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2017年12月27日 (水)

音楽の視覚化と肉体表現

  先日、モダン・バレエの振付師モーリス・ベジャールが制作した作品を日本で2015年に公演したドキュメンタリー映画『ダンシング・ベートーヴェン』を観た。先週から公開されているのでクラシック音楽好きだけでなく多くの人に薦めたい。それはベートーヴェンが晩年に到達した境地を音と声、肉体表現で見聞き体験する貴重な機会と思うからだ。スイスのローザンヌと東京で欧州や世界の若者たちと日本の若いダンサー達がベジャールが表現した作品に全身全霊で取り組む姿を視るのは実に新鮮な経験だった。

  ベジャールの作品ではかつてラベルの『ボレロ』を映画化した『愛と哀しみのボレロ』がある。これも実に面白かった。タイトルを含め当時のアカショウビンには映画としては少し甘いと思ったが再見すればベジャールという優れた振付師の意図が確認できると思われる。

  毎年、第九の作品を異なる録音で聴くのが習慣となっているアカショウビンには、この作品は実に新たな力が湧き起こる経験だった。残念なのは音楽が抜粋だったのと全公演が通しでなかったことだ。観る前はそれを期待していたからだ。しかも音楽はズビン・、メータがイスラエル・フィルを指揮している。メータへのインタビュ―も興味深かった。メータも同意しているように、それはベートーヴェンの音楽の視覚化であることは十分に感じ取れたからだ。以前に観たヴィム・ベンダース監督が撮ったピナ・バウシュの『pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2011年)を想い出す。そこではストラヴィンスキーの『春の祭典』が晩年のピナによって実に生き生きと表現されていた。

  20世紀になり音楽はディアギレフのロシアバレエ団、ニジンスキー、ストラヴィンスキーによって新たな展開をした。それは古典バレエがモダン(近代)として新たに生命を吹き込まれたという事だ。その最新の映像を看取したのが同作品と言える。そこから近代(モダン)とはどういう歴史区分か?という問いも生じるが、それはまた別の主題として考察しよう。

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2017年12月19日 (火)

ことし嬉しき事ども

 先ずは羽生が宿敵、渡辺竜王を負かし永世七冠制覇を果たした事を挙げたい。かつて三連勝後の四連敗という屈辱を与えられた相手を破った価値は計り知れない。アカショウビンは特に羽生ファンというわけではない。しかし、この百年に一人とも言える棋士が紆余曲折を経て偉大な実績を達成する時に生きる幸いは格別。昨年から今年は新たな天才少年も現れた。
 もう一つは、囲碁の井山七冠がある棋戦で中国ナンバーワンを破り来年の決勝に勝ち進んだ事。日本では圧倒的な強さの七冠も国際棋戦では中国、韓国の若手にコロコロ負かされて歯がゆい思いが繰り返された。それが相手に勝勢を意識させた局面から勝ち切った。内容的にも見事な一戦だった。
 昨年から今年はアルバイトで疲弊、消耗する毎日だが、時に嬉しい体験もする。

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少し速く

 日曜日のNHKテレビでキリル・ペトレンコ指揮のマーラーとワーグナーが素晴らしい演奏会だった。マーラーは、「さすらう若人の歌」。独唱はマティアス・ゲルネ。かつてシューベルトの「冬の旅」をブレンデルの伴奏で聴いたのではなかったか。ワーグナーを歌ってもよい大柄な人だ。小柄なペ卜レンコと対照的。顔を真っ赤に熱唱する姿はペトレンコやオーケストラに応えたものであることが映像でわかる。CDでなく映像の面白さである。

  それにしてもペトレンコの表情と両腕の動きが素晴らしい。この指揮者が、いかに作品を知悉し、オーケストラと実に良い関係で交感しているのがわかる。マーラーで指揮者と歌い手は作品の奥底を抉っているように思えた。オーケストラはバイエルン国立歌劇場管弦楽団。ヨッフムやクナッパーツブッシュとの録音も聴き直したくなった。ベルリンやウィーンとは異なる個性的なオーケストラだ。アカショウビンはかつてサヴァリッシュ指揮の来日公演でモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を聴いたことを思い出す。ミュンヘンなどと同じく、中央から距離をとって音楽風土を培ったオーケストラだ。続くワーグナーの「ワルキューレ」一幕の演奏会形式の演奏が久しぶりにワーグナーの血肉の通った演奏を聴く思いがする名演だった。独唱者達も素晴らしい。観客たちも感動を真摯に伝えてソプラノ歌手は涙ぐんでいた。それほど素晴らしい演奏会だった。アカショウビンには正しく冥途の土産である。
 表題は、モーツァルトのピアノ協奏曲11番の二楽章に付けられた速度指定である。ラルゲット。ラルゴより少し速く。この協奏曲は初めて聴いたような。何とも優雅で、ウィーンの宮廷に美しく響いたと思われる。宇野功芳さんの先日の本には解説がない。近いうちにアインシュタインの解説にあたってみよう。
 本日は築地の病院ヘ。手術は来年早々になる。年賀気分にはなれない年明けになりそうだ。これも現世の宿業の如きものだろう。それを受け入れ一日一日を過ごすのが凡夫の日常だ。

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2017年12月18日 (月)

悼みと響き

  伯母の訃報を従兄との電話で知った。92歳、大往生と思いたい。しかし、アカショウビンと一つ違いの従弟を若くして亡くした経緯を従兄から聞いた話では伯母は長男の突然死の悲しみを畳を叩き泣き叫んだという。親より早く逝く不幸はかくの如し。それから次男と従姉家族との愛情で家業を守り長寿を全うされた。従妹に電話し、その様子を聞いた。アカショウビンが還暦同窓会で父の逝去以来、二十余年ぶりに帰郷したときに伯母の家を訪問した。従弟とは会えなかったが従姉と従弟の奥さんが迎えてくれた。長男の従弟と伯父の祭壇に手を合わせ暫し此の世の縁を偲んだ。我が家とは宗旨が異なるカトリックの伯父夫婦とは生前、様々な確執があった。アカショウビンの母や弟、従兄姉妹たちとの確執はアカショウビンが故郷を離れて風の噂で聞いた。学生時代から社会人になり、故郷での一族の確執からアカショウビンは逃れて都会の喧騒のなかで放蕩の如き生活を続けた。そのような生活を両親は心配したのだろう、家業をたたみ大阪に移住していた両親は深夜バスでアカショウビンのアパートを訪れたことがあった。六畳一間のアパートでアカショウビンは、その日暮らしのような、父から言わせればルンペン生活で凌いでいた。それから、しばらくしてアカショウビンは零細業界紙に職を得て世間並みのサラリーマン生活に就いた。就職いらいボーナスも出て大阪に正月を過ごしに行くときはいくらかの金を家族に渡すこともできた。業界紙という世界にも次第に慣れた。その間に訃報が少しずつ届くようになった。此の世は無常ではない。いつか終わりがくる。従弟の突然死も、まさかという時に降ってきた天変地異の如く届いた。まさに此の世は無常で無情なのである。従弟の死はカソリックの信仰を偲び、マーラーの「復活」を聴き、悼んだ。“原光”の独唱が心に沁みる。終楽章の復活の死と再生の願いがあるとするなら、伯母の霊よ、息子と伯父の元へ静かに至り給え。アカショウビンもいずれ再会することもあるかもしれない。その折は故郷での確執を超えて故郷の食事と歌と踊りで歓談しましょう。

 

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2017年12月11日 (月)

ドイツ音楽の伝統と継承

   昨夜のNHKテレビで今年11月に行われたN響とのベートーヴェンの「英雄」をマレク・ヤノフスキーの指揮で聴いた。緩急自在、実に溌剌とした演奏だった。インタビューでも作品を深く理解していることがわかる。その演奏はベートーヴェン作品の正統を引き継ぐ演奏と聴いた。N響のメンバーもそれによく応えていた。同オーケストラとはワーグナーの「ニーベルングの指輪」の演奏会形式の共演をしたということである。それはN響のメンバーにとっても修練の場となった筈だ。その成果が昨夜の演奏にも結実していると思われた。昨夜のプログラムは前半がヒンデミットの作品。これも実に見事な演奏で両者の親密とレベルの高さを示していた。

   「英雄」の後は25年前のブラームスの演奏がおまけに。これまたドイツ音楽の伝統と継承が納得させるものだった。アカショウビンは昨年から今年にかけてブラームスの室内楽をよく聴き続けている。特に晩年の作品は心に沁みる。ピアノ・トリオは、ボザールトリオの録音で聴いてあきない。ピアノはメナヘム・プレスラー。アカショウビンはこのピアニストの来日演奏を予約していた。ところが急病で来日できずキャンセルになった。なんとも残念なことだった。しかし先日CDショップでモーツァルトのピアノ・ソナタを演奏した新録音が発売されたことを知った。聴衆にこたえる実に元気な姿の写真で病から癒えた姿が確認できた。来日公演予定のプログラムはシューベルトの作品で構成されていた。そのモーツァルトも見事なものだろう。それにしてもアカショウビンには生の演奏を聴きたい数少ないピアニストの一人である。

  このような指揮者やピアニストにベートーヴェンやワーグナー、モーツァルトの作品は継承されている。それを聴く経験は生きる悦びだ。疲弊し消耗するアカショウビンの日常にそれは干天の慈雨のように注ぐ。その幸いを言祝ぐのである。師走に入りベートーヴェンの第九も耳にする。今年はどの指揮者とオーケストラの録音を聴こうか。その感想も書いておきたい。

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2017年12月10日 (日)

ボケの効用

  ボケと言っても老人ボケのことではない。関西弁でいう「このボケが!」と罵倒するときの怒りの発語である。日々のアルバイト労働で、この怒りを発したくなることがしばしばだ。それは日々の新聞記事、電車で目にするスマホで漫画やゲームに夢中になっているバカ中年男やアホニイチャン、アホネェチャンにも。また週刊誌の見出しでも同じである。

  朝の通勤のバスの車中、電車のなかも同様。そのなかで、アルバイト作業の時の管理者や同僚たちの視線はアカショウビンのような老いぼれたちを見る冷ややかさに自らの現実を他人の眼を介し痛感するときである。それはそれ、その視線に対抗し自らを奮い立てる効用もある。その気概を喪失したら生き物として死の境界に遭遇する時であろう。その危機感を抱きながら日々を生きるのがアカショウビンの日常である。

  日々の活力を充填するにはモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ワーグナーの音楽が欠かせない。ここのところはモーツァルトのピアノ協奏曲、オペラを熟聴している。それは汲めども尽きぬ豊饒な世界で遊ぶ楽しみとも言える。宇野功芳さんが生涯を通して楽しんだのも恐らくそれど同じとアカショウビンは思う。モーツァルトのピアノ協奏曲を初期のものから改めてペライアや内田光子、シフの演奏で聴く楽しみは格別である。

  それにレンタルショップで借りて観る秀作映画は日々の日常に喝を入れる。先日はアレクサンドル・ソクーロフ監督の『太陽』を久しぶりに観て面白かった。先に観たМ・スコセッシ監督の『沈黙』でイッセー尾形が演じた井上筑後守を観て、また遠藤周作の『沈黙』読み直して、この役者が昭和天皇を演じたのを確認したかったのである。そこにはロシアの映画監督が辿り描く日本の戦前・戦中が昭和天皇を監督の視線で描かれる。それは現実の私たちが生きる日常を律する背景にも思索を促す。『目撃』(クリント・イーストウッド監督)、『ノーカントリー』(コーエン兄弟監督)も、ふやけた日常に改めて眼を瞠る効果を看取した。前者は大統領の不正を糺す泥棒の話である。後者は恐るべき殺人鬼の話。それは映画の物語だけの話ではない。それは恐らく、私たちが生息している現実にも起きている事件の一端を捉えている。優れた映画作品は静かにその事実を伝えるからだ。

   憂国忌も過ぎ、開戦の日も過ぎて我が日常に喝を入れるのは上記に加え読みさしの書物である。アーレントのやハイデッガーの晩年のゼミナール、講義録は読むたびにアカショウビンの思索にこれまた喝を入れる。その感想も随時記しておかねばない。それは現実の世界を歴史的、実存論的に 俯瞰する思索だからだ。

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2017年12月 6日 (水)

稀有の偉業

  羽生善治棋聖がついに永世七冠という偉業を成し遂げた。それは将棋界という〝業界〟を超えて刮目すべき偉業といえる。〝永世〟という称号はタイトルを連続五期、通算五期~十期確保した棋士にしか与えられない称号である。それを一つでも達成するのは至難というより稀有の事である。それを七つのタイトルすべてで達成することが如何に至難なことか。将棋界という、世間からすれば異様な世界のなかで或る業績が実現された事は正しくアカショウビンにとって冥土への土産話である。

  映画『聖の青春』(2016年 森  義隆監督)のなかで村山聖が羽生との一勝は他の棋士との20勝に相当する、とライバル棋士に本音を吐くシーンがある。まさに羽生という棋士はそのような存在なのである。村山は、羽生を負かしたタイトル戦の後に羽生を誘った飲み屋の席で、羽生さんは他の棋士たちとは違う世界を見ている、と語りかける。それこそが、羽生という、将棋指しの棋士という肩書を付けられているが、正に稀有の存在の、村山という天才が命を賭けて倒すに足る存在と見做した存在と〝世界〟なのである。

  先日からモーツァルトのピアノ協奏曲を聴き続けている。初期の作品は真作が疑われる作品も有る。しかし、そこには天才とも神童とも評された人物の作品が息づいている。それは残された楽譜を通じて後世の人々に伝えられる。それは稀有の狭路とでも言う通路であろう。羽生の偉業が稀有であると同じようにモーツァルトの音楽も稀有のものである。それを私たちはピンからキリのピアニストたちの演奏を介して聴く。

  羽生は村山に勝負の読みの世界に没入していくとき、時に恐ろしくなることがある、と言う。恐らくそこは底知れぬ深淵というしかない世界だろう。そこへ羽生は村山となら行ってみたい、と語りかける。あの映画の中でアカショウビンがもっとも刺激されたのは、そのシーンだ。あのシーンを描けただけで作品の価値は、将棋で言えば一歩値千金、の重みを有する。

  天才は幾人かいるだろう。しかし、その才能が他の人間たちに伝わるのは稀有のことと思える。モーツァルトも羽生もそのような存在として歴史に名を残すとアカショウビンは確信する。

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2017年12月 2日 (土)

生きるための音楽

 先年亡くなった宇野功芳さんの放談本とでもいう本を拾い読みしていたらモーツァルトのピアノ協奏曲の多くをあまり評価していないのに少し驚いた。その本はモーツァルトの賛嘆本だったから、それを前提したうえでの語りであることは宇野氏の評価で西洋クラシック音楽にはまりこんだ者には聞き捨てできない話なのである。そう言われればモーツァルトのピアノ協奏曲の全曲をちゃんと聴いたことがないことに気付いた。そこで新たに全集を買い求めた。宇野さんが高く評価しているペライアとイギリス室内管のもの。これを熟聴し感想を書いていくことにしよう。

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