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2018年1月29日 (月)

二本の映画 

 昨年公開されたイギリス映画、『私は、ダニエル・ブレイク』と同じ頃にフランス映画『ティエリー・トグルドーの憂鬱』という作品は奇しくもイギリスとフランスの中高年男、家族の生活を描いた内容である。それは恐らく他の国の都市で生きる人々の生活と共通するものだろう。かくいうアカショウビンも日本の首都で似たような生活をしているからだ。

 そこで生きる男や女、家族、周辺の人々それぞれの生活が描かれる。『私は~』は欧米で多くの共感を得た。『ティエリー~』もフランスで多くの観客が観たようだ。しかしフランス映画でこのような社会派的な作品が共感されているというのも、欧米で似たような経済情況で中高年者たちが困窮、疲弊しているという事実が日常となっているということでもある。かくいうアカショウビンも病を抱えアルバイトと少ない年金でかつかつ生きている。白髪の貧相な姿は時に若者や忙しいサラリーマン達から疎まれもする。それには「このボケが!」と呟きながら心を奮い立たせるのだ。そのような日常は、その二作のなかでも繊細に描かれている。それが共感の原因であるのは間違いない。そして、そういう経済苦を齎すのが国の強圧的な行政である。都市の市民たちは、そのような政治支配のなかで生きている。それは人間の歴史の中で、この数百年である、というのがハンナ・アーレントの指摘である。『カール・マルクスと西欧政治思想の伝統』(2002年 大月書店)は、戦後にマルクス研究に取り組んだハンナの草稿も訳出した著者、訳者たちの労作である。そのなかでハンナが駆使する「活動」というキーワードは多義で難解であるが、その語がギリシアに発する西欧政治思想を理解するうえで重要な意味を持つことが読み進むうちに納得される。それはヘーゲルを経てマルクスが新たな哲学と政治思想を展開するうえでも不可欠の用語となる。ハンナはマルクスが言う「労働が人間を創った」という用語を吟味し咀嚼し批判する。その詳細は本書を読み解いて頂くしかない。ハンナはマルクスの全理論と哲学を支える三つの文章に執拗にこだわる。①労働が人間の創造者である②暴力は歴史の助産婦である③他者を隷属させる者は誰も自由たりえない(同書p36)。このマルクスのテーゼをハンナはギリシアのプラトン、アリストテレスの論考まで遡り分析、思索する。その過程がこの著作に通底する面白さだ。それは1950年代の政治、経済、哲学界を介した生の思考と言える。それはまた先の大戦を生きたユダヤ人の知識人として思想家として活動した女性の生き様の刻印として貴重だ。

 二本の映画は、そのような読書とも共鳴する。60年を越えて生きているアカショウビンたちの人生は千差万別である。しかし何か共通するものがあるだろう。戦後世代の幸いは戦で死にに行かされることがなかった、という事である。それを否定するのはよかろう。しかし死んだ者たちの苦衷を思いやる思考を閉ざしてはならない。昨今の政治家たちの姿を見るとそれを危惧する。保守を自認する西部邁氏の自裁(自殺)は、戦後の思想空間のひとつの終焉として暫し考えさせられる死に方であった。それにしても三島由紀夫から江藤 淳、西部と保守派の憂鬱になる死に方の系譜はこれからも続くのであろうか。それは見事な覚悟といえる。しかし多くの保守派たちにその死に方はできまい。真冬の寒さに川の水はさぞや冷たかっただろうが、かえって爽快な気持ちにもなったかもしれぬ。娑婆の楽しみは味わい尽くしたと諦観したのかもしれない。それはそれで好しとするしかないだろう。しかし老境の入り口でアカショウビンはじめ中高年たちはそうもいかない。ダニエルやティエリーたちと同様に経済苦に足掻きながら活路を開くしかないのだ。死をその先に覚悟しながら。

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