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2017年11月28日 (火)

Sさんへの届かぬ手紙

   Sさん、あなたが突然あの世へ逝ったのは一昨年の6月末でした。私はその時、胃がんの手術前の検査入院で北関東のK市立病院に入院した当日でした。知人から電話で連絡が入ったときに私は自殺かと思いました。理由はともかく何故かそう思ったのです。酔うと話の脈絡がなくなり突然怒りだすこともしょっちゅうでした。なぜあなたのことを思い出したか思い出せないのですが、あなたが突然この世からいなくなったことはお互い心残りであるのは確かです。あなたと最期まで付き合えたのはあなたと私が同じ街で短い少年時代を過ごしたことがもっとも大きな理由でした。私が小学生のころ、あなたは小学校途中でその街を去り鹿児島へ移住されていたのでしょう。私たちはお互いあの南島の小さな街で多感な少年時代を過ごしました。そういう過去をもつ者が何十年か後に首都の中心部で仕事の繋がりで出会う。これも此の世の不可思議な縁というものでしょう。あなたが学んだ小学校は街の中心部で私は海辺の近い街はずれ。小さな街でもそれは全く異なった時空間でした。あなたのお父さんは新聞記者から市長もされたという街の名士。私の父は小さな印刷屋の経営者。生活環境は大きく異なっていたことでしょう。そういえば、私が還暦同窓会で何十年ぶりかの帰省をすると話したら是非〝立神〟と〝山羊島〟の写真を撮ってきてほしい、とのことでした。しかし、それを失念し私は同級生たちとの交流に夢中で、約束を果たせなかったことが悔やまれます。

   あなたと飲んで酔った勢いでいつも喧嘩になったのは思想的な党派性でした。あなたは「俺は右翼だよ」が口癖でした。私は「そんなバカ右翼では本当の右翼が呆れる。そこは徹底して反論する」と私は対抗しました。そこであなたは間を空け、私は席を蹴り、立ち去ったことも屡々でしたね。憂国忌もすぎました。あなたと三島の話はそれほど突っ込んで話したことはありませんでした。しかし昨今の政治状況、思想状況はあなた以上に憤るしかないものです。Sさん、あの世の棲み心地は如何ですか?あなたなら死んで極楽へは行ってないでしょう、煉獄か地獄かどちらかです。私も同じだと思います。私の娑婆でのときも長くはありません。いずれそちらに行くときは再会することがあるかもしれません。その時は懐かしい故郷の話で盛り上がりましょう。島の焼酎を飲み空かし、島唄を謡い、朝まで踊り明かしましょう。

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2017年11月21日 (火)

国家という差別システム

  河瀨直美監督の『あん』という作品はハンセン病をテーマにしている。それは実在の患者の一生を或る点景を核に物語としている。俳優たちも監督の期待に渾身で応えているのがわかる佳作だ。それは日本という国家が歴史のなかでどのような仕打ちを患者たちにしてきたか、という想像力を掻き立てる。河瀨作品はそれを声高に主張しはしない。しかし、教科書でも関連本でも読んだ者なら自分が生きている時空間のなかで無関心ではいられない筈だ。日本語をしゃべり社会的に生活していることがどのような経緯で現在に至っているのか。人は歴史的な存在である。言葉を変えて言えば国家は戦争という政治的手段で国民を殺すことが許されるシステムである。それは現在の政治状況で左右の政治陣営が或る場合には茶番のように演じ論ずる現実である。それはさておく。しかし映像作品の底と裏を想像すれば我々はそのような時空間に存在し生きている生き物であることに無知であってはならない。『あん』という作品は、そのような意識をかりたてる作品だ。

そのような感想を発さずにおられないのは今朝の東京新聞のコラムで鎌田 慧氏が書かれている文章を読んだからである。

氏は1962年に福岡拘置所で処刑されたFさんの裁判を告発している。Fさんの実名が出せないのはご遺族がいらっしゃるからで再審請求を法廷は却下した。無実の人を死刑にする。それが国家というシステムに人は日常で気付くことはない。しかし、そのような現実を我々は生きていることに無知であってはならないだろう。

