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2017年12月10日 (日)

ボケの効用

  ボケと言っても老人ボケのことではない。関西弁でいう「このボケが!」と罵倒するときの怒りの発語である。日々のアルバイト労働で、この怒りを発したくなることがしばしばだ。それは日々の新聞記事、電車で目にするスマホで漫画やゲームに夢中になっているバカ中年男やアホニイチャン、アホネェチャンにも。また週刊誌の見出しでも同じである。

  朝の通勤のバスの車中、電車のなかも同様。そのなかで、アルバイト作業の時の管理者や同僚たちの視線はアカショウビンのような老いぼれたちを見る冷ややかさに自らの現実を他人の眼を介し痛感するときである。それはそれ、その視線に対抗し自らを奮い立てる効用もある。その気概を喪失したら生き物として死の境界に遭遇する時であろう。その危機感を抱きながら日々を生きるのがアカショウビンの日常である。

  日々の活力を充填するにはモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ワーグナーの音楽が欠かせない。ここのところはモーツァルトのピアノ協奏曲、オペラを熟聴している。それは汲めども尽きぬ豊饒な世界で遊ぶ楽しみとも言える。宇野功芳さんが生涯を通して楽しんだのも恐らくそれど同じとアカショウビンは思う。モーツァルトのピアノ協奏曲を初期のものから改めてペライアや内田光子、シフの演奏で聴く楽しみは格別である。

  それにレンタルショップで借りて観る秀作映画は日々の日常に喝を入れる。先日はアレクサンドル・ソクーロフ監督の『太陽』を久しぶりに観て面白かった。先に観たМ・スコセッシ監督の『沈黙』でイッセー尾形が演じた井上筑後守を観て、また遠藤周作の『沈黙』読み直して、この役者が昭和天皇を演じたのを確認したかったのである。そこにはロシアの映画監督が辿り描く日本の戦前・戦中が昭和天皇を監督の視線で描かれる。それは現実の私たちが生きる日常を律する背景にも思索を促す。『目撃』(クリント・イーストウッド監督)、『ノーカントリー』(コーエン兄弟監督)も、ふやけた日常に改めて眼を瞠る効果を看取した。前者は大統領の不正を糺す泥棒の話である。後者は恐るべき殺人鬼の話。それは映画の物語だけの話ではない。それは恐らく、私たちが生息している現実にも起きている事件の一端を捉えている。優れた映画作品は静かにその事実を伝えるからだ。

   憂国忌も過ぎ、開戦の日も過ぎて我が日常に喝を入れるのは上記に加え読みさしの書物である。アーレントのやハイデッガーの晩年のゼミナール、講義録は読むたびにアカショウビンの思索にこれまた喝を入れる。その感想も随時記しておかねばない。それは現実の世界を歴史的、実存論的に 俯瞰する思索だからだ。

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