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2018年2月 3日 (土)

無声慟哭

 先日の芥川賞受賞作の表題は賢治の詩集『春と修羅』の「無声慟哭」中の〝永訣の朝〟から取ったものである。そこには岩手方言の微妙なニュアンスが込められている。アカショウビンはそれを直感したから受賞作を悦んだ。しかも還暦を越えた遅咲きの作家である。作品は読んでないが、かつて繰り返し読んだ賢治の詩とその情景は忽然と蘇える。全集(昭和48年・筑摩書房)から、その箇所を引く。

 

みなれたちやわんのこの藍のもやうにも

もうけふおまへはわかれてしまふ

 (Ora Orade Shitori egumo)

ほんとうにけふおまへはわかれてしまふ

あぁあのとざされた病室の

くらいびやうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく燃えてゐる

わたくしのけなげないもうとよ

この雪はどこをえらばうにも

あんまりどこもまつしろなのだ

あんなおそろしいみだれたそらから

このうつくしい雪がきたのだ

 (うまれでくるたて

  こんどはこたにわりやのごとばかりで

  くるしまなあよにうまれてくる)

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになつて

おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはいをかけてねがふ

 この最後の一行に至る、詩人で兄の心の痛みと妹トシの書かれた言葉は兄弟の生きた声のようにアカショウビンには届く。それが幻想と幻聴であっても、人という生き物の慟哭として伝わる不思議は死すべき者と不死の神々たちと交感しようと足掻く人間たちの魂の不可思議さのようにアカショウビンには思える。受賞作の表題は〝ひとり〟となっているが、詩ではローマ字の〝しとり〟である。この声と表記の違いは地元の人たちでなければ正確に聴き分けられないだろう。

 先日、かつての会社の早世した後輩の命日にちなみ、ここのところバッハのマタイ受難曲を繰り返し聴いている。彼女の家族はクリスチャンだった。マタイを歌うソリストたちの声と合唱の声は死者たちと呼び交わす哀しみとなって伝わる。それは彼女を偲ぶにふさわしい音楽である。それは宗教的垣根を越えて人々に伝わるとは言えまいか。少なくともアカショウビンは哀悼の音楽としてマーラーの作品と同じく、西洋の音楽でもっとも心に響くのである。それは有声慟哭として現象する。

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