作では『そして父になる』も観た。劇場公開以来で、DVDの良さは劇場ではうっかり見過ごしたシーンを繰り返し見ることができることだ。監督の演出意図、出演者たちの演技、音楽効果など、確かに〝神は細部に宿りた給う〟のだ。そして映画とは黒澤 明がいみじくも述べたように音と映像の掛け算なのだ。それは掛け算というより連立方程式、微分、積分ともなる。その結果が洋の東西、南北、民族を超えて人間たちに伝わる。

 『そして父になる』では、バッハのゴルトベルク変奏曲がみごとに引用されている。この音楽センスはフランスやドイツの観客にはわかりやすい筈だ。是枝監督の子供の演出の上手さはこの作品でも冴えている。一つの家族のなかで親と子、祖父と孫、たとえそれが血がつながっていなくとも、世代を超えて人と人はつながることができるものだという事を是枝監督は緻密に伝えている。

 アカショウビンには中学から高校の頃に聴いた「ブルーライト・ヨコハマ」が久しぶりに脳裏に蘇えった。中高年世代には甘酸っぱい青春の音楽が心に沁みるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月20日 (水)

哀悼、森田童子

 十年前に、どういうきっかけからか思い出さないが、久しぶりに童子のレコードをじっくり聴いた。感想は2008年9月のブログに二回書いた。童子の初期アルバムのいくつかは繰り返し聴いた。最初に聴いたとき、アカショウビンには実に暗黒星雲から幽かに届くような、か細く壊れやすいガラス細工のような、少女から女になる時季の魂の震えとして聴きとられた。

 学生時代に太宰好きの友人が持ってきたカセットテープで聴きレコードを買ったのだった。黒いジャケットのサングラスをかけた童子の写真は宇宙の闇から何かを語りかけているようだ。歌詞のなかの友人か恋人は自ら命を絶っている。その脆さと哀切が胸を抉る。度重なる転居でレコードは段ボールのなかだ。近いうちに探し出し聴いてみる。それにしても65歳とは早すぎる死だ。何の病なのか情報は新聞記事ではわからない。いずれ詳細は明かされるだろう。最近聴いているマーラーではあまりに重く、童子の死にはそぐわない気がするのでハイドンの交響曲第44番、45番、48番の三曲を聴いた。それぞれ〝哀悼〟〝告別〟〝受難〟のタイトルが付けられている短調の作品だ。童子の死を弔うには少し時間をかけたい。他のアルバムも聴いてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月12日 (火)

築地の国立がん研究センター中央病院へ

 先月の検診を生きそこない、もとい、逝きそこない、もとい、行きそこない、本日改めて行くところ。ボケ爺いは電車を乗り間違え、予約変更の時間にも遅れた。主治医には、それほど待たされることなくも診察。いつもは片方の鼻孔から通す内視鏡を少し気になる箇所があったのだろう両方に通した。それでも「大丈夫ですよ」の託宣だった。内心、本当かよ、と疑ったが丁重に御礼を述べ辞した。五ヶ月が過ぎ、月に一度の定期検診を「二ヶ月に一度でいいですか」と言う質問にも「いいですよ」の回答。ひとまず安心した。築地市場の昨年かの火事現場の跡もアンドロイドで撮った。井上ラーメンの看板も見えたが夕方の時間では他の殆どの店も営業していない。午前中は賑わっていたのだろう。
 電車で秋葉原に行く。電気店でアンドロイドの料金システムを確認しなければならぬ。紛失し乗り替えた会社の料金が高すぎる。先ほど店員の説明を聞き、引き上げた。誠意が感じられたので一応了解。帰って昨年の料金を確認しなければならぬ。困窮生活のなかで一円の無駄もできないのだ。明日からアルバイトだが、通院の交通費、診察料も出費が堪える。年金生活のお気楽老後、とはいかないのが現実である。
 病院行きが遅れたのは午前中から友人たちとの電話が長話になったため。先般の是枝裕和監督のカンヌ国際映画祭でのパルムドール受賞の話、昨今のアルバイト状況、昨今の政情、世相、歴史と現実、マーラー作品の録音の比較、吉田秀和、アドルノ、柴田南雄の批評へのアカショウビンの感想など。話し出したら話は尽きない。こちらのボルテージも上がる。それで予約時間に間に合わなくなってしまった始末。朝から食事もしていない。新宿にも立ち寄り紀伊国屋書店で探している本も確認した。町田駅の鮨屋でやっと食事。雨も降っておらず、やっと団地に戻った。レンタルで借りて来た『そして父になる』も二度観直した。あれこれの感想は後日。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月 9日 (土)

