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2018年4月18日 (水)

労働と仕事

 サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ、と植木 等は明るい声で歌い人々は巷で共感し歌い飛ばした。アカショウビンも自らのサラリーマン時代を振り返り自嘲を含み想い出す。現在の労働は決して気楽ではない。先日、初めての現場で働いた。冷凍庫での仕分け作業という。仲間の話をきけば〝きつい〟という。しかし、ここのところ働いている現場に空きがなく、住まいからいくらか近く興味半分で行った。冷凍庫は他の現場で覗いたことはある。しかし、そこで一日働くことは初めてである。それは確かに〝きつい〟が聞くと体験することは違う。人は慣れる。しかし、病を抱え体力も衰えた中高年が働く労働現場としては過酷だった。零下何度かしらぬが手指はかじかみ殆ど感覚がないのだ。小指は凍傷で腫れがひかない。聞けば作業員たちは軍手を二枚重ねにしているという。アカショウビンも日頃使用している通気性のよいものを用意したが返って冷気が手指に外の冷気を通し不都合だった。慣れた人たちには寒さ対策ができるのだろうが初めての者には〝きつい〟というより酷い。労働とはそういうものなのだ。多くのお気楽サラリーマンには驚愕する現場だろう。アカショウビンも我が身の日常を嘆くしかないが、嘆いて事はすまない。これで日銭を稼ぐ。それが末端の底辺労働なのだ。周りを見れば若い人ばかり。男が多いがアルバイトの若い女もいる。中年過ぎた女性もいる。黙々と働いている。それを見ればアカショウビンのような中高年も嘆いてはいられない。作業に順応するため、寒さに耐え、動く。人間は過酷な環境にも順応する生き物なのだ。友人にその体験をメールで送ったらソルジェニツィンの作品を想い出しましたと返信が来た。それほどのものではない。しかしアカショウビンは先の大戦でのシベリア抑留の兵士たちの経験を想起した。詩人や絵描きの作品を。石原吉郎や香月泰男の作品でその過酷を想像する。しかし、それは彼らの体験でアカショウビンの一日だけの労働とは雲泥の差がある事はいうまでもない。

 それはともかく。日々の鎬(シノギ)の中で気休めは映画や音楽である。昨夜は『一命』という2011年の三池 崇史監督の作品を観た。これは『切腹』(小林正樹監督)のリメイクである。公開当時、アカショウビンは観るまでもないと思った。あの小林作品の最高傑作と言ってもよい作品をよくもリメイクなどできるわけがないと思ったのだ。主演の仲代達矢の役を市川海老蔵が演じている。それは半端な覚悟ではなかったろう。しかし三池監督は小林正樹への畏敬をこめて作品化した。三池作品には期待外れが多いなかで納得できる仕上がりといえる。この作品で描かれる1630年ころの武士の姿を描いて現在の金満日本人に対する痛烈なメッセージを伝えている。小林作品のモノクロームをカラーで三池作品は丹念に描いた。近いうちに小林作品も観直してみよう。海老蔵はじめ若い俳優たちも熱演、好演している。日本映画も捨てたものではないことを実感した。おそらく彼らも小林作品を熟視しただろう。それは半端な演じ方を許さない作品である。小林作品の俳優たちは多くが鬼籍に入っている。しかし日本映画の全盛時の優れた作品は三池監督や若い俳優たちにも受け継がれている事を確認できたことは幸いである。

 話が逸れた。労働の過酷さは作品で詳細に描かれる食い詰め浪人の鎬(シノギ)に再現されているだろう。小林正樹の描くサムライの姿と三池が描くものには共通性がある。それは主人公を追い詰める、関ヶ原の後のサムライ達の姿だ。それはアカショウビンの日常にも下層労働の現実として反映する。それはお気楽サラリーマンにはわからぬ現実だ。植木 等が笑い飛ばした高度成長期の日本は今、現実の姿として逆説的にアカショウビンには経験されている。では、仕事とは何か。それは労働と仕事とは何か、という問いとなって再考、熟考しなければならない問いである。

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