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2018年3月28日 (水)

春は残酷な季節か

 受験に落ちた受験生の話ではない。スギ花粉の飛来でアレルギー症状に苛まれることもあるが、それは残酷というほどのものではない。今年は昨年の1・5倍から2倍というから患者には過酷であるが。

 朝晩の通勤電車、団地に戻り¥買ってきた本やCDや借りてきたDVDを読み聴き観ていると、こちらの気分は周囲の状況で様々に変化する。きょうも若いバカ女が通勤電車の車中で阿呆話を自慢気に話している。いい加減にしろ、と怒鳴りつけてやりたいが自重する。今朝は古いジャズのCDで好い気持ちになり、先日購入した中古CDに集中し面白く聴いたからだ。ジャズはスタン・ゲッツ、CDはG・セルのマーラー。ゲッツは1950年代のルーストセッション、セルは1967年のマーラーの第六交響曲のライブ。後者は久しぶりに聴くセルの録音として眼の覚める思いがした。最近よく聴いているマーラーの録音のなかでも出色。他の録音では聴けなかったバッセージもよく聴き取られるのがありがたい。
 表題は、先日、日曜日に訪れた≪浜田知明展≫の感想を強いて文字にするとそうなる。天気も良く美術館の周囲で鶯も鳴いていて心地よい。しかし展示会場の作品群は、そのような日常を痛撃する非日常の作品が現存している。その感想は書き残しておかねばならぬ。昨今の政治状況ともそれは絡むからだ。浜田の作品は、先の大戦の残酷を伝える。長閑な春にそれは私たち日本人が経て来た歴史に瞠目させられる。それは或る意味で残酷な歴史事実に正面することである。アカショウビンには癌の治療での病院通いと日銭を稼ぐアルバイト労働で日常を生き延びる娑婆の時間を堪える時でもある。

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2018年3月25日 (日)

朝のドビュッシー

 NHKラジオの「音楽の泉」はドビュッシーの晩年のソナタ作品を取り上げている。初めて聴く。ドビュッシーがフランス風と但し書きした絶対音楽、ソナタにしたのが彼の意図を示している。チェロ・ソナタに続きヴァイオリン・ソナタの演奏者は何とオーギュスタン・デュメイとマリア・ジョアン・ピレシュである。これも不可思議な縁というものだ。ベートーヴェンだけでなくドビュッシーやラベルも、この二人は演奏している幸いを言祝ぎたい。これはありがたい冥土の土産だ。一楽章のスペイン風の雰囲気から一転して二楽章は間奏曲風。皆川氏の解説によれば「一抹の抒情も感じられる」と。ドビュッシーは晩年の癌との闘病中に、これらの作品を書き続け三番目を完成することができなかったと言う。

 ドビュッシーの作品はドイツ音楽好みのアカショウビンには馴染みの少ない作品が多いが、ピアノ曲はあれこれ聴いてきた。昨年の一月に聴いたチョ・ソンジンのショパンの前奏曲に感銘し、ショパンに対抗したと思われるドビュッシーの前奏曲集を以前聴いた内田光子の他にコルトーやシフラなどで聴き比べた。それもこれも不思議な縁というしかない。

 ヴァイオリン・ソナタの三楽章はスペイン風に戻り快活に終わる。続いて1915年に作曲されたソナタ。フルートも起用され「牧神の午後への前奏曲」のパッセージも聴きとられるではないか。ここでドビュッシーは自作の独創を回顧しているようだ。

 ここのところマーラーを集中して聴いているせいか、ドビュッシーの「フランス風」が新鮮だ。マーラーも因習に満ちたオーストリア風から脱却、突破しようと苦闘し歌劇場指揮者から作曲に転じ新たな境地を開いた。恐らくドビュッシーも同じ気概で作曲に没頭したのであろう。二人とも長寿はまっとうできなかったがモーツァルトよりは長く生きた。その足跡を辿れる私たちは幸いである。きょうは、改めて前奏曲集も聴き直してみようか。

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2018年3月24日 (土)

ヴァイオリニストたち

  先日、シゲティのモーツァルトを聴いて以来、他のヴァイオリニストたちの録音を聴いている。入院しているときに持ち込んで聴いたオーギュスタン・デュメイ、新たに購入したシェリングのモノラル盤のバッハの無伴奏ヴァイリン・ソナタと、同じくメニューヒンのモノラル盤とステレオ盤。特にデュメイのベートーヴェンのヴァイリン・ソナタが凄い。伴奏のピレシュとの格闘のような演奏には感動する。それは、いわゆるウィーン風の演奏とは異なる。シゲティのモーツァルトを聴いて聴き比べたボスコフスキー、リリー・クラウスのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集の演奏はウィーンの名手たちの演奏として改めて聴いて感銘するが、シゲティもデュメイも、それとは異なるモーツァルトとベートーヴェンだ。そのような演奏を聴くことは日常に喝を入れる効果をもたらす。マンネリを突破するには音楽と映画、それに読書。これがアカショウビンの生きる糧である。残り少ない娑婆での時を無駄に過ごす怠惰は避けねばならぬ。

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2018年3月23日 (金)

日々雑感

 朝の通勤電車の婆さんたちの傍若無人の会話には閉口する。女たちの社会的地位が世界で80番か90番台という社会へのウサ晴らしの場くらいに思っているのかもしれない。それは好しとする。しかし、他人の噂話や自分を何様だと言ってやりたくなる周りを憚らぬ会話は迷惑この上ない。婆さん達ばかりではない。若い娘さん達も良く躾けされていない。女性たちだけではない。馬鹿サラリーマンや馬鹿ニイチャンたちの阿呆面も此の国の未来を案ずる。そのような能天気の日本人の象徴は国政である。

  先日、友人が新居を訪れてくれた。大雪の日である。日を変えたら如何かとメールしたら、もう家を出たという。近くの駅に着いたら、そこから10分から15分くらいのバス路線をメールで送ったが、タクシーにするとの電話。アカショウビンが学生時代に住んでいた江戸川区から電車を乗り継いで大変。しかも春の大雪。駅からタクシーに乗ったと言うのでバスの停留所で待ち合わせた。会って開口一番「遠いね」。現役サラリーマンは金の使い方が荒い。アカショウビンのような最下層の生活からすると羨ましい限りだが。何と帰りはロマンスカーで帰ったとのメール。少し皮肉を込めたメールを送った。

  別れる前に駅近くの店で食事した。若い女が一人言を声高に話している。最近増えたマイク付きのイヤフォンで電話の会話だ。これまた傍若無人。アカショウビンはわざと声を大きくして最近の世相への不満を友人と、このチンピラ女に聞こえるように論じた。「最近のババアたちは」と聞こえよがしに談論した。それがあてつけのように聞こえたのだろう。席を立ち帰り際にアカショウビンに聞こえるように小声で「マジうるさい。このジジイ」と聞こえた。「何だ!文句あるのか?」と引き留めて相手の出方しだいでは怒声の一つも浴びせてやろうかと思ったが静かで落ち着いた店なので思い止まった。
 その後の日には、いつもの現場とは違う仕事を求められた。都内で駐車禁止見張りのバイトである。トラックで駐車禁止の切符を切られないように見張る、仕事といえないような仕事だ。運転席に座っているだけで退屈でもある。運転手とアルバイトの若い男は重い什器などを搬入、搬出作業で忙しく働いている。何だか申し訳ない。そのようなアルバイトもあるのである。

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2018年3月16日 (金)

いかなるつらきおもいをされそうらいしか

 

 マーラーの歌曲や交響曲作品には諧謔や戯れといった、当時の音楽界からキッチュ(通俗的なまがいもの)とみなされたものと同時にそこでも認識はされていただろう聖的な表徴を帯びた祈りが表現されている。「私の時代がくる」と言った確信と予言は見事に現実化されたが、確信の根拠は、恐らくマーラーという優れた感受性と音楽的才能、才覚を生涯展開させた人物が自らの経験のなかで達した手ごたえによるものだろう。それは俄かには理解できない苦渋に満ちた皮肉ともなって作品化された。その全体の幾らかを後世の私たちは幾分なりとも知り作品に魅入られるのである。

 ところで表題はマーラーにはあまりにも直接的で無礼な問いかけであり、問いかけの相手はモーツァルトとシゲティというヴァイオリニストである。特にシゲティの演奏に関しては若い頃、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータの全曲録音を聴いて震撼させられた。以来、バッハはアカショウビンが生きる糧である。音楽という芸術は決してその場限りではない。人の一生を支配するといってもよい。そのようなシゲティの演奏に久しぶりに接したのが1948年にA・シュナーベルの伴奏で録音されたモーツァルトのヴァイオリン・ソナタである。それは初めてバッハを聴いた時の驚きと感嘆、震撼を新たに甦らせた。技巧ではない、何か本質に肉迫しようとする鬼気迫る演奏といっても足りない。そのような生の時間は既に過ぎているわけだが、録音というタイムカプセルでいくらかのものが後世に伝えられる。それは幸いというしかない。変ロ長調のKV481のアダージョはモーツァルトという或る意味で明るみの音楽家でもある男が抱いた暗さの深淵とでもいうものを覗く思いがする。それはその作品を演奏するシゲティの演奏が表現するものだ。モーツァルトの一生は多くの演奏家や批評家、学者によって解き明かされているともいえるが、シゲティという演奏家の一生は如何であろうか。アカショウビンには多くの弟子たちを育てた名伯楽というくらいの知識くらいしかないが。

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2018年3月10日 (土)

マーラー作品の真価

 マーラーの音楽の価値は、次のアドルノの評語によって的確に簡潔に表わされている。
 「細部の仮借なき徹底構成とそれらの関係性によりオーストリア的な心地よいものとの妥協主義に対して、さらには消費へと堕落した音楽文化の妥協主義に対して、決別を告げる」(『マーラー 音楽観想学』 法政大学出版局 1999年 龍村あや子訳 p100)

   妥協主義とは産業革命以降の急速な〝近代化〟の津波のような浸食によって人類史に到来したものの一つともいえる。科学技術偏重によるパラダイム変換ともいえる圧倒的な変化が起こった。それは音楽文化にも及んだ。アドルノの視角はそのような射程をもつマーラーという劇場指揮者で作曲家、音楽家であった人物の精緻な作品分析である。

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2018年3月 8日 (木)

音と声、あるいは言葉

   先日観た、陳 凱歌(チェン・カイコ―)監督新作の最大の不満は俳優でも音楽でも演出でもなく、吹き替えである。アカショウビンは外国映画を吹き替えで観る習慣がない。たとえ言葉の意味がわからなくても俳優たちの表情、身振りでそれはある程度伝わるものだ。その言語に堪能であれば、さらにもっと細やかな意味が読み取れるだろう。それがまったく未知の言語だとしても人間たちの声と言葉、それを取り巻く状況は日常のコミュニケーションで経験していることの応用である。映画でも同じだ。イタリアやフランス、イギリスでも吹き替えで作品を観る習慣はあるらしい。わが国でも昨今のDVDはそれが選択できるようになっている。しかし字幕という手法は私たちが外国語を翻訳で読み取る一つの手段である。外国語が理解できないので外国映画を観たくないという人たちもいる。しかし字幕が読めれば人間の想像力ははたらく。そこで最大に機能するのは声だ。声として絞り出されるものに人間は五感のすべてを動員するとも言える。目の前にする現象を理解するのに人は映像と共に俳優の声にもっともよく反応する。それは人間の本質とでもいえることに出会うことでもあると思える。外国語がわからないというのは、その本質と出会うことを妨げない。人間の想像力というのはそういうものではないか。それはまた別の議論だが。

   若き頃の監督の『黄色い大地』などの作品を同時代で観たときにアカショウビンは黒澤、小津、成瀬、木下らの名匠が世界に伍してを日本映画の存在を強くアピールしたあとに、中国の若手に日本の若手監督は抜かれたな、と直観した。映画作品は時代状況を如実に反映するメディア(媒体)だ。日本、中国、韓国の東アジアの戦後を生きれば映画を通して自らの日常とも関わりあってくる。その中で様々な経験がある。アカショウビンも同じである。しかも当時は映画という媒体が現在より強いメッセージ性を有していた。その興味と好奇心はアカショウビンの学校のようなものに成り現在に至る。当時は映画だけでなく小説でも音楽でも洋の東西の作品を暇を惜しんで観て読み聴いた。還暦を過ぎても映画に関わるのが楽しみであるというのは道楽を超えて変人とみなされるかもしれない。しかし若き頃に観た世界の秀作、傑作、佳作は若さの未熟を時に教導もする。もちろん反発と怒りも。そのようにしてアカショウビンの現在もある。そして感動や失望にも会う。陳監督の新作も期待外れだったが、これから傑作、秀作、佳作に出会うこともあるだろう。この作品を楽しむ人たちもいるだろう。特に若い人たちにはアニメとCGを駆使したこの作品に魅力と面白さを見出すかもしれない。しかし、アカショウビンのように偏屈な中高年世代は人生の時の経過と老後への見通しを含めて新たな楽しみに身を任せるのは大変だ。特に好き嫌いがはっきりしているアカショウビンのような偏屈爺には昨今の日本映画は不満が多い。映画は商業主義と深く関係する。若き優れた才能が堕落することもある。陳監督の作品も米国に渡りそうなった感がしないでもない。新作が新たな挑戦であることは理解できる。しかし、それは時代に迎合することではない。米国で監督は異文化をしたたかに経験しただろう。それは映画という媒体の或る可能性の発見であるかもしれない。

  しかしその結果をアカショウビンは受け入れられなかった。そのもう一つの原因は空海という宗教者を監督は十分に描くことができなかった事にも起因する。劇場に足を運んだ人は空海を中国の監督がどのように描くか楽しみにした人も少なくないだろう。中国に渡り真言密教を日本に持ち帰り新たに展開させた宗教者はこの国の文化の生成に深く関わっている。アカショウビンはかつて司馬遼太郎の『空海の風景』という作品でそれを理解した。そいういう観客も少なからずいたのではないか。しかし監督は異国の観客へのサービス精神も制作途中ではたらいたのであろう。最近のアニメ偏重やイケメン俳優への起用で日中友好を意図する含意があったかもしれない。しかし両国の観客に作品の内容を告げる筈の俳優たちの声が聞けなかったのは実に残念だった。それは酷評すれば声の抹殺ともいえる。

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2018年3月 7日 (水)

失望と感嘆

   一昨日、『空海 ‐KU-KAI‐ 美しき王妃の謎』を観てきた。何とも大仕掛け。CGを駆使し目まぐるしい事このうえない。ストーリーも飛躍が多い。原作は夢枕 獏の『沙門空海唐の国にて鬼と宴する』。陳 凱歌(チェン・カイコー)は若いころからアカショウビンが注目してきた監督だ。しかし最新作はハリウッド映画顔負けのハチャメチャ・ゴージャスのB級作品。友人の一人はテレビのコマーシャルで観て観る必要なしと切り捨てたらしい。もう一人の友人は夫婦で観て呆れ、頭にきたと言う。奥方は原作者のファンで、それほど腹を立ててはいなかったらしいが。アカショウビンは空海を中国人の監督がどのように描くのか好奇心がはたらいたのだが期待は見事に裏切られた。

  悪天候のなか、新宿から池袋へ。友人と東京芸術劇場コンサートホールで小林研一郎指揮のチャイコフスキー最後の交響曲第6番ロ短調『悲愴』を聴きに。オーケストラは読売日本交響楽団。素晴らしかった。コバケン節全開の熱演だった。映画の失望が取り戻せておつりがくる内容だった。グリーグのピアノ協奏曲も久しぶりに聴いた。ソリストは仲道郁代。これも名演だった。マエストロのリクエストでアンコールも。ショパンの遺作が心に沁みた。演奏会のアンコールは〝ダニーボーイ〟。3・11の追悼で指揮者の選曲だ。これも心に沁みた。

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2018年3月 3日 (土)

懐かしい記憶

 昨年来放っておいた歯が痛みだし、たまらずかかりつけ医を一年ぶりに訪れた。先日来唇にヘルペスが発症し、腫れが裂け出血も。加えてスギ花粉も襲来。春の麗らかな光と人々の華やぎとは逆にアカショウビンの弥生三月は散々なスタートである。歯科医院は旧宅の駅近く。治療を終え懐かしい旧宅も訪れた。途中の細道脇の風景は工事などで少し様変わりしていたが、用水路脇には去年と同じく菜の花も咲いている。梅もまだ咲き残っていた。ぶらぶらと犬たちとの散歩道を辿った。散歩は毎日深夜だったから昼間とは景色が違う。犬たちを遊ばせた高台の小さな公園にも立ち寄った。ベンチで憩う人もなく静かな空間は去年と変りがない。犬たちと同居人さんが不在なだけ。静かな時間が空間を満たしているのが不思議な感覚と記憶を甦らせた。この世の縁とは不思議なものである。
 きょうはアルバイトもない。治療ついでに新宿まで足を伸ばし先日友人のN君から頂いたチケットで映画館も訪れる。チェン•カイコー監督の新作を観に。中国の映画監督があの空海を題材にするという。これは興味津々である。劇場で聞くと何と殆ど満席!出直すしかない。

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絶望と希望と祈り

   マーラーの音楽と人生を集約すると表題のように表すことができるかもしれない。19世紀から20世紀という西洋的宗教的区分の時代を生きた男は時に歌劇場指揮者として人々の称賛も浴び愛嬢の死に遭遇し音楽に祈りと救いを求めた。それは音楽的予言者ともなり時代の先を見通した。死後の音楽界はそれを証明している。その後の世代は哲学者や演奏家、音楽愛好家が百家争鳴の論議を展開する。いかにも西洋音楽の伝統と変遷を辿るのはアドルノの論説を読むと正しくそれは哲学、思想、宗教と交錯する。

   それは同時代を生きたブルーノ・ワルターはもちろん、リヒャルト・シュトラウスにも多大の影響を与えたことはわかりやすい。そのリヒャルト・シュトラウスはモーツァルト、ワーグナーのオペラ、楽劇の継承者でもある。アカショウビンは衝動的に「死と変容」が聴きたくなり愛聴するルドルフ・ケンぺとドレスデン・シュターツカペレの録音でそれを久しぶりに聴いた。

  第4番で縮小した交響曲作品は、5番から再び拡大していく。それは作曲家として、やはりベートーヴェンを強烈に意識しているのだろう。

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