« 疲弊する日常で愚考する | トップページ | 国家という差別システム »

2017年11月19日 (日)

観自在

  昨日の東京新聞の朝刊で俳人の星野昌彦さんが一文を寄稿しておられる。氏はこの一年、般若心経を読み五百の俳句を作られ出版されたという。そこで「真実を観るまなざしが『観自在』である」と。その言や好し。<観自在崖を離れし鳶の笛>という一句を介し自註している。「一歩間違えば奈落の底へ落ちてしまうかもしれない断崖を離れて、悠々と鳶は笛を吹いている」。また「観自在にも見える「鳶」に同化しようとする私がいる」とも。さらに先般105歳で亡くなられた日野原重明さんが「命というのは、使える時間。自分の持っている時間を誰かのために使ってほしい」と述べられているらしい。

「私は無神論者であるが、朝日を見れば柏手を打ち、夕日を観れば合掌して祈念する。お盆になれば、仏壇に茄子を供える」という。それは『沈黙」 で遠藤周作が書いた〝転んだ〟フェレイラが、キリスト教を布教するなかで日本という国はキリスト教の神の概念を理解できない国民だ。日本という国は〝沼地のようなもの〟、私たちが植えた苗は腐るだけだ、と司祭ロドリゴに棄教を促す契機となった日本人観、日本国観と反照する。星野さんの日常は多くの日本人の日常だろう。それをポルトガルのパードレたちは日本という国の特異性と受け取ったのだ。かつて小林秀雄はクリスチャンの妹に、僕にはけっきょくキリスト教というのはわからなかったな、と語っていた。それもまたわからずやの日本人として嘆いた根拠とも受け取られる。しかし果たしてそうなのだろうか。それは遠藤を含めて日本のキリスト教信仰者たちに問われる問いである。八百万の神々に囲まれた多くの日本人に果たして仏教も本来の仏教は正しく受け取られているのか。周囲を見渡せばそのようにも思われる。多くの日本人の葬儀で唱えられる般若心経も果たしてどれほど理解されているのか。その思索が星野氏の作品には表現されている。<羯諦羯諦波羅僧羯諦は般若心経に記されているサンスクリットの呪文で、往き往きて彼岸に達せる者よ。まったき彼岸に達せる者よ。悟りあれ。幸いあれと訳される。

  アカショウビンのような俗物にそのような境地は遥か彼方の境地だが、日々を生きるなかで警鐘のように受け取られる。一昨年の入院のときは法華経のサンスクリット訳も通読した。そこで法華経も熟読しなければならぬ。鳩摩羅什の中国語訳を介してさらに思索を促される。観自在とは人間という生き物が辿りつける境地なのか。しかしそれは何とも魅力的な境地だ。与えられた余生のなかでそのような愚想を継続したい。

|

« 疲弊する日常で愚考する | トップページ | 国家という差別システム »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/111335/66059885

この記事へのトラックバック一覧です: 観自在:

« 疲弊する日常で愚考する | トップページ | 国家という差別システム »