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2018年5月 3日 (木)

ミロス・フォアマン追悼

ミロス・フォアマンが亡くなった報を知りレンタルDVDで二つ作品を借りて観た。『カッコーの巣の上で』と『アマデウス』。前者は何年ぶりかで久しぶり。『アマデウス』はそれより後に何度か観ている。レンタルではディレクターズ・カット版があるというので楽しみにして観た。以前何度か観たのは劇場公開のものだったから。その部分を観比べたわけではない。しかし改めて二作品を続けて観て、『アマデウス』が何とも面白かった。このところマーラーばかり聴いていてモーツァルトを聴くと、この二人の天才の異なる資質と音楽家としての違いに何か問いを突き付けられるような気がするのだ。モーツァルトが生きた30数年よりマーラーは長く生きた。しかし晩年の不幸は歌劇場指揮者から作曲者に転じ西洋音楽史に名を残す傑作を書いた恵みとなって結実した。私たちは、この数十年でその恩恵に浴している。しかし、その遠因はモーツァルトやバッハ、ベートーヴェンの作品の伝統によるものであることはマーラー自身が誰よりも理解していたことであろう。

『アマデウス』が撮られたのは偶然みたいなものであることをメイキングで監督が語るエピソードで知った。ミロス・フォアマンはロシア映画でさんざん観た音楽家を描いたつまらない作品など撮る気はしなかったそうである。しかし、ピーター・シェーファー脚本の舞台作品を観て考えを改めたと言う。それは映画として撮る意欲を掻き立てた。二人は喧嘩腰の議論を重ね作品を完成させた。それがアカデミー賞各賞を受賞する傑作となったわけである。それはともかく改めて作品を観ると確かに見事な仕上がりであることを実感する。二人が合意したのは、モーツァルトの音楽こそが作品の主役ということだ。それに納得する。事実はともかく、当時からあったというモーツァルト毒殺説をピーター・シェーファーは物語にし彼の想像で舞台ドラマに仕立てた。ミロス。フォアマンは出演者に有名俳優ではなく殆ど無名の役者を起用した。それが実に説得力ある演出と演技で俳優たちは脚本家、監督に応えた。それは初めて作品を観た時に意表を突かれる気がしたものだ。それも改めて観て納得した。それは傑作に仕上げた監督と脚本家の手柄である。当時の時代風景と人々の暮らしと精神病院の奇矯な患者たちを監督はモーツァルトの作品が上演されたプラハの劇場での作品を再現することで詳細な時代考証で作品化した。ミロス・フォアマンがプラハの出身であることも監督の語りと共に知った。当時の政権に異を示しミロス・フォアマンは故国を捨て米国に亡命した経緯もメイキングのなかで語っている。米国のアカデミー賞の受賞もそのような背景が作用しているのかもしれない。それはアカデミー賞というものが政治的影響を意識したものであることも今年の受賞経緯など知り過去の作品を振り返るとよくわかる。女優達が監督や制作者たちのセクハラ被害を公にしたことは社会現象となってマスコミを賑わしている。レディ・ファーストの国は実は建前で、実際はあべこべなのだというわけである。それが、フランスのカトリーヌ・ドヌーブらによって反論されているのも興味深い。

それはともかく、改めてディレクターズ・カット版を観てモーツァルト作品の素晴らしさに接したのは幸いであった。サリエりという歴史上の人物が嫉妬による毒殺者であるというピーター・シェーファーの創作による考察はミロス・フォアマンという優れた監督によって映像化された幸いを私たちは楽しむ。それがモーツァルトという天才の音楽に多くの人が接するということは音楽ファンにとっても悦ばしい。それほどモーツァルトの作品は豊饒なのである。    

  ミロス・フォアマンとピーター・シェーファーの功績は作品を通してモーツァルトが生きた時代背景を映像化したことである。それを改めて実感した幸いを言祝ぐ。

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