昨夜、友人から送られたDVDで『皇帝のいない八月』という映画作品を観た。以前、観たような気もしたがアルツハイマーが進行しているアカショウビンには初めて観る作品のように観た。監督は山本薩夫。1978年の作品である。送って頂いた友人の感想では現状の政治状況で単なるフィクションとは思えないと書かれている。その感想は了解する。興味のある方には観て頂きたい。ある映像作家によれば映画はすべてプロパガンダである。その主張はともかく、この作品が強いメッセージを発していることはこの国の歴史を辿れば明確だ。そこには1970年の三島由紀夫の映像も使われている。自衛隊出身のテロリストは脚本が三島を造形したものであるのは明らか。憂国忌も近い。歴史は繰り返すことはないだろう。しかし国民国家は歴史を介して似たような経緯を辿ることは周囲の現実を見ればありうることだ。そのことに我々が棲む日本という国家は立ち至っているとアカショウビンは憂慮する。

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2017年11月19日 (日)

観自在

  昨日の東京新聞の朝刊で俳人の星野昌彦さんが一文を寄稿しておられる。氏はこの一年、般若心経を読み五百の俳句を作られ出版されたという。そこで「真実を観るまなざしが『観自在』である」と。その言や好し。<観自在崖を離れし鳶の笛>という一句を介し自註している。「一歩間違えば奈落の底へ落ちてしまうかもしれない断崖を離れて、悠々と鳶は笛を吹いている」。また「観自在にも見える「鳶」に同化しようとする私がいる」とも。さらに先般105歳で亡くなられた日野原重明さんが「命というのは、使える時間。自分の持っている時間を誰かのために使ってほしい」と述べられているらしい。

「私は無神論者であるが、朝日を見れば柏手を打ち、夕日を観れば合掌して祈念する。お盆になれば、仏壇に茄子を供える」という。それは『沈黙」 で遠藤周作が書いた〝転んだ〟フェレイラが、キリスト教を布教するなかで日本という国はキリスト教の神の概念を理解できない国民だ。日本という国は〝沼地のようなもの〟、私たちが植えた苗は腐るだけだ、と司祭ロドリゴに棄教を促す契機となった日本人観、日本国観と反照する。星野さんの日常は多くの日本人の日常だろう。それをポルトガルのパードレたちは日本という国の特異性と受け取ったのだ。かつて小林秀雄はクリスチャンの妹に、僕にはけっきょくキリスト教というのはわからなかったな、と語っていた。それもまたわからずやの日本人として嘆いた根拠とも受け取られる。しかし果たしてそうなのだろうか。それは遠藤を含めて日本のキリスト教信仰者たちに問われる問いである。八百万の神々に囲まれた多くの日本人に果たして仏教も本来の仏教は正しく受け取られているのか。周囲を見渡せばそのようにも思われる。多くの日本人の葬儀で唱えられる般若心経も果たしてどれほど理解されているのか。その思索が星野氏の作品には表現されている。<羯諦羯諦波羅僧羯諦は般若心経に記されているサンスクリットの呪文で、往き往きて彼岸に達せる者よ。まったき彼岸に達せる者よ。悟りあれ。幸いあれと訳される。

  アカショウビンのような俗物にそのような境地は遥か彼方の境地だが、日々を生きるなかで警鐘のように受け取られる。一昨年の入院のときは法華経のサンスクリット訳も通読した。そこで法華経も熟読しなければならぬ。鳩摩羅什の中国語訳を介してさらに思索を促される。観自在とは人間という生き物が辿りつける境地なのか。しかしそれは何とも魅力的な境地だ。与えられた余生のなかでそのような愚想を継続したい。

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2017年11月18日 (土)