没我し、忘我し、興じ、騒ぐ人々

 朝も夜もアルバイト先の生き返り、もとい(これは中学3年のときの担任教師が、よく発した語である。国語が専門のM先生は、朗読を読み間違えた時にしばしば使った)行き帰りは小さな旅のようなものである。きょうも都心を横切り舞浜の現場に向かう。電車でもアルバイト先の若い男女はスマホに夢中だ。忘我状態ではなく没我状態に入り込んで周囲が見えないのだ。

 それはかつてオウム真理教の若者たちがヘッドフォンやイヤーフォンで修行していた姿とは異なる。先日、たまたま、近くのレンタルショップで森 達也監督の『A』、『A2』があり観た。あらゆる映像はプロパガンダだ、とは氏の主張である。その言や好し。二つの作品でそれはそういう意味合いが込められているわけだ。氏と話す若い信者たちは、拠点があった関東各地の住民、マスコミ各局、との確執は実に啓発的でアカショウビンの精神を挑発する。素顔の若い信者たちは真摯に経験と体験を言葉にする。それはとても普通の真面目な若者たちである。修行の仕方を説く麻原被告の声も久しぶりで聴きとられた。地元住民との確執の経過と和解の様子も生の姿が捉えられている。それは、かつてのマスゴミ、もとい、マスコミ報道とは異なる姿と声だ。1995年から1999年の映像が現在とフラッシュバックする。

 朝晩に中央線で都心を横切り東京駅の京葉線への階段を乗り降りするのはきつい。しかしディズニー・ランドに行き帰るファミリー、外国人たちと行き交うのは、楽しくもあり、怒りもあり、和みもある。その開放性とスマホに忘我、没我する姿は対照的だ。それはハンナ・アーレントが説く、現実という無限の未来と無限の過去の裂け目に存在する人間という生き物の無様(ぶざま)と真摯、仏教哲学で説く不可思議だ。

 東京駅で、仮装し化粧した若い男女、子供達の姿とアカショウビンのような死にかけの爺の姿は外国人にも珍しく面白いことだろう。ディズニー・ランドで米国の夢の世界と日本の現実をしかと視て世界の多様性を記憶に留めていただきたい。アカショウビンも残り少ない生の間に見聞きできるもの、観聴きできるものは楽しんで冥土に旅立ちたいからだ。

 アルバイトから帰りマーラーの第九を聴いた。ワルターの晩年のコロンビア交響楽団との1961年、ハリウッドで四日間かけた録音だ。ウィーン・フィルとの戦中のモノラル録音とは異なる、ステレオで楽器の音像も鮮やかだ。マーラー直伝のワルターの演奏は細部にわたり指示がされていることが楽器の旋律、音の強弱までモノラル盤より聴き取られる。病気と失意で異常な集中力で作曲に没頭しただだろう晩年のマーラーの姿はワルターが最も知悉している。改めてマーラーに集中しよう。アドルノが分析する、「偉大な」九番のアンダンテ・コモドは何度聴いてもマーラーの晩年の境地が推し量られる。その到り着いた境地と音楽、というより音学と解釈、ワルターの一つ一つの指示が知りたいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月 5日 (火)

マーラーからハイドンへ

 マーラーを聴き続けるとハイドンが聴きたくなるのはアカショウビンのたんなる気分である。ところが、その安らぎというのか、心地よさは格別だ。その原因は、ソナタ形式というウィーンを中心とする都市の周辺で展開された音楽風土によるものだろう。その音楽はこの極東の島国でも聴ける幸いの何たるかは明らかにしたい、それがこの娑婆世界でのアカショウビンの願望だ。それからするとモーツァルトさえ聴かなくてもよいとさえ思う。それはまた別のアカショウビンの気ままな我儘なのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月 2日 (土)

労働の日々

 新宿の朝7時前の気温は26℃。都心を横切り舞浜のアルバイト先現場へ。二週間ぶりだ。土曜日の電車は平日より空いていて座席に座れ本も読める。東京駅で乗り換えると修学旅行の中学生と思しき娘たちがゾロゾロと歩いている。いつもながら、エスカレーターを乗り継ぎ地下を上がり降りするのには疲れる。体力の衰えは嘆かわしい。しかし労働が人を創るとすれば働き、人と成るのだ。舞浜駅はディズニーランドへ行く家族連れ、若い男女で混雑している。きょうは天気がよく、さぞかし楽しい一日になるだろう。アカショウビンは粛々と労働に時を捧げる。そこで時は、どのように熟すだろうか。人は書物で二千年前の人々の議論に同座することも出来る。それは二千年後の私達の現在の状況とも反照する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »