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2017年11月 5日 (日)

しのぎと雑感

  「しのぎ」という日本語は外国語にどう訳されるか知らない。しかし日本人でも決して一般的に流通している言葉でもないだろう。囲碁では勝負を決するギリギリの勝負手ということである。それは日常生活で生きるか死ぬかの瀬戸際の行為とでも言える。アカショウの現状をよく表す言葉だ。きのうもアルバイト先でそれを経験した。中高年者の動きは鈍い。それを管理する連中や同じアルバイトでも古株の連中は見逃さず荒っぽく詰る。そのような現場の事はこのブログでも日常生活の雑感として書いている、日々のロードウで経験することだ。

  また今朝は朝刊を読み現今の世相とも共振する。座間の事件、米国大統領の来日などで政治的状況にもあれこれの感想が湧き起こる。それらに促されながら貴重な休日に雑感として書くのである。

  先日から通勤時に日々の活力を得るために読んでいるハンナ・アーレントの本や遠藤周作の『沈黙』ともそれは共振する。ハンナは1951年に『全体主義の起源』を刊行したあとにマルクスの研究に取り組んだ。彼女はマルクスの解説書を書くのではなく、マルクスの西洋と世界的な位置づけをマルクスがどのような契機で書き始めたのかというところに集中する。そこがアカショウビンのような素人にも面白い。そこには当然の如くハイデッガーの思想・哲学が反映している。師であり恋人でもあった人の論考と思想の根幹とでもいう思索が読めるのは貴重で啓発される。難解で意味不明なところも多い。それはアカショウビンの無知と不勉強のせいである。しかしこの草稿でハンナが格闘している思考、考察はスリリングである。それはマルクス読者にもわかる筈だ。私たちが生きている現在の〝世界〟を理解するうえでもそれは不可欠な論考と言える。たとえば「労働」と「仕事」という〝概念〟を知るうえでも。しのぎの日常を生きているアカショウビンともそれは共振する。この一年以上のアルバイ生活で体験する日常はまさしく「労働」と「仕事」の区別を思索しながら生きることだからだ。

  朝の「音楽の泉」ではグレゴリオ聖歌が流れている。それは『沈黙』で書かれる殉教者たちが歌うオラショ(聖歌の合唱)である。続くフォーレのレクイエムも同じ死者を悼む合唱と管弦楽だ。アカショウビンはこの甘い響きが嫌いだった。モーツァルトやヴェルディのほうがはるかに好きだった。しかし、耳を傾ければフォーレの作品も彼らの作品と底で通じている悼みの心に溢れた音楽だ。なぜなら、それは人という生き物の声と優れた音楽に共通する響きだからだ。癌を抱え残り少ない時を生きるアカショウビンにそれは痛切に聴きとられる。キリスト教文明のなかで表現される人間の悼みの心情は東洋の民にも通じていることは殉教者たちが深く共感したオラショがそれを伝えると思われる。彼岸という仏教用語にはその一端が込められているだろう。人という生き物は言葉や音楽でその生を伝え合おうとする生き物だ。それは西洋古典音楽でも民族音楽でも同じだ。

  ハンナ・アーレントの論考にもそれは読み取られる。彼女が説く古代ギリシアの世界で残されている西洋語にもそれは伝えられている。そこに思索が鋭く展開されているわけだ。それを底まで読み取るのは異国、異文明・文化のなかで生きている私たち日本人にも促される言葉を介した思索だ。

  フォーレのレクイエムはサントゥスを奏でている。それはキリスト教信者たちが彼岸に達しようとする声である。アカショウビンはそこに若いころ強烈な違和感を看取した。そのような〝甘い〟響きに対立した。若さゆえの未熟ともいえる。宗教信条の違いともいえる。それはまた、かくも異文化への理解は難しく人の努力を必要とすることともいえる。

  先日観たマーティン・スコセッシ監督の『沈黙』にもそれは映像として表現されている。それを〝理解〟するには多少の努力を要するのだ。フォーレの作品は晩年のものではなく33歳のときに父親の死を悼み作品化されたものである。その痛切な心情は異教徒にも伝わる。それが政治的状況では困難を極める。

  それはまた座間の殺人事件でも。巷では事件に対する評語としても横行しているだろう。アカショウビンも先日のアルバイト先で一緒になった同世代の女性から聞いた。それは直接的な感想である。それには同調するけれども、もちろん違う感想がある。しかしそれは話が長くなる。相槌をうっただけで済ませた。ここでその感想を集約すれば、あの事件は日本という国・社会で生じた〝病い〟とでもいう現象とアカショウビンは解する。かつての敵国の、あまり知性があるとも思えぬ人物が来日し時の、これまたどれほどの知性があるのか理解できない言動の首相と会う状況のなかで私たちは日々の生を紡いでいる。

  フォーレの作品は終曲にむかう。それは悲哀に満ちた合唱と管弦の音である。宰相たちにもその響きは達するだろうか?しかし彼らは政治的駆け引きのなかで演技する。その現実は歴史のなかで繰り返される茶番である。しかし思索を深めればハンナ・アーレントが展開する論考に残されている洋の東西を超えた難問への回答が滅亡する前に人間たちの思索を促す。

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