疲弊する日常で愚考する

 ハンナ・アーレントのマルクス研究を辿り啓発され思索を巡らす契機となるのは古代ギリシアの都市国家まで遡りマルクスの思想を理解し新たな歴史をハンナが生きた戦後の政治状況に批判的にコミットしていくところだ。それはハイデガーから学んだ知識と知恵の賜物とも言える。お互いの思索はドイツとアメリカに離れていてもお互いの著作にはインスパイアされていたことだろう。1968年、1969年の少人数でハイデガーを囲むゼミナールでハイデガーと参会者たちはプラトン、アリストテレスを読みながらヘーゲル、マルクスの著作、思索、考察を俎上にのせる。それは私たちが生きる現在にも反照する。
 アカショウビンの日常にもそれは鋭く思索を促す。和訳された文言でハンナやハイデガー、マルクスの言説、論説は十分でなくとも愚考を尽くせばその射程の近くまで及ぶかもしれない。それが疲弊、消耗する日常へのエネルギーとなる。エネルギーの語源、ギリシア語のエネルゲイアはハイデガーによればアリストテレスが有(存在)と考えたものである。プラトンがエイドス(形相)と考えた有をアリストテレスはエネルゲイアと考えた。これらの思想をハイデガーはローマ人たちがキリスト教神学と融合させ変容した西洋近代哲学の歪みとして告発、詳説する。
 その思索、考察は遠藤周作が『沈黙』で描く16~17世紀日本のキリシタンたちの生き方、さらには日本仏教への思索を励起する。

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2017年11月15日 (水)

将棋の日

  17日は〝将棋の日〟。ミニコミ紙の見出しで気付いた。NHKテレビでも日本将棋連盟主催のイベントを毎年放送していた。ここ数年、退職、入院・手術、引っ越し続きですっかり忘れていた。今年は藤井フィーバーで視聴率もあがることだろう。

  先日、友人から映画『聖の青春』の録画が送られてきて試写会の時以来再見した。将棋指しの世界をよく撮った秀作である。世間からすれば異様で過酷な不思議な業界だろう。しかし、それに賭ける棋士たちの生き様は少なからずの人々に共感を得るものと思える仕上がりになっている。俳優たちも渾身の演技で応えている。レンタルショップでも借りられるので将棋を知らない人にも観て頂きたい。その感想は改めて書きたい。

  映画に関しては先日観たМ・スコセッシ監督の『沈黙』を観て同監督が28年前に原作を読んだ頃に制作した『最後の誘惑』をレンタルショップで借りてきて観た。イエスとキリスト教への監督の関心は欧米や日本でも多いことと思う。アカショウビンも若いころに遠藤作品を読むなかで現在まで関心を持続している。原作も文庫で新たに購入し読んでいるところだ。映画は原作を忠実に再現していることがわかった。しかし映像と活字では当然ちがいがある。それはそれで興味深い。それは『最後の誘惑』でも同じだろう。原作は読んでいないけれども、そこで監督の想像力、構想力がいかんなく発揮されていることを改めて確認した。

  『沈黙』の主題は重い。いうまでもないが、それはイエス、キリスト教を介してユダヤ教や西洋文明にまでそれは広がる。それは改めて考察したいアカショウビンにとっても重要な主題のひとつである。

  昨日は都内の病院に足を運び手術の説明をきいてきた。新たに出来た部署で懇切丁寧な説明を受けた。主治医にそれを伝えブログでもヨイショしておきますよ、と。主治医も笑って応えてくれた。患者が多く手術は年末か年を越すことになりそうと言う。それまで頓死することもないだろうが何が起こるかわからない。無事、手術にまでこぎつけ生還できればゆるゆると最期の日まで四苦八苦しながら娑婆の生を全うしたい。

  村山聖とは膀胱がん同じ病という縁もある。次の手術は昨年と同じ下咽頭癌だが、死に至るまで些かの抵抗はせねばなるまい。その経緯は出来るだけ書き綴っていく所存だ。

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2017年11月12日 (日)

楽聖の若き頃

  先日、小澤征爾氏(以下、敬称は略させて頂く)とマルタ・アルゲリッチの最新CDが発売された事で記事を書いた。そのあと、手持ちのCDが引っ越しの段ボールを整理した中から偶然のように出てきた。アルゲリッチが1992年にアムステルダム・コンセルトヘボウ管と共演したライブ録音である。モーツァルトの25番の協奏曲とベートーヴェンの第1番協奏曲がカップリングされている。これを購入したのはモーツァルトのほうをシモン・ゴールドベルクが指揮しているからだろう。オーケストラはネーデルランド・チェンバー・オーケストラ。ベートーヴェンの指揮はハインツ・ワルベルク。このヴァイオリニストは後年指揮もしていた。それが聴きたかったのだ。しかし改めて聴いて、このCDの収穫はベートーヴェンのほうであることがわかった。モーツァルトは1978年の録音。ベートーヴェンは1992年。14年という時の隔たりは人には誰でも大きい筈だ。その間のピアニストの成熟とも成長ともとられる変化を一枚のCDで聴くことができるきことは幸いである。これを聴いてほかのピアニストのものも聴き比べた。先に聴いたバレンボイムの他にグルダ、バックハウス。これらと比べて繰り返し聴いて増々味わい深いのがアルゲリッチ盤である。特に第2楽章のラルゴは正に独壇場。その運指は神がかった風情が漂っていると言ってもよい。ライブの一回性とはこういうことを言うのだろう。聴衆もピアニストも指揮者もオーケストラの一人一人もこの一回性を体験した。この事実が記録されている幸いを言祝ぎたいのだ。

  そのピアニストが25年後に同じ作品を小澤と指揮した録音が貴重でない筈がない。しかし、それはいずれ聴くとして、しばらくはアルゲリッチ盤と他の盤を聴いて過ごす楽しみができた。

  また楽聖の若き作品を聴くことは消耗する日常に力を得る時である。交響曲の一番はヨッフムの最初の全集を聴いた。何とも清冽で、弾むリズムが心地よい。楽聖最初の交響作品に対する指揮者の気迫と気合、意気込みが素晴らしい演奏となっている。それは現在を生きるアカショウビンに精神と気力を励起させる。

  朝のNHKラジオ「音楽の泉」ではピアノ・ソナタ〝ワルトシュタイン〟をアルフレート・ブレンデルの演奏で放送している。これは偶然のようで偶然とも思えない。見事な演奏だ。

  引っ越しで未整理の本を整理していたら『ベートーヴェンの人間像』(近衛秀麿 昭和45年3月10日 音楽の友社)という本が出てきた。これまた偶然のようには思えない。それはまた別の話だ。

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2017年11月 5日 (日)

しのぎと雑感

  「しのぎ」という日本語は外国語にどう訳されるか知らない。しかし日本人でも決して一般的に流通している言葉でもないだろう。囲碁では勝負を決するギリギリの勝負手ということである。それは日常生活で生きるか死ぬかの瀬戸際の行為とでも言える。アカショウの現状をよく表す言葉だ。きのうもアルバイト先でそれを経験した。中高年者の動きは鈍い。それを管理する連中や同じアルバイトでも古株の連中は見逃さず荒っぽく詰る。そのような現場の事はこのブログでも日常生活の雑感として書いている、日々のロードウで経験することだ。

  また今朝は朝刊を読み現今の世相とも共振する。座間の事件、米国大統領の来日などで政治的状況にもあれこれの感想が湧き起こる。それらに促されながら貴重な休日に雑感として書くのである。

  先日から通勤時に日々の活力を得るために読んでいるハンナ・アーレントの本や遠藤周作の『沈黙』ともそれは共振する。ハンナは1951年に『全体主義の起源』を刊行したあとにマルクスの研究に取り組んだ。彼女はマルクスの解説書を書くのではなく、マルクスの西洋と世界的な位置づけをマルクスがどのような契機で書き始めたのかというところに集中する。そこがアカショウビンのような素人にも面白い。そこには当然の如くハイデッガーの思想・哲学が反映している。師であり恋人でもあった人の論考と思想の根幹とでもいう思索が読めるのは貴重で啓発される。難解で意味不明なところも多い。それはアカショウビンの無知と不勉強のせいである。しかしこの草稿でハンナが格闘している思考、考察はスリリングである。それはマルクス読者にもわかる筈だ。私たちが生きている現在の〝世界〟を理解するうえでもそれは不可欠な論考と言える。たとえば「労働」と「仕事」という〝概念〟を知るうえでも。しのぎの日常を生きているアカショウビンともそれは共振する。この一年以上のアルバイ生活で体験する日常はまさしく「労働」と「仕事」の区別を思索しながら生きることだからだ。

  朝の「音楽の泉」ではグレゴリオ聖歌が流れている。それは『沈黙』で書かれる殉教者たちが歌うオラショ(聖歌の合唱)である。続くフォーレのレクイエムも同じ死者を悼む合唱と管弦楽だ。アカショウビンはこの甘い響きが嫌いだった。モーツァルトやヴェルディのほうがはるかに好きだった。しかし、耳を傾ければフォーレの作品も彼らの作品と底で通じている悼みの心に溢れた音楽だ。なぜなら、それは人という生き物の声と優れた音楽に共通する響きだからだ。癌を抱え残り少ない時を生きるアカショウビンにそれは痛切に聴きとられる。キリスト教文明のなかで表現される人間の悼みの心情は東洋の民にも通じていることは殉教者たちが深く共感したオラショがそれを伝えると思われる。彼岸という仏教用語にはその一端が込められているだろう。人という生き物は言葉や音楽でその生を伝え合おうとする生き物だ。それは西洋古典音楽でも民族音楽でも同じだ。

  ハンナ・アーレントの論考にもそれは読み取られる。彼女が説く古代ギリシアの世界で残されている西洋語にもそれは伝えられている。そこに思索が鋭く展開されているわけだ。それを底まで読み取るのは異国、異文明・文化のなかで生きている私たち日本人にも促される言葉を介した思索だ。

  フォーレのレクイエムはサントゥスを奏でている。それはキリスト教信者たちが彼岸に達しようとする声である。アカショウビンはそこに若いころ強烈な違和感を看取した。そのような〝甘い〟響きに対立した。若さゆえの未熟ともいえる。宗教信条の違いともいえる。それはまた、かくも異文化への理解は難しく人の努力を必要とすることともいえる。

  先日観たマーティン・スコセッシ監督の『沈黙』にもそれは映像として表現されている。それを〝理解〟するには多少の努力を要するのだ。フォーレの作品は晩年のものではなく33歳のときに父親の死を悼み作品化されたものである。その痛切な心情は異教徒にも伝わる。それが政治的状況では困難を極める。

  それはまた座間の殺人事件でも。巷では事件に対する評語としても横行しているだろう。アカショウビンも先日のアルバイト先で一緒になった同世代の女性から聞いた。それは直接的な感想である。それには同調するけれども、もちろん違う感想がある。しかしそれは話が長くなる。相槌をうっただけで済ませた。ここでその感想を集約すれば、あの事件は日本という国・社会で生じた〝病い〟とでもいう現象とアカショウビンは解する。かつての敵国の、あまり知性があるとも思えぬ人物が来日し時の、これまたどれほどの知性があるのか理解できない言動の首相と会う状況のなかで私たちは日々の生を紡いでいる。

  フォーレの作品は終曲にむかう。それは悲哀に満ちた合唱と管弦の音である。宰相たちにもその響きは達するだろうか?しかし彼らは政治的駆け引きのなかで演技する。その現実は歴史のなかで繰り返される茶番である。しかし思索を深めればハンナ・アーレントが展開する論考に残されている洋の東西を超えた難問への回答が滅亡する前に人間たちの思索を促す。

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