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2018年4月15日 (日)

朝のベートーヴェン

 今朝のNHKラジオ〝音楽の泉〟はベートーヴェンの交響曲第7番イ長調、作品92である。皆川達夫さんの解説によれば、ベートーヴェンが指揮した時に聴衆は二楽章の葬送行進曲に熱狂し何度もアンコールを求めたそうである。当時はナポレオンが栄華を極めていた時代である。ベートーヴェンはナポレオンの存在を畏敬し作品を献呈しようとしたが、皇帝の位に就いたと知った時に激怒し献呈の表示を破り捨てたという。有名な逸話である。

 それはともかく。中期から後期に至る楽聖の作品を休日の朝に傾聴するのは格別だ。しかし皆川さんが選ばれたのは、カルロス・クライバーとウィーン・フィル盤。これは発売から少し遅れて聴いた。その前に第4番のライブ盤が大評判になり、それを聴いてアカショウビンはがっかりした。それは良くも悪くも、熱狂と即興に駆られた演奏である。クライバーの面白さは即興性の面白さと思う。それは聴く者を或る意味で熱狂させる。その意味で決して悪い演奏ではない。しかし、三番と五番という、万葉集の和語でいう〝ますらおぶり〟からすれば〝たおやめぶり〟という女性性とも評される作品を、ますらお的とも言えるバカ男の熱狂と狂騒で演奏するのは、楽聖に失礼と無礼である。今から思えばアカショウビンは思ったのだろう。そういう感想をもった。それは改めて聴いて撤回する必要もないと思う。

 そこで、CDでフルトヴェングラーが1954年にザルツブルグ音楽祭で演奏したライブを聴いた。オーケストラは同じウィーン・フィルである。それはフルトヴェングラーの死の年の遺作ともいうべき演奏である。フルトヴェングラーというドイツ音楽の稀有の継承者である指揮者の集大成といってもよい。たまたま前日にベルリン・フィルとの1950年の第3番のライブ録音を聴いた。それはフルトヴェングラーという指揮者の偉大さの一端を伝える記録である。弟子のセルジュ・チェリビダッケは、フルトヴェングラーの演奏する音楽はレコードでは殆ど伝わらないと語っている。同意である。フルトヴェングラーもレコード録音は嫌悪し殆ど興味を示さなかったという。それは生演奏の一期一会という時の貴重さこそが音楽を演奏する悦びだとも語っているのだろう。その貴重な瞬間を経験する人間という生き物の不可思議というしかない。言葉では説明できない体験とフルトヴェングラーは主張しているように思う。

 アカショウビンは若い頃にフルトヴェングラーのベートーヴェン演奏に魂消て以来、このドイツ音楽の継承者の録音は継続し聴き新たな録音に怠惰な日常に現在を生きる縁(よすが)のような気分の高潮を得る。今朝もそういう気分の高揚に満たされた。

 ラジオでは残りの時間に皆川さんがベートーヴェンの歌曲を二曲選んでくださった。神を称える神学者の詩にピアノ伴奏をつけた作品である。フィッシャー・ディスカウの声も久しぶりに聴いた。ベートーヴェンの音楽はドイツだけではなく過酷な現実を生きる人々への励ましである。それは、人間という生き物の崇高にも達する記録である。アカショウビンには現在を生きる律動と共振力を奮い立たせる。そしてまた、それは人間という、野蛮だが時に不可思議な崇高ともいう境地にも達するのではないかと訝られる生き物たちに贈られる慰めと恵みである。